夢も見ない眠りから覚めて、わたしは水差しからグラスに水をついで飲んだ。ぬるい水がのどを通って食道を抜けて胃に落ちる感じを、ベッドの上で目を閉じて追いかけた。
灰色の朝の光がカーテンの隙間から押し入り、一日を彩る騒音の最初の鋭い響きが伝わってきていた。バスのエンジン音、配送トラックのドアが勢いよくしまる音、聖アントニウス教会の7時の鐘の音。
(あー。朝か)
わたしの寝起きはたいていいつもいい。目を開けるとすぐに頭が働きだした。
ベッドから降りてバスルームに入り、顔を洗いながら、そろそろ家に戻らないとな、と考えた。最近7区の自宅へは週に1日か2日しか帰っていなかった。あとの大部分はこの仕事場で生活していた。つまりわたしはジュリアンと同じようなことをしているのだ。頻繁に帰ってはいるし、よそに別の家族を持ってはいないけれど。
(これくらい許されるわよね。だってそろそろ反抗期だもの、わたし。ちょっとした家出みたいなものよ)
クローゼットから白い襟付きのネイビーのドット柄ワンピースを選んで着て、ブラシでふわふわの髪を梳きながら部屋を横切ってカーテンをさっと開けた。下の歩道をカーラーに髪を巻き付けたポラス人のおばさんが掃いている。その横を、キャリーバッグをゴロゴロ引っぱって若い女性が通り過ぎた。高級住宅街じゃないところに住むのならこの騒音とも付き合わなければならない。そのうち慣れるとは思っているけれど、今のところただ気障りなだけだった。
身支度を終えて、わたしは解凍して温めたごはんと昨夜の残りのお揚げと小松菜の煮びたしで朝ごはんにした。お味噌汁もほしかったけれどわざわざ作ってまで飲みたいわけじゃなかったから我慢した。しみしみのお揚げを食べるとほっこりした。ヨークシンじゃ売られてないしお豆腐もなくて作ることもできないから、冷凍お揚げをジャポンから空輸したのだ。そのかいがあった。やっぱり朝食はほかほかの白米とおだしのきいたおかずに限る。パンやシリアルやビスケットなんてお呼びじゃないのだ。白米が炊き立てだったらもっとうれしかったけれどひとり暮らしだから妥協するしかなかった。毎回半合ずつ炊くなんて馬鹿馬鹿しすぎる。
この世界で暮らすとなると、正直に言って、ジャポン料理をマイナー料理として設定した冨樫神に怒りがわいた。でも今は、少なくともジャポンという国が存在しているということに感謝できるようになった。
朝食の後片付けや衣類の洗濯を終えて街に出た。すごく日差しが強くて、気温もぐんぐん上がっていきそうな、夏が戻ってきたような日だった。せっかく背中のあせもが落ち着いてきたのに、とちょっとムッとしたけれど、責めるべき相手もいなくてぶつぶつ不平を言いながら歩いた。
日射しはまぶしくて、肌がチリチリした。プラタナスが街路樹に植えられていて、紅葉に似た手のひら形の葉っぱのあいだから光いっぱいの空が切れ切れに見えた。地面に目を落とすとそこかしこに秋が散らばっていた。乾いた音を立てる落葉に覆われた石畳の上を感触を楽しみながら歩いていると、いかにも創造主に祝福されたという感じで、豊かさがふっくらと伝わってきた。
コーヒーと食べ物の匂いがカフェから流れ出していて、しみひとつない青い医療用作業衣と黒色のプラスティックサンダルを身につけた近くの病院職員がコーヒーを手にきびきび通り過ぎていった。バス停にはスカーフをかぶったでっぷり太ったおばあさんが起きているのか眠っているのか――生きているのか死んでいるのか――目を閉じて座っていた。通りにはTシャツとジーンズにバックパックというお決まりのいでたちの旅行者や小汚い格好の浮浪者もいた。そんなありふれたヨークシンの街角。誰のもとにもこの美しい日は訪れているのだった。
「『ソル・ルセント・オムニブス』――まさに『太陽は万人の上に輝く』だわ。教会日和ね」
わたしは目的地に向かってベティスパークを突っ切って東に進み、チェイニーストリートを3ブロック南下して十字路のところでぐるりと周りを見渡した。目を凝らしてうっとうしい電線をすかして見上げると、ごちゃごちゃした建物の上から針の先みたいな尖塔のてっぺんがのぞいていた。それを目指して歩くにつれ、塔の形がはっきりしてきた。たどりついたのは古書店が並ぶ狭い通路の奥の教会だった。
聖フランシスコ教会は50人くらいが定員だろう小さな教会だった。18世紀のバロック風のファサードが特徴的といえる程度の、観光名所にもなっているような街の大聖堂とは似ても似つかない教区教会。外の明るさが嘘のように厳かで、取り残されたような寂しい気配があった。会衆席に座っているのは10人もいない。わたしが入っていったときにはミサはすでに始まっていたけれど、頭を垂れて司祭が唱える厳かな言葉に聞き入っている信者は5、6人にすぎなかった。
彼らは聖体拝領の儀式を執り行うところのようだった。司祭は
わたしは儀式の邪魔をしないように静かに進んだ。ひんやりとした空気を揺らさないように。目が暗がりに慣れてくると、天井の鮮やかな絵画と装飾に気づいた。
「『聖母被昇天』ね……」
「そう。1786年の、ミセーノの絵画だ」
顔を左下に落とすと、黒髪の青年が微笑した。礼拝堂のなかで、青年の目が二粒の神秘的なオニキスのように輝いていた。
「クロロ」
「クローディア、隣に座れよ」
わたしは大人しく従い、そっと会衆席に腰掛けて天井を仰ぎ見た。
聖母は天上の光に包まれた背景と天使たちを伴って、法悦の表情を浮かべていた。慈愛の赤に気高い精神性の青の伝統的な衣服がたなびいていて、その独特の明瞭感のある色遣いはたしかにミセーノっぽかった。その下では弟子たちが聖母の棺を囲み、昇天していく聖母を見上げていた。ドラマティックな構図、それもミセーノっぽいかもしれない。
「すてきね」
わたしは画家が誰かはじめからわかっていたふうに言った。
「そうだろ」
ちらっと横を見たわたしは、自分をつねって悪魔のようなやつの隣に座っていることを忘れないようにしなければならなかった――クロロが、あんまりにもひたむきに、敬虔そうな顔をして天を見上げていたものだから。
(『悪魔はいつも近くにいる』)
わたしはこの言葉を何回も胸の内で唱えた。敬虔なクリスチャンの10年分くらい。ここでは、何度もナタリーと通った教会の教えの、少なくとも一部の正しさが証明されていた。
「あなたが教会に来るとは思わなかったわ」
わたしは正直に言った。
「そう? けっこうよく来るけど……まあ、祈りに来るわけじゃないな」
じゃあ何しに来るんだろう、と再び天井画を見上げて、ああ、とうなずいた。
「天下の大盗賊、A級賞金首の幻影旅団様といえども、建物に描かれた絵までは盗めないものね」
クロロは、よく言う、と呟いた。
ミセーノは絵を大量に描いている。でもその大半が教会や聖堂の天井や壁に描かれている。クロロがミセーノの絵を手元で愛でたいと思ったら教会を解体するしかないのだ。
「A級にしてくれって言った覚えはないんだけどな」
「あれだけのことをやれば、そりゃA級首になるわよ」
わたしは笑った。
「今や世界一有名な強盗団よ、あなたたち。なんといってもモーナンカスのカラミティナイトの立役者ですものね。一晩で6件に押し入り、マフィアとの戦闘をやらかし、皆殺しにした。死者124名だったかしら。ご立派な数字よね。モーナンカス史に残るわよ」
盗賊団、とどうでもいい訂正をして、クロロは黙りこみ、それから言った。
「君が申請してくれたようなものだろ、クローディア」
「何のことかわからない」
「君は隠し事が多いタイプだけど嘘つきじゃない。必要な嘘なら罪悪感があるけどつけるってくらいだ。それもそんなにうまくない」
ついムッとしかけた。わたしはいかなる能力についても――たとえそれがほめられる種類のものではないとしても――低く見られるのは嫌だった。
「じゃあ、その報復のつもりだったとでもいうの? まあ、よくもやってくれたわよね。――ねえ、『ヨークシンの大怪盗』さん?」
わたしは恨みがましいまなざしを投げつけた。
クロロは微笑みすら浮かべていた。
「気を遣ったんだよ。それにクローディアならすぐにわかってくれると思ったんだけど」
この一カ月、ヨークシンで強盗事件が頻発していた。人がほとんど殺されず、盗みだけは毎回成功させていた。警察も犯人を捕まえられないでいた。狙われるのは金持ちの美術品ばかりであるところ、積極的に殺しをしないところ、一度も盗みを仕損じたことがないところ、警察とのどたばた劇――そういうところが大衆に受けて、犯人は『ヨークシンの大怪盗』などと呼ばれていた。
イーランと会った日もそうだったけれど、テレビは連日この事件を報道し、新聞では今や事件が起こるたびに一面で扱っていた。評論家が出てきて犯行状況を説明したり、警察の対応を批判したり、犯行現場からレポーターが中継したり、ご丁寧にも被害総額を算出してくれたりと、報道は過熱する一方なのだった。
そうやってマスコミに踊らされる大衆とは別に、一部の人間は『ヨークシンの大怪盗』がほんとうは何を狙って犯行を繰り返しているのか察しがついていた。
「どうしてくれるのよ。パパのファームの経営がめちゃくちゃになっちゃうところよ」
こいつらはグレイギャラリーが扱った美術品ばかりを狙いやがったのだ。
クロロは肩をすくめた。知ったことじゃない、の仕種だ。
「実害はないと思うけど」
「ふざけないで。保険会社がファームで扱う美術品の保険料を上げたり保険をかけてくれなくなったりしたらどうするのよ」
「今ごろ警察が盗んだものを見つけてるはずだよ。ちゃんと返すんだから感謝してほしいな。これで保険会社も保険金払わなくてすんだだろ。まあ高額すぎて払えたはずもないとは思うけど」
「冗談じゃないわよ。わたしたちは顧客としてマフィアのネームバリューに余計な金を払ってるの。マフィアの名が守ってくれると思えばこそよ。お金返してよ」
ちなみにジュリアンのファームがよく利用する保険会社はマーヴェルファミリーというヨークシン系のマフィアが経営する保険会社なのだった。この保険会社はヨークシンの大怪盗によって盗まれた多数の美術品の保険金を払いきることができず、倒産の危機に立っている。付け足すとここのファミリーの警備会社にもお世話になっていて、グレイギャラリーは安全保障面でマーヴェルファミリーに依存している状態だった。
「グレイギャラリーで扱う商品だけが狙われるとなったら顧客だっていなくなるわ」
「お父さんの会社が倒産しないですんでよかったと思いなよ。こっちだって君をあぶりだすのに手間暇かけさせられたんだ。相殺しようよ」
「結局そっちの都合じゃないの」
わたしは苛立ったけれど、クロロに謝罪やら反省やらを求めることの無意味さに気づいて、それ以上言葉を重ねることはしなかった。
「そもそもこんな手段に出ざるを得なかった状況を斟酌してほしいな。なぜか君がいきなり雲隠れしたからだよ。言わなかった? 携帯は常に連絡をとれるようにしておいてって」
ほかにもいろいろと手段はあるだろうと思った。もっとましな手段が。
わたしも負けじと肩をすくめ返した。
「あなたたちはこう言ったの。肌身離さず、番号やホームコードも変えてはだめで、そちらからの発信には必ず応えること、とね。わたしはその通りにしたわ。ただ、そうね、電波遮断器を一緒にもってはいたかしらね。禁止されてないはずだけど」
「とんち?」
クロロはあきれたような、困ったような顔をした。
ゆっくり息を吸うと、かすかな香のにおいがした。数百年もの間に建物に染みついた信仰の香り。わたしはふと、こんなところで何を話しているんだろう、と思った。教会で、クロロと、盗むだの殺すだのと。だめなんじゃないかなと思った。クロロはさっぱり気にしていないようだけれど、わたしはなんとなく居心地悪かった。でも、不敬な分スリリングな気もした。
「それで? わたしが、何をしたと思ってるの?」
少女らしい高くて甘い声が響かないように気をつけながら言った。
「事件の概要が、オレの記憶とはだいぶ違うんだ」
クロロは長い脚を組んで、考えを巡らすようにゆっくり瞬きした。
「オレたちはまずジョイスの自宅を襲った。あの男が競売会で競り落としたジャン=ジャヌレの絵画が目的だったんだ。簡単な仕事だったよ。一家と使用人を殺して、絵を探して、もらっただけ」
「そうでしょうね」
「それから女優の――誰だったかな、そうそう、ルクローサ。彼女の別荘に行った。近かったしね。……残念ながら目当てのものがなくて不首尾に終わったけど」
「派手にやったところよね」
「フェイタンとフランクリンだよ。あいつらは気に入らなかったみたいでね。次があるからさっさと片付けようと思ってたんだけど、警察も来るし、騒ぎも大きくなるし、まったく困ったやつらだよ」
親しみのこもった愉快そうな、困ったやつらだよ、だった。
(そういえばクロロは団員の暴れ方には基本的に注文はつけないんだったかしら)
わたしは原作情報を思い出した。
「別のところで銃声がしてたり火があがってたりしてたけど、そんなに気にはしなかったんだ。オレたちには関係なかったし、ままあることなんだよ。騒ぎや不安や混乱が伝播していって、そういうのに当てられた誰かが銃をぶっ放したとかね。で、さらに拡大して手に負えなくなる」
一般論ではなくて経験として話せるのがすごい。すごいけれど、わたしには、へえ、そう、以外に言葉がない。
「それからフルンゼの自宅を襲った。彼はさすが元軍人らしかったな。外の様子に気づいて起きだしてたし、明かりをつけたりしなかったし、妻子を隠してたし、武装してたし。まあ簡単な仕事だったことに違いはないけど」
彼は簡単だったと事もなげに繰り返した。わたしも5人も人数はいらなかったろうと思う。たぶんクロロは美術品を探す手がほしかっただけだ。殺したり壊したりは、美術品を探す際の、ただの片手仕事だったのだ。
「最後に君の別荘に行った」
クロロは頭をひねった。
「それだけのはずなんだ」
「それだけ、ね。十分だと思うけど」
わたしは皮肉な口調で言った。
「それで、なんでそれを告解室で話さずわたしに話すの?」
クロロはわたしの言葉を黙殺した。
彼の表情は静かだった。とてもとても静かだった。
「あの夜、君はどこで何をしていた? クローディア」