観覧車の一番上から手を振ると、下に居た佐倉杏子や美樹さやかが手を振り返してきた。
遠く離れた場所、しかもガラス越しでも見えるのは、流石に魔法少女だろうか。暁美ほむらは売店のジュースをストローで吸った。メロン味だった。
「ほむらちゃんも見て! 綺麗だよ」
「ええ……確かに綺麗ね」
観覧車の一番上から眺める見滝原は、とても綺麗だった。例え偽りであっても、偽りだからこその美しさだろうか。誰かが思い描く理想の見滝原が此処に広がっている。
その景色は確かに見惚れる物だ。しかし、暁美ほむらの目は、景色よりも、見滝原を遠くから眺めている、という事実そのものに向かっていた。
「あ、マミさんも戻ってきた。アイスを買ってきたみたいだね」
「そうね」
「見える?」
「魔力を使えば……」
此処は見滝原の外に有る遊園地である。出ようとしても出る事の出来なかった見滝原から、彼女達はあっさりと脱出していた。
その原因が何であるか。暁美ほむらは、観覧車の窓から足下を見つめた。
こくかが段差に座って、お茶を片手に鹿目まどかへ手を振っている。彼女は遙か下に居るが、それでも鹿目まどかが見えている。魔法少女の視力は良いのだ。
「私の目だと、この距離は魔力を使わないと見えないわね」
「私は普通に見えるんだよー。結構視力には自信が有って」
「そうなの? 目が良いのは良いわね」
自分の目元を押さえつつも、暁美ほむらはこくかの挙動を観察した。巴マミと一緒にジュースを飲んでいて、空と観覧車を見物し、どう見ても楽しんでいる。
ストローからジュースを啜り続けながら、暁美ほむらは空へ目をやった。何の変哲も無い快晴で、祝日に友達同士で遊びに行くなら、とても良い日だ。
「まどか、何をしているの」
鹿目まどかが窓に手をかけていた。その窓には取っ手が付けられていて、彼女の手によって半分が開けられている。
「え? わたし達は魔法少女だから、外に出ても大丈夫かと思って」
「危ないからやめなさい」
「でも、きっと楽しいよ。だからっ!」
勢い良く窓際に登ると、鹿目まどかは手を広げた。今にも落ちてしまいそうな小さな足場でバランスを取り、風で髪を僅かに乱されている。
暁美ほむらは慌てて手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
同時に、鹿目まどかの背後へ双翼の魔法少女が飛んできて、落ちない様に支えている。それは、こくかだった。
「まどか、本当にやめておきなさい」
「そうだよ、魔法少女だからって。私達に心配をかけさせないで?」
「う、ごめんなさい。でも、すっごく爽快だったんだ」
少しばかり落ち込んだ様子の鹿目まどかを目にすると、こくかは静かに窓から身を乗り出し、振り返る。
「気持ちは分かるわ」
「あはは、ちょっとはしゃぎ過ぎだったかな」
顔を上げた時には、鹿目まどかの顔は苦笑混じりの照れた物になっている。
こくかは窓を閉めて、暁美ほむらの横に立った。
「座っても良いかな?」
構わないという言葉を告げず、暁美ほむらはただ腰を浮かせる。
座る位置を寄せると、空いた場所へこくかが腰をつけた。対面の鹿目まどかに持っていたジュースを渡すと、肘をついて外の景色を眺めていた。
飲みかけのジュースを、鹿目まどかは気にせず口にした。それに毒が有るのでは、と暁美ほむらは微かな不安にかられたが、杞憂だったらしく、美味しそうに飲んでいる。
「このジュース結構美味しいね」
「巴さんが選んでくれたので、きっと、彼女の舌が確かだったんでしょう」
観覧車は少しずつ降りている。取っ手が存在する事に違和感を覚えた暁美ほむらは、他にもおかしな物が有るかと探していた。
遊園地は多くの人で賑わっているが、順番待ちはしなかった。そして、まどかが観覧車から飛び降りようとしても、こくかが空を飛んでも、騒ぎにはならなかった。気づかれなかったと言えばそれまでだが、暁美ほむらは目を細める。
こくかは鹿目まどかと手を握り合い、会話を交わしている。その姿は心の底から幸せそうだ。強い喜びに彩られた瞳は、濁っていたが、輝いていた。
魔女というには、詐衿こくかは異常過ぎた。当たり前の様に人の形で、人と会話を行い、鹿目まどかに優しいのだ。
そんな人間が過去に居たのか、暁美ほむらは戻ってきた記憶をひっくり返した。しかし、心当たりは何処にも存在しない。
ガラスに頭を当てた、暁美ほむらは目を瞑った。その時、鹿目まどかが彼女の側へ近づいて、静かに肩を寄せた。
「どうしたの? まどか?」
「ほむらちゃん、最近なんだか辛そうだよね。一人で背負ったりしちゃダメだよ。わたしで良かったら、何時でも相談して良いんだから」
じわりと、暁美ほむらの目元に涙が浮かぶ。そのまま流れてしまいそうな滴を寸前で拭い、代わりに背中へ手を回す。
鹿目まどかの体温は、他の人間と変わりない。しかし、暁美ほむらにとってのそれは、とても特別な物だった。
「ありがとう。でも大丈夫、心配してくれるだけで嬉しいよ」
そっと肩を撫でたまま、暁美ほむらは溢れてしまった涙を誤魔化す様に笑った。半分泣きながらの笑顔を見せられて、鹿目まどかは少しだけ困惑している様だった。
ただ、鹿目まどかは表情に穏やかな優しさを乗せると、ポケットの中から赤縁の眼鏡を取り出した。
「ねえ、ほむらちゃん。眼鏡、かけてみてくれる?」
「え? ええ、構わないけど……」
「髪も前の方に戻して良い?」
圧される様にして暁美ほむらは頷いた。渡された眼鏡は、彼女が前に使っていた物と殆ど同じだ。
付け慣れた感触を味わっている内に、鹿目まどかは手を彼女の後頭部へと伸ばして、髪を編んだ。
「ま、まどか。何を……」
「肩の力を抜いた方が良いと思うんだ。最近のほむらちゃん、カッコ良くなった代わりに、焦ってるみたいだったから」
「私が、焦ってる?」暁美ほむらは息を吐いた。「そうかも、しれないわね」
眼鏡の位置を直すと、暁美ほむらは改めて両手を膝に置き、鹿目まどかに向かい合う。格好を戻したからか、纏う空気が弱さを帯びていた。
「うん、まどかにはお世話になってばっかりね」
「そんな事無いよ。でも、役に立てて嬉しいな」
「……」
その一瞬だけ、こくかが僅かに顔を歪めた。
気づいたのは暁美ほむらだけだ。微かな表情の変化だが、見逃せる物ではなかった。
声をかけようと暁美ほむらが身を乗り出した所で、観覧車が下に到着する。待機していた美樹さやかが駆け寄って窓を開け、満面の笑みで三人を外へ連れ出した。
「良い景色だったよ。やっぱり久しぶりに乗る観覧車は楽しかったな」
「へえ、良かったじゃん。ほむらの方はどうよ? っていうか、何で元に戻ってるわけ?」
「あ、それは私がお願いしたんだ」
「ふーん。まあ、こっちの方がかわいげが有るからね」
「いや、そういうのとは違うんだけど……」
違うからね? と言って、鹿目まどかは手を横に振った。
暁美ほむらが頷くと、鹿目まどかは頬を掻きながら手を叩く。それを合図に彼女達は観覧車から離れた。
観覧車は、その役目を終えた様に動きを止める。それを誰も気に留めない。他に乗る客が居ないからだ。
「次、どうするの?」
「ああ、それはもう決まってるよ」
佐倉杏子が声をあげた。アイスクリームを舐めながらの発言で、空いた手でジュースを掴んでいる。
彼女は目的地を指さそうとしている様だった。しかし、両手が塞がっている為か、首だけで左側に有る建物へ意識を集中させた。
「あれだよ、あれ」
彼女の首が向いた方角には、おどろおどろしくデザインされた建物が立っている。崩れかけの、普通より少し広い民家といった風だ。魔女の一つ、幽霊の一つは確実に現れるであろう雰囲気が広がっていた。
わざとらしいまでに不気味な建物である。その正体が分からない様な魔法少女達ではない。いや、誰であっても明らかだろう。
外側に居る着物で髪、恐らくはウィッグの類だろう、に顔を覆い隠された受付が、よりアトラクションの内容を示していた。
「……お化け屋敷、だよね? わたし、久しぶりかも」
「ああ。まあ、あたしはこれが最初だけどな。マミも行った事は無いよな?」
「そうね、ああいうのは少し苦手で」
巴マミが少しばかり眉を寄せた。何度かお化け屋敷から目を逸らしていて、困った様子で両手を握っている。
肩に乗っていたベベが、魔法少女にしか分からない言葉で巴マミをからかう。恥ずかしがりながらも、巴マミはその頭を撫でた。
「へえー、杏子ってお化け屋敷初体験なんだ」
美樹さやかは、巴マミの事は話題にしないまま、少々の笑いも混ぜた、からかう様な声音で話す。
すると、佐倉杏子はアイスクリームを大きく口を開けて飲み込み、もっと邪悪な笑顔を浮かべた。
「んっ、ああ、家が貧乏だったからね。遊園地へ行くなんて出来なかったんだ」
「……重っ!」
「だろ?」
何故か得意げな顔をして、美樹さやかに頭を叩かれている。
空気が重く無いのは、彼女達の人格がなせる技だろうか。佐倉杏子は美樹さやかの腕を振り払い、落ち着いた所でジュースのストローに口を付ける。
「だから、この機会に一回入ってみようってね。ほむら、一緒に入ろうぜ」
「私?」
「たまには良いだろ?」
暁美ほむらは僅かに間を空けて、小さく頷いた。
並び立った二人は、特に手を繋ぐでもなく、互いの一番の友達へ先に行く事を告げた。
感想は後で教える、と暁美ほむらが告げた。鹿目まどかは何度も頷いて、目を輝かせている。
受付の女は無口だったが、チケットを見せると入り口を開けた。漂う生臭さに、鹿目まどかはどこか哀れむ様な目で女を見ていた。
「アルバイトの人かな……大変だね」
「そうね……」
久しぶりのお化け屋敷に、暁美ほむらは特に緊張はしていなかった。淀んだ空気や恐ろしい異形の物には慣れていたからだ。
こくかが薄笑いを浮かべていたが、暁美ほむらは無視して屋敷の中へ入る。
鹿目まどかは拳を握って、楽しそうに応援している。その声が、暁美ほむらの耳には焼き付く様な勢いで入り込んでいった。
+
屋敷のセットへ入った途端、火の玉が遠くで光り、人型の何かが蠢いた。しかし、暁美ほむらは気にせず、真顔で佐倉杏子と並び歩いていた。
「……それで」
「何か分かったのか?」
不敵に笑っていた佐倉杏子は、一瞬で別人の様に顔色を引き締めた。
足下に何か冷たい物が触り、二人は不快げに足を上げる。靴やブーツに人の手形が有ったが、顔を顰めるだけだ。
「いいえ、私もそれを聞こうと思っていた所よ」
「残念ながら、あたしも手がかりは無しだ」
首を振りながら、佐倉杏子が軽く横へ移動すると、そこを大きなコウモリが通り過ぎた。不気味に鳴く声が響くも、耳障りそうに舌打ちをするだけに終わった。
「こくかの奴、全く隙を見せねえ。かなりふざけてるが、あれの中身はかなり冷たい奴と見たね」
「まどかに対する気持ちは、恐らく本当よ」
不本意極まると言った体の表情に、佐倉杏子が笑い出した。
「でも、あたしも同感だ。確かにまどかの事は本気だろうな。でなきゃあそこまで慌てるかよ」
「?」
「あいつ、まどかが観覧車から飛び降りようとした時、叫んだんだぜ、やめてっ! て。間違い無く、とっさに出た言葉だな。悲鳴みたいだった」
佐倉杏子の言葉を受けて、暁美ほむらは、驚かなかった。むしろ、最初から分かっていたと言いたげで、表情は変わらない。
退屈な反応に肩を竦めながらも、佐倉杏子は話を続けた。
「でも、怪しい事には変わりないな。奴の狙いが読めない以上、下手に突っ込むのは危険だしな」
「ええ。下手な行動は間違いなく死を招くわ」
そう言いながらも、暁美ほむらの表情は平坦な物だった。
まるで人形の様な目つきをしていて、屋敷の中で起きている現象や、不意に響く女の悲鳴など、全く気にも留めていない。飛び出してきた赤いミイラにも、くだらない物を見る目を向けるだけだ。
佐倉杏子は肩を竦めた。外見は元に戻ったが、中身は昔とは違う。
「とりあえず、あんた一人じゃ手に余るだろ。犯人が分かった以上、対策はあたしも手を出させて貰うぜ。構わないよな?」
「ええ、良いわ」
予想に反した暁美ほむらの言葉に、佐倉杏子は目を剥いた。
何度か驚きを示した所で、暁美ほむらは僅かに胡乱な瞳を向けた。佐倉杏子は咳払いをした。
「珍しく素直じゃねえか」
「正直に言えば、これは私の手に余る事だから」
「だから人の手を借りる、ってか。まあ、この見滝原をどうやって作ったのかも、なんであっさり見滝原の外に出られたのかも、何も分からねえままだし、しょうがねえか」
「気づいていたの?」
「あたしはそこまでバカじゃねえよ」
両手を後頭部で組み、佐倉杏子は鏡に写った不気味な影を鼻で笑う。
恐怖を演出する為の仕掛けなのか、背後で足音が響いた。暁美ほむらが振り返るも、そこには誰も居ない。何でもない様な表情で、暁美ほむらは冷静さを保っていた。
佐倉杏子は溜息を口にしない様に努力した。随分と、子供っぽいアトラクションだ。誰が作ったのか、これを怖がるのは、もっと幼い年齢層だろう。
「でも、二人居るからって派手には動けないから。出来れば、こくか自身が動きを見せてくれれば良いんだけれど」
「手は有る……怒るなよ? まど……おい、まだ何も言ってない。それに、怒るなって言っただろ。」
ギラギラ、と。暁美ほむらの目が狂おしい光に包まれた事に、佐倉杏子は冷や汗を浮かべた。
「あの子は巻き込まないし、巻き込ませないわ」
「分かった。分かったって。あたしも、まどかを巻き込むのは反対だ。マミとさやかもな。あくまで、あたしらだけで何とかするべきだと思ってる」
それならば問題無いのか、暁美ほむらは「そう」とだけ口にして、興味の無さそうな顔で火の玉を無視した。人から半分外れたのかという程に、薄ら寒い目をしている。
あのな、と佐倉杏子が声をかけた。
「共同戦線だって言うなら、もう少し態度を緩めろよ、ほむら。これじゃ足並みも揃えられねえ」
「……そうね。ごめんなさい、少し、ね。まどかにも言われたわ、私が焦ってる、って」
小さく深呼吸をすると、暁美ほむらは仄かに、微かに笑みを浮かべた。それは、鹿目まどかに見せる物の欠片にも及ばない表情でしか無かったが、十分に感情を見せている。
「そうだな、ま、落ち着け。これでも食ってさ」
懐から菓子を渡すと、暁美ほむらは素直に受け取り、その包装を解いて口にした。
「ありがとう」
「素直にお礼を言うお前も、何か違和感が有るんだよな」
面白がった風に笑いつつも、佐倉杏子は頭を押さえた。
「なあ、あたしも色々と思い出してきたんだが、どうも妙なんだ……」
暁美ほむらは何も言わなかったが、話を聞いている事は分かる。佐倉杏子は弱々しい声を張ろうとして、溜息を口にした。
「変なんだよ、記憶の方も、家族が死ななくて、ちょっと貧乏だけど学生として楽しくやってるあたしが居るんだ。もちろん、魔法少女なんて知らねえ」
「どういう事?」
「そっちのあたしは魔法少女ですらない、魔法少女の事なんか知らないんだ。いや、そもそも魔法少女って何だ……?」
疲れたのか、佐倉杏子は壁に体を寄せた。しかし、すぐに飛び起きた。その壁には泥が塗られていたのだ。服が汚れてしまい、慌てた彼女は無理矢理に泥を拭う。
何とか汚れが消えた所で、佐倉杏子は咳払いをして、話題を元へ戻す。
「どっちかは偽物の記憶……か?」
ふと、佐倉杏子は暁美ほむらに視線を移す。
「ほむら、あんたの記憶はどうなんだ?」
「……この世界での記憶と、本来の記憶だけ」
苦々しそうな表情のまま、暁美ほむらは吐き捨てた。落ち着かないのか、片手でソウルジェムを撫でていて、口元は血が出る寸前まで噛み締められている。
やはり、アトラクションの内容にはまるで目を向けない。楽しむ気が一つも無い対応である。佐倉杏子は無言で肩を竦めながら、暁美ほむらに釘を刺す。
「とりあえず、気をつけるぞ。詐衿の奴、どうにも敵意は無さそうだが……あんまり敵対するとマミが気づくぜ。やめておいた方が良い。あいつ、怒ると本当にヤバいんだ」
無言の暁美ほむらに対して、佐倉杏子は忠告を続けた。
「まあ、二人がかりなら勝てるとは思うが、そりゃ胸くそ悪いし。やめておけよ」
「分かってるわ、リスクが大きすぎる。今の良好な関係は出来る限り維持しましょう」
「そっか、なら良いんだ」
安堵を浮かべながら、佐倉杏子は遠くで蠢く女を見た。しゃがみ込んで、何か譫言の様な声を放っている。
暁美ほむらは、やはりまるで興味の無さそうな顔をするだけだ。
「あんた、全然驚かないな」
「……ナイトメアはともかく、魔女と魔獣はかなり怖かったから、それに比べればね」
「ああ、そうか。納得したよ」
佐倉杏子は手を叩いた。
このアトラクションに出る物は簡素で、本当の恐怖とは程遠い。実戦を経験した魔法少女が、この程度で折れる筈もなかった。
暁美ほむらが懐かしげに天井を見上げた。そこには人の手形が大量に有ったが、誰も言及しない。
「ええ、本当に厳しい現実だったわ」
「……毎日が死の一歩手前、痛いわ辛いわきついわ仲間は居ないわで、ああ、大変だったよな。思い出したぜ。魔獣にぶっ飛ばされた時は立てなくなるくらい痛かったしな。マミとやりあった時も死ぬかと思った」
「私も、瓦礫に足を潰された時は酷い無力感で死んでしまいそうだった」
同士を見つけた様に、佐倉杏子は「だよな」と口にした。
完全に無視された格好の女や、屋敷の小道具がどこか寂しげに硬直していて、彼女達を眺めている。
「そう考えるとナイトメアは本当にぬるいな。や、あたし達に優しいのか? まあどっちでも良いが……あー」
困った風に、佐倉杏子が頭を掻く。
「参った。正直……悪くないんだよな、ここの生活」
その言葉に聞き捨てならない物を感じたからか、暁美ほむらは素早い反応を見せた。
僅かに首を傾けて、何やら不快そうな表情となって、睨む。
「それは、本気で言ってるの?」
「まあ、な。ほむらもそうだろ? お互い、こういう楽しい生き方をしてきた人間じゃないってのは分かる」
足を止めている為か、その場はとても静かだった。生き物が消え去った様な静けさだ。ただ、視線だけが彼女達を貫いている。
見つめ合っていた二人だが、不意に佐倉杏子が姿勢を崩した。暁美ほむらから背を向けて、彼女は先を歩んだ。
「これが終わって欲しくない様な気もしてさ。あんただって、本当はそう考えてるんじゃねえのか?」
暁美ほむらは歩幅を落としていた。やがて再び足を止め、呟く様に声を吐き出す。
「それでも、この世界は良くないわ。確かに素晴らしいけれど、こんな、夢の中に逃げ込む様なのは間違ってる」
「そう思う事に、何か理由が有るのか?」
「ええ……でも」
詳しい話は出来ない。そう告げられた事に、佐倉杏子は怒りを表さなかった。
振り返ると、佐倉杏子は指先を突きつけた。
「言わなくて良いさ。今の幸せを捨てたくなる様な経験をしたんだろ。あたしにも覚えが有る」
「杏子……」
「やっと、名前で呼びやがったな」
気を良くしたのか、佐倉杏子は口元を釣り上げた。
暁美ほむらがぎこちなく笑いを合わせ、顔を逸らす。
「とりあえず、こくかの奴を監視するのが優先って事で」
話が纏まった為か、佐倉杏子はステップを踏んで歩き出す。その眼前に首を吊った人形が飛んできた。
佐倉杏子が飛び上がった。小さく悲鳴が出ていた事を恥じたのか、怒りを含んだ表情で口元を押さえている。そこで、勢い良く振り返り、暁美ほむらを睨んだ。
「見たか?」
「……ええ」
「言うなよ」
「……忘れるわ」
そうしてくれ、と相槌を打ち、その場で軽く足踏みをする。壁に蹴りを入れようとしたが、暁美ほむらに肩を叩かれた。
舌打ちを一つすると、佐倉杏子は頭を押さえた。袋から取り出された菓子を一口で食べ終え、深く息を吐く。
「嫌な事を思い出させやがって」
「肩でも抱いて、『大丈夫よ』なんて言ってあげれば良いのかしら」
「冗談。あんたの心なんか欠片も籠もってない励ましなんか、貰ったって何にも……悪い、ちょっとした軽口だって。そんな顔するなよ」
暁美ほむらは腕を胸の前で組んだ。表情は変わらないが、足の進みはかなり遅くなっていた。
「……変な顔をしたかしら」
「いやぁ……どう見たって傷ついた顔だったぞ」
両肩を竦めながらも、佐倉杏子は身を翻した。片手に持っていた菓子を投げ渡しながら、その場でステップを踏んで足下の泥を避けた。
着地した先で鞄を持ち直すと、彼女は暁美ほむらの肩を強く叩く。
「まあ、さっきのは本当に冗談だって。気持ちは受け取っておくよ」
「別に、受け取って貰わなくても構わないわよ」
それまでよりも、暁美ほむらの声音は朗らかだった。佐倉杏子との距離が心なしか近づいて、遠慮せずに並んで歩いている。
彼女の足下で子供の様な人影が飛び出した。
小さく、驚きの叫びとも、恐怖の現れとも取れる様な高い声が響く。僅かな瞬間だが、佐倉杏子は聞き逃さなかった。
「おい、あんた今」
「……少し驚いただけよ」
「そうか? でも、そんな顔も出来るって分かっただけ、十分だな」
細められた目を丸くした暁美ほむらは、不服そうに佐倉杏子へ目をやった。だが、彼女の親しげな顔を見て、息を軽く吐くだけに終わる。
屋敷の出口は彼女達からすぐ先の所に有った。整備されていない錆びた扉で、一人では開けられそうもない。
しかし、佐倉杏子が軽く押せば、扉はすぐに開いた。顔を見合わせた二人は、しかし堂々と外へ出た。
太陽が明るく光っているが、どこか曇っている様でもあった。足下の汚れを布巾で拭き取って、佐倉杏子が鹿目まどかに声をかけた。
鹿目まどかが二人へと駆け寄った。その表情は、決して明るい物ではない。
「ほむらちゃん! 杏子ちゃん!」
「どうした?」
「さやかちゃんとこくかちゃんが喧嘩しちゃって……!」
走っていた最中に足下の段差でつまづき、鹿目まどかが姿勢を崩す。
暁美ほむらが慌てて前に出ると、その胸で彼女を受け止める。怪我が無い事を確認して、暁美ほむらは安堵の声を漏らした。
そんな二人の姿を伺いながら、佐倉杏子は友達の姿を探す。それらは、すぐに見つかった。
「あー……マジかよ」
佐倉杏子が目を向けた先には、巴マミを間に置き、睨み合って、いや、一方的に殺気立った美樹さやかが、平気な顔をしたこくかと向かい合っていた。
遊園地の中でする事ではない。頭を抱えながら、佐倉杏子は彼女達の元へ向かっていった。
この街はね、暁美さん。『魔法少女が抱く理想の見滝原』として創造された舞台なんです。誰が作ったかを問うのはナンセンスですよ。一言、貴女に言い残しておきたく思いましてね……
ところで、姫君は助け出してやらないのですか? 黒馬の御姫様……