かかっている曲の終わりのコードと同じコードで次の曲がはじまった。ピッチが合い、イントロが終わってギターにほかのパートが乱入する。フロアから男の絶叫といくつもの大笑いが聞こえた。気をそらされてそちらを見ると、真ん中で茶髪の男が踊り狂っていた。周りの男や女は彼を避け、空いたスペースで彼はさらに、なんというか、暴れまわっていた。呆れ顔に迷惑顔。ノリのいい男たちが加わって一緒になって踊りはじめた。わたしはバッカスの祭りに紛れこんだような気分になった。
「……どうにも話をする気が削がれるな」
「ごめんなさい」
暗に気を散らせていたことをとがめられて、わたしはすぐに謝った。どうしよう、と考えながらレモネード割にちょっと口をつける。
「さっきのうちに来ないかっていうのは、何のお誘いなの? ヴィネッタファミリーに来ないかってこと? スパイにならないかってこと? それとも嫁に来ないかっていうプロポーズ? それなら悪いんだけど、わたしまだ結婚できる年齢に達してないから……」
「おいこら、君は茶化さないと気がすまないのか? ごまかされるつもりはないからな」
イーランはゆるく握ったこぶしでわたしの頭を軽く小突いた。
「スパイにならないかっていう誘いだよ。ということは必然的にヴィネッタファミリーに来ないかって誘いにもなるわけだが」
わたしはあいまいに笑った。
(冗談じゃないわよ。何が悲しくてお嬢様のわたしが反社会的組織に入らなきゃいけないのよ)
「わたしには無理なんじゃないかしら。だって、普通マフィアに入るときって人を殺して、変な儀式やったりして、承認されて入るものでしょ?」
正直、どのハードルも越えたくない。
イーランは眉を上げた。
「よく知ってるな。だがそんな必要はないよ。正確にはマフィアの一構成員になるんじゃなくて、マフィアの下部組織に入るんだからな」
「でもわたしには学業が……」
「必要ないだろ。オレが調べてないとでも思ったのか? 学校に通ってもないじゃないか」
「わたしなんかがみなさんのお役に立てるかどうか……」
「それだけ賢くて行動力があれば充分。並みの大人よりよっぽど優秀だ」
言葉をくるむためのわたしのオブラートは品薄状態だった。
(空気を読みなさいよ! 断ってんのよ、こっちは!)
イーランはわたしを咎めるように見た。
「楽しそうって言ってたじゃないか」
「あなたはそのうちしんどくなるって言ってたわよね」
いらいらしてきて眉を寄せた。
「わたしにジュリアンを捨てろっていうの?」
「つまらないことを言うなよ。どうせ好きでもないくせに」
わたしは横目でイーランを見た。彼はわたしの答えを待っていた。答えるしかないだろう。
「やりたくない」
「そうだろうと思ったよ」
気にしたようすもなくイーランはグラスを乾した。
「子どものスパイって、親子の偽装をするときとかけっこう便利なんだけどさ、見つけてくるのが大変なんだよな。だいたいは自分の子どもを使うんだ。君ならうってつけだと思ったんだがな。それにせっかく仲良くなったんだから、ここでお別れも寂しいだろ?」
わたしは何て言えばいいのかわからなかった。
「べつにそうでもないって顔だな」
イーランは鼻を鳴らした。
「仲良くなれたと思ってたんだけどな。結局は一方通行ってことか。信用されてなかったわけだもんな」
「あなただってわたしを騙してたじゃない」
「仕事だよ。それに全部が全部嘘だったわけじゃない。大学中退までの経歴はほんとうだし、オレが上流社会ってものを嫌ってたのもほんとう。君に感じていた好意もほんとう」
(好意?)
「どうも……」
「ああこれだよ! あーもー嫌になるね! わかってたはずなんだけどなあ、かわいい女の子は本気で誰かを好きになったりしないって」
イーランは金色のウェーブした髪をがしがしかき乱し、すねたようにくちびるをとがらせた。
生気とやる気に欠けた黒髪の店員が灰皿の中を空にしに来た。イーランはひらひらと手をふって追い払うと、邪魔、と灰皿を隣のテーブルに移した。
「オレはモーナンカスの典型的な家庭で育ったんだ――誰もお互いに愛し合ってないようなよくある家庭だ。あそこもおかしな街だよな。小さくて、安全で、保護されてて――幻影旅団がいないときにはな。息がつまりそうだったよ。狭くて閉ざされてて、みんながみんなを知っている。そしてみんな、裕福で、育ちがよくて、白人だ。現実世界の風には当たらないようにして、くだらない骨董品だのガーデンパーティーだのにうつつを抜かして生きている。わかるだろ、そういうの?」
「骨董品はくだらなくなんかない」
「まあそういう意見もあるかもな。でもオレはうんざりしてた。家族にもな。
フェンリ家は曽祖父の代に土地で財産を築いたんだ。ビーアリーカの不動産王になるってアイディアはここから得たんだ。その後土地を売ってつくった金を株式投資に向けるようになったんだが、大恐慌にぶつかってしまって大損。これがフェンリ家最初の危機。残った土地をほとんど売って現金をつくってまた性懲りもなく投資をはじめたけど、今度はうまくいった。じいさんが死んだときは30億くらい資産があったらしい。その30億は父親と兄弟の3人で仲良く3等分して長男だった親父が家を継いだ。
父親の記憶はあまりないな。オレは父親が冗談を言ってるところを見たこともなかったし、父親とまとまった会話をしたこともなかった。交わす言葉といったら、調子はどうだ、まあなんとかやってるよ、みたいな道で知り合いに出会ったときするようなやつくらい。ちょっと気まずい空気まで似てるよ。父親は誰に対してもそんな感じだったから、死んだときも愁嘆場ひとつなかったな。
愁嘆場はそのあとに来た。母親はオレを自室に呼んで――あの女はそこをオールドフランシュ流にブドワールと呼んでたな、鼻につく女だろ? ――あなたの父親はまったく財産を残さなかったと言った。軽率な使い方をしたのだとな。ギャンブルですったわけだが、母親はそんな言い方は絶対にしなかった。父親が死んだのは病気ということになってるが、実際には自殺だった。そのことを言うときも、軽率なことをした、という言い方をした。弁護士の前で、裏切られた妻を演じて涙ぐみながらな。オレが13歳のときだ」
「なぜお父様は自殺なんかされたの?」
「さあな。でもスパイとしてモーナンカスに戻ってからおもしろいことを聞いたぜ。父親は裁判所の判事だったんだけどな、マフィアから賄賂を受け取っていたとかで検察が調査に乗り出していたらしい。政府の聴聞会も予定されてたそうだ。ギャンブルで出た損失を賄賂で補填してたんだろう。そして代わりに幾度となくマフィアに便宜を図ってきた。それが明るみに出ることを恐れて自殺したんだろうな」
わたしは何度か瞬きをする間に今の話を消化した。彼の人生の骨格が見えてきたような気がした。
「あなたの生き方って矛盾ばかりね、イーラン」
「正直に思ったことを言ってくれてもいいんだぜ。カエルの子はカエルとかな」
「お母様は今どうされてるの?」
「絶縁してここ数年会ってないが、ニアミントンの金持ちと結婚してそいつの家で暮らしてるはずだ」
「絶縁?」
「せっかく大学にまで入れてやったのに中退するなんてって怒り心頭だったよ。モーナンカスからヨークシンにいる息子をコントロールなんかできるわけないとなかなか気づいてくれなくてさ、まいったよ」
「それで?」
「それからはひとりぼっちだよ、まさしくな」
わたしはレモネード割をちょっとすすった。舌がぴりぴりした。やっぱりこんなところで飲むレモネードは最低の味だった。わたしはまずいレモネードっぽい味の何かから目を離してイーランを見た。
「いつもそうやって狙った女の子の同情を買うの?」
イーランの繊細めいた皮肉な笑みが崩れた。
「そうさ。大切なのは真実のなかに嘘を混ぜることなんだ。そうしないと嘘をかぎつけられる。とくに女には」
イーランの声はわたしに負けず劣らず冷ややかだった。
わたしはスツールを蹴って立ち上がった。
「行くのか?」
「ええ。頃合いでしょう?」
イーランは目を上げた。そこにはもう瞳を満たしていた輝きはなかった。ただ暗い空洞が広がっているだけ。心の傷がにじんでいるのが見えるだけだった。
「あなた、きっとこれからもひとりぼっちで、あなたのことを知る人がいないままどこかで死んでいくんでしょうね」
「……ひどいな」
「わたし、あなたのこと好きだったわ」
イーランは虚をつかれた顔をした。それから辟易とした表情で目をそらした。瞬間、うんざり感と失望と怒りが胸を満たしたけれど、わたしは身をひるがえして、さよならも言わずに歩き去った。もう会うことはないだろうなと思った。というより、もう会いたくなかった。
途中で一度だけ振り返って見た。イーランの目はもうこちらを見ていなかった。視線はぼんやりと遠くへ、何を見るともなしに投げられていた。
ハードキャンディーを出て、わたしはとくに当てもなくぶらぶらと歩きはじめた。そしてとりとめもなくイーラン=フェンリのことを思った。彼にどんなに嘘を吐かれてきたか、どんなに偽られてきたか、そうやってどんなに馬鹿にされてきたか。それなのになぜ、少しも彼のことを憎む気持ちになれないのか。同じように自分のことを偽っているわたしがそんなことを思うのはフェアじゃないとはわかっているけれど。
きっと今までに何人もの女性が彼を愛し、彼を救いたいと思ったに違いないと思う。イーランは美男子だし、支えてあげなきゃという気分にもさせられるから。彼の不安定さ、危なっかしさ、傷つきやすさ、繊細さは愛する理由にもなっただろうし、不安の種にもなっただろう。ひどい人間不信に思春期の子どものような周囲への怒り。彼自身も含めてすべての人間はクズだという見解。秘密主義。女性たちは自己破滅的な男につきあう不安を抱えながら、それでも自分にできることなら何でもやろうとしただろう。伸ばされた手をどれも受け入れられなかったのはイーランだ。人を遠ざけてひとりぼっちでいるのは彼自身の問題なのだ。彼は優雅でうわべだけの世界を嫌ったわけだけど、結局のところ、優雅ではないにしてもうわべだけの世界の外へは出ていけなかったということに気づいているのだろうか。気づいているのだろう。だから彼はああも冷笑的で斜に構え、わずかに疲れたような顔をしているのだ。
(本音と真実の世界に生きられたらどんなにいいかしら)
そうは思ったけれど、わたしにはあまりにも現実的じゃないような気がした。それにわたしは世界がこのようであることに居心地良さも感じているのだった。
わたしはモーナンカスで過ごした日々を思い返した。ろくな記憶がなかった。でも少なくともあの国には美しい海とまばゆい太陽、おいしいレモネードがあった。ヨークシン――この孤独で謎めいた、灰色の大都会――に帰ってくると、夢だったような気すらした。
夜更かしがつらくてあくびが出た。涙をぬぐおうと皮膚のうすいまぶたをなでると、日焼けでひりひりした。ビーチ焼けだ、と思い至った。
(ああ、会いたいなあ)
とたんに幻影旅団と過ごした日々を思い出して懐かしくなった。本音と真実の世界に生きている人たち――少なくともわたしにはそう見えている人たち。間違っても優雅でうわべだけの世界には生きていそうにない人たち。無性に彼らが恋しかった。彼らの交わす言葉を聞きたかったし、彼らの思想に触れたかった。
(電話してみようかしら)
しばらく悩んだけれど、ついにしなかった。この気持ちには感傷が多分に混ざっていたし、わたしは用もないのに電話をかけるようなタイプじゃないし、彼らとのあいだの問題はひとつも解決していなかったから。何より、ヴァカンスはもう終わったのだから。
夏の日のざわめきを日焼けした皮膚にとどめただけで、わたしはまた日常に戻ることにした。