海軍軍令部より発令された「南方反攻作戦」によりトラック諸島から出撃した艦娘艦隊のべ200隻とその支援艦隊は、ラバウル基地で補給を受けた後敵領海へと侵攻を開始した。
それは正に、海軍が投入出来る戦力の全てを賭けた乾坤一擲の作戦であった。
「第一次攻撃隊、発艦してください!」
「ここは譲れません」
「攻撃隊、発艦はじめっ!」
「第一次攻撃隊、発艦っ!」
「全航空隊、発艦始め!」
「翔鶴姉ぇ、やるよ!艦首風上、攻撃隊、発艦始め!」
弦を引き絞った空母達から放たれ、一本の鏃となって飛び出した攻撃隊が空を舞う。
「艦隊、この長門に続けーっ‼︎」
「私の出番ね。いいわ、やってあげる!」
「日向遅いよ?置いてくからね」
「まあ、そうなるな」
「伊勢、日向には…負けたく無いの!」
「敵艦隊発見!砲戦、用意して!」
「私たちの出番ネ! Follow me! 皆さん、ついて来て下さいネー!」
「気合!入れて!行きます!」
「勝手は!榛名が!許しません!」
「さぁ、砲撃戦、開始するわよ~!」
戦列を揃え、海原に浮かぶ鋼鉄の城たる戦艦達は波濤を超え進撃を開始しする。
この時作戦を察知した深海棲艦は、ポートモレスビー要塞を空にする勢いで全艦隊を決戦海域へと投入。
その数優に600隻を超え、実に太平洋戦線における半数以上もの深海棲艦が艦娘達を待ち構えていた。
こうして両軍合わせて800隻もの艦隊が一海域に集う、人類史上類を見ない一大艦隊決戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
作戦開始から二週間が経ち、前線の遥か後方でも又、一つの戦いが始まっていた。
「そうだ、弾薬類の荷下ろしは慎重に慎重にだ」
「トラックでの運送は揺れに気を付けろ!ここは陸地じゃ無いんだぞ」
「何だって⁉︎艦娘用の下着だと、そんなの後にしろ!今は弾薬と食料類が最優先だ」
「積み荷を降ろした船はさっさと場所を開けろ!他のがつっかえる」
「北門を開けろ、帰りのコンボイが通る」
「誰だ!ここに突撃一番を置いたのは‼︎一体誰が使うんだ‼︎」
「知らねえよ、どうせハゲのだろ!海に捨てちまえ!」
南方海域の海に浮かぶスキズブラズニルの浮き桟橋の彼方此方で、妖精さん達がその可愛らしい見た目とは裏腹に荒々しい怒声を上げながら到着したコンボイ(輸送船団)から次々と積み荷を降ろし、桟橋から続く浮橋をトラックでスキズブラズニルの資材保管庫へと運ばれていく。
現在スキズブラズニルは洋上ドック艦としての機能を拡充し、その姿は大きく変わっていた。
未だ工事の途中とは言え四方を囲むようにコンクリート製の浮き防波堤が並び、その内側にも又同じくコンクリート製の半沈状態の防波堤がありこれに防波堤の内側は波の立たない「アヒルの池」となっている。
またスキズブラズニルを中心に放射線状に並んだ浮き桟橋により迅速な物資の搬入を可能とし、周辺海域の安全は超兵器達により保たれていた。
前線と後方との中間点にて一大物資集積地となったスキズブラズニルは一言で言って、人工港マリベールの様なものであった。
執務室の窓から作業の様子を見下ろしていた焙煎は、妖精さん達の働きに満足すると同時に、後で何かを付け届けさせるかと思いながら仕事に戻っていく。
「焙煎中佐、ここの所余り良くない噂を聞くんですが…」
「噂は噂だろ?良くあることさ」
会計監査官の職権を利用して、焙煎の仕事を手伝っている鏡音は仕事の最中ふとそう漏らしたが、焙煎としては関係ないとばかりに仕事を再開する。
焙煎の素っ気ない態度に、折角のお喋りのチャンスがと頬を膨らませる鏡音の様子を、横目で盗み見ていた焙煎は心の中で癒されていた。
(やっぱり、普通の娘がいいよなぁ〜)
とある事件で巨乳恐怖症を患い、個性豊か過ぎる超兵器達に常日頃から翻弄されている焙煎にとって、彼女のこうした普通の態度は一種のオアシスであるのだ。
しかしその時間も束の間、部屋に入ってきた乱入者によって焙煎の癒しの空間は突如として終わってしまう。
「艦長、暇だからコーヒーを淹れてきたぞ」
部屋に入るなりヴィルベルヴィントは開口一番そう言った。
「ヴィルベルヴィント、丁度いい仕事が出来たぞ。今すぐそのコーヒーを海に捨てるんだ」
しかし焙煎の話など知った事では無いと、無理やり目の前に熱い湯気を立てるコーヒーカップが置かれ。
助けを求めに隣を見れば、コーヒーを受け取った鏡音が「ありがとう」とヴィルベルヴィントに感謝を告げている。
焙煎は観念したようにそっと手でコーヒーカップを机の脇に寄せるが、いつの間にか背後に回っていたヴィルベルヴィントによって頭を胸に乗せられていた。
「お前それ好きだな」
「知らないのか?こう言うのをたわわチャレンジと言うらしいぞ」
一体どこからそんなアホな事を覚えてくるんだと言うと、ヴィルベルヴィントは誇らしげに胸を張り(その拍子に頭がフワリと浮き、落ちる時また柔らかいクッションに後頭部の半分位が包まれ)青葉新聞だとのたまった。
鏡音も「あ、私もそれ知ってます」と器用にカップのソーサーを胸に乗せてみせた。
鏡音が出来たのだから、うちの連中は大半が出来るんだろうなと益もない事を考える反面。
それは一部の女性団体(特に某軽空母達)にケンカを売っているのではと?と心配に思う焙煎であったが、件の青葉新聞の大半が炎上商法紛いのゴシップ記事で占められているからして、狙ってやっているのかもしれない。
「で、何をしに来た?ヴィルベルヴィント」
「暇だ、何か仕事を寄越せ」
何を勝手な事を、と思うかも知れないがこれでもヴィルベルヴィントは良くやってくれている方なのだ。
周辺航路の安全確保を任された超兵器達は、アルウスとデュアルクレイターが無人機をオートで大量運用する事で仕事が無くなり。
然りとて前線に勝手に出るわけにもいかず、暇を持て余しているのだ。
「休むのも仕事のうちだぞ」
「退屈は精神を腐らせる毒だ」
こんなやり取りをもう何度となく繰り返しているが、流石の焙煎も彼女達が可哀想になって来ていた。
戦う事が存在意義の超兵器をして、直ぐ目の前に戦場があるとと言うのに出れないと言うのは、ストレスが溜まる一方であろうと。
出来ればなんとかしてやりたいが…それは上次第だと言う事を焙煎は弁えていた。
そして焙煎は話を逸らすべく「そう言えば」と言い。
「さっきの噂なんだが」と鏡音の方を見た。
鏡音は胸に乗せた皿の上にカップを乗せ、更にペンを置いて何処まで乗せられるかに挑戦中であった。
「よっと。あ、焙煎中佐噂って司令部が後退したがっている事についてですか?」
色々と積み重ねて、顎の下まできたのをバランスをうまく取りながら、鏡音は噂について話し始めた。
「最近、抵抗が激しくて占領地や海域の維持が難しくなっているんですよ」
「だから、うんしょ。一旦引いて体勢を立て直したいと言う話なんですよ」
喋っている間にも、何処からかもってきた辞書を積み重ねて、彼女の顔の高さまできたが、焙煎は話の内容よりもよく話す時の振動で崩れないなと其方の方にばかり注意が向いていた。
「戦線整理なら噂に成らずとも上から直ぐにでも命令が出るんじゃないか?一体何が噂に成ると言うんだ」
ヴィルベルヴィントは鏡音の話に訝しんだが、鏡音は器用に積んだ物が崩れないようソーサーを胸から下ろしながら続きを話した。
「噂になっているのはここからなんですよ。後退する時相手に悟られない様偽の攻勢を仕掛けるんですけど」
「それがどうも捨て石同然で、その部隊を囮にするんじゃ無いかって」
奇妙な逆三角形のオブジェと化した物体を机の上に置き、鏡音は「ふーっ」と息を吐いて額の汗を拭う真似をした。
「捨て石か、そんな噂が立てば士気に関わるだろうに」
「それだけ海軍は追い詰められているんですよ。この作戦だって本土や各地に大きな負担をかけているんです」
「そこまで戦局が逼迫しているのなら、我々の出番も近いかも知れないな艦長」
「ん?ああ、そうだな」
焙煎はまるで話を聞いていなかったので、適当に相槌を打ったがそれで騙されるヴィルベルヴィントては無かった。
「艦長、聞いていなかったな。しかも私が折角淹れたコーヒーを一口も飲んでいないじゃ無いか」
話を聞いていなかった事よりも自分が作ったものを口にしなかった事に腹を立てたヴィルベルヴィントは、罰として焙煎が飲まなかったコーヒーを手にとって焙煎の頭の上に乗せた。
「な⁉︎おい、ヴィルベルヴィント⁉︎」
「暴れると顔にかかるぞ」
そう言いながらヴィルベルヴィントは器用に力を抜いて、焙煎の後頭部に当てていた胸を外し自分だけ災難を逃れた。
焙煎は何とか手を使って降ろそうとするが、絶妙な角度で乗せられたカップは体を動かそうとすると途端にグラグラと揺れ始める。
「ちょ、ちょっとまってくれ!これを下ろしてくれ⁉︎」
「手を使わずに飲めたら考えてやっても良い」
首の力だけで何とかコーヒーカップを支える焙煎だが、段々と首が疲れてきて筋肉が震え始めた。
「か、鏡音⁉︎助けてくれ」
「あ、すみません焙煎中佐。今新しいたわわに挑戦してるんで静かにして下さい」
頼みの綱の鏡音は、今度は焙煎の頭に物を載せ始めた。
こうして孤立無縁の焙煎は30分後に、今後出されたコーヒーはちゃんと飲む事を条件に解放され。
暫くヴィルベルヴィントのコーヒー攻勢に晒され胃と舌が荒れるのであった。
トラック諸島司令部にて、古崎大将は苦虫を噛み潰したかの様な表情を浮かべていた。
それと言うのも、今彼の手に矢澤参謀より渡された有る作戦の承認書が関係していた。
「もう一度聞くぞ。本当にやれると思うのか?」
「噂が本当なら可能ですが、何を躊躇うことがあるのです」
相変わらず人の感情を逆撫でする参謀の態度に、古崎大将は益々顔をしかめた。
その顔には、そもそもの原因がお前に有るんだぞと書いてあったが、参謀はそれを涼しい顔で素知らぬふりをした。
逆に矢澤参謀は古崎大将を諭し始めた。
「上手くすれば膠着した戦線を打破できます。そうでなくとも、連中ならば此方の懐を傷めることなく敵を削ってくれるでしょう」
「だが軍令部はどうする?」
「元々失敗前提の作戦です。名誉の戦死か、成功してもそれを理由に何処かへ栄転させましょう」
矢澤参謀としては出来れば敵を削って且つ戦死して貰いたかったし、その公算が高い場所を敢えて選んだ。
それを古崎大将に伝えてはいないが、結局最終的には作戦成功の功績が古崎大将にあれば全てに満足する。
そう言う男だと、矢澤参謀は長い付き合いから見抜いていた。
古崎大将は暫く迷い、結局は作戦承認書にサインをした。
こうして、超兵器達の前線投入が決定されたのであった。
その日、いつになく余裕の無い様子の大石大佐が焙煎の元を尋ねてきた。
大石大佐を執務室に通し、鏡音がコーヒーを淹れてくる為部屋を出るなり、開口一番こう言った。
「まずい事になったぞ焙煎」
大石大佐の只ならぬ様子に焙煎も身を引き締めて話を聞く姿勢を取る。
「今しがた矢澤参謀からお前達に出撃命令が下った」
「今度の作戦でお前達は全艦隊の先鋒となる。つまりは捨て石だ」
焙煎はいつか自分達も出撃するだろうと思っていたが、捨て石を命じられるとは思っても見なかった。
「ショックだろうが聞いてくれ。今朝いきなり矢澤参謀が来て俺の所からお前を外すと言ってきた」
「当然承知出来ないと言ったが司令部の命令だと言って無理やり指揮権を奪っていったんだ」
焙煎は大石大佐と矢澤参謀とのやり取りを想像し、その心中を察した。
無理やり部下を奪われた挙句、全軍の捨て駒にされるなどこれで2度目だからだ。
それと同時に奇妙な感情も湧いてきた。
自分は一度ならずとも2度も海軍から捨てられたと言う事だ。
怒りよりも寧ろ冷静さの方が優った。
「大石大佐はそれを伝えにわざわざ…」
「いや、それだけじゃ無いぞ。前の時は何もしてやれなかったからな、今ある資材を全部くれてやる」
「⁉︎大石大佐」
突然の申し入れに焙煎は大いに驚いた。
前線の補給を賄っていたスキズブラズニルの倉庫には、まだ大量の資材が保管されている。
当初焙煎はそれを返せと言う為に大石大佐が来たのだとばかり思っていたが、本当はその逆であったのだからだ。
「お前が何かと物入りだと言うのは知っているぞ。その為に軍令部に取り入ったのにもな」
「ご存知でしたか…」
「ま、正直言うと今のウチにはお前さんとこの資材を運ぶだけの船が用意出来ないんだ」
大石大佐はそう言った快活に笑うが、本当は資材の引き上げも矢澤参謀から命じられていた。
しかし彼は司令部への心理的物質的面から命令を無理だと撥ね付けた。
事実、この時全軍を交代させる為に輸送船団の大多数が奪われ、手元の船だけで護衛も無く命令を遂行するのは不可能であったからだ。
「書類上の事は何とかするから、後はお前の好きなように使ってくれ」
「何から何まで、お世話になりっぱなしで。感謝します、大石大佐」
「礼はいらんよ、焙煎。半ば俺の私情も混じっているからな、今迄俺達を散々振り回してきたんだ、そのツケを今度は連中が払うだけさ」
深く頭を下げる焙煎に、そう嘯く大石大佐だが、彼も覚悟の上での事であった。
それを分かっているからこそ、焙煎は心の奥底から感謝するのであった。
大石大佐を見送った後、焙煎は少し考えてから部屋にヴィルベルヴィントを呼んだ。
その時鏡音には席を外して貰う事も伝え、部屋には焙煎とヴィルベルヴィントの二人っきりとなった。
「艦長から用があるとは珍しいな?」
「ヴィルベルヴィント、良く聞いてくれ。そして考えてお前の意見を聞かせて欲しい」
この男にしてはめずらしく真剣な表情をするなと、若干失礼な事を思うヴィルベルヴィントであったが、取り敢えず話の続きを聞く事にした。
「俺は海軍を抜けるぞ」
「そうか、で話はそれだけか?」
焙煎はポカーンとした表情を浮かべたが、ヴィルベルヴィントとしてはそんな事で自分を呼び出したのかと逆に呆れていた。
「いやいやいやいや、まてまてまてまて。お前、海軍を抜けるぞ‼︎つまりは脱走兵になるんだぞ⁉︎」
思わず廊下まで聞こえるような大声を出してしまう焙煎に対し、ヴィルベルヴィントは「なにを今更」といった態度でこう言った。
「それがどうした?元々私達は愚連隊の様なものだ。好きな様に生き好きな様ににする、今迄となんら変わりは無いじゃないか」
「それはそうだが」と言葉に詰まる焙煎だが、一応士官教育を受けた手前凡人である彼には相当勇気のいる事であった。
しかし、ヴィルベルヴィントはそんな焙煎にゆっくりと近付きながら何を迷うことがあるかと告げる。
「前も言ったじゃないか。私達は所詮異邦人だ、この世界に最初から居場所などありはしない」
「お前はお前の目的の為だけに動けばいい。これからも誰にもそれを邪魔させないし、私がそうさせない」
焙煎の目の前に立ち、机に手をついて身を乗り出したヴィルベルヴィントは蠱惑的な声でそう言った。
焙煎にはそれが悪魔の囁きに聞こえた。
極めて魅力的で蕩ける様に甘く、人を誘い込む蜜の味。
しかし、そこに堕ちれば最早後戻りは出来ない事を意味していた。
「ヴィルベルヴィント…お前はそれで良いのか?」
お互いほんの鼻先まで顔が近づき、触ろうと思えば触れるその距離で焙煎は言った。
「私はお前の艦娘で艦で道具であればいい。それ以上は何も望まんよ」
その時ヴィルベルヴィントが浮かべた笑みを、焙煎は終生に渡って忘れる事はなかった。
蕩けて濁った瞳に、犬歯がキラリと光り、まるで獲物が罠にかかったのを喜ぶかの様な獣じみた、獰猛でしかし美しいそれは見惚れるほどの笑みであった。