ゴーストワールド   作:まや子

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8. 隣人

「あれ、クローディアだよな、お隣の」

「あ、フェンリさん」

 店を出たところの道で、タイミングの悪いことに車に乗ったお隣さんに出会った。

「他人行儀な。イーランって呼べよ、クローディア。ひさしぶりだな、こっちに来てたのか。大きくなったなー」

 まぶしい笑み。

(おー。本日3人目のイケメン)

「……どうも」

 ませた子どもにとって、大人の言う、大きくなったな、はたいていあんまり嬉しくない。わたしは子どもじゃないんだからなおさらだ。それに今は親しげに話しかけてほしくなかった。

「家に帰るんだったら送るけど、どう、乗っていくか?」

 わたしは背後を気にしながら、どうしようかとすばやく考えた。断るのは不自然かもしれない。それにクロロやシャルナークのような危険人物とこれ以上一緒にいたくなかった。返事は引き延ばせない。

「いいの? ありがとう」

 乗りこむ前にちょっと振り返る。

「じゃ、さようなら、おふたりさん」

 

 この日は潮風が強かった。左手には青く輝く海。イーランの運転は昔から静かでうまい。全開にした窓から風がごうごうと入ってきて髪を乱した。イーランのちょっとゆるくウェーブのかかった長めの金髪がきらきら踊っている。

 助手席に深く腰掛けて、わたしは流れるカーラジオになんとはなしに耳を傾けていた。

 

「彼らは?」

 イーランはサングラスを外して、はっとするような印象的な目を向けてきた。アラキバ湾の海を凝縮したような、二粒のパライバトルマリン。

「ちょっと話をしたの。前に別のところで会ったことがあるってだけよ。なぜ?」

「君の友だちには見えなかったからさ」

「どうしてわかるの?」

 警戒しつつ尋ねる。

「年が離れてるってのもあるし、うーん、オレたちと同じ感じがしなかったんだよな」

「同じ感じ?」

「まだ肌が生っ白かっただろ? ここじゃ肌の色が濃いほど幅がきくから、みんなよく肌を焼く。白いのは来たばかりの証拠。君みたいにな、クローディア。それに、ここには真昼間から靴下をはいてるやつなんかいない。靴下をはかないと入れないような店に行くのは日が落ちて涼しくなってからだ。だから空港から直に来たか――手ぶらに近かったからそれはないだろう――、来たのが初めてでまだなじめてないか、どっちかだ。君に、というかグレイ家に、そんな、モーナンカスに観光で来た、みたいな友人はいないだろ? みんなそれなりにここでの振舞い方を知っている上流階級の人間ばかりだ」

 わたしは半分あきれて言った。

「あなた、明日から探偵になれそうね」

「当たり?」

「ええ、たぶんね」

 わたしが半ばあきれたのはなにも彼の推理能力に対してだけではない。端々から感じられる、階級の壁に対してもだ。前世の日本のような国で暮らしているとクラスシステムには疎くなるけれど、ヨーロッパと同じように、ここヨルビアンでもクラスシステムというのは歴然と存在している。同じ階級の人々が、出身校、職業、財産、住んでいるところなどの要素を基準に閉鎖された輪をつくって、非常に強い仲間意識を持ってつきあっていくのが普通なのだ。

「大学生かな? 夏休みで旅行に来たとか?」

 わたしは笑って首を振った。

「違うわ。最近ちょくちょく話題になってる賞金首の強盗団よ」

 いや、盗賊だったか。まあ似たようなものだろう。

 イーランは真意を探るように何度かわたしの表情をうかがった。

「はは、冗談だろ?」

「ほんとよ。幻影旅団っていうの」

 イーランは少し考えるようにあごをさすった。

「知らないな」

「うん。でも、美術業界じゃけっこう噂話もあって、まあまあ知られてるわ」

「じゃあ結構やるわけだ」

「かなりね」

 イーランはハンドルを切って車を大通りから住宅街に入れた。

「意外だな。若いし頭は良さそうだったのに、強盗団か。テロリストならまだわかるけど」

 わたしはその言い草に笑ってしまった。たしかに強盗団とはちょっと馬鹿っぽい。普通はすぐ足がついて捕まる。とくに彼らのように見境がないと。でも彼らは原作でも捕まらないばかりかほとんど敵なし状態だった。それは裏方を含めすべてが念能力者で、かつ弱いやつがいないこと、情報処理担当がかなり優秀で団員の個人特定を許さないことが主な理由だろう。

(ほんとうにほしいシャルナーク)

「で、なんでそんなやつらと知り合いなんだ?」

 訊かれたくないことを訊かれた。

「知り合いっていうか……このあいだパドキアの列車に偶然乗り合わせたのよ。それで話をしているうちに、なんとなく、そうじゃないかなっていう気がして。噂とよく似ていたものだから。思い切って訊いてみたら、よくわかったねって」

 わたしの嘘にイーランは目を剥いて眉をあげた。

「うわー、それほんとに? かなり危ない橋渡ったんじゃないのか? 下手したら殺されてたかもしれないだろ」

「そうね。馬鹿だったわ」

 

 いつの間にか周りに立ち並ぶ住宅はどれも大きくて立派なものになっていた。うちの国の大統領の別荘があるあたり。もう家は遠くない。

 わたしはため息をついた。

「彼らはわたしを利用しようとしてるみたい」

 気遣わしげな視線が向けられる。

「まずいことになってるのか? お父さんに知らせる?」

「まさか。必要ないわ。エミール会に行きたいだけみたいだから」

「それはそれは……」

「平気よ。どっちにしろ彼らの利害とうちの利害はぶつからないわ。というよりむしろ親和性があるわね。敵対するよりは手を組む可能性のほうが高い相手よ」

「それならいいんだけどね。それにしても、利害に親和性か……」

「何?」

「いやはや、10歳のボキャブラリーだとは思えないね。グレイ家始まって以来の神童との呼び名は飾りじゃないな。お父さんも誇りに思ってるだろうね」

 こういうことを言われるたびにいたたまれない気分になる。

「そんなことない、やめてよ。二十歳をすぎればただの人っていうでしょう」

 イーランはまるで冗談を聞いたみたいに笑った。

 頭の良さをほめられると気分がよかった。わたしは注目を避けて陰に隠れるタイプじゃない。むしろつねに人より一歩前に出ているタイプで、こういう性分は前世からのものだった。でもいつかはわたしへの賞賛が失望へと変わるだろうとわかっている場合はこの限りじゃない。ほんとうに残念だけれど、そうなってしまうことはわたしが一番よくわかっていた。あと数年のうちにわたしの発達の度合いにみんなの発達が追いついて、原作で語られた箇所が終わってしまったら。そうしたらわたしは、つまらない、ただの普通の人になってしまう。みんなはこうした事情を知らないから、わたしの否定を謙遜と受け取ってしまうのだ。

 

 イーランはあくびをした。そして手で髪をかきあげると、わたしに向かってにっこり微笑んだ。

「で、オレにはどうしてほしい?」

 彼の輝く笑みに思わず頬が熱くなった。わたしだって女だから美男子は嫌いじゃない。わたしが年頃だったら、ひょっとしたらこの人を好きになってたかもしれないなと思った。

 わたしはちょっと考えて答えた。

「まだジュリアンには知らせないでほしい。あと、危険なやつらだから注意してほしい。それから彼らの仲間にパクノダっていう女がいるんだけど、彼女に触られないようにも気をつけてほしい。本物のサイコメトラーだっていう話なの」

「なんだそれ?」

「触るだけで記憶や考えを読みとれるらしいわ。ちょっと信じられない話だけど、ほんとうらしいのよ。ときどきいる、超能力者の類なんでしょうね」

 こちらの世界には、そう知られる人たちが何人かいた。どこにも触れずに何かを動かすことができたり、知ることができないはずのことを知ることができたりする人たちが。警察に協力している人もいるし、テレビに出たりショーを開いたりして芸能活動を行っている人もいる。わたしは彼らを念能力者と呼ぶけれど、普通の人は超能力者だの霊媒師だの何だのと呼んでいるというだけのことだ。

「美人?」

「え? さあ、どうかしら……不細工ではないと思うけど。スタイル抜群だし」

「なら残念だな。下心もすぐに見抜かれるわけだ」

(そういう冗談を10歳の女児に言うセンスってどうなの?)

 どうにも反応が軽いのが気にかかったから釘をさしておくことにする。

「そういえば、金髪のほう、プロハンターだっていう話よ。ところがグループのリーダーは黒髪のほうらしいわ。一筋縄じゃいきそうにないわよね?」

 絶句の間があった。

「……ハンター?」

「嘆かわしいわよね」

 わたしは肯定した。

 イーランの眉がぎゅっと寄った。それから頭を振って、マジかよ、とうめいた。

「ハンターが一構成員の強盗団? どんな強盗団だよ。……おいおい、じゃあ黒髪のやつってもっとやばいんじゃないのか?」

 思っていたよりも衝撃は大きかったようだった。

 信じがたい気持ちもわかる。世界的に尊敬と信頼を集めるハンターが強盗や殺人を生業としていること、人並み外れた知性と力をもつはずのハンターが一介の構成員でしかない強盗団があること、その彼を従える者がただの青年であろうはずもないこと――。わたしにだって幻影旅団という後のA級首にプロハンターがいるなんて悪趣味な冗談にしか思えない。しかもサイコメトラーも仲間だなんて。まったくもって世も末だ。

「危険だって言ったでしょ」

 わたしの忠告もこれからはもっと真摯に受け止められることだろう。

 

 車はグレイ家の別荘の前に泊まった。

 お礼を言って降りるわたしを、イーランはちょっと待って、と引きとめた。

「その幻影旅団ってのにはあまり関わらないほうがいいんじゃないのか?」

 ありがたいけれど、そんな言葉を聞く気なんかない。

「この話、あなたにしかしてないの。誰かに言ったらすぐにわかるんだからね。他言無用よ」

 バタンとドアを閉めた。

 

 夜になって木立と塀の向こうのお屋敷の灯が落ちて、車のエンジンのかかる音とそれが遠ざかる音を明かりをつけていない部屋の窓からじっと見て聴いていた。これからどこかのクラブに遊びに行くのかな、と考えた。それとも、彼はどこでも引っぱりだこだから、誰かのパーティーに招かれているのかもしれない。

 

 イーラン=フェンリ。彼はモーナンカス社交界で一等輝く星だった。生まれはたいしたことない――彼について話すとき、みんなこういう言い方をした――けれど、ビジネスの才能に恵まれた彼はヨークシンの大学を中退して南アイジエン大陸に渡り、そこで不動産業を始め、やがて大成功をおさめた。

 彼に父親はもういない。事故だか病気だかでとっくの昔に他界したらしい。これは伝え聞く噂だけれど、彼の父親が亡くなった時点で、フェンリ家にはほとんど財産がなくなっていたらしい。なんでもギャンブルで大金を溶かしたんだとか。噂は噂だけれど、これはかなり信憑性のある噂だった。

 悪名高い母親はいた。美しさで有名だった彼女は夫の死後すぐに多くの男性と浮名を流しはじめ、次々と結婚と離婚をくりかえしていった。そして彼女はそのたびに財産を増やしていった。彼女がこういう振る舞いをしたものだから、彼女のあけすけで奔放な性生活とフェンリ家の財政的窮状は世間の耳目を強く引いた。ここにいたっては父親がギャンブル狂いだったという噂はいやがうえにも信憑性を増した。

 こうした家庭や世間の口さがない噂のなかで多感な時期を過ごすということが、聡明な少年にどういう影響を残したのかはわたしにはよくわからない。彼がハイスクール卒業後すぐにこの国を出て行ったのも、もうそろそろ30代後半にさしかかるという今になっても結婚もせずに女遊びを続けているのも、そのせいだとはっきり言えるわけじゃない。でも、彼がサイレント映画のスターを思わせる翳のあるハンサムなのは確かで、そこがまた女性に受けているのも間違いなかった。

 

 大学時代の彼を知るものは少なくない。彼は学業のかたわらモデルのアルバイトをしていたほどかっこよかったし、女性からも人気があって、ヨークシンの社交界に頻繁に出入りしていたから。モーナンカスでそのことを知らなかった人でも、母親ほどの年齢の女優と愛人関係にあると当時の新聞のゴシップ記者に抜かれたことで、彼がどこで何をしているかを知るようになった。

 そのあと彼は大学を自主退学してから南アイジエンのビーアリーカに渡った。そこで成功するまでのことはそれまでと対照的にほとんど知られていない。あの甘ったれたところのある小僧が、と驚いた人もいたらしいけれど、多くは納得している。わたしに対して証明してくれたように彼は聡明だし、強烈な魅力を持っているから。

 

 イーランは、今はここモーナンカスで悠々自適の生活を送りながら、グレイ家、というより父の財政顧問をしている。長い付き合いじゃないけれど、同年代であるせいか父の信頼も厚い。わたしも彼のことは好きだった。わたしが小さなときから、ここのサマーハウスに来るたびに彼はときどき遊び相手になってくれた。グレイ家のごたごたを知っているからか、わたしには同情的で優しかった。姿をほとんど見せなくなった母のナタリーの話をわたしに振ったことは一回だってなかったし、グレイ家に対する聞えよがしの陰口からはいつも遠ざけてくれた。

 わたしは感謝とともにいつしか親近感を感じるようになっていた。お互いの崩壊した家庭に対しての親近感。イーランも同じように感じていたことは薄々気づいていた。イーランも気づかれていたことに気づいた。そのときから、わたしたちは親しい友人みたいになった。

 愚痴も平気で言いあうようになったし、カフェで長い間おしゃべりもした。わたしは彼にあまり隠し事をしなくなっていった。彼もわたしの前で彼の鼻もちならない友人たちをこき下ろした。「くだらないやつらばっかりだ。みんなお上品ぶった馬鹿丸出しの面で、退屈でクソみたいな人生を送っている。お前はああはなるなよ、クローディア」。父のジュリアンの機嫌が悪い日には家に泊めてくれることもあった。そういう日の夜は居間で彼の持っているCDを聞きながら勝手な批評をしあったり飽きもせず噂話をしたりした。電気を消してごしょごしょおしゃべりをしているとふと返事が途切れることがあって、頭を上げて顔を覗きこむと、彼は眠りに落ちてしまっているのだった。

 

 わたしが心のなかで両親をお父様、お母様じゃなくてジュリアン、ナタリーと呼んでいることに最初に気づいたのも、それを反抗期よりもっとずっと根の深い理由からだと理解してくれたのも、イーランだった。彼はわかるよと言った。わたしはわかるはずないと思って、そのときはつい反発してしまった。わたしに例の聖書の一節を教えてくれたのはこのとき。

『こうして、自分の家族の者が敵となる』

 イーランはこれを自分の信条だと言った。彼がそう言ったので、それからはわたしの信条にもなった。

 

 モーナンカスには夏の間しか滞在しないから、イーランに会うのもほぼ一年ぶりだった。彼は記憶のなかの彼と変わったところはどこもなかった。相変わらずのハンサム。ジュリアンと同年代とは思えないくらい若々しくて、20代後半と言っても通じるだろうと思えた。彼はわたしが今までであった人間のなかでもっともハンサム、と言うことはできないかもしれないけれど、ほとんどそれに近かった。輝くような金髪、高く秀でた額、シミも傷もない肌、鼻の形も完璧。わたしが一等好きなのはブルーとグリーンが混ざった宝石のような目だった。その目が彼の顔を繊細に見せていた。感受性の強い少年の目。

(やっぱりそういう目はブルーでなくちゃ)

 それで彼の顔は完璧に見えるのだった。

 


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