35話
南方海域の荒れ狂う海の中で、ヴィルベルヴィントは一人佇んでいた。
服はボロボロになっており、よく見れば白い肌の幾つかの箇所は黒ずんで硬い甲羅の様に盛り上がり、それらはまるで鉄の様な鈍い光を放っている。
艤装も肌と同じく幾つかの箇所が変質し、鋭い爪と牙が顔を覗かせ或いはそれは彼女が戦っていた相手と同じになろうとしている様にも見えた。
周囲の敵を殲滅し終え、本来ならば次の獲物を求めて駆け狂う筈が、どう言う訳か彼女はそうしようとしない。
既に半分ヒトの形から崩れている彼女だが、僅かに残った正気がこの場に繋ぎ止めているのだ。
彼女は意図的に、自らの胸の内を燃え焦がす破壊衝動を抑えようとした。
ゆっくりとヴィルベルヴィントは深呼吸し呼吸を整えていく。
外海の冷たい空気を肺の中いっぱいに取り込み、体の内側から冷やしていった。
超兵器の心臓部、文字通りヒトと同じ場所にあるそれは荒れ狂う波と同じ様に早鐘の様な鼓動が鳴っている。
それを、ヴィルベルヴィントは自分の手で胸を鷲掴みにし、無理やり鼓動を抑えようとする。
伸びきった爪は分厚い装甲服に食い込み、肌に爪痕を立て血を流した。
流れる血は、コールタールの様に黒くドロリとして身体を流れる血流が半ば兵器として機械のそれに移り変わっている事を示している。
超兵器機関とは言わば超兵器の本能そのもの、その本能に逆らってまでヴィルベルヴィントは抑え込もうとしているのだ。
荒れ狂う鼓動は、しかして万力の様な強さで締め付けるヴィルベルヴィントの手によって段々と収まっていく。
「すー、はー、すー、はー」
呼吸をする度、ヴィルベルヴィントの身体を包んでいた青白い光、超兵器機関から漏れ出すそれが収まり、光は弱々しくなる。
そうして、何とか自らの本能を抑え込むことに成功した彼女の額には、脂汗が浮んでいた。
(危なかった…)
ヴィルベルヴィントは己が獣の本能に飲まれそうになっていた事に、戦慄する。
本来速度が必要なはずの戦場で、それを成すために自分達に課せられた枷を外したまでは良かった。
しかし複数の超兵器が同時にその力を解放する事によって受ける影響を、彼女は軽視していたのだ。
(私でさえこうなのだから、他は…)
ヴィルベルヴィントは最初期の超兵器と言う事もあり、枷を解いても超兵器機関本体の力は(他と比べて)弱い。
それ故何とか正気を取り戻して、暴走を抑え込む事に成功したのだ。
もしあのまま力に身を任せれば、やがて正気もヒトとしての形も失い、七つの海を暴れまわる魔狼が誕生した事だろう。
そうなる一方手前で、彼女をヒトとしての形に引き止めることが出来たのは、矢張りあの男がいたからだ。
(艦長…そうだ私がいなければあの人はどうなる…)
元の世界とこの世界とで自分達を繋ぎ止める楔、凡庸でありながらも彼以外には何者も務められない役目。
いつだったか彼は、ヴィルベルヴィントに対し「頼りにしている」と言った。
戦うことしか知らなかった、いや出来なかった彼女達に、その言葉がどれ程嬉しいか、また彼は意図知れず多くの物を与えたのだ。
ヒトとしての血肉、感情、出会い、本来敵同士だった者たちとの共同生活。
それらは元の世界では考えられない事であり、全てが真新しくまた新鮮であった。
いつしかそれらは当たり前となり、破壊し進むしか無かった彼女に、初めて何かを守りたいとの思いが生まれたのだ。
芽生え始めたそれは、超兵器機関からではない己が胸の内を焦がす情動であり、それが一体どう言うものでまた何という名前なのかまだ彼女は知らない。
しかし、自分に芽生えた兵器としての本能からではない新しい彼女だけの感情は、確かにしかししっかりと根を張り始めていた。
長く伸びた牙によって、切られた唇から流れる液体をヴィルベルヴィントは服の袖で拭った。
乱暴に拭った事で液体は袖ばかりか、他の唇にもついてしまい、乱暴に引かれた朱色はしかして生命の証である。
彼女の身体を流れる血は既に半分は兵器として機械のそれに変わり果てている、しかしもう半分には脆弱で不安定でしかしながら温かみを感じる赤い血が流れていた。