南半球にあるヨークシンの2月は夏の終わり。それにしてはおどろくほど涼しい夜だった。今朝のテレビでも天気予報のコーナーで夜は気温がぐんと下がると告げていた。あとはどこかの動物園で白クマの赤ちゃんが生まれただとか、ヨークシンで連続強盗事件が起きているだとか、橋の入札で談合があっただとか、そういったよくあるいつものニュース。
わたしは地下鉄をサン=マルセルでおり、10区の通りをぶらぶら歩いた。ブッシュストリートからレーネンスパークを横切り、ビエッチアレーへ出る。そのあたりは治安の悪い地区だった。
すえた臭いのするカキン人の食料品店、ゲイバー、ポルノショップ、半ダースものアングラ劇場、数え切れないほどのクラブ。水兵、若いカップル、ヤク中にアル中、ニーハイブーツの娼婦。おまけに週末だけやってくる、身なりのいい倒錯者や変質者まで集まっている。ビエッチアレーは活気づいていた。
わたしは投げかけられるからかいにすべてジェスチャーで答えながら、グラントストリートの角を折れ、目的の場所にたどり着いた。
『ハードキャンディー』。倉庫を改装した建物で、流行を追う若者たちがダンスしたりナンパしたり、なにかそういうデカダンス的な気分に浸りに来るクラブだった。
舗道を占領している高級スポーツカーの脇を通り過ぎ、わたしを見て怪訝そうな顔をする入口の毛むくじゃらの巨漢に偽造IDをふりかざして皮の房飾りをつけたドアを開けさせ、中に入った。
0時。まだ人はそれほどいなかった。でも十分乱痴気騒ぎと表現できるのではないかと思えた。
明滅する光。煙草とアルコールのよどんだにおい。叫び声。理解に苦しむヘアスタイル。光を反射している用途不明のチェーン。
わたしはオレンジジュースを飲みながらきんきんする頭を揺らした。なにが面白おかしいのがまったくわからなかったし、やかましいだけに思えた。こういう場所を楽しむにはアルコールが足りなかったし、コカインでハイになってもいなかった。あるいはわたしの精神は老けすぎていたのかもしれないし、体が幼すぎたのかもしれない。
べつに批判する気はない。彼らにしてみればこの馬鹿騒ぎも精力剤であり、媚薬であり、退屈な日常からの逃避なのだろうと思う。彼らはここで、恋人と出会い、麻薬に酔い、踊り明かして悩みを忘れ、もてあまし気味のエネルギーを発散させるのだ。
いつのまにか次のDJのプレイがはじまっていた。
「ひさしぶりね、イーラン」
そう声を掛けながら彼の横に座っていた女を押しのけた。
「――クローディア?」
きいきいわめく女を尻目にオレンジジュースの入ったグラスをテーブルに置き、壁に並んだハイスツールに腰掛けて微笑みかけると、イーランはぎょっとした顔をした。
「こんなところで君に会うとは思わなかったな」
「わたしも。モーナンカス以外で会うのは初めてね」
「そういう意味じゃなくてさ」
「わかってるわ。わたし、クラブに来るのって初めて」
「どうしてここに?」
「あなたに会うためよ、もちろん。どうしてるかしらと思って」
そうやってわたしたちが公園で出会った2匹の犬みたいに相手のようすをうかがいあっているところにひとりの女がやってきて、イーランに何事かをささやいた。イーランは困惑したようなはにかんだような表情を浮かべ、ささやき返した。女は残念そうに離れて行った。
わたしが不審を隠さないでいると、イーランはただのナンパ、とさらりと明かした。そうだろうとは思ったけれど、信じられる理由も義理もないので内心警戒は崩さない。でもそれを期に、わたしの警戒も追いつかなくなるくらいイーランは女に声を掛けられていた。ショートカットの金髪のかわいい子、赤毛のゴージャスな美人、OL風のブルネットのきれいな女……。嫉妬のこもった男からの視線も多数突き刺さっていた。
「ねえ、ちょっと。なに目立ってるのよ」
わたしは我慢できずに言った。
「オレのせいか?」
イーランは笑って言った。
わたしの耳には、オレがもてるのはオレのせいじゃないし、そのオレが君のような子どもと一緒にいるから退屈しているんじゃないかと声をかけられるんだよ、と言っているように聞こえた。まず間違ってはいないと思う。
「ちょっと行って踊ってくるくらいいいわよ」
わたしは気にしないことにした。実際のところ、イーランくらい顔がよくて、賢くて、お金があって、自信のある人間に、調子に乗るなというのが無茶な要求なのだ。しかしイーランはわたしの気遣いを、そんな気分じゃないから、と断った。
照明の色が変わった。
わたしの知らない曲だったけれど、フロアがどっと沸きたち、隣のテーブルにいた男が仲間とともに吼えながらフロアへ走り出して行った。有名な曲なのか、DJのセンスが良かったのか、わたしにはわからない。
イーランは誰もいなくなったとなりのテーブルから今日のフライヤーを勝手に取って眺めていた。視線を落とした彼の顔には陰影がくっきりとできていて、彫りの深さが際立っていた。その日に焼けたなめらかな頬に照明の青や赤が映りこんでは消えていった。
手洗いに立ったついでに飲み物をとって戻ってくると、イーランはまた女に話しかけられていた。ため息をついてテーブルにグラスを置くと、イーランは女に向かって言った。
「じゃあそういうことだから。ごめんね」
褐色の肌の女はなぜかわたしをものすごく睨みつけてから去っていった。わたしはいわれのない敵意に面食らってその後ろ姿を目で追った。そこにイーランの忍び笑いが聞こえた。
「……なに笑ってるの」
「いや……クローディア、君のことを訊かれた。彼女なのかって」
わたしは、ふん、と鼻を鳴らした。
(くっだらない)
女の質問も、イーランのからかいも。
「オレがどう答えたのか訊かなくていいのか?」
「興味がないわ」
自意識過剰すぎる、と思った。雌犬相手にやっていればいいのだ、そういう遊びは。イーランがロリコンと思われようがどう思われようがどうでもよかったし、イーランがわたしについて何と言ったかもどうでもよかった。わたしが気にするのは、イーランがわたしをほんとうはどう思っているか、わたしがイーランをどう思っているかなのだ。
「君はほんとうに神出鬼没だね、クローディア」
「あなたの普段の行動範囲や交際範囲を外れる場所で会うからそういう気がするのよ、イーラン。まあもっとも、お上品なパーティーじゃなくてこういうクラブこそがあなたの本来の場所なのかもしれないけどね」
イーランは口元をひきつらせた。
「おいおい、怖いな、クローディア。君はどこまで知ってるんだ?」
わたしはくちびるを噛みしめた。
「あんまり知らないわ。わたしが知ってるのは、わたしが知ってると思ってたあなたが紛い物だったってことくらいよ。そうでしょ、イーラン=フェンリ! ビーアリーカの不動産王だなんて嘘ばっかり! わたしが訊きたいくらいよ、ほんとうのあなたのことをね」
わたしはイーランをぎりぎり睨みつけた。でもイーランははじめこそ目を見開いていたけれど、すぐに茶目っぽく肩をすくめ、それからわたしににっこり微笑んだ。それはかすかなはにかみを内に秘めた、意外なくらい優しさと親しみのこもった微笑みだった。
わたしは心を奪われると同時にかっとなった。だましていた相手に向ける笑顔じゃない。もはやこちらは相手が誰ともわからなくなっていて、親しみなんてほとんどなくしてしまっているというのに。
「あなたのこと調べたわ。大学在学中からよくない付き合いがあったみたいね。博打とドラッグのやり方は常軌を逸してたそうじゃない。そこでヴィネッタファミリーとも付き合うようになったんでしょ。ビーアリーカで不動産ディベロッパーをやってたってくだりはほとんど嘘。あなたがやってたのはマフィアの運び屋よ。モデルとしても活動してたから、出入国が多くてもそう不自然じゃないところを買われたのね」
わたしはジュリアンに渡したものと同じ内容の書類をトートバッグから出してめくった。ユタカがほぼ1カ月かけて、ビーアリーカに行きさえして調べてくれたものだった。ユタカは情報屋として一番きついたぐいの仕事だった、と言った。
イーランはモーナンカスのアッパークラスの生まれで、本物の出生証明書をもっていた。そしてモーナンカスの学校にハイスクールまで通っていた。在籍証明書もある。その後ヨークシン州立大学に進んだけれど中退し、ヴィネッタファミリーとの付き合いで現金の運び屋をやっていた。阿呆なことに博打で身を持ち崩したのだ。
彼については中退以降の経歴を書き換えればよかった。彼は商機を求めて経済成長に沸く南アイジエン大陸のビーアリーカに渡り、ひと旗あげたことにした。文無しとなって大学を中退した彼は、三等船客としてビーアリーカに渡航し、まず地元の不動産会社の事務員となった。そして数年の勤務を経て、彼は不動産ディベロッパーの会社を設立した。苦労は大いに報われ、彼は何年かのうちに蓄財を果たした、という具合だ。
にせの経歴は証拠書類以上のがっちりした事実で補強されなければならない。イーランは実際に運び屋としてビーアリーカへ何度も行ったことがあり、世情に通じていた。彼は習慣も流行も知っていたし、バーやクラブでの顔見知りもそれなりにいた。ちょっとやそっと探りを入れられたくらいではボロは出ない。肝心の不動産ディベロッパーについてはファミリーが用意した。資金洗浄に使うあてがあったのだ。適当なシェルカンパニーを買って、そのシェルカンパニーをイーランの会社だということにした。イーランにはそこで1年働かせ、仕事の知識と経験をあたえた。
かくしてビーアリーカで成功したモーナンカス人のイーラン=フェンリのできあがりだ。あとはファミリーがこの偽装を維持するのに必要な資金を準備してやればよかった。
イーランはそれ以来セレブリティとして、ヴィネッタファミリーのマネーロンダリングを担当したり、国の要人に近づいたり、官僚のコネを得たり、どこかの名士の弱みを握ったり、その他自分の立場を利用してヴィネッタファミリーのために働いてきていたのだった。
イーランは楽しそうに笑った。
「ジュリアン=グレイの懐刀として今日からでもやっていけるよ、君。それとももうすでにそうなのかな? オレが財政顧問を解任されたのは君の入れ知恵だったようだな」
「あなたがジュリアンのファームのお金を横領してなければもうしばらく気づかなかったわよ。ジュリアンは馬鹿でも無能でもないわ。あなたの浪費放蕩癖も自分の会社の資金の流れもちゃんと把握してるの。もうずっと前から内偵が入ってた。わたしがしたのはモーナンカスでの別の用事のついでにその裏付けをとったくらいよ」
「たしかに有能なやつだよ、あいつは」
「今は何してるの?」
「見てのとおりだよ。休暇中。モーナンカスでのオレの仕事はお終い。もうあそこには5年いたからな、ちょうど潮時だったんだ」
「そのうちまたどこかで似たようなことをやるの?」
「そうだよ。君やジュリアンが、オレがスパイだって暴露しなけりゃこの仕事も続けてられる」
まるでわたしたちがそうしないと確信しているような口ぶりだった。あるいはどちらでもいいと思っているかのような。破滅的な身の処し方に思えた。わたしにはイーランが無事スパイとして定年を迎えているところなんてまったく想像できなかった。
「スパイの仕事が好きなの?」
「向いてるんだ。好き嫌いじゃない」
たしかに彼はスパイに向いているのだろう。観察力が鋭くて、魅力があって、社交的で。わたしがそう言うと、イーランは声をたてて笑った。
「基本的に情報部員はふたつのタイプにわかれるんだ。圧倒的に多いのが、誰の注意もひかない、特徴もない凡人タイプ。物静かで、落ち着いていて、けっしてでしゃばらない。普段の生活も地味なら服装も地味、人間関係も地味。会ってから5分も経てば忘れられてしまうような男女だ。
もうひとつのタイプは、目立つ人で、脚光を浴びていなければ落ち着かないといった外交的性格の持ち主。良いコネと高い地位や要職についている人を友人にもっている。社交界でももっともきらびやかな人士の間に出入りしていて、それを大いに見せびらかす。こういう人間を自慢屋の馬鹿と考えるやつはいても、スパイじゃないかと考えるやつはまずいない。オレはこっちのタイプ。女と酒とヨットに詳しくて気が利いたから、うちのファミリーでうだつのあがらないチンピラをやっていたのを引き抜かれたんだ」
「楽しいの?」
「まさか! だったら好きだって言うよ。楽しいのははじめだけ。実を言うと、べつに好きな仕事じゃないな。でもこの世の中に好きな仕事をしてるやつがどれだけいる?」
イーランは気だるげに目を伏せてグラスの水滴を指でなぞった。
わたしは酒の片鱗もないレモネード割を飲みながら、クラブの騒音の中からイーランのなめらかな声だけを耳に入れていた。
「ヴィネッタファミリーのいろいろな部門の中で、もっとも地味なのがオレたちの仕事なんだ。金を生むわけでなし、派手に暴れるわけでもなし。やっていることといったら、幹部連中を監視したり、政治家や司法関係者の弱みを握ったり、ほかのファミリーに浸透工作をかけて動向をつかんだり……。ときどきは地下破壊活動やちょっとした誘拐もやるらしいけど、オレにそんな仕事が回ってきたことはないな」
「わたしはそれ楽しそうだと思うけど」
「きっとそのうちしんどくなる。スパイに非番はないんだからな。で、ほとんどの場合、通常の社交の機会もない。工作員同士の横のつながりは断たれている。受け持ちの工作員たちの交通手段から必要経費まで面倒を見たり、指示を伝えたり、連絡役をこなしたりする仮名でしか知らされない監督役の上司がひとりつくだけだ。組織内のほかの部員との接触は疫病のように避けられる。任務行動中はほとんどの人間を信用できなくなる。周囲の人間の多くは敵側の人間だし、接近してくる人は敵の回し者かもしれない。友人にしろ恋人にしろ深い関係になった人間が、オレのスパイという本業を知って、自分の支払い能力を高めようとオレを敵側に売らないとは限らない。あるいは本人にそのつもりがまったくなくてもオレについての重要な情報を知らずに漏らしてしまうかもしれない。その代償を払うのは自分で、それは自由や体の一部や命だったりする。な? 情報部ってのは過酷で孤独な職場なんだ」
「ふうん」
わたしは怒りも忘れて話に聞き入っていた。現役スパイの話なんてめったに聞く機会があるとも思えない。スパイだなんて、もし現実にいるならお目にかかってみたい職業トップ3に入るんじゃないだろうか。もしそんなランキングがあるならだけれど。
イーランは長い人差し指でグラスの縁の塩を少しだけ掬い取り、その指をなめた。イーランは何をしても絵になる美丈夫だった。
「なあ、なんでオレが部外者にぺらぺらこんな話をしてると思う?」
話の展開的に、なんだか嫌なことになりそうだった。
わたしは無邪気そうな声で言った。
「さあ。わからないわ」
「思ってもないことを言うのはよせって言っただろ? 君の賢さを疑ってないって。わかってるはずだ、クローディア。君もうちに来ないか?」
イーランのパライバトルマリンのような美しい目がわたしを捉えた。