駅から出るやいなやすぐにタクシーを拾い、街でいちばんの高級ホテルの名を告げた。
“凝”――不本意ながら、みたいなもの、と付け足さねばならないだろう――でどこかに何か念をつけられていないか調べ、車のミラーや目視で尾行がないかをよく確認しつつ、気を落ち着かせる。手のひらや額にじんわりと嫌な汗がにじんでいた。
先ほどは危なかった。なんとか『おかしいのはわたしじゃなくてあなた』論法を押し通して逃げることに成功したけれど、下手をすればあそこで死んでいたかもしれない。
クロロがわたしを逃がしたのは彼に確信がなかったからじゃないだろうか。だとするとやっぱりあれはブラフだったのだ。ということは、わたしがぼろを出したわけではないのか。
(どういうことなの?)
ではどこで彼は疑念を得たのか?
勘だろうか? でも彼は自分の直感に頼るタイプとは思えない。実際のところはわからないけれど、原作では彼はそのときもっている情報を分析して判断をくだすタイプに見えた。クロロ=ルシルフルはきわめて怜悧な人間だ。それは知っていたけれど、あらためてよくわかった。彼は自分の勘より思考を信頼している、というより思考で足りるのだ。
念のため鎌をかけてみたという説はどうだろうか。自分に接近してくる見ず知らずの人間に試して反応をうかがうだけで、たいした意味はなく、わたしが特別というわけでもない――。これもなさそう。慎重な彼ならあるいは、とも思うけれど、そういう無駄の多いことはしないだろう。用心なら彼がずっとしていたように、無視か余計なことをしゃべらないかで十分なのだ。
やはりクロロは疑念をもつに足る情報を得ていたと考えるほかない。
そんな情報の出所の心当たりはひとつだけだった。
ホテルに着くとわたしはラウンジで軽食をとった。到底何かを食べたい気分にはなれなかったけれど、何かを胃につめこんでおいたほうがいいと思って。ちゃんと落ち着かなければ、まともな考えなんて出てこない。でも落ち着きを取り戻せたとは言い難かった。
時間がたってもまだ動悸がすごかった。化粧室に入って鏡を見ると顔が真っ青だった。いつまでもトイレにこもって震えていても仕方ないから、そこをを出て昨日今日と予約を入れてチェックインしてあった部屋に入った。
(くそ――くそ――くそ!)
緊張と怒りで震える手で、置いておいた旅行用バッグを開いて携帯電話をとりだした。ポシェットに入っている、形だけのプリペイド式携帯電話のような代物じゃない。ロックを突破されれば一発でわたしの身元から人間関係までがまるわかりになってしまう、持ち歩くには危険すぎる携帯電話だ。
片づけておかねばならない用事が出来た。
数度の呼び出し音のあとに30代くらいの男の声が応じた。ベロテルという名の、今回の作戦で使った情報屋だ。
情報屋とはいってもさまざまあるけれど、こいつは普段月々定額でヨークシンの闇社会に関する情報を仕入れて流してくれるほか、頼めば調べ物もしてくれていた。情報網は広いらしく、特に人探しがうまい。なかなかに使い勝手のいい情報屋だった。
「リリーよ。あなた、わたしのターゲットに情報を売ったわね」
こいつしかありえなかった。
この作戦の全貌はわたし以外知るはずがなく、わたしがぺらぺら関係ない人間に喋るはずがない。残る可能性は、情報屋がわたしに売った情報のことをクロロに流した、それだけ。
「待てよ、何のことだ?」
「とぼけないでよ、もう調べは上がってるの。売った情報を本人に流すなんてどういうことなのよ」
「……何でそう思ったのか知らねえが、そいつは誤解だ」
「何がどう誤解だというの。あなたは売った情報をリークした。事実でしょ」
自分のやったことがわかっているのだろうか?
ほんとうは感嘆符をありったけつけながら怒鳴りたいけれど、そういうのは小物臭がするし、わたしのキャラではないので我慢する。
(ああ、これだから中小事業主はつらい)
十分な捜査能力をもつ人物なり組織なりをつくり、運用するノウハウも体力もないのだ。だからこんな愚劣なまぬけを雇うしかない。念能力者でプロハンターかつ旅団の情報担当たるシャルナークレベルの人材がほしいなどと贅沢は言わない。ただもう少しまともな探索用の情報担当がほしい。
「ふざけたまねをしてくれたわね。どう落とし前をつけるつもりなの」
「証拠でもあるのか?」
「そんなものが必要だと本気で思ってるの?」
「………………」
沈黙。
わたしはあてつけがましいため息をついた。
「とりあえず確認するわ。あなたがリークした内容は?」
「………………」
「直接訊きに行ってもいいんだけど?」
「……依頼があって、お前がよく使っている他人の名義のデータを売った、と」
「依頼人の情報は?」
「それも」
わたしは眩暈をおぼえた。最悪だ。
「……悪かった。でも、義理があったんだ」
「はあ?」
「あとでわかったんだが、オレの同胞らしいんだよ。あいつの情報をオレが売ったのはまずかったんだ」
(同胞?)
こいつも流星街出身だということか。だからこいつは闇社会の住人になったわけか。おおかた、こいつの広い情報網もその伝手だろう。
ようやく理解が及んで、わたしは自分の頭の悪さに苛立った。
流星街の人間は仲間意識が強い。彼らは仲間を売らないし、売ったことがばれれば報復が待っている。でもそうかといって顧客情報を売るようなことをするとは。
「知らないわよ。それはあなたの事情でしょ。どうしてあなたの調査不足のつけをわたしに払わせるのよ」
「……すまない」
「あなた何年この業界にいるのよ? 筋の通し方も知らないの?」
「………………」
また沈黙。
うんざりした。こいつはわたしの忍耐がどこまで可能か試してでもいるのだろうか? 女の子をいじめて喜ぶ性癖でもあるのかもしれないけれど、時と状況と相手はもっと差し障りのない範囲で選んでほしい。
「……もういいわ。許すのは今回限りよ。これは貸しだからね。次はない、わかってるわね」
安堵の色濃い返事を聞いて、わたしは電話を切った。
ほんとうは殺してやりたいところだ。わたしは命を賭けている。それをこんな馬鹿のせいで支払わされるなんて冗談じゃなかった。でもわたしにはそうすることができない。倫理の問題じゃなくて、わたし自身の実力の問題で。ここからヨークシンは離れすぎているし、ベロテルの正確な居場所もわからないし、殺し屋の知り合いも今どこにいるのかもわからないベアクロー以外ではいなかったから。貸しにして利用することにしたのは、わたしに力がないからそうせざるを得なかっただけのことだ。
当初の予定が大幅に狂った。
わたしは奇声を上げながら絨毯の上を転げ回りたい気分だったけれどがんばって抑えた。震える手でバッグが乱されていないかチェックし、携帯電話を所定の位置にしまう。内容物は一定のパターンで、そうとはわからないように配置している。こうしていれば荷物が勝手に探られてもそうと知ることができる。
口の中にブリザードキャンディーSを放りこんで転がした。
(大丈夫、大丈夫。……うん、ちっとも大丈夫な気がしてこないけど、荷物の整理がてら、ちょっと状況を整理してみよう。光明が見えるかもしれない)
クロロが情報屋から得た情報は、リリーと名乗る者が、クロロがよく使う他人の身分データの情報を買った、というもの。ここからわかることは、リリーがクロロを探っているということ。おそらくはクロロ=ルシルフルが幻影旅団の団長であるとつかんでいる、あるいは相当の疑いをもっているということ。でなければ調べる理由がない。となれば、リリーは幻影旅団に関心を持っているということ。ここまでは確定。
当然に導きだされる推測としては、リリーにクロロの身元はもう割れているということ。情報屋から買った情報がクロロがよく使う他人の身分だったということは、前提としてクロロの存在と何者かというところまで調べられていると考えるのが妥当。ならばクロロほど慎重じゃないほかのメンバーのほとんども割れている可能性が高いということ。そしてそこまで調査するからには調査が目的というわけではないということ。
朝の時点でクロロにはこれだけの情報があった。
そして乗るはずだった飛行船が、空港の爆破テロ騒ぎで欠航――。
飛行船のシステムは誰がいつどこへ行くのかが少しの操作で簡単にわかる。わたしなら、ばれているとわかった名義でした予約をどうするだろうか? 乗らないのは間違いない。予定を取り消すか、別の場所を経由しながら目的地に行くかするだろう。
クロロはどうしただろうか? 彼も罠を恐れただろうか? 親しくもないわたしにはさっぱりわからないけれど、彼は乗ろうとしたんだと思う。彼は念能力なしですら強いし、リリーが彼を消したいだけならそこまで綿密な調査は必要ないという事情を勘案すれば、それほど不思議じゃない。面倒を避けたいなら乗らないだろうし、気にしないか出方をうかがうかなら乗ろうとする……わたしなら絶対しないけれど彼はそうしたんだろう。
そこでテロ騒ぎだ。クロロを狙うなら犯行予告を出すのは愚の骨頂だ。アピールしたいなら問答無用で爆破してから犯行声明を出せばいい。もっというなら離陸した飛行船を爆破したほうが効率的だし効果的だ。しかし偶然の遭遇にしてはタイミングが良すぎる。犯行予告を出して混乱させたいなら早朝という時間帯は普通狙わない。別の目的・意図があると簡単に知れたことだろう。すぐに思い浮かぶのは陽動か足止めだ。彼はすぐに空港を離脱して列車に乗った。こちらの誘導に気づいていたのだろうか?
そしてクロロはわたしに会ったのだ。
身なりの良い子ども。パドキアのおばの家に滞在していて、帰国するところだという。稀覯本をもっていて、こましゃくれているくせに、人のことを詮索したり自分のことを必要以上にしゃべったりしない――今更気づいたけれど、これは怪しすぎる。
リリーとはもちろんわたしの偽名だ。後ろ暗いことをするときに本名は使わない。でもクロロはわたしのことをリリーだと疑っただろう。稀覯本をもってコンパートメントに入った時点で。幻影旅団が古書や稀覯本をしばしば狙っていることは、調べればわからないことじゃない。クローディアがリリーだと仮定すると、爆弾テロ騒ぎはリリーが起こしたもので、自分の行動を読んで仕掛けてきたのだと考えられる。だから目的を探るためにクロロは話しかけてきたのだ――本名を出して。
わたしが違和感をおぼえたのはこれだったというわけだ。クロロがあまりにも簡単に本名を名乗ったこと。べつに訊かれていないのだから彼は言わなくてもよかった。
でもそこまでしてもわたしは自分の正体を明かさなかった。何の取引も持ちかけなかったし、どういう種類の脅迫もしなかった。むしろ本をあげた。となれば、残された可能性はせいぜい2つだ。1、一連の事柄には何の関連性もない、2、自分を探っていた者が値踏みしに来た、この2つ。
前者なら問題はない。でも後者ならどうだろう。B級賞金首をただ値踏みするためにここまで手間をかけてこちらの存在を悟らせないように気を遣うというのは、ちょっとただごとではない。値踏みをする前から高く見積もっているも同然だ。実際わたしは旅団をそれだけ恐れているのだけれど、それは原作知識があるからであり、クロロはそうと知りようがない。だからクロロは判断に迷って、最後にあのブラフをかましてきたのだ。
『小さな演出家さん』
実に、まったくもって、嫌になるほどクロロという人間は傑物だ。
鎌かけとしては慣れていないのかやる気がないのか、見え透いていた。いや、あれはわたしをほんとうにからかっていたのかもしれない。それはおいても、彼は、値踏みが目的であるとするならば品定めをする人間が下っ端であるはずはないと気づいたのだ。わたしのこの姿にかかわらず。なら爆弾テロ騒ぎにもわたしが噛んでいると当たりをつけた。だから演出家などという言葉を使った。
クロロにはわたしが家業を明かしてしまったことで目的と意図は知れてしまったことだろう。つまり、美術品の窃盗と密売という素敵なお仕事を一緒にやりませんか、というお誘いだ。今日はまさに共犯者の下見会のつもりで接触した。
わたしは考えた。彼はどうするだろうか? 前向きに考えてくれるだろうか?
クロロは頭がきれ、際限なく融通がきくタイプで、こまごました情報をひとつにまとめて完成図をつくりあげるのがうまい。正面からまともにやりあえば、戦闘力はおろか知力ですらわたしが敵うような相手ではない。でもそれも、正面からまともにやりあえば、だ。わたしはこっそりと不意打ちでやる。
わたしはコートのなかから懐中時計をひっぱりだし、首からはずした。これには小型カメラが仕込まれている。いわゆるカモフラージュカメラだ。これには幻影旅団団長の顔という値千金の情報が収まっている。
警戒心の強いクロロを盗撮するのは骨が折れた。まずあえてはじめから見えるようにぶらさげておく。いきなり取りだすと注意をひくから。スカーフのリボンで目立たないようにした。見慣れて意識が向かなくなったところで、自然に時間を確認する流れで盗撮。会話中なら話に注意が向いている。タイミングだけが重要だった。
情報屋がクロロに情報を流した唯一と言っていい恩恵がその瞬間にあった。クロロはわたしの正体や目的を探るために、わたしの話に常よりも気をとられていただろう。そして、わたしが仮にリリーだとするとピンポイントで接触してきたことからしてもうすでに顔も割れている、と考えていた。だからクロロは隠しカメラの有無に注意を払わなかった。
しかし実際のところ、わたしも顔貌まではつかめていなかった。わたしは額の十字と美形という原作情報を手掛かりに本人を特定できたのだけれど、当然ながらクロロの顔など漫画でしか見たことがなかった。似顔絵レベルでしかない。とはいえ曲がりなりにも顔やひととなりについて知っているのはわたしだけだったので、ほかの誰かにやらすこともできず、しぶしぶ出張ったというわけだった。
わたしは懐中時計をケースに入れ、バッグ底の外付け隠しポケットに慎重にしまった。
わたしのことを知られてしまったのだから、もう彼らに共犯になってもらうしかない。というかどちらにせよはじめからそのつもりだった。ほんとうはもっと劇的な感じで、装飾を山ほどつけた演出であっと言わせて優位に立ちつつ協力関係を得るつもりだったけれど、仕方がない。彼らは相当扱いづらそうだけれど、利用できないほどじゃない。もし拒否されたら彼らの情報とともにこの写真を売ってやる。それで得られたはずの財物や利益の補填とする。まずはSNSのわたしのページに写真を掲載するところから。どうせ相手はわたしのことを調べるだろう。それで相手の連絡を待つ。
荷物の整理は終わり。状況の把握および整理も終わった。
策を弄しすぎたのがまずかったと反省。怪しさが増してしまった。日常の一部、次の日には忘れているくらいの、もっと何気ない出会いを演出すべきだった。
(どんまい、どんまい)
わたしはバッグをそのままそこにおいて部屋を出た。わたしが持ち歩くよりもホテルのコンシェルジュに家まで届けさせたほうがいいだろう。わたしはこのまま何食わぬ顔でホテルを出て空港へ向かえばいい。ヨークシンまで8日の旅、空の上でわたしはゆっくり眠れるだろう。幸いなことに、クリスマスまでには家に帰れる。今年こそナタリーは自室から出てきてくれるだろうか?
(何かプレゼントを買って帰ろうかしら)
そう思ったけれど、ナタリーが喜びそうなものなんか、ひとつも思いつかないのだった。