ナタリー=グレイは美しい女だった。しみひとつないピンクの肌、つややかな暗赤色の髪、グレーの目。女ざかりのころははっとするほどの美人だったに違いないと思う。加えて家柄もよく、莫大な財産を持っていたから彼女と結婚したがる男は引きも切らず現れた。でも彼女は地元の男などてんで相手にしなかった。ナタリーはヨーク近郊のバンナムハウスというお城みたいな大邸宅で生まれ育ったけれど、そこで死ぬつもりまではなかった。ヨークの有閑階級の婦人たちが社交よりも社会奉仕に熱心なのも、若かった彼女にはつまらなく感じただろう。ナタリーほどの美貌とすてきな宝石のコレクションを持っていたら、見せびらかす場所がないのでは欲求不満の連続だったかもしれない。そして彼女は家を飛び出てヨークシンの大学に入学し、ヨークシンの社交界の一員となり、そこでもっともきらびやかな存在になった。
華やかな交際、観劇、パーティー、コンサート、旅行、冬中ぶっ通しのオペラ……。田舎とは言わないけれど歴史ある陰気な小都市で鬱屈を抱えていたナタリーは、ヨークシンで心のまま生きることができるようになったのを喜んだ。わたしにはよく理解できないけれど、人に囲まれているときにもっとも輝く人がいる。ナタリーもそのタイプだった。雑誌『モード』に丸々1ページ与えられた彼女の写真が載り、それが評判になったこともあった。ナタリー=グレイは最輝星だった。
ナタリーとジュリアンの出会いはよく知られている。ソーホーの美術展覧会で彼らは出会った。ジュリアンはそのころハルヴァルド大学の大学院で美術史を学んでいる学生だった。一方ナタリーがそんなところへ行った理由は簡単で、そこにカメラマンが来ていたからだった。彼女は、ブロードウェイの初日やチャリティーパーティーや、その他メディアが集まるときには必ず顔を出す類の有名人で、その日も例外じゃなかった。
彼らはお互いに一目で恋に落ちたらしい。わたしはたいがい怪しいものだと思っているけれど、とにかくそういうことになっている。当時の『デイリーニューズ』の社交欄とか『セレブリティーシーン』とかはこぞってこのカップルについて書きたてた。写真を見る限り、お似合いのカップルと言えた。ジュリアンもハンサムだったから美男美女カップルと言っても差し支えなかった。インテリと美女というカップルの典型の一種にも見えた。
ナタリーとジュリアンは出会ってわずか半年で、お互いの家族友人知人の反対を押し切って結婚した。すぐ破綻するとの一部の予想に反して彼らの結婚は今に至るまで続いている。ほとんど有名無実だけれど。まあ今はこうでも昔はこうじゃなかった。ちゃんと親密だった時代があった。結婚してもしばらくは子どもができなかったけれど、仲睦まじくやっていたようだ。その彼らに子どもが生まれた。それがわたし、クローディア=グレイ。
朝、日課の念の基礎練習を終えたわたしは母に会いに行くことに決めた。
念の練習を日課にしたのはつい最近のことだからまだ何の成果も出ていなかった。熱血とか汗とかに縁がなく、できるなら避けて通りたいと思っているわたしにも、最近のことを反省して思うところがあったのだ。とはいえやっぱり向いていないし気が進まないから体が重かった。
チャーチレーンと12丁目の交差点にある地下鉄駅の階段を上って3月の陽気の中に踏み出したとき、わたしは足がいっそう重くなった気がした。ラッシュアワーのため通勤通学者で混みあうコーヒーショップでラテを買ってちびちび飲みながらヨークシンでもっとも高級感あふれる地域へ向かった。堂々たる屋敷や華麗に改造されたヴィクトリアンハウスやアールデコの高級アパートが並んでいる、その一角にナタリー=グレイの屋敷があった。
警備員――マーヴェルファミリー系列の警備会社の――に挨拶をして門扉を開けてもらい、玄関のドアを開けたところで、ガチャンと何かがぶつけられて壊れる音がした。わたしは急いでドアを閉めて階段を駆け上がった。そこの廊下には住みこみメイドのオリーヴがいた。
「どうかしたの? 今大きい音が聞こえたようだけど……」
オリーヴはぐっとこらえるような顔をしたかと思うと、わたしの手をつかんで近くの部屋へ引っ張りこんだ。
「わたしが悪かったんです、お嬢様。ついうっかり電話を鳴らしてしまって」
「ああ……」
それで暴れているのか。わたしはため息をつきそうになった。
それにしても、わたしが悪かったんです、とはいかにも偽悪的な言い方だ。わたしは悪くないんですと言うのとほとんど同じじゃないか? 否定してほしい、慰めてほしいという意図が見える気がする。携帯電話はマナーモードにしておけと何度も言っておいたのに。
オリーヴはうつむいていた。疲れているようだった。責める必要はないし、これ以上追い詰めたくもなかった。
「気をつけてね」
「はい。申し訳ございません」
落ち着かせるように、なだめるように、しばらくオリーヴの肩や手をさすった。
「ママの様子を聞かせてちょうだい」
わたしは優しく言った。
「いつもと変わりません……その、つまりわたしがお世話させていただくようになってからと」
「お医者様は何とおっしゃってる?」
「それもいつもと同じです。薬を忘れず飲むように、何かに興味をもたせるように、家に閉じこもりきりにならないように、それからできるだけ奥様に周囲が合わせてゆっくりと、と」
ご家族の協力が必要です、もあっただろう。オリーヴは言わないけれど。罪悪感がちくちく胸を刺した。
「いつもあんなふうに物を投げるの? あなたに当てたりしない?」
「気分が乱れるとああやって物に当たられることは多いです。でも人に物をぶつけたりはなさいません」
「そう」
「ただ……」
オリーヴは言いづらげに視線を落とした。
「ご実家へ戻りたいと何度もおっしゃって……」
「……申し訳ないんだけど」
「いえ! わたしが不満を持っているわけではないんです! 奥様もわかってくださっていると思います!」
「だといいんだけど」
わたしはあいまいな微笑みを浮かべて内心で舌打ちをした。
ナタリーは実家を捨てるように飛び出してジュリアンと結婚した。そしてこの華やかなヨークシンへ来た。今さらひとりでこんな状態で戻ったって、もっとつらい思いをするだけだ。とはいっても今の彼女にもっと考えて物を言えとは言えない。自分が何を言っているかわかっているのかも怪しい。
「あなたには苦労をかけるわ。こんなこと言いたくはないけど……やめたくなったらやめてもいいのよ。そのときは言ってね?」
「いいえ、お嬢様! やめようと思ったことは一度もありません! ですから……!」
「もちろん、わたしはあなたにずっといてもらいたいと思ってるわ。あなたが不安に思うことなんてないのよ」
わたしは温かく優しいまなざしで見つめながら言った。
オリーヴならそう言ってくれると思っていた。
オリーヴは流星街出身だった。
原作で、流星街出身者は社会的に存在しないことになっているから犯罪に利用するにはうってつけ、マフィアと流星街は蜜月関係だという記述があった。たしかにそれはそうなのかもしれない。でもそんな北斗の拳的世界の流星街だって、完全に見捨てられているというわけではなかった。緊急人道援助のために5つの国連組織と約40のNGOが流星街の辺縁部に入って活動していたはずだ。あまりにも見捨てられた土地というイメージが強すぎて全然知られていないけれど。
かくいうわたしの叔母もNGOで今は理事として、もっと若いころはスタッフとして図書館活動をやっていた。オリーヴはそういうつながりで、流星街の職業訓練センターを卒業したあとメイドとして斡旋されてきたのだった。
もしわたしがここでオリーヴを放り出したとしたら、オリーヴは街娼でもやるしかない。外の暮らしを知ったオリーヴが流星街にまた戻れるとは思わない。わたしはオリーヴの代わりなどいくらでも見つけられる。でもオリーヴはここを捨てられるわけがない。清潔できれいなものに囲まれて、給料をちゃんと払ってもらえる暮らしを。
わたしは母の部屋のドアをそっとノックした。
「お母様? 入るわよ?」
ドアの向こうでまたガシャッと壊れる音がして、何か叫び声が聞こえた。わたしは家中を防音にしておいてよかったと思った。
ドアを押し開くと、部屋がさんざんに乱れているのがわかった。閉め切られたカーテン。引き出しが抜き取られて、中のものが床にぶちまけられたチェスト。転がっている酒の空き瓶。そんなもののなかにナタリーはいた。鏡台の前で、背を丸めて、髪の毛をつかんで。
「お母様?」
「何よ!」
わたしはドアの前で粉々になっているティーカップをまたいで少し近寄った。
「大丈夫? 気分がすぐれないようだけど」
「あんたなんかに何がわかるのよ!」
わたしは歯を食いしばって微笑んだ。
「外はいいお天気よ。ねえ、カーテンを開けない? 日光を浴びれば少しはましな気分になるわよ」
「余計なことをするんじゃないわよ!」
ナタリーは大声でわめきたてた。
「お願いよ、叫ばないで。ご近所に迷惑だわ」
ナタリーはわたしを睨みつけた。あんたなんかに指図を受けるいわれはない、を意味する目つき。それから彼女はわたしの思いやりのなさについてさんざん非難し、聞くにたえない言葉でののしった。
「あんたの顔なんか見たくないのよ! わたしの家から出ていって!」
「そんなこと言わないで。お母様に会いに来たのよ」
「頼んじゃないわよ! 勝手に出て行ったくせに!」
会話が成立していた。これはいい兆候だ。
わたしはほっとため息をついて、ナタリーがいくらか落ち着くのを待った。
「モーナンカスに行ったそうね」
ナタリーは呟いた。またかと思った。もう2カ月も前のことだ。この話題は何度も繰り返されている。
「ええ。いいところだったわよ。今度はお母様と一緒に行きたいわ」
「なのにあんたは絵葉書一枚送ってよこしただけ!」
ナタリーはいきなり金切り声を出した。
「モーナンカスには絵葉書が一種類しかなかったのよ」
「またあんたはそうやってわたしを馬鹿にして!」
わたしの弁解じみた冗談は気に入られなかった。ナタリーは腕を振り回すようにして鏡台にしまってあった化粧品類を投げはじめた。
「いつも勝手なことをして!」
床に落ちたファンデーションが粉々になった。
「わたしのこともほったらかしで!」
化粧水の瓶が割れて壁に大きなしみができた。
「わたしだって!」
口紅がわたしの足もとに落ちて転がってきた。
「わたしだって……!」
急に立ち上がるから椅子が倒れて床のワインの瓶を割った。
わたしはナタリーに近づき、その場にいまにも崩れ落ちそうな彼女を支えて移動し、ベッドに座らせた。
ナタリーの冷たく弱々しい手を撫でさすりながら、なぜこんなことになったんだろうと思わずにはいられなかった。ナタリーの態度を見ていると、まるで彼女の不幸の原因の大部分がわたしにあるみたいだった。
一方のわたしもナタリーを重荷に感じていた。彼女の存在は降り積もった借金のようにわたしにのしかかり、どうしようもなく疲労させた。ナタリーにどうしてあげればいいのかわからなかった。毎度暴言にさらされるのもつらかったし、偽らざる本音ではナタリーがうとましかった。
気づけばナタリーはすすり泣いていた。
「あの人は……ジュリアンはどうして来ないの」
びしゃびしゃとからまるような口調だった。
「お仕事よ。忙しいんですって」
ナタリーがこうなってから余計に彼の足は遠のいた。ここ数年誰も彼をナタリーの屋敷で見かけたことがない。おそらくこれからもないだろう。
「電話が鳴るとね、頭の奥がキーンとするの。あの音は耳に障るのよ」
「気の毒なお母様。オリーヴにはわたしがよく言ってきかせておいたわ」
「オリーヴ? 誰のこと?」
「メイドよ。ずっとママの世話をさせてるメイドじゃないの」
「わからないわ」
また嗚咽が漏れだした。
こういうとき、わたしはふっと両手をさしのべて、青筋の浮いたナタリーのか細い首をきゅっとひねりつぶしたいような凶暴な欲望にかられた。この世界で生きるには彼女はあまりにも弱くて哀れな存在だった。そうできたらわたしもナタリーもどんなに楽になるだろうと、ついそう思ってしまうのだった。
「大丈夫よ、お母様、わたしがいるわ」
ふいにそんな言葉が口を衝いて出た。あまり本気ではなかった。その言葉の不誠実さに、言ってしまったあとでわたしはたじろいだ。
ナタリーはくぐもった声で、
「あんたなんか」
と言っただけだった。
やがてナタリーはぐったりと萎えた腕でわたしを押しやった。
「出ていって」
「お母様」
泣きぬれて真っ赤になったきつい目でナタリーは睨みつけた。
「早く出ていって! もう二度と来ないで!」
「お母様」
わたしはなだめようとした。でも無駄だった。ナタリーはベッドカバーの下にもぐりこんで、ベッドの隅に這っていってしまった。
わたしはその場に馬鹿みたいに立ち尽くしていた。
「あんたなんか死ねばいいのよ」
「そうね、お母様」
「あんたなんか産まなきゃよかった」
「そうね……」
「あんたなんか……」
(そう、わたしなんか)
皮肉っぽく口角がつりあがった。
わたしがクローディアをやっているのも、わたしがナタリーのもとに生まれてきたのも、わたしのせいじゃない。お気の毒、残念、とは思うけれど、悪いとは思わない。だってわたしのせいじゃないのだから。
ナタリーにとっての不幸のひとつは、わたしみたいなのが娘だってことだろう。せめてもう少し可愛げのある女の子だったら、困難の多い彼女の人生をもっと支えてあげられたのかもしれない。でもそんな娘はいないからわたしが支えてあげなくてはならない。わかっているのにできなかった。わたしがナタリーに投げやりとしか言えない程度でも関心を示せるのも、良心を彼女の本来の娘であったはずの『クローディア』にアウトソーシングしているからにすぎないのだ。
彼女のうらみつらみに反論するつもりはなかった。精神のバランスを崩している人に向かっていちいちその考えは間違っていますよと指摘するのが正しい接し方とは思えなかったし、無駄だろうし、幾分かは真実を含んでもいたから。
わたしはナタリーのすすり泣く声を聞きながら憂鬱の部屋のドアを閉め、そこをあとにした。