暁美ほむらが彼女を見た時に抱いたのは、なんて愚かそうな女だろうという素直な感想だった。
この世界は魔女が作った結界である。暁美ほむらは既に気づいていた。佐倉杏子と共に調査を進めた結果からだ。
記憶は大半が戻り、彼女は既に元の彼女へと戻っている。だから、なのだろうか。佐倉杏子を返した暁美ほむらが一人で足を運んでいると、目の前に女らしき物が姿を見せて、鼻先に指を突きつけていた。
「こんにちは」
あざける様な笑顔を共にしながら、女が頭を下げる。ただ、鼻先に伸ばされた指は変わらない。
唐突に現れた何者かを暁美ほむらは注意深く観察した。黒のショートヘアに悪くも無い顔立ちで、まったくどうでも良い外見をしている。ただし、宇宙を散りばめた様なドレスだけが、異質であった。
「挨拶ですよ。挨拶。今回はこちらから始めました、次はあなたがしなければなりませんよ」
不満げに告げると、彼女の目が光った。
突然出現した女の正体を、暁美ほむらはまだ見極める事が出来ていない。ただ、見知らぬ相手だ。
「黙りはいけません。しかし、そうですね。戸惑っているのですか?」
奇妙な女が笑いだし、暁美ほむらの肩を掴む。反射的に弾き返されて、女は大げさに肩を竦めた。
「戸惑うのも無理はありませんか。では、私から」暁美ほむらの反応を、女は無視した。「私は詐衿こくか。気軽にこくか、か、さえりちゃん、とでも呼んでくださいね」
名乗りを口にすると、こくかの目が光る。
暁美ほむらは何も言わなかった。この、まるで見覚えの無い女は、自分の事をまるで既知の様に扱っている。この結界の中では、完全な未知の存在だ。
身構えて、盾の中へ腕を入れる。その中には銃が有り、すぐさま撃つ事が出来る様に安全装置も解除していた。
「それよりも暁美さん。どうしてここが魔女の結界だと?」
敵意の一つも表さないまま、こくかは首を傾けた。
尋ねられた事に暁美ほむらは眉を顰めた。しかし、その瞳に写る自分の顔を眺めて、少ない言葉で自らの考えを口にする。
興味深げに顔を乗り出して話を聞くと、こくかが手を叩いた。
「成る程。確かにそうですね、君は覚えているのでした。まどかとの事も、自分の事も。おっと」わざとらしく咳払いをする。「まどかを忘れるなんて、暁美ほむらには無理ですか。気持ちは分かりますよ」
ゆっくりと近づき、暁美ほむらの髪を撫でる。「手入れを怠っていない様ですね」と呟きながら背中へ回り、その肩や腕を軽くさすった。
暁美ほむらは腕を振り、悪寒のままに飛び上がった。距離を取った瞬間に銃を向けて、引き金に指をかける。
「楽しいでしょう。まどかとの日々は、失ったあの日は、楽しかった時間を取り戻せて、ふふ、私まで幸せになってしまいそう」
「何を」
「まどかが、あんなに楽しそうにしている。辛そうな顔も、涙も見たくない。心の痛みに耐える所も、勇気を振り絞って頑張る所だって、それは確かにカッコ良くて、私やあなたの大好きな憧れの友達の顔だったけど。でも、私達が見たかった物はそれじゃない」
暁美ほむらは何も言わなかった。ただ、こくかは宝物でも扱う様にまどかの名を呼び、とろけた表情を晒していて、銃口を歯牙にもかけない。
「随分と、詳しいのね」
「私が作りましたから」
思わず目を見開いて、暁美ほむらの驚愕が表に出てしまう。それを見つけると、こくかは口元を押さえた。
「あなたが?」
「ええ、私が、作りました。この結界を作ったのが誰か、答えを探していたんでしょう。私がその答えです」
彼女は、私が、を強調して言った。
引き金に力を入れて、暁美ほむらは睨んだ。殺意を混ぜて、黙って敵意を溢れさせた。
こくかは反応を示さない。自分を指さしたまま、何事も問題無いと笑っている。
「あなたは誰?」沈黙を破り、暁美ほむらが問いかける。
「誰と来ましたか!」こくかが手を叩く。「つまり、私に見覚えが無い?」
「今まで生きていた中で、一度も見た覚えの無い人間ね」
「正解です。確かにあなたと私は一度も会った事がない」
「ふざけないで」
当たり前の様に言ってのけた所に、暁美ほむらは威嚇射撃を行った。足下に一発だ。こくかはまるで動じなかった。
「ふざけてなどいません。本当の事を本当の様に言っているだけです。信じられませんか?」
何も答えない暁美ほむらに対して、こくかはさも残念そうに肩を落とす。
「なら、証拠をお見せしなくてはいけないですね」
彼女のその身から使い魔と思わしき物が現れた。
それはただの黒い霧の様だったが、同時に何か形を持っている様でもある。少なくとも、人でも魔法少女でも無い。
敵の出現に、暁美ほむらは銃を持ち直した。だが、その時にはもう使い魔は消えてなくなっていた。
銃を下ろし、暁美ほむらの目はこくかへ向かう。人の形をしていたが、もう人では無い。
「確かに、お前がこの結界を作った魔女の様ね」
「分かってくれましたか。いや、これで納得出来ないならあなたは余程ですがね」
「……どうして?」
「どうして?」
両手を挙げながらそう言うと、こくかは壁へ背を寄せた。
既に暁美ほむらは銃を構えていた。話が通じたとしても、それは魔女だったからだ。
「一体……何のつもり?」
「魔女が結界を作るのに何か問題でも?」
「私達をこんな場所に閉じ込めて、何が楽しいの!?」
「嬉しいに決まっているじゃないですか!」
暁美ほむらが反論しようと口を開けた所に、彼女は背を向けた。そして、この偽りの見滝原に向かって腕を広げて、首だけで振り返る。
「まどかが毎日笑顔で、あんなに幸せそうに、明るく元気に生きているのに!」
吐血する寸前と言った体で、こくかが叫んだ。悲痛な声が響き、どうにも気まずい空気が周囲へとまき散らされた。
暁美ほむらは、言葉を聞く事を拒絶した。しかし、こくかは彼女を逃がさなかった。
「これ以上、嬉しい事が他に有りますか? まどかの幸せ以外に、ね?」
顔を近づけて、こくかは暁美ほむらを掴んでいた。
そのまま引き金を引くだけで、彼女は死ぬだろう。だが、暁美ほむらは撃てずにいた。
「おや、撃ちますか? 私を撃てば、まどかが消えてしまうかもしれないのに? 彼女の幸せな日常を壊してしまうかもしれないのに? あんなに頑張って、辛い思いをして、今はこんなに笑えているあの子から、人生を取り上げる権利が有るの?」
「っ……」
「私を撃つより先に、やるべき事が沢山有るでしょう? あなたにとって、魔法少女の宿命とまどか、どっちが大事なのか」
そう言うと、こくかは両手で銃を包み込んだ。
暁美ほむらは銃を下ろして、静かに睨みつける。調子を崩されている自覚は有った。虚ろな癖に調子だけは良い女の言葉に、頷いてしまう点を感じてしまった。
迷った時点で、今はもうこの魔女を始末する事は出来ないだろう。
「賢明な判断を感謝します」
「……あなたを殺さない訳ではないわ」
「そうでしょうね。でも、魔法少女の宿命なんて、そんなくだらなくて無意味な拘りよりも、まどかが笑顔でいてくれる。その方がずっと意味が有りますから」
まどか、まどかと何度も言っているが、何故まどかを知っているのか。暁美ほむらは疑問を抱いて、その事を尋ねていた。
冷静に振る舞おうと努める中での質問だ。こくかは笑顔を崩さないまま、指を何本か立てた。
「一つ、私がまどかを覚えていないなんてとんでもない。二つ、まどかが世界で唯一大切だから覚えていられる。三つ、つまりまどかが大切な人だから」
当たり前の様に告げられた答えに暁美ほむらは不審を示した。
「……私以外の人間が覚えている筈は無いわ」
「そうでしょうね。しかし、あなた以外に居るからって、それが不思議ですか? あなたが知っているのはね、僅か一ヶ月間だけのまどかでしょう」
「それ以外の時期に、まどかと知り合った魔法少女が居ても不思議ではない、と?」
こくかは笑うだけだった。
これほど人間の様な魔女が居るのだろうか。随所に人でなしの気配が有っても、人間としての雰囲気が盛り込まれている。
周囲に有った建物が幾つか消えて失せ、代わりに魔女の結界らしい建造物に置き変わる。周囲には柱の様な物が浮かび上がっていた。
「ゆっくりと決めなさい。出来たらまどかと相談して、ね? これはあなたの問題じゃないんだから」
暁美ほむらが気づいた時には、手を握られていた。手の甲を撫でながらこくかが告げた言葉には、それまでよりも穏やかな物が有る。
拒絶するよりも、こくかが手を離す方が早かった。一瞬にして数歩分の距離を取った所で、彼女は身軽に頭を下げていた。
「では、また明日から」
「……それは、どういう意味?」
「そのままの意味ですよ」
あくまでこくかは楽しげに笑っている。暁美ほむらは訝しんだ。
どういう事かと追求する為に口を開き、暁美ほむらはそのまま声を止めた。近づいてくる足音が聞こえたからだ。
その走る音に愛らしさを乗せて、その心はすこぶる輝いて、その姿は世界中から照らされていた。
暁美ほむらは、自分とこくかが全く同じ反応をした事に気がついた。音が聞こえた方向へ振り返り、この世の喜びが全て詰め込まれた様な気持ちで、しかし、顔には出ない様に手を小さく握ったのだ。
走り近づいてくるにつれて、こくかはそれまでより暗く、それでいて緩やかに笑う。
近づいてきた彼女は、こくかと暁美ほむらの前で止まった。走っていた為か、少しだけ息が上がっていた。
「こくかちゃん! ほむらちゃんも!」
「まどかっ! もう、待っていてって言ったのに」
「えへへ、待ちきれなくて」
こくかが鹿目まどかの背後へ回り、息切れを起こした背中を撫で始めた。
「走ったんだね。お水は?」
「飲みたいかも」
「ですか。暁美さん、持ってます?」
「え、ええ」
暁美ほむらは鞄の中から水筒を取り出して、まどかへと手渡した。頑丈でデザインも可愛い、お気に入りの品だ。
冷えたお茶を飲むと、鹿目まどかは落ち着いて息を吐いた。お礼を告げながら水筒を返すと、改めてこくかの肩を抱き寄せて、顔をすり寄せた。
どこか恥ずかしそうに、こくかがその場で俯いた。
「ほむらちゃん。この子は詐衿こくか、こくかちゃんだよ。この間会ったんだ」
「え、ええ。聞いたわ」
「へえー。もう挨拶も済ませちゃったんだ。なんだか残念。私が紹介しようと思ってたんだけどなあ」
「大丈夫よ、名前くらいしか知らないから」
そうなんだ、と口にした所で、鹿目まどかは首を傾げた。
「あ、あれ、ほむらちゃん。髪解いたの? 眼鏡も取ったみたいだし」
「え、ええ。そうよ、ちょっとだけ、変えてみようと思って……」
「そっか。うん、すっごく似合ってる! カッコいいよ!」
「そ、そう? あの、ありがとう」
賞賛に目を逸らして、暁美ほむらは顔を見られない様にした。逸らした先にはこくかが立っていて、何やら面白そうに首を振っていた。
「今日は何だか、ほむらちゃんのイメージが違うかも」
「そう、かしら?」
「前に眼鏡を外して貰った時は、可愛いなって思ってたんだけどね、今は、クールな感じ?」
鹿目まどかに対して、暁美ほむらは顔を決して合わせなかった。ただ、握り締められた拳が鹿目まどかには分からない程度に小さく震えていて、口は堅く閉じられている。
その様子を無遠慮に眺めつつも、こくかが空いた手で爪を磨いていた。
鹿目まどかはそんなこくかの手を掴み、空いた方の手で暁美ほむらと手を繋ぎ、二人の間に立つ。
「あのね、突然なんだけど。こくかちゃんも私達のチームに入って貰おうって思ってるんだっ」
「え?」
「会ったばっかりなんだけど、何だかすぐに気が合っちゃって。一緒にナイトメアと戦おうって言ったら、すぐに頷いてくれたんだ」
「まどかは本当に優しいから。困っている私を助けてくれたの」
暁美ほむらが身を乗り出す。そうすると、鹿目まどかが驚いて顔を少しだけ引いた。
「何か有ったの?」
「ああ、それは内緒で。ちょっと恥ずかしい話ですからね、まどか」
「だよねー」
その答えは暁美ほむらにとって全く期待外れの物だ。彼女は落胆を隠した。
身構えて、さりげなく盾の中に腕を入れながらも、暁美ほむらは話を合わせた。
「……その話、他の人にはまだ?」
「まだ誰にも話してないよ。前のほむらちゃんの時みたいに、ナイトメア退治の時に紛れ込んでビックリさせたいと思って!」
「そう……」
「うん、ほむらちゃんも協力してくれる?」
目の前の少女は紛れもない鹿目まどかだ。だから、こくかという魔女から遠ざけておきたいのだが、二人はまるで長年の付き合いであるかの様だった。
「構わないわ」
そして、魔女の消滅が鹿目まどかに何を起こすのか。既に察しがついている。暁美ほむらにとっては、この魔女を撃てない理由の方が重かったのだ。
+
暁美ほむらは吐き気にも似た不快感を覚えていた。
悪いお夢、やぎのこのゆめ、そうした物がこの世界に有る。
人の心から生まれる物でありながら、人の世の物だと表現するには、余りにも清廉で、穏やかな物だった。
しかし、その事を誰が知るだろうか。夢の中の登場人物がどんな存在かなど、登場人物が知る筈も無い。例外が有るとすれば、そこが夢だと自覚した物だけだ。
浄化された際にソウルジェムから呪いを取り除く都合の良い敵、魔法少女が手に手を取り合って、一緒に戦う事を推奨する物。そこにグリーフシードの奪い合いや、戦いへの恐怖などはあり得ない。
魔獣とは違う。魔女ではある筈も無い。ただひたすらに都合の良い、魔法少女の敵だった。
気づいてしまえば、そこに有るのは違和感だけだ。暁美ほむらは、自分が世界から浮き上がった様な感覚を抱いていた。
ただ、それとは関係無く、暁美ほむらは眺めていた。止まった時の中で、彼女達が縦横無尽に戦う姿を。
「随分と逃げ足の早いナイトメアだね! っていうか、何で止まってるのに動けるのさ!」
「知るか! さっさと追いかけるぞ!」
美樹さやかと佐倉杏子が二人で追跡を行っていた。
今日のナイトメアはかなり逃げ足が早く、普段よりも時間がかかる。巴マミも汗を浮かべていて、ベベに至っては既に眠っていた。
彼女達は一生懸命に戦っている。その姿が、暁美ほむらにはどうにも滑稽に見えた。まるで、この有り得ない世界の操り人形だ。
「何だか変よ、このナイトメア! 気をつけて!」
「分かってま……おおっ!?」
余裕ぶった美樹さやかが、飛んできた黒の羽に打ち落とされる。地面に激突する直前で佐倉杏子が飛び込み、その体を抱き止めた。
「ったた。ありがと杏子……む、ほむら!」
「……何?」
「何じゃないって、あんたも戦いなさいよ!」
「そうね」
暁美ほむらは美樹さやかを見ていない。その隣に居る佐倉杏子に視線を送る。
目が合った瞬間に、暁美ほむらは小さく頷いた。
佐倉杏子は何も言わず、そのままナイトメアとの戦いを続行した。それが欺瞞だと分かっているからか、僅かに鈍い。
「な、何かあいつ一日で滅茶苦茶イメージ変わってない?」
「まあ……そうだな」
佐倉杏子は眉を寄せ、一気にナイトメアへ肉薄する。
「というか、コレは誰のナイトメアだ?」
「さあ……初めて見るタイプだよね」
美樹さやかの言葉と共に、ナイトメアへ視線が集中した。常々目にしてきたナイトメアよりも一回り大きく、その背には翼が有ったのだ。
縦横無尽に天を駆け回って、魔法少女では追いつけない。あまりの早さに舌打ちをすると、佐倉杏子がビルへ着地して、その場で足踏みをした。
「どうするよ。あれは面倒なタイプだぞ。おい、ほむら。何であいつ動けるんだ?」
「……知らないわ。佐倉さんこそ、拘束は出来ない?」
「あの速度は無理だな。悔しいが攻撃範囲まで持っていくのも厳しい」
懐からスナック菓子を取り出して、封を開けた。佐倉杏子は腹立たしげに袋を傾けて、手を使わずに菓子を口に放り込んだ。
口元を腕で拭うと、そういえば、と周囲を見回して、暁美ほむらに問いかける。
「まどかはどうした?」
「ごめーん!」
佐倉杏子が言い終わるより早く、鹿目まどかが到着した。既に魔法少女へと変身を遂げていたが、空は飛ばず、道路を走っていた。
暁美ほむらがビルから降りて、鹿目まどかに近寄る。やっと足を止めると、鹿目まどかは困り顔を混ぜながら微笑んだ。
「あはは……みんなが早かったから追いつけなくって」
「大丈夫だよ、まどか。見ての通りだけど、まだ終わってないからさ」
「そ、そっか。良かった」
鹿目まどかはナイトメアに目をやった。
視線を受けたナイトメアが、ビルの合間へ逃げ込んで姿を隠す。瞬く間の早さで、姿を捉える事も困難だ。
「凄い早さだね……」
声を漏らしながらも、鹿目まどかは弓を射る。
分裂した桃色の矢がビルをくぐり抜け、天から降り注いだ。ナイトメアはその桃色を確認した途端に逃げて、追尾する矢を叩き落とす。
それを見て、鹿目まどかは肩を落とした。
「うーん……確かにちょっとまずいかも」
「でしょ? 杏子、いっそ挟み撃ちにする?」
話を振られても、佐倉杏子は返事をしなかった。
美樹さやかがその肩を叩くと、彼女はぼんやりとした顔で振り返った。
「杏子っ」
「ああ、どうした?」
「どうしたじゃないって、まさか調子悪いの? 今回のナイトメアは強敵なんだし、危ないよ?」
「いや……ちょっとな」
佐倉杏子が視線を送ると、暁美ほむらは小さく首を横に振った。
今の状況で、この世界の事を広めはしない。佐倉杏子はぎこちなく頷いている。ただ、事情を知らなければ、その顔色が悪い事だけが見て取れる。
「杏子ちゃん、もしかして体調が悪いの? だったら休んでた方が」
「いいって。体を動かす方がまだ気分が楽だしさ」
槍を構え直すと、佐倉杏子は一気に飛び上がった。遅れて美樹さやかが逆方向へ飛んで、ビルの両側から回り込む。
ナイトメアが上昇して逃げると、巴マミが事前に仕掛けていたリボンを起動させる。沸き上がったリボンが拘束しようと飛び込んで襲いかかった。
リボンが現れた瞬間にナイトメアは速度を高めて振り切り、降り注ぐ矢を左右に避ける。その先で待ちかまえていた暁美ほむらだったが、彼女は近づいてくるナイトメアを避けた。
逃げきったナイトメアは、急激に旋回して鹿目まどかに向かった。狙いは彼女だ、暁美ほむらが全速力で飛び込み、鹿目まどかの前に立つ。
「まどか! 避けて!」
「え、でも。大丈夫だと思うよ?」
「何を悠長な……」
振り返って、暁美ほむらは言葉を失った。そこには、邪悪に笑う女の姿が有った。
「サプライズのつもりだったんだけど、しょうがないね、こくかちゃん!」
「呼んでくれてありがとう、まどか」
突然に現れ、鹿目まどかの言葉に合わせてこくかは跳躍し、ナイトメアの上に着地する。衝撃で地面が震え、コンクリートの道路には巨大な亀裂が走っていた。
抵抗したナイトメアにその翼で叩かれても、こくかは平気な顔をしていた。そのまま片手を押しつけて、ナイトメアの動きを完全に封じ込める。
「予定通り、やってきた私がナイトメアを倒してみんなにお披露目……成功したね、まどか」
「うん。ちょっと、想像よりナイトメアが強かったけど……怪我は?」
「全く有りません。そこは心配しないで」
押さえつけたまま、こくかは首を傾けた。
「どうします?」
「私と二人でやろっか。みんな驚いてるしね」
了解、と口にすると、こくかがナイトメアを持ち上げた。
周囲が動かずにいる間に、鹿目まどかはナイトメアへ近寄る。すると、小さな丸いテーブルが現れて、こくかと二人でナイトメアを囲む。
せーの、という掛け声を合図に、二人は歌いだした。美樹さやかや佐倉杏子、巴マミは、突然現れた魔法少女に視線を集中させていて、まるで歌わない。暁美ほむらだけが小さな声で歌っていた。
紫と黒の風船が飛び、その中に桃色の風船が混ざる。同じ色の花びらが舞い、踊り狂っている。
「え、ええっと、まあるいケーキは……あー……とりあえず、私は、あー……ワラビ?」
歌が半分にさしかかると、こくかは突然声に詰まった。
まどかが訝しげに手を止める。
「……果物じゃないよ?」
「ご、ごめん。えっと……待って、今考えるから……アスパラガ……セニョールデスペラ……ううん、洋梨っ!」
無理矢理に歌いきると、鹿目まどかへバトンを渡す。
鹿目まどかは、慌てず慣れた調子で普段通りに歌いきった。ナイトメアは浄化されていき、後には羽だけが残る。
黒の羽を手に乗せて、鹿目まどかは自分の身ごと抱き締める。羽は輝き、白色へと変わった。浄化の光がソウルジェムを照らし、全員に降り注いだ。
光を見届けると、こくかが鹿目まどかに話しかける。
「……これで、良かったの?」
「うんっ。初めてなのによく出来たと思う!」
「そ、そうですか? それは、嬉しいですけど……」
満更でも無い様子のこくかは、その場で髪の先を撫でた。何かが気になったのか、自分の髪をどこか不満そうに眺めている。
鹿目まどかが何事か口にして、こくかは彼女の結ばれた髪を愛おしげに触れる。そこで、暁美ほむらが口を出した。
「……最後の辺り、かなり詰まっていた様に見えたのだけど」
「そこは気のせいだと思ってください、もう」
おどけながらも、こくかの目は暁美ほむらを捉えていた。
沼の奥に沈み込む様な目つきだ。濁り過ぎた色合いが、遠目には単色の黒に見える。薄ら寒い程に重ねられた絶望が、そこに有った。
暁美ほむらは軽く拳を握り、こくかの前に立って、鹿目まどかへと背を向けた。
「サプライズにはなったかもしれないけど、みんな混乱しているわ。そろそろ自己紹介でもすれば良いんじゃないかしら」
「ま、そうですね」
あくまで力を抜いた声音のままで、こくかは肩を竦めた。
ナイトメアの作った空間は音を立てて崩れ、魔法少女達は改めてこくかに集中する。謎の魔法少女で、この雰囲気だ。気になって仕方が無いだろう。
最も混乱した表情浮かべたのは、美樹さやかだ。彼女は遠慮がちに近づき、鹿目まどかに問いかけた。
「あの、まどか。この人、誰?」
「私の友達だよー。さて、こくかちゃん。挨拶どうぞっ」
堂々と胸を張り、こくかは声をあげた。それはかなり小さい物で、すぐ側に居る者以外の耳には届かないだろう。
彼女は咳払いをして、鹿目まどかと手を繋いだ。そして、改めて全員へと向かい、頭を軽く下げた。
「詐衿こくかです。みんなは私をこくかって呼びますから、そちらでお願いします」
自分の名前を口にする前に、彼女はもう一度咳払いをする。
「こくかちゃん、何だか緊張しちゃってる?」
「……恥ずかしい所を見せてしまいましたね」
ほんのりと表情を緩めると、年齢相応に少女らしい顔つきとなる。それでも、鹿目まどかを見る顔は、恐ろしい熱意が秘められている。
鹿目まどかは、そんな視線に晒されているとは気づいていないのか、こくかの手を握ったままだ。
「それでっ……実力もちゃんと見せたし、良いですよね、マミさん!」
「え?」
「こくかちゃんも、チームに加えて良いですよね?」
「え、ええっ。そういう事なら……鹿目さんのお友達なのよね?」
「はいっ! だよね、こくかちゃん」
「いえ、私に言われても……」
見るからに戸惑った風なこくかの表情を見ると、巴マミはそれまで纏っていた警戒をすっかり解いた。
足下のベベがすりついて、巴マミはその頭を撫でる。そして朗らかな笑顔を浮かべると、こくかに向かって手を伸ばした。
「よろしくお願いね、こくかさん。あ、こっちはベベよ」
「ありがとうございます。詐衿って呼ばれるのはまだ慣れていなくて。後、ベベもよろしくお願いしますっ」
握手を交わすと、彼女は続いて美樹さやかに接近する。
美樹さやかはとにかく険しい目をして、眉を寄せた。
「……」
「? どうかしましたか、美樹さん。自分が溶けた泡を喰った様な顔をして」
「……何でもないよ。さえり、だっけ? これからよろしく」
「よろし……あ、私の事を疑われてます? 仕方ないかもしれないけれど……そっちの佐倉さんも、私が信じられないって顔はやめてください」
「……」
険しい目をしているのは、佐倉杏子も同じだ。いや、彼女の方がより強く睨みつけ、身体を前に倒して槍を構える寸前にまで至っている。
薄ら寒い空気が流れる中で、鹿目まどかが手を伸ばした。しかし、こくかが素早く前に出る。
「私が胡散臭くて怪しい女だからって、そんな顔をされても困りますよ」
「こらこら、佐倉さん、新人いじめはダメよ?」
「そんなのじゃねえよ……だけど」
佐倉杏子はこくかの顔を見なかった。代わりに暁美ほむらの元へ行き、テレパシーで話しかける。
暁美ほむらは返事をしないが、顔だけは向けた。二人の会話に気づいている者は、居るのだろうか。
「あいつ、何だよ」
「この見滝原を作った魔女よ」
「魔女? ……何だそりゃ」
訝しげな声音が頭に響いた。暁美ほむらは目元を髪で覆い、僅かな胸の痛みを隠す。
「ええ……そういう反応よね。気にしないで、ただ、あれが原因なのは確かよ」
佐倉杏子が暫く考え込み、そうか、と小さく漏らした。
手の中で槍を回転させている。その目が何度かこくかを貫いたが、彼女はまるで動じない。むしろ、微笑ましそうに頷いている。
やがて、佐倉杏子は溜息を吐く。髪を何度か乱暴に掻き漁り、しかたねえな、と呟いた。
「ま、よろしく頼むわ」
「こらこら、佐倉さん。そんなに厳しい態度じゃいけないわよ」
「分かってるって……」
顔を顰めると、彼女は懐からお菓子の箱を取り出す。更に乱暴な手つきで封を開けて袋を爪で切り、中身を口へ流し込んだ。
拒絶を感じさせる姿に巴マミが困り顔をする。しかし、年上の意地が有るのだろうか、表情を整えて、機嫌の良さそうな顔をした。
「でも、六人目の魔法少女なんて素敵ね。また仲間が増えて、ナイトメア退治も楽になるわ」
「それはどうも。巴さんがリーダーなんですか?」
「うーん。そうとも言えるし、違うかもしれないわね。確かに集合場所は私の家が多いんだけれど。あ、こくかさんは好きな紅茶の種類とか、有るの?」
尋ねられた言葉に、こくかは首を傾げて答える。
「強いて言うなら、カモミールですよ……?」
「そう? あ、でも。カモミールティーは鹿目さんが全部飲んだんだったわね」
「えへへ……すっごく美味しかったから、つい」
鹿目まどかが頭を小突くと、こくかは穏やかそうな笑みを見せる。
「まどかが美味しいって言うなら、きっととっても美味しいんでしょうね」
「うん、とっても。今度一緒に買ってみよっか。作るのはマミさんだけど……」
「ええ、楽しそうですね。ぜひ行きましょう。その時は暁美さんも連れて、どうですか?」
こくかは殆ど瞬間移動と思える素早さで暁美ほむらの元へ行くと、顔を近づける。
嫌がった暁美ほむらは数歩引いて、眉根を寄せて怒りを示した。しかし、鹿目まどかが側に居るからか、強い拒絶は出来ない。
「ほむらちゃんは来る?」
「……ええ」
「良かった。それじゃ、今度行こうね」
早々と予定が決定した所で、鹿目まどかは遠慮がちに両手を膝の下で合わせた。もじもじとした仕草で、巴マミへ顔を向けていた。
「あの、それでマミさん」
分かっているとばかりに巴マミが頷く。「ええ。丁度良く、家にケーキが有るの。ホールで買ったから、全員分有るわよ」
「わぁ……! やりましょう、歓迎パーティ。こくかちゃんも、それでいい?」
こくかは言葉を使わず、小さく頷いて答えた。それで十分だったのか、鹿目まどかは嬉しそうな様子で手を握り、繋いでいる。
歓迎パーティが決まった所で、巴マミは他のメンバーへと確認を取った。暁美ほむらは迷わず参加の意志を継げ、他の面々の様子を窺う。
美樹さやか、佐倉杏子の二人は、強い戸惑いを見せていた。二人は共にこくかへ微妙な視線を送っていて、一向に返事を口にしない。
「佐倉さん? 美樹さん?」もう一度、巴マミが彼女達を呼んだ。
やっと佐倉杏子が正気に戻り、菓子を片手に軽く答えた。
「ああ、あたしも行くよ。新メンバーなんて滅多に無いしさ」
「いやいや。杏子は食べたいだけでしょー?」
「そんな事……まあ、そうかもしれないけど、良いじゃねえか。みんなで食べると旨いし楽しいぞ?」
何が面白かったのか、こくかがほんの小さな声音で笑い出した。幾ら小さくとも、周囲の耳に届くには十分な程度だ。
本人は気づいていないのか、笑い続けている。どこか懐かしむ様な顔だ。こくかの表情が変わる所を観察して、暁美ほむらはそんな感想を抱く。
「みんなで食べると楽しい、ねえ。あなたの口からそんな言葉が出るとは」
その独り言をしっかりと聞いていたらしく、佐倉杏子が不満げな声をあげた。
「あ?」
「いえ、何でも。ただ、いつも何か食べてるタイプだと思っただけです」
「あはは、それ正解だよ。こいつ学校でも食べてるんだから」
美樹さやかに補足を付けられて、佐倉杏子は肩を竦める。ひとまず、疑念は後回しにする事としたらしい。
彼女達は歓迎会の内容を話し合い始めた。ケーキの数は迷い所だったらしく、多めか少な目で割れている。
その横で、こくかは柔らかな微笑みを浮かべたまま暁美ほむらに肩を寄せて、他にはまず聞こえない様に慎重なテレパシーを送った。
「やっぱり素敵な人達だね。まどかも楽しそう」
「……」
暁美ほむらが黙っていると、ケーキの数も決まったらしく、鹿目まどかが手招きをした。
牽引される様に、二人は彼女の背を追って歩く。小柄な背中だが、そこにどんな強さが有るのかは、暁美ほむらがよく知っている。
ここまで親しく付き合えたのは何時ぶりだろう。感傷的な気分になった彼女の頬を、こくかがつついた。
「何を」
「何でもありませんっ、それよりほらほら。ケーキを食べに行きましょう。明るく明るく、折角夢みたいな世界なんだから、笑顔を忘れたら意味も無し。そうでしょう?」
自分の口元を指で釣り上げて、こくかは見るからに明るい笑みを作り上げる。指を離してからも、その表情は続いていた。
暁美ほむらは何かを言おうとした。しかし、足を止めた鹿目まどかが二人の間に立って、手を握ってくる事で、言葉が止まる。
「ほら、一緒に歩こ?」
「まどか、三人横で並んだら危ないわよ」
「でも、一緒に歩きたいんだ」
「……そっか。だったら仕方ないかな。大丈夫だよ、暁美さん。もし危ない事が有っても、その時は私達が盾になれば良いんだから」
軽い声で口にしていたが、まるで鉛の重しでも乗せられた様な重苦しさが含まれている。
自分以外の人間は気づいていないのだろう。暁美ほむらは、周囲の様子からそう結論付けた。
「こくかちゃんは大げさだね」
「ふふ、そうかも。まどかは普通の子だものね」
「そう言われると何だか変な感じだけど、うん、自分でも結構普通だと思う」
あくまで笑顔のこくか、彼女は鹿目まどかと仲良く話し込み、他の魔法少女とも楽しそうに話していた。多少の疑いの目は気にもしていない。
機嫌良く、鹿目まどかと会話をするのが嬉しくて仕方がない。そんな内心が透けて見える様だ。
だが、暁美ほむらの目には、その笑顔だけは、どうしても偽物にしか見えなかった。