――なつかしい夢を見た。前世のつまらない記憶だ。昨日緊張してよく眠れなかったから、こんなうたた寝をしてしまった。
わたしはぐぅっと伸びをして、ゆっくり息を吐いた。口から漏れた白いもやが冷たくて鋭い温度に溶けて消え、体の中を澄んだ早朝の空気がめぐっていく。
12月。北半球にあるここパドキアでは、身を切るように寒い、冬だ。
ターミナルから人がまばらにこのプラットフォームへ流れ込んで来た。
ネックレス型の懐中時計をひっぱりだし、確認してうなずく。列車はもうそろそろ来るだろう。この国を縦断する長距離旅客用列車が。
コンパートメントを開けると、黒髪の美青年がひとりで本を読んでいた。
「こんにちは。入ってもいい?」
無視。彼は視線もよこさなかった。本に集中して気がついていないふりをされた。なるほど、どうしてこのコンパートメントにほかの人がいないのかよく理解できた。
わたしは構わず彼の向かいに座った。そして目の前の彼をこっそりうかがった。
(きれい)
――クロロ=ルシルフル。
彼は、とても美しい青年だった。すっきりとした輪郭、薄い色の唇、今はおろされている艶やかな黒髪。一等美しいのは、二粒の神秘的なオニキスの瞳。額の十字は隠されているけれど、本人で間違いないだろう。今は20歳。幻影旅団結成4年目といったあたりだろうか。絶対に朝の光が似合うような人ではないと勝手に想像していたけれど、案外と、冷たく透明な空気と濃い影をつくる一日のはじめの強い輝きに彼は似つかわしかった。
わたしは初めての原作の主要な――この形容詞はゼパイルやベアクローにはつかない――登場人物との接触や彼の予想以上の美青年ぶりにうっとりして、景色を眺めているふりをして窓に映る彼の姿を見ては感慨にふけっていた。
やがてわたしは窓外の景色に飽きたかのように装って、持ちこんだ本を膝の上に乗せた。青に近い紫の箱に入ったでぜいたくな装丁の本で、タイトルが銀色に輝いている。
(無視したいならやってみればいいわよ)
案の定、彼の意識がいくらかこちらに向けられた。
興味をひかれたかのような視線を感じ、内心勝ち誇りながら本を箱から出して、ゆっくりとめくっていく。読むのではなく、挿絵を楽しむだけ。彼が文章を目で追っているのに感づいてからは意地悪してときどきページを大きくとばしてやった。ぱらぱら。
視線が露骨になってきたのでアピールと無視された意趣返しを終えることにした。
「何? どうかした?」
わたしは顔をあげ、首をかしげた。
彼は少しも悪びれることなく微笑んだ。
「いや、気に障ったならすまない。君の見ている本が気になったんだ」
「そう」
(そうでしょうとも)
そのためにわざわざわたしが厳選してきたのだ。
「きれいな本でしょ。読んだことある?」
「ない。君は読んだの?」
もちろん読んだ。十分に吟味もした。
「まあね」
「へえ」
彼は感想までは訊いてこない。わたしの子どもらしさを疑っていないとみていいと判断。
「オレも読んでみたいんだけど、よかったら貸してくれない?」
かかった。わたしは内心ほくそ笑んだ。それを外には出さず、困惑げに首を振った。
「パパに渡すものだから、知らない人には貸せないわ」
「これから知り合うんじゃだめか?」
彼は爽やかに押してきた。
「オレはクロロ。君は?」
「……クローディア」
彼が本名を名乗ってくるとは予想外で、わたしはちょっと驚いた。わたしが名乗ったようなよくある名前ならともかく、彼の名前はこちらの世界でも大量生産とはほど遠い。何というか、流星街の人っぽい名前。男性みたいな響きの名前や国籍不明のエキゾチックな名前、あるいはニックネームが多い。クロロという名前もこの類の響きがする。流星街出身でそもそも足がつきにくいとはいえ、もうちょっと用心してもいいのではないだろうか。
「……名乗り合ったら、もう知り合い?」
「少し雑談でもする?」
「いい。貸すわよ」
本を渡すと、クロロは目を見開いて輝かせた。うっかり可愛いと思いかけた。
「クローディア、君はどこまで行くんだ?」
クロロは本を一時的に借りるという手前か一応訊いてきた。
もう降りる、と言って意地悪をしたかったけれど堪えた。長距離列車に乗って近距離ですぐに降りる意味がわからないし、じゃあ殺して奪おうなどと考えられると大変にまずい。遠すぎる駅名を言うのもよくないだろう。いちばん安全なのは目的地が同じである場合なのだ。いつでも奪える状況ならば、殺したり奪ったりする算段をすぐにつけ始めることはないだろうから。
わたしは、クロロが降りるだろう駅は読んでいた。
「アルヒープで降りるわ。ほんとはヴラースのほうがよかったんだけど、おばさまの家を出ようとしたら、ヴラース国際空港が爆弾テロ騒ぎだっていうじゃない。おかげで大迷惑よ! 予定がめちゃくちゃ」
我ながら白々しいけれど、爆弾テロ騒ぎはわたしが起こした。
とはいっても本気で爆弾テロを仕掛けたわけじゃない。使い捨てのギャング崩れのチンピラに犯行予告を出させ、どこかの航空会社の閉まっているカウンターを脅し程度に軽く吹き飛ばして、金をつかませた空港の警備担当主任に現場を撹乱させているだけ。わたしにできることってせいぜいそのくらい。とはいえこの騒ぎでヴラース国際空港を離発着する飛行船は全便運航見合わせ。今日中に事態が収束することはないだろう。
情報屋がクロロがよく使う他人の名義を見つけ出し、飛行船のチケットを購入したことが割れたからぎりぎりできた計画なのだ。この情報はなかなか高くついた。
「アルヒープに知り合いでもいるの?」
「いないわ。いちばん近くの国際便の多い空港っていったらアルヒープだから、そこから飛行船にのりなさいって、おば様が。近いっていってもあと――2時間はかかるのよね」
懐中時計を見ながらため息をつく。
犯行予告を出させたのはクロロが乗る予定だった飛行船の搭乗開始時間間際だった。クロロが確実に空港にいる時間。空港の利用者や職員はただちに出口に誘導され、空港は立ち入り禁止になった。クロロならただちに事態を認識できたはずだ――犯行予告があり、爆弾の捜査には人手と時間がかかり、危険で、運航再開の見通しも立ちにくいと。しかも空港にいた全員の手荷物や身体を捜査され、それがすむまで長時間足止めされるだろうことも。
彼の目的地がヨルビアンの小国リッツの首都ルツィンデであることは飛行船の予約からわかっていた。ルツィンデ行の便がある、ヴラースにもっとも近い空港はパドキアの自治区アルヒープだ。犯行予告を出したチンピラはアルヒープの独立を目指す過激派というありがちな設定にしたから、アルヒープが空港を閉鎖する理由はない。ならば彼はその場からさっさと逃げ出し、アルヒープ直通の長距離列車がとまる東駅へ向かうだろう、というのがわたしの読みだった。クロロが渡航を延ばすことを選んでいた可能性もあったわけだけれど、これはないも同然の可能性だと思う。優秀な情報屋がいれば滞在先を探すことなんてわけないし、そんなことはクロロもわかっている。何にせよクロロは移動を選ぶしかない。
だろう、とか、はずだ、とかが多すぎる不確実な計略だったけれど、情報屋に東駅で確かめさせれば成功率はそう低いものにもならないと判断して採用したのだった。急だったし。ちなみにこのくらいのことはパドキアでは日常茶飯事的に起きている。この世界の政情不安の国ってそんなものだ。政府のパフォーマンスが低いのも納得。だからゾルディック家がのうのうとしていられるのだろうけれど。
「家の人はついて来ないの? 危なくない?」
(すごく危ないわよね……特にあなたが前の座席に座っているときは)
不審に思われることはわかっていた。しかし今回は急すぎて母親役のあてがなかったのだ。親戚の家に呼ばれていてこれから帰るところなのだ、というのがぎりぎり納得できる説明だろう。
「子ども扱いしないで。ひとりで乗り物に乗るくらいできるし、家にだって帰れるわ」
子どもっぽい台詞を吐いてふくれっ面をしてやったら、クロロは、そのようだね、と微笑んで軽く流した。
「クロロはどこで降りるの?」
わたしは確認程度に尋ねた。君と同じ、という答えが返ってきてすこし安心する。
「荷物が少ないけど、旅慣れているんだ?」
クロロは他意なさげに訊いてきた。
わたしの荷物といえば、肩から下げたポシェットとクロロが持っている本だけだ。荷物が少ないどころじゃない。クロロの荷物はといえば、網棚の上に載っている。
「わたしが重い荷物を持つ必要ないでしょ。別便で送ってるのよ」
何言ってんの、と言わんばかりに目を見開いてみせた。襟つきの白い繊細なブラウスにスカーフのリボン、上品なスカート、磨きあげられたブーツ、そしてオーダーメイドの懐中時計――。高級品でかためた格好を見れば、わたしが自分で荷物を持つ人間かそうでないかくらいはわかるはずだ。
クロロはなるほど、と呟いたけれど、わたしにはこれが不審を抱かれて放たれたジャブなのか、世間知らずからくる疑問なのか、それともただの天然なのか判断がつきかねた。
突然の爆破テロ騒ぎ、急遽立て直した移動計画――事件は準備され、行動を読まれていたと彼が考えるのは難しいだろう。わたしは途中の駅から乗車したから、正体を知られて尾行されたという線はなくなり、警戒心も緩む。なにより子供と爆破テロ騒ぎと彼自身との三者を結びつけるのは普通無理がある。彼が原作で描写されているような有名なA級賞金首だというならひょっとしたら疑う余地があるのかもしれないけれど。でも彼はまだ一部でだけ名が知られているというのがせいぜいの、数多存在するB級賞金首のひとつにすぎないのだ。
クロロはもう会話は終わりとばかりに手元の本に視線を落とした。
わたしはクロロを視界に入れながら車窓からの景色を再び眺める体勢をとった。
抜けるような青色が窓の上部をおおって、空を突きあげるように峻厳な山が連なっている。山を白くしている雪が日に照らされてきらきらとまぶしく光っている。
パドキアはポストカードそのままに美しかった。
景色のなかに人工のものが増えて、もうそろそろアルヒープに着くというころになって、わたしは静かに切り出した。
「その本、気に入った?」
「ああ」
「なら、あげるわ」
クロロはようやく顔をあげた。
「いいのか?」
わたしはうなずいた。まだ読み終わってないみたいな理由で殺されてはたまらないし、べつに本なんかいらないし、はじめからそのつもりだった。
「出会いを大切にしなさいって、パパはよく言うの」
どこかの誰かのパパの話だ。
「その本、このあいだたまたま古書店でみつけたのよ。すごくめずらしいの。で、今こうやって本好きのあなたとたまたま列車に乗りあわせた。これって出会いよね」
まあ、わたしは自作自演と呼ぶけれど。
クロロは特に感銘を受けたようすもなく紙をもてあそんでいる。
「すごくめずらしいって?」
やはりわたしのいいかげんな運命論には欠片も関心がないらしい。
「非売品でそもそも数が少ないのよ。それに当然だけどマニアの蒐集の対象になってるから、なかなか出回ることはないの」
フェルラン社がクリスマスに社友やお得意様のみに配っている贈呈本がそれだった。毎年テキストを選び、これと定めた画家に挿絵を頼み、紙もレイアウトも装丁もとびきり凝ってつくりあげられる。クロロにあげた本は1917年――戦争のあった年のもので、多くが戦火によって失われている。入手難度は高く、質、価値ともに、本棚にいれるだけの魅力を十分にもった本であることは間違いない。ビブリオマニアなB級賞金首の盗賊団団長にはぴったりの一品だろう。
「詳しいんだね」
家業なのよ、とわたしはにっこりした。
「美術品や骨董品を扱ってるディーラーなの。本はまたちょっと価値の評価の仕方が違うんだけど、まあまあ詳しいからときどき掘り出し物を手に入れられることもあるの。あなたがこういう本を好きならきっとまたどこかで会えるわ」
列車が大きく減速するのを感じる。窓を横切る景色は街のもの。
(ここまでね。今日のところは、ここまで)
「ねえクロロ、あなたこれからどうするの?」
わたしはコートをはおりながら、ついでのように訊いた。
「どうするかな」
ほんとう、この慎重さには恐れ入る。クロロは結局、どこから来たのかもどこへ行くのかも言わなかった。テロの話をしたときそれにのってもこなかったし、空港の話をしたとき同調しもしなかった。用心深い。彼はわたしに行くところを知られたくないと考えているし、これ以上一緒にいるのは嫌だと思っている。自分も空港に行くと言えば、目的地を悟られかねないし、空港までのタクシーも同乗することになるからだ。
わたしも同じ気持ちなので、助け船を出してやった。
「アルヒープに住んでるの? わたしこれから食事でもとろうかと思うんだけど、いい店知らない?」
「悪いが、ここの住人じゃなくてね、知らないんだ。今日は仲間に会いに来ただけなんだよ」
「そう。適当に決めるしかなさそうね。あなたもどう?」
「誘いは嬉しいけど、遠慮させて。急ぐんだ」
「まあ。でもそうよね、この列車1時間も遅れてるもの」
ひとりで理由を推測して納得する演技。
「飛行船の時間は大丈夫か?」
「たぶんね」
列車は軋みながら駅にすべりこんだ。
「ここでお別れね。じゃ、さようなら」
(ああ、すごく清々する)
わたしは悠然と立ち上がり、走りだしたくなるのをおさえてコンパートメントを進み、通路に出ようとした。
手がドアの取っ手にかかり、それを引こうとした瞬間、
「さようなら、クローディア。小さな演出家さん」
からかいを含んだ声がわたしの動きをとめた。
(ブラフだ)
わたしは瞬時にそう判断をくだしたけれど、背中にどっと冷や汗が噴きだした。なぜクロロはわたしにはったりなどかけてくるのか? どこに疑われる要素があったというのか? そんなことより、この場を早くどうにかしなければ。
わたしはクロロに半身向けて、首をかしげた。
「あなたってやっぱり不思議な人。変わってるって言われたことない? なんでわたしが演出家なの?」
くすりと面白がっているふうに笑う。内心は面白がるどころではなかった。
「君のほうが変わってるよ」
「変な人」
わたしは口の端にかすかに笑みをのせたクロロを一瞥して、今度こそコンパートメントを脱出した。