「全部でいくら?」
パクノダはそう言いながら、手に持って眺めていた素描を丁寧に足元に置いた。19世紀初めごろに描かれたイングレスの『ミレーユ=グレグワールの肖像』だ。『丁寧に』『足元に置』くなんて同じ一文の中で同時に使うことができる言葉だとは思わなかったけれど、この場所ではほかにやりようもないのだから仕方がない。
わたしとパクノダはビルの中の広々としたスタジオで何点もの絵画に囲まれていた。足元はフローリングで、壁の一面には何枚も大きな鏡が張られている。違う面の壁には『あいさつ!』とか『常に、自分がなぜそこにいるか、意味を考えなさい』とか書いた紙が貼られていた。貸画廊ならいくらでもあっただろうになぜこんなダンススタジオを借りたのかわからなかったけれど、空調もないほこりだらけの倉庫に置いておかれるよりずっとましと言えたから文句はつけなかった。
わたしは拡大鏡から目を離して床に伏せったまま頭の中でそろばんをはじいた。
「うーん……んん、4億ジェニーくらいかなあ」
「そんなものなの、ふうん。なんだか中途半端ね。5億にはならないの?」
「ならないわよ。さりげなく1億ジェニーも値段をつり上げないでね」
1億足して切りよくしようなんて、パクノダの金銭感覚も大概狂っていた。
「あっそう。わかったわ。……ちなみに内訳は?」
パクノダは言ってみただけだったらしくあっさりと引き下がってくれたけれど、会話を続けてわたしの集中を削いだ。手持無沙汰で飽きてきているようだった。
ぶらぶらしないように服の内側に入れておいた懐中時計を開けてみてみると、鑑定を始めてから4時間は経っていた。相手は凶悪犯罪者だということを考え合わせれば、よく忍耐強く大人しくしていたとほめることができるだろう。
酷使して痛んでいる目頭をもみほぐしながらざっと評価額を告げた。
「マティッセは2億ちょっと。モローの小品がそれぞれ5千万と3千万。スーティンを選んだのは誰? いいセンスしてるわ。筋のいい作品よ。1億ジェニーね。残りの19世紀絵画はたいしたことないの。で、全部で4億ジェニー」
パクノダはわかったようなわかってないような顔をして聞いていたけれど、聞き終わると腑に落ちていないらしく眉間にしわを寄せた。
「素描は? 査定してくれないのかしら?」
わたしが見落としたと言わんばかりの口ぶりだった。
だから正直に、評価の、思ったところを告げた。
「ゴミね」
「……何って言った?」
「ゴミだわ」
「そんな……」
言われたことが理解できないみたいな表情のパクノダに、残酷だけれどどうしようもない真実というものを説明した。
「この目で確かめたんじゃなきゃ信じられなかったけど、これ素描じゃない、印刷なのよ」
パクノダは疑いの眼だった。
「……どういうことなのかしら?」
「つまり、美術館はこういった盗難の危険に備えてたんでしょ。劣化した紙には保管室のほうがいいでしょうしね。これだけ精巧なら、距離をとって明かりを調節して本物だと前提させておけば専門家の眼だってわけなくごまかせるでしょうよ。油絵とは違うもの。ただ、ほんとうにそうする美術館があるとは思わなかったけどね」
呆れるしかない所業だった。
「そんな、阿呆らしいわ」
「もちろん、阿呆らしいわ。でもこんな複製画を盗ってきた馬鹿ほどじゃない」
わたしは苦々しい思いで吐き捨てた。
「そもそもどうしてこの素描をチョイスしたのか理解に苦しむわ。オーラも出てないじゃないの。美術がわからないならわからないなりに“凝”をして選べばいいじゃない。あるいはカタログでも見て見当をつけてから行きなさいよ。誰なのよ、こんなゴミを握らされたとんまな馬鹿は?」
「………………………それ――」
「信じられない。天下の大盗賊がこんな失敗する? 不名誉というか不面目というか……クロロが知ったら何て言うかしらね。ふざけていたとしか思えないわ」
「……団長に……」
「目に浮かぶようだわ、素描画部門のキュレーターたちがあなたたちを嘲って馬鹿笑いしてるところが。同情もできないわよ。“凝”を怠るな、は念能力者の心得でしょ? 今まで何人の念能力者が“凝”をいい加減にしたばっかりに取り返しのつかないことになったことか。肝心なところで“凝”ができないなんて無能よ、無能」
「……無能……」
「あなただってそう思うわよね? そのトンチキはよく幻影旅団なんて入れたものだわ。ほかでも足引っ張ってるんじゃないの? しょうもないミスをしては誰かに尻を拭かせてそう。その他のメンバーにはお気の毒さまだわ。こっそり仲間はずれにされてても仕方ないというか、気づいてもなさそう」
「……仲間はずれ……」
「間違いなく言えることは、そいつには美術品泥棒なんてまったく向いていないってことね。それどころか悪党に向いてるとも思わないわ。ケチな詐欺でもやって警察に捕まっているのがせいぜいの低能よ」
頭痛を催させる救い難いぼんくらにため息をついて頭を振りつつ、わたしはパクノダを同情あふれる目で見た。
「それで、誰なのよ、その馬鹿は?」
うるうる。
(……ん?)
パクノダの眼は涙でいっぱいだった。
(な、何事なの……)
わたしは面食らって何度も瞬きした。
「パ、パクノダ……?」
名前を呼ぶと、彼女のスミレ色の――エリザベス=テイラー以来の、めったにない美しい紫色の――目からぶわっと涙がこぼれた。わたしは心底ぎょっとして硬直した。
「うう~~」
ハンカチに顔を突っ込んだパクノダを、わたしは呆然と見つめた。
(い、いやー、まさかね……まさかまさか、そんなはずは……)
否定しながらも、ほぼ確信していた。
(まさかそんな……こんなくだらないポカをやらかした幻影旅団の抜け作がパクノダだなんて……)
(……どうしよう)
パクノダがこんなに景気よく泣いてるんじゃなければごまかし笑いでもして知らんぷりしておくのだけれど。
「パ、パクノダ……」
ほんとうは嫌だったけれど、心から恐れていたけれど、こんな姿を見せられては放っておくことはできそうにない。クローディアならどうするだろう、とわたしは考え、クローディアならするだろうことをした。こんなタイミングで記憶を読んではこないだろうとの楽観的な希望的観測でパクノダの震える肩に手をそっとかけ、おずおずと撫でた。
「ま、まあ、ミスすることなんて誰しもあるわ」
「う、う、ひっく……で、でもわたし……」
「わたしもなにも触れ回ろうなんて思ってないし。ね?」
「うえ、……わたしなんか、ぐすっ……」
「大丈夫! お金払うときには微妙な19世紀絵画と書類上まとめといてあげるから! まさか美術館だって複製画を並べてたとは言えないし、こちらが言わなきゃばれないわよ」
「ばれない……?」
「ええ、もちろん」
(事実は消えないけどね)
最後の言葉は心にしまって、わたしは元気づけるように、安心させるようににっこり微笑んだ。腫瘍は良性です、と患者に伝える医者のような気分で。
美術品について無知すぎる、というか無頓着すぎる、と感じたわたしは、まずは美術品という商品の特性からわかってもらおうと、生徒ひとりに向けて簡単な研修を受けてもらうことにした。そのたったひとりの生徒はメモ帳とペンを手に、化粧室でお化粧をきれいに直してきた顔を真摯に向けてきている。やる気十分のようだ。
「あのね、美術品っていうのは特別な商品なの」
わたしは左手を前に出して順に指を立てていった。
「第一に、希少性と非代替性があるわ。真作はこの世に一点しかないし、大量生産もできない。欲しがる人が多ければ、当然値段は天井知らずに上がっていくわ。
第二に、メンテナンスが必要だという点ね。いかに有名な画家の手による作品といえどもボロボロだと値段はがくんと落ちるわ。もちろん美術品は消費財じゃなくて耐久財だわ。より耐久してもらうためには扱いに注意が必要よ。たとえば――」
ポケットから拡大鏡を取り出してパクノダに渡し、手招きして壁に立てかけた絵の前にかがませた。横から指で見てほしい箇所を示す。
「わかるかしら? 1センチくらいだけど、亀裂が起きてるの。たぶん持ち運ぶときにキャンバスに体か何かが当たったのね。こういうのがとってもまずいの。こういう傷は時間が経つにつれて広がっていくわ。傷ができると絵の具の強度が弱まるから、温湿度の変化でキャンバスが伸び縮みして、どんどん裂けていくのよ。さらにそういう傷から空気が入って、傷の部分から乾燥が激しくなる。反り返っていって、ついには剥落しちゃうというわけ。
わたしは修復家じゃないから如何ともしがたいけど、この絵を手に入れた人が早く専門家に見せてくれることを切に願うわ」
パクノダは、なるほど、と呟いている。
「そういうわけだから、浮き上がりのある作品を盗むのはやめてね。ちょっとした圧力や振動にも耐えきれないし、素人に輸送なんて無理だもの。ほんと、絵の具が落ちてバラバラになっちゃったら取り返しがつかないから」
「そうね。気をつけたほうがよさそうだわね」
同意を得られてわたしは気を良くした。人間、素直が一番の財産だ。パクノダはこんな子どもからでも素直に教えを受けられる。彼女の美点のひとつだろう。
「で、第三なんだけど、価値に普遍性を欠いているところね。人によってその美術品に見出される価値は、というか使用価値は、大きく違うわ。これはあなたにも実感としてわかるでしょ。フェイタンが気に入ってる絵があったとして、あなたはそれを自分の部屋に飾りたいとは思わない、そういうことってあるでしょう」
パクノダは大きくうなずいた。
「ええ、よくわかるわ」
「評価が高くっても、一般に人気のないたぐいの作品だと高値はつかない。仕事に自分の趣味を反映させるのは結構だけど、この点は覚えておいてね」
パクノダの白魚のような手が忙しく動かされ、メモが追いつくのを待ってから、残りの特性をゆっくり説明した。
「第四は、市場流通価値の変動よ。美術品っていうものは普通優に数百年は持つわ。そのあいだに値段は大きく上下する。そのときの評価や人気でね。美術品自体の美しさ、その絶対的な価値が変化するわけじゃないの。
そして最後の特別さっていうのは、見極めの難しさなの。まず本物か偽物かを判断することが難しいわ。専門家でも間違いはしょっちゅうやらかすわね。本物でも、どの程度素晴らしいのか見当がつかないこともある。さらに言うと、盗品かもしれないし、担保品かもしれない。美術館に説明付きでかかっているからって必ず本物ということはないわ。怪しい作品はいくらでもある。いくつもの目にさらされて、なんとなく本物っぽくないなと評価されるようになったりもする。情報収集を怠らないことね。とにかく、わからないものなのよ。わたしも何度も授業料を払わされてきたわ」
「あなたも?」
意外そうな疑問。
「もちろんよ。一度も失敗せずにすむような人間なんていないわ、とくにこの業界じゃあね」
随所でフォローを忘れないわたし。パクノダの表情がちょっと明るくなった。
おおよその値段のつき方は教えた。これを機に自分で勉強するようになって、美術品や美術市場への理解を深めていってほしい。盗むという目的や行動は唾棄すべきことではあるけれど、美術品に関心を持ってもらったり愛するようになったりすれば、わたしも少しはうれしい。
「ま、そういうわけだから――」
わたしは床に置かれていたイングレスの『ミレーユ=グレグワールの肖像』の複製画を取り上げ、ちょっと口元がひきつっているパクノダの手に――なんとしても受け取りたくないと強情に動かされなかった手に――ちょっとした揉み合いの末無理やり押し付けた。
「あげるわ。部屋にでも飾っておきなさい、今回の教訓を忘れないように。安心して。額縁は本物の19世紀初めごろのものよ」
「何を安心しろと言うの……?」
「少なくとも額縁分の価値はあるわ。つまりゼロではないってことね」
励ますように微笑みを浮かべたけれど、パクノダは陰鬱な表情で力をなくしたかのようにがくんとひざをついた。
パクノダだって馬鹿じゃない。複製の素描画を盗んで帰ってしまったのにも勘案すべき理由があるのだろうと思う。幻影旅団を馬鹿にできるチャンスについつい飛びついてしまったけれど、“凝”をしたかどうかとか、そんな簡単な話じゃなかったのだ。
油絵に比べたら地味というか、影に隠れてしまっている素描画だけれど、重要な作品も多くある。また油絵に比べて高値がつきにくいのは否定できないけれど、それも条件次第だ。たとえばおもしろい来歴があったり連作物がそろっていたりすると値段もぐんと高くなる。評価の仕方というのはパクノダに説明した通り、複雑なものなのだ。当然パクノダも盗賊稼業でそれを実感してきたことだろう。オーラが出ているから高値がつくだろうと思ったらそうでもなかったり、逆に何でこれが?というようなものに高値がついたり。オーラの有無はひとつの目安でしかない。それにパクノダには『ミレーユ=グレグワールの肖像』をちょっと気に入っていた節もあった。まあだから手にかけたんだろうと思う。別に、パクノダが馬鹿だったわけじゃ、ほんとうにないのだ。ただ、これからもからかう機会があれば絶対に逃すまいと思う。
パクノダの帰ったスタジオでフローリングに寝転がって、天井で大きな羽がぐるぐる回って空気をかき回しているのをぼんやり眺めた。ぐるぐる、わたしが設定した絵にとっての適温適湿――摂氏15度湿度55パーセント――をひたすらひっかきまわし、かすかに空気が動く音をさせて回っていた。
(4億。4億かぁ。どこからひねり出せばいいの?)
寝返りを打ってうつぶせになり、頭を抱えた。
「う~」
(やっばい! 4億よ? 見たこともないわよ、そんな額のお金!)
いくら実家が金持ちだといっても、到底わたしがひねり出せる金額ではない。
「どうしよ、どうしよ、ほんと、どうしよう」
すごい大金だ。それだけ持っていればどこの国でも遊んで暮らせるくらいの。
だいたいそのわたしが出した4億ジェニーという評価額だって全然定かじゃなかった。まったく自信がない。そんなの当然だ。だって、世界のどこに美術品の闇市場の相場に詳しい11歳がいるというのだろう? わたしも例外じゃなかった。前世でもこんな不法で危険な取引など当然したことがなかった。
もちろんわたしだって、何もわからずこの場に臨んだわけじゃなかった。
強盗が入ったように見せかけてナタリーの住んでいる家の美術品を故買商にいくつも売り飛ばしてやった。そうやって相場を測った。ジュリアンは家に来ることもないし、ナタリーはそんなこと気にかけもしないだろうから簡単なものだった。わたしにしたって、趣味じゃないものを不可抗力に見せかけて処分でき、故買商から売ったお金を手にでき、さらに保険会社から保険金を受け取ることができてハッピー。まさに一石四鳥だったわけだ。
でもそれくらいですべてを測れるような容易い市場じゃないのも確かだった。美術市場の動向を測るのはとても難しい。具体的に示す公式資料は貿易統計を除いては存在しない上に、闇市場ではそれすら存在しない。サザンピースなどのオークションの落札価格、出来高が指標となりうるけれど、闇市場に関しては別のロジックが強く働いているのは明白だった。たとえばわたしが2億の値をつけた絵、あれは通常の市場に出てくれば最終買い取り価格は20億近くつくくらいの絵だった。とすれば、税金や手数料や仲介料など諸々を差っ引いて、売り手は16億くらいは受け取れるのではないだろうか。でも闇で取引されればそうはいかない。表に出すわけにはいかず売れる相手が少ないのだから、足元を見られて買いたたかれるものだ。2億は相当良心的な値段だろうと思う。相手によっては半額以下の値段を提示されただろう。でも幻影旅団相手にそんななめきった額を提示するのは躊躇われた。わたしはお金よりも命のほうが惜しいのだ。
(ま、まあ、買った額より高く売れれば問題ないのよ……。それに4億も持ってる必要なんて当然ないんだわ。決算するときまでに何とかすればいいのよ)
自分でもいい加減でどんぶり勘定だなとは思うけれど、実際のところこんなもので構わないのだった。この商売は細々したものを日々売ってちょっとずつ利益を上げるような商売じゃない。ヨークシン5番街に画廊を構えているような画商たちは、3カ月に1枚絵を売ればそれで生活が成り立つ。わたしがしようとしているのも似たようなものだ。それに、買ってくれるだろう相手にも心当たりがないわけじゃないのだった。