夢の中で抱くもの(完結)   作:曇天紫苑

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幸せであれぬもの

 

 観覧車の一番上から手を振ると、下に居た佐倉杏子や美樹さやかが手を振り返してきた。

 遠く離れた場所、しかもガラス越しでも見えるのは、流石に魔法少女だろうか。暁美ほむらは売店のジュースをストローで吸った。メロン味だった。

 

「ほむらちゃんも見て! 綺麗だよ」

「ええ……確かに綺麗ね」

 

 観覧車の一番上から眺める見滝原は、とても綺麗だった。例え偽りであっても、偽りだからこその美しさだろうか。誰かが思い描く理想の見滝原が此処に広がっている。

 その景色は確かに見惚れる物だ。しかし、暁美ほむらの目は、景色よりも、見滝原を遠くから眺めている、という事実そのものに向かっていた。

 

「あ、マミさんも戻ってきた。アイスを買ってきたみたいだね」

「そうね」

「見える?」

「魔力を使えば……」

 

 此処は見滝原の外に有る遊園地である。出ようとしても出る事の出来なかった見滝原から、彼女達はあっさりと脱出していた。

 その原因が何であるか。暁美ほむらは、観覧車の窓から足下を見つめた。

 こくかが段差に座って、お茶を片手に鹿目まどかへ手を振っている。彼女は遙か下に居るが、それでも鹿目まどかが見えている。魔法少女の視力は良いのだ。

 

「私の目だと、この距離は魔力を使わないと見えないわね」

「私は普通に見えるんだよー。結構視力には自信が有って」

「そうなの? 目が良いのは良いわね」

 

 自分の目元を押さえつつも、暁美ほむらはこくかの挙動を観察した。巴マミと一緒にジュースを飲んでいて、空と観覧車を見物し、どう見ても楽しんでいる。

 ストローからジュースを啜り続けながら、暁美ほむらは空へ目をやった。何の変哲も無い快晴で、祝日に友達同士で遊びに行くなら、とても良い日だ。

 

「まどか、何をしているの」

 

 鹿目まどかが窓に手をかけていた。その窓には取っ手が付けられていて、彼女の手によって半分が開けられている。

 

「え? わたし達は魔法少女だから、外に出ても大丈夫かと思って」

「危ないからやめなさい」

「でも、きっと楽しいよ。だからっ!」

 

 勢い良く窓際に登ると、鹿目まどかは手を広げた。今にも落ちてしまいそうな小さな足場でバランスを取り、風で髪を僅かに乱されている。

 暁美ほむらは慌てて手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。

 同時に、鹿目まどかの背後へ双翼の魔法少女が飛んできて、落ちない様に支えている。それは、こくかだった。

 

「まどか、本当にやめておきなさい」

「そうだよ、魔法少女だからって。私達に心配をかけさせないで?」

「う、ごめんなさい。でも、すっごく爽快だったんだ」

 

 少しばかり落ち込んだ様子の鹿目まどかを目にすると、こくかは静かに窓から身を乗り出し、振り返る。

 

「気持ちは分かるわ」

「あはは、ちょっとはしゃぎ過ぎだったかな」

 

 顔を上げた時には、鹿目まどかの顔は苦笑混じりの照れた物になっている。

 こくかは窓を閉めて、暁美ほむらの横に立った。

 

「座っても良いかな?」

 

 構わないという言葉を告げず、暁美ほむらはただ腰を浮かせる。

 座る位置を寄せると、空いた場所へこくかが腰をつけた。対面の鹿目まどかに持っていたジュースを渡すと、肘をついて外の景色を眺めていた。

 飲みかけのジュースを、鹿目まどかは気にせず口にした。それに毒が有るのでは、と暁美ほむらは微かな不安にかられたが、杞憂だったらしく、美味しそうに飲んでいる。

 

「このジュース結構美味しいね」

「巴さんが選んでくれたので、きっと、彼女の舌が確かだったんでしょう」

 

 観覧車は少しずつ降りている。取っ手が存在する事に違和感を覚えた暁美ほむらは、他にもおかしな物が有るかと探していた。

 遊園地は多くの人で賑わっているが、順番待ちはしなかった。そして、まどかが観覧車から飛び降りようとしても、こくかが空を飛んでも、騒ぎにはならなかった。気づかれなかったと言えばそれまでだが、暁美ほむらは目を細める。

 こくかは鹿目まどかと手を握り合い、会話を交わしている。その姿は心の底から幸せそうだ。強い喜びに彩られた瞳は、濁っていたが、輝いていた。

 魔女というには、詐衿こくかは異常過ぎた。当たり前の様に人の形で、人と会話を行い、鹿目まどかに優しいのだ。

 そんな人間が過去に居たのか、暁美ほむらは戻ってきた記憶をひっくり返した。しかし、心当たりは何処にも存在しない。

 ガラスに頭を当てた、暁美ほむらは目を瞑った。その時、鹿目まどかが彼女の側へ近づいて、静かに肩を寄せた。

 

「どうしたの? まどか?」

「ほむらちゃん、最近なんだか辛そうだよね。一人で背負ったりしちゃダメだよ。わたしで良かったら、何時でも相談して良いんだから」

 

 じわりと、暁美ほむらの目元に涙が浮かぶ。そのまま流れてしまいそうな滴を寸前で拭い、代わりに背中へ手を回す。

 鹿目まどかの体温は、他の人間と変わりない。しかし、暁美ほむらにとってのそれは、とても特別な物だった。

 

「ありがとう。でも大丈夫、心配してくれるだけで嬉しいよ」

 

 そっと肩を撫でたまま、暁美ほむらは溢れてしまった涙を誤魔化す様に笑った。半分泣きながらの笑顔を見せられて、鹿目まどかは少しだけ困惑している様だった。

 ただ、鹿目まどかは表情に穏やかな優しさを乗せると、ポケットの中から赤縁の眼鏡を取り出した。

 

「ねえ、ほむらちゃん。眼鏡、かけてみてくれる?」

「え? ええ、構わないけど……」

「髪も前の方に戻して良い?」

 

 圧される様にして暁美ほむらは頷いた。渡された眼鏡は、彼女が前に使っていた物と殆ど同じだ。

 付け慣れた感触を味わっている内に、鹿目まどかは手を彼女の後頭部へと伸ばして、髪を編んだ。

 

「ま、まどか。何を……」

「肩の力を抜いた方が良いと思うんだ。最近のほむらちゃん、カッコ良くなった代わりに、焦ってるみたいだったから」

「私が、焦ってる?」暁美ほむらは息を吐いた。「そうかも、しれないわね」

 

 眼鏡の位置を直すと、暁美ほむらは改めて両手を膝に置き、鹿目まどかに向かい合う。格好を戻したからか、纏う空気が弱さを帯びていた。

 

「うん、まどかにはお世話になってばっかりね」

「そんな事無いよ。でも、役に立てて嬉しいな」

「……」

 

 その一瞬だけ、こくかが僅かに顔を歪めた。

 気づいたのは暁美ほむらだけだ。微かな表情の変化だが、見逃せる物ではなかった。

 声をかけようと暁美ほむらが身を乗り出した所で、観覧車が下に到着する。待機していた美樹さやかが駆け寄って窓を開け、満面の笑みで三人を外へ連れ出した。

 

「良い景色だったよ。やっぱり久しぶりに乗る観覧車は楽しかったな」

「へえ、良かったじゃん。ほむらの方はどうよ? っていうか、何で元に戻ってるわけ?」

「あ、それは私がお願いしたんだ」

「ふーん。まあ、こっちの方がかわいげが有るからね」

「いや、そういうのとは違うんだけど……」

 

 違うからね? と言って、鹿目まどかは手を横に振った。

 暁美ほむらが頷くと、鹿目まどかは頬を掻きながら手を叩く。それを合図に彼女達は観覧車から離れた。

 観覧車は、その役目を終えた様に動きを止める。それを誰も気に留めない。他に乗る客が居ないからだ。

 

「次、どうするの?」

「ああ、それはもう決まってるよ」

 

 佐倉杏子が声をあげた。アイスクリームを舐めながらの発言で、空いた手でジュースを掴んでいる。

 彼女は目的地を指さそうとしている様だった。しかし、両手が塞がっている為か、首だけで左側に有る建物へ意識を集中させた。

 

「あれだよ、あれ」

 

 彼女の首が向いた方角には、おどろおどろしくデザインされた建物が立っている。崩れかけの、普通より少し広い民家といった風だ。魔女の一つ、幽霊の一つは確実に現れるであろう雰囲気が広がっていた。

 わざとらしいまでに不気味な建物である。その正体が分からない様な魔法少女達ではない。いや、誰であっても明らかだろう。

 外側に居る着物で髪、恐らくはウィッグの類だろう、に顔を覆い隠された受付が、よりアトラクションの内容を示していた。

 

「……お化け屋敷、だよね? わたし、久しぶりかも」

「ああ。まあ、あたしはこれが最初だけどな。マミも行った事は無いよな?」

「そうね、ああいうのは少し苦手で」

 

 巴マミが少しばかり眉を寄せた。何度かお化け屋敷から目を逸らしていて、困った様子で両手を握っている。

 肩に乗っていたベベが、魔法少女にしか分からない言葉で巴マミをからかう。恥ずかしがりながらも、巴マミはその頭を撫でた。

 

「へえー、杏子ってお化け屋敷初体験なんだ」

 

 美樹さやかは、巴マミの事は話題にしないまま、少々の笑いも混ぜた、からかう様な声音で話す。

 すると、佐倉杏子はアイスクリームを大きく口を開けて飲み込み、もっと邪悪な笑顔を浮かべた。

 

「んっ、ああ、家が貧乏だったからね。遊園地へ行くなんて出来なかったんだ」

「……重っ!」

「だろ?」

 

 何故か得意げな顔をして、美樹さやかに頭を叩かれている。

 空気が重く無いのは、彼女達の人格がなせる技だろうか。佐倉杏子は美樹さやかの腕を振り払い、落ち着いた所でジュースのストローに口を付ける。

 

「だから、この機会に一回入ってみようってね。ほむら、一緒に入ろうぜ」

「私?」

「たまには良いだろ?」

 

 暁美ほむらは僅かに間を空けて、小さく頷いた。

 並び立った二人は、特に手を繋ぐでもなく、互いの一番の友達へ先に行く事を告げた。

 感想は後で教える、と暁美ほむらが告げた。鹿目まどかは何度も頷いて、目を輝かせている。

 受付の女は無口だったが、チケットを見せると入り口を開けた。漂う生臭さに、鹿目まどかはどこか哀れむ様な目で女を見ていた。

 

「アルバイトの人かな……大変だね」

「そうね……」

 

 久しぶりのお化け屋敷に、暁美ほむらは特に緊張はしていなかった。淀んだ空気や恐ろしい異形の物には慣れていたからだ。

 こくかが薄笑いを浮かべていたが、暁美ほむらは無視して屋敷の中へ入る。

 鹿目まどかは拳を握って、楽しそうに応援している。その声が、暁美ほむらの耳には焼き付く様な勢いで入り込んでいった。

 

+

 

 屋敷のセットへ入った途端、火の玉が遠くで光り、人型の何かが蠢いた。しかし、暁美ほむらは気にせず、真顔で佐倉杏子と並び歩いていた。

 

「……それで」

「何か分かったのか?」

 

 不敵に笑っていた佐倉杏子は、一瞬で別人の様に顔色を引き締めた。

 足下に何か冷たい物が触り、二人は不快げに足を上げる。靴やブーツに人の手形が有ったが、顔を顰めるだけだ。

 

「いいえ、私もそれを聞こうと思っていた所よ」

「残念ながら、あたしも手がかりは無しだ」

 

 首を振りながら、佐倉杏子が軽く横へ移動すると、そこを大きなコウモリが通り過ぎた。不気味に鳴く声が響くも、耳障りそうに舌打ちをするだけに終わった。

 

「こくかの奴、全く隙を見せねえ。かなりふざけてるが、あれの中身はかなり冷たい奴と見たね」

「まどかに対する気持ちは、恐らく本当よ」

 

 不本意極まると言った体の表情に、佐倉杏子が笑い出した。

 

「でも、あたしも同感だ。確かにまどかの事は本気だろうな。でなきゃあそこまで慌てるかよ」

「?」

「あいつ、まどかが観覧車から飛び降りようとした時、叫んだんだぜ、やめてっ! て。間違い無く、とっさに出た言葉だな。悲鳴みたいだった」

 

 佐倉杏子の言葉を受けて、暁美ほむらは、驚かなかった。むしろ、最初から分かっていたと言いたげで、表情は変わらない。

 退屈な反応に肩を竦めながらも、佐倉杏子は話を続けた。

 

「でも、怪しい事には変わりないな。奴の狙いが読めない以上、下手に突っ込むのは危険だしな」

「ええ。下手な行動は間違いなく死を招くわ」

 

 そう言いながらも、暁美ほむらの表情は平坦な物だった。

 まるで人形の様な目つきをしていて、屋敷の中で起きている現象や、不意に響く女の悲鳴など、全く気にも留めていない。飛び出してきた赤いミイラにも、くだらない物を見る目を向けるだけだ。

 佐倉杏子は肩を竦めた。外見は元に戻ったが、中身は昔とは違う。

 

「とりあえず、あんた一人じゃ手に余るだろ。犯人が分かった以上、対策はあたしも手を出させて貰うぜ。構わないよな?」

「ええ、良いわ」

 

 予想に反した暁美ほむらの言葉に、佐倉杏子は目を剥いた。

 何度か驚きを示した所で、暁美ほむらは僅かに胡乱な瞳を向けた。佐倉杏子は咳払いをした。

 

「珍しく素直じゃねえか」

「正直に言えば、これは私の手に余る事だから」

「だから人の手を借りる、ってか。まあ、この見滝原をどうやって作ったのかも、なんであっさり見滝原の外に出られたのかも、何も分からねえままだし、しょうがねえか」

「気づいていたの?」

「あたしはそこまでバカじゃねえよ」

 

 両手を後頭部で組み、佐倉杏子は鏡に写った不気味な影を鼻で笑う。

 恐怖を演出する為の仕掛けなのか、背後で足音が響いた。暁美ほむらが振り返るも、そこには誰も居ない。何でもない様な表情で、暁美ほむらは冷静さを保っていた。

 佐倉杏子は溜息を口にしない様に努力した。随分と、子供っぽいアトラクションだ。誰が作ったのか、これを怖がるのは、もっと幼い年齢層だろう。

 

「でも、二人居るからって派手には動けないから。出来れば、こくか自身が動きを見せてくれれば良いんだけれど」

「手は有る……怒るなよ? まど……おい、まだ何も言ってない。それに、怒るなって言っただろ。」

 

 ギラギラ、と。暁美ほむらの目が狂おしい光に包まれた事に、佐倉杏子は冷や汗を浮かべた。

 

「あの子は巻き込まないし、巻き込ませないわ」

「分かった。分かったって。あたしも、まどかを巻き込むのは反対だ。マミとさやかもな。あくまで、あたしらだけで何とかするべきだと思ってる」

 

 それならば問題無いのか、暁美ほむらは「そう」とだけ口にして、興味の無さそうな顔で火の玉を無視した。人から半分外れたのかという程に、薄ら寒い目をしている。

 あのな、と佐倉杏子が声をかけた。

 

「共同戦線だって言うなら、もう少し態度を緩めろよ、ほむら。これじゃ足並みも揃えられねえ」

「……そうね。ごめんなさい、少し、ね。まどかにも言われたわ、私が焦ってる、って」

 

 小さく深呼吸をすると、暁美ほむらは仄かに、微かに笑みを浮かべた。それは、鹿目まどかに見せる物の欠片にも及ばない表情でしか無かったが、十分に感情を見せている。

 

「そうだな、ま、落ち着け。これでも食ってさ」

 

 懐から菓子を渡すと、暁美ほむらは素直に受け取り、その包装を解いて口にした。

 

「ありがとう」

「素直にお礼を言うお前も、何か違和感が有るんだよな」

 

 面白がった風に笑いつつも、佐倉杏子は頭を押さえた。

 

「なあ、あたしも色々と思い出してきたんだが、どうも妙なんだ……」

 

 暁美ほむらは何も言わなかったが、話を聞いている事は分かる。佐倉杏子は弱々しい声を張ろうとして、溜息を口にした。

 

「変なんだよ、記憶の方も、家族が死ななくて、ちょっと貧乏だけど学生として楽しくやってるあたしが居るんだ。もちろん、魔法少女なんて知らねえ」

「どういう事?」

「そっちのあたしは魔法少女ですらない、魔法少女の事なんか知らないんだ。いや、そもそも魔法少女って何だ……?」

 

 疲れたのか、佐倉杏子は壁に体を寄せた。しかし、すぐに飛び起きた。その壁には泥が塗られていたのだ。服が汚れてしまい、慌てた彼女は無理矢理に泥を拭う。

 何とか汚れが消えた所で、佐倉杏子は咳払いをして、話題を元へ戻す。

 

「どっちかは偽物の記憶……か?」

 

 ふと、佐倉杏子は暁美ほむらに視線を移す。

 

「ほむら、あんたの記憶はどうなんだ?」

「……この世界での記憶と、本来の記憶だけ」

 

 苦々しそうな表情のまま、暁美ほむらは吐き捨てた。落ち着かないのか、片手でソウルジェムを撫でていて、口元は血が出る寸前まで噛み締められている。

 やはり、アトラクションの内容にはまるで目を向けない。楽しむ気が一つも無い対応である。佐倉杏子は無言で肩を竦めながら、暁美ほむらに釘を刺す。

 

「とりあえず、気をつけるぞ。詐衿の奴、どうにも敵意は無さそうだが……あんまり敵対するとマミが気づくぜ。やめておいた方が良い。あいつ、怒ると本当にヤバいんだ」

 

 無言の暁美ほむらに対して、佐倉杏子は忠告を続けた。

 

「まあ、二人がかりなら勝てるとは思うが、そりゃ胸くそ悪いし。やめておけよ」

「分かってるわ、リスクが大きすぎる。今の良好な関係は出来る限り維持しましょう」

「そっか、なら良いんだ」

 

 安堵を浮かべながら、佐倉杏子は遠くで蠢く女を見た。しゃがみ込んで、何か譫言の様な声を放っている。

 暁美ほむらは、やはりまるで興味の無さそうな顔をするだけだ。

 

「あんた、全然驚かないな」

「……ナイトメアはともかく、魔女と魔獣はかなり怖かったから、それに比べればね」

「ああ、そうか。納得したよ」

 

 佐倉杏子は手を叩いた。

 このアトラクションに出る物は簡素で、本当の恐怖とは程遠い。実戦を経験した魔法少女が、この程度で折れる筈もなかった。

 暁美ほむらが懐かしげに天井を見上げた。そこには人の手形が大量に有ったが、誰も言及しない。

 

「ええ、本当に厳しい現実だったわ」

「……毎日が死の一歩手前、痛いわ辛いわきついわ仲間は居ないわで、ああ、大変だったよな。思い出したぜ。魔獣にぶっ飛ばされた時は立てなくなるくらい痛かったしな。マミとやりあった時も死ぬかと思った」

「私も、瓦礫に足を潰された時は酷い無力感で死んでしまいそうだった」

 

 同士を見つけた様に、佐倉杏子は「だよな」と口にした。

 完全に無視された格好の女や、屋敷の小道具がどこか寂しげに硬直していて、彼女達を眺めている。

 

「そう考えるとナイトメアは本当にぬるいな。や、あたし達に優しいのか? まあどっちでも良いが……あー」

 

 困った風に、佐倉杏子が頭を掻く。

 

「参った。正直……悪くないんだよな、ここの生活」

 

 その言葉に聞き捨てならない物を感じたからか、暁美ほむらは素早い反応を見せた。

 僅かに首を傾けて、何やら不快そうな表情となって、睨む。

 

「それは、本気で言ってるの?」

「まあ、な。ほむらもそうだろ? お互い、こういう楽しい生き方をしてきた人間じゃないってのは分かる」

 

 足を止めている為か、その場はとても静かだった。生き物が消え去った様な静けさだ。ただ、視線だけが彼女達を貫いている。

 見つめ合っていた二人だが、不意に佐倉杏子が姿勢を崩した。暁美ほむらから背を向けて、彼女は先を歩んだ。

 

「これが終わって欲しくない様な気もしてさ。あんただって、本当はそう考えてるんじゃねえのか?」

 

 暁美ほむらは歩幅を落としていた。やがて再び足を止め、呟く様に声を吐き出す。

 

「それでも、この世界は良くないわ。確かに素晴らしいけれど、こんな、夢の中に逃げ込む様なのは間違ってる」

「そう思う事に、何か理由が有るのか?」

「ええ……でも」

 

 詳しい話は出来ない。そう告げられた事に、佐倉杏子は怒りを表さなかった。

 振り返ると、佐倉杏子は指先を突きつけた。

 

「言わなくて良いさ。今の幸せを捨てたくなる様な経験をしたんだろ。あたしにも覚えが有る」

「杏子……」

「やっと、名前で呼びやがったな」

 

 気を良くしたのか、佐倉杏子は口元を釣り上げた。

 暁美ほむらがぎこちなく笑いを合わせ、顔を逸らす。

 

「とりあえず、こくかの奴を監視するのが優先って事で」

 

 話が纏まった為か、佐倉杏子はステップを踏んで歩き出す。その眼前に首を吊った人形が飛んできた。

 佐倉杏子が飛び上がった。小さく悲鳴が出ていた事を恥じたのか、怒りを含んだ表情で口元を押さえている。そこで、勢い良く振り返り、暁美ほむらを睨んだ。

 

「見たか?」

「……ええ」

「言うなよ」

「……忘れるわ」

 

 そうしてくれ、と相槌を打ち、その場で軽く足踏みをする。壁に蹴りを入れようとしたが、暁美ほむらに肩を叩かれた。

 舌打ちを一つすると、佐倉杏子は頭を押さえた。袋から取り出された菓子を一口で食べ終え、深く息を吐く。

 

「嫌な事を思い出させやがって」

「肩でも抱いて、『大丈夫よ』なんて言ってあげれば良いのかしら」

「冗談。あんたの心なんか欠片も籠もってない励ましなんか、貰ったって何にも……悪い、ちょっとした軽口だって。そんな顔するなよ」

 

 暁美ほむらは腕を胸の前で組んだ。表情は変わらないが、足の進みはかなり遅くなっていた。 

 

「……変な顔をしたかしら」

「いやぁ……どう見たって傷ついた顔だったぞ」

 

 両肩を竦めながらも、佐倉杏子は身を翻した。片手に持っていた菓子を投げ渡しながら、その場でステップを踏んで足下の泥を避けた。

 着地した先で鞄を持ち直すと、彼女は暁美ほむらの肩を強く叩く。

 

「まあ、さっきのは本当に冗談だって。気持ちは受け取っておくよ」

「別に、受け取って貰わなくても構わないわよ」

 

 それまでよりも、暁美ほむらの声音は朗らかだった。佐倉杏子との距離が心なしか近づいて、遠慮せずに並んで歩いている。

 彼女の足下で子供の様な人影が飛び出した。

 小さく、驚きの叫びとも、恐怖の現れとも取れる様な高い声が響く。僅かな瞬間だが、佐倉杏子は聞き逃さなかった。

 

「おい、あんた今」

「……少し驚いただけよ」

「そうか? でも、そんな顔も出来るって分かっただけ、十分だな」

 

 細められた目を丸くした暁美ほむらは、不服そうに佐倉杏子へ目をやった。だが、彼女の親しげな顔を見て、息を軽く吐くだけに終わる。

 屋敷の出口は彼女達からすぐ先の所に有った。整備されていない錆びた扉で、一人では開けられそうもない。

 しかし、佐倉杏子が軽く押せば、扉はすぐに開いた。顔を見合わせた二人は、しかし堂々と外へ出た。

 太陽が明るく光っているが、どこか曇っている様でもあった。足下の汚れを布巾で拭き取って、佐倉杏子が鹿目まどかに声をかけた。

 鹿目まどかが二人へと駆け寄った。その表情は、決して明るい物ではない。

 

「ほむらちゃん! 杏子ちゃん!」

「どうした?」

「さやかちゃんとこくかちゃんが喧嘩しちゃって……!」

 

 走っていた最中に足下の段差でつまづき、鹿目まどかが姿勢を崩す。

 暁美ほむらが慌てて前に出ると、その胸で彼女を受け止める。怪我が無い事を確認して、暁美ほむらは安堵の声を漏らした。

 そんな二人の姿を伺いながら、佐倉杏子は友達の姿を探す。それらは、すぐに見つかった。

 

「あー……マジかよ」

 

 佐倉杏子が目を向けた先には、巴マミを間に置き、睨み合って、いや、一方的に殺気立った美樹さやかが、平気な顔をしたこくかと向かい合っていた。

 遊園地の中でする事ではない。頭を抱えながら、佐倉杏子は彼女達の元へ向かっていった。




 この街はね、暁美さん。『魔法少女が抱く理想の見滝原』として創造された舞台なんです。誰が作ったかを問うのはナンセンスですよ。一言、貴女に言い残しておきたく思いましてね……

 ところで、姫君は助け出してやらないのですか? 黒馬の御姫様……
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