美樹さやかは、今も牙を向いていた。指輪のソウルジェムが実体となって、今にも変身する寸前まで至っている。
この様な場所で魔法少女になる筈が無い。しかし、彼女は本気の様だった。
「おいおい、何やってんの? こんな所でさ」
極めて軽い調子で近づくと、佐倉杏子は多少の乱暴さを持った手つきで肩を掴む。
振り返った美樹さやかの目は、怒りよりも戸惑いが強かった。第三者の手が入ったからか、彼女はただ一言「杏子」と呟いて口を噤んだ。
それでも、こくかを睨む事は止めない。佐倉杏子はわざとらしく溜息を吐いて、傍観していた巴マミに声をかけた。
「マミ、なんでこんな事になってるんだ?」
「ごめんなさい、それが分からないの。ちょっと目を離したら、こんな風になってて」
小さな溜息と共に肩を落として、巴マミはベベを抱き締めた。更にその場は空気が重くなり、彼女が持っていたジュースはぬるくなっていた。
鹿目まどかが不安げに戻ってくる。同伴した暁美ほむらは、険しい表情でこくかを見つめ、両手を握り締めて向かっていった。
「それで、喧嘩の理由は何?」
「言えない」
答えたのは美樹さやかだった。言葉数はかなり少なく、たったそれだけの事を口にしただけで、また何も言わなくなってしまう。
「言えないですね、ええ、確かに」
こくかが同調した。喧嘩に対しては何も気にした素振りなど見せなかったが、鹿目まどかに見られていると気づいた瞬間に、僅かばかり目線を下げた。
両者が喧嘩の原因を語る気が無いのなら、問い詰めても無意味だ。暁美ほむらが、また少し握り拳を強く締めた。
「そう」
「……興味無さそうだね」
「別に、そんな事は無いわ。心配くらいするわよ、付き合いが有る相手だもの」
「それ、あたしの為じゃなくて、まどかを悲しませない為、でしょ?」
苛立ちながらの一言を耳にして、暁美ほむらは目を見開いた。
だが、口にした美樹さやかの方が重い反応を見せている。その場で腹立たしげに地面を蹴って、唸りながら頭を押さえたのだ。
「あ、さ、あの、さやかちゃん。そんな事言っちゃ……」
「……」
鹿目まどかの悲痛な声が届き、美樹さやかは唐突に自分の両頬を叩く。
そこで、深呼吸をすると、心底落ち込んだ様に頭を深く下げた。
「……ごめん、まどかの言う通りだよ。あたしが言い過ぎた。許して」
「いえ。間違っている訳ではないから……」
素直な謝罪の言葉に、今度は暁美ほむらが一歩退いた。頭を下げたままの美樹さやかを直視せず、目を逸らしている。
こくかが失笑を漏らした。だが、鹿目まどかの咎める目を受けると、暁美ほむらと同じく居心地が悪そうに背を向けた。
「……悪いと思っているならこれ以上私達を困らせないで。何が原因なのか教えなさい。じゃないと、また絞めるわよ」
「また?」美樹さやかが首を傾げた。怒りに左右されない、素の彼女が見えていた。
「……いいえ」
話を聞いていたこくかが、今度はクスクスと笑った。
何がおかしいのか、と暁美ほむらが目を細めると、こくかは軽く手を振った。
「いや、こうして聞くと、あなたって言い方がきついね。私も反面教師にしないと」
「あなたも……少しは、美樹さんと同じ様に反省したらどうかしら」
「どうして? 私が何かした?」
怪訝そうで、まるで自分が悪いとは思っていない表情である。
暁美ほむらは暫く黙り込み、どこか寂しげに鹿目まどかに向かって首を振った。
「随分と、根が深そうよ」
「そんな……さやかちゃん、こくかちゃんも、喧嘩は駄目だよ……」
気遣わしげな声を聞いても、二人は睨み合う事をやめない。
鹿目まどかは、両者を見比べた後で、美樹さやかに近づいた。こちらの方が、まだ話が通じると踏んだのだろう。
「ふ、二人とも。もうやめよう? ね?」
「まどか、止めないで。これはあたしの問題なんだから」
振り払われて、鹿目まどかは悲しそうな声を漏らす。
こくかが笑みを消し去った。一瞬、彼女の身から何らかの力が溢れて、薄暗く輝いた。
その場に流れた空気に重圧がかかり、呼吸すらも痛みを伴う程に淀む。だが、鹿目まどかは気づかないまま、二人の喧嘩を嘆いている。
「ダメだよ。だって、こんなの……」
「まどか」
震える肩を、暁美ほむらがそっと撫でた。
暁美ほむらは目つきを鋭くして、こくかを見つめた。自覚が有るのか、こくかは何か困った風だ。
しかし、美樹さやかとの喧嘩は止められないらしく、二人は睨み合ったまま、動かない。
テレパシーを使って会話しているのか、二人が話す内容は他の者には聞き取れなかった。だが、恐らくはかなり剣呑で、お互いに罵る様な事を言っているのだろう。
突然、美樹さやかが殴りかかろうとした。途端に佐倉杏子が羽交い締めにして止めたが、彼女はまだ暴れていて、怒りに震えていた。
「あんたなんか、あたしは知らない!」
「じゃあ、私に喧嘩腰で来るのはやめて貰えないかな?」
「あんたが……だからでしょうが!」
このままでは永遠に続くだろう。見かねた巴マミが間に入った。
「二人とも、いい加減に……」
「下がっててください! マミさんは関係無いですから!」美樹さやかが反抗する。
「いいえ、一緒に来たんだから、関係が無いなんて事は無いのよ」
巴マミを押し退けようとして、美樹さやかは逆に押さえつけられた。
一瞬だが、拒絶の言葉に巴マミは苦痛に耐える様な表情となった。その僅かな変化に、佐倉杏子だけが目を見開いた。
「おい、さやか。熱くなりすぎだぞ……」
「ごめん杏子。でもこいつは、許せないんだ……!」
「自分がバカやってる自覚が有るなら抑えろ!」
佐倉杏子は正面に立ち、美樹さやかに立ち塞がった。
巴マミは背後から、佐倉杏子は正面から、どちらも美樹さやかを止めようとしていた。
「あなたって、とっても良い子だからね。いや、本当に、私みたいな悪人には邪魔で鬱陶しい手合いで、困る」
こくかはその経過を観察して、喧嘩の当事者とは思えない程に平坦な息を吐いた。
その顔には冷笑と嘲笑が混ざって、おぞましい笑みを作り上げていた。
歪んだ表情を前にして、美樹さやかの怒りは更に強まっていた。
「こ、のっ……!」
「必死になる事がどこに有るのかな、私にはあなたが怒り狂う理由が分からない。あ、私がこうやって挑発したから? 随分気が短いのね」
暁美ほむらが匙を投げた。
この二人に付き合っているくらいならば、その時間を残った三人で遊んだ方が余程有益な物だろう。全くどうにもならない喧嘩である。
「ごめんなさい、まどか。これは放っておいた方が得策……まどか?」
鹿目まどかは答えず、静かに拳を握って、喧嘩の最中にゆっくりと歩みを進めた。
静かに近づき、鹿目まどかは両手を下ろしたまま、勢い良く顔を上げた。
「……もうやめてよっ!」
一言だけの怒りを発すると、鹿目まどかは静かに息を吐いた。声を出した為に怒りが冷めてしまったらしく、どこか俯きがちに言葉を詰まらせていた。
どこか居心地の悪そうな様子で、鹿目まどかは自分が怒鳴った相手の顔を窺う。
じわり、と。こくかの目元には涙が浮かんでいた。
「ま、あ、あの、まどか」
「えっ……こくかちゃん?」
「まどか、ごめんなさ、私、また、あなたに迷惑を、ごめんなさいっ……!」
「う、ううん。私こそ言い過ぎてごめんなさ」
「謝らないで! まどかが悪く思う事なんか一つも無いの!」
顔を覆って涙を隠しながらも、こくかは首を大きく振っていた。
大げさな反応を受けて、鹿目まどかは慌てて手を横へ振る。怒りは完全に吹き飛んで、後には本来の鹿目まどかが残っていた。
「い、いや。別に大丈夫だよ?」
「い、いいの。優しくしないで良いの。あなたを不快にさせたのは事実だし、怒らせたのも本当の事だから、気遣わないで良いの」
こくかは半ば錯乱していた。
逆に、美樹さやかは親友の怒声で落ち着いたのか、申し訳なさげに一歩退き、どこか懐かしそうな目で天を見上げていた。
「久しぶりだね、まどかがあんなに爆発したの」
「……私は初めて聞いたわ、まどかの怒鳴る所」
「だろうね。怒鳴る前に泣き出しちゃうからね、まどかって」
暁美ほむらもまた、殆どの言葉を失っていた。
彼女にとっても、決して心臓に良い物では無い。鹿目まどかの怒声は、安定していた筈の精神を破壊し、バランスを崩してしまうのだ。
ただ、それは暁美ほむらだけの事だった。佐倉杏子と巴マミは、鹿目まどかに珍しい物を見た目を向けたが、それだけだ。
「こくかちゃん、大丈夫?」
「はい……本当に、迷惑をかけてしまって……」
「ううん、それより、さやかちゃんとお話をしないと、ね?」
鹿目まどかの声は優しかった。
その優しさが染み渡ると、美樹さやかは酷く申し訳の立たない表情となり、深く頭を下げた。
「あの、さ。ごめんね、まどか。折角みんなで遊びに来たのに、あたしのせいで、何か台無しにしちゃって」
「それは、その。しょうがないよ、喧嘩しちゃったんだから」
「まあね。でも、ごめん」
もう一度謝罪を行い、美樹さやかは深呼吸をした。再びこくかと向き合った時には、もう怒りを放つ事は無かった。
「そういう訳だから、あたしが悪かったよ。突っかかって行ったのはあたしだからね」
「……こちらこそ、挑発したのは悪かった。言い過ぎたよ。調子に乗ってしまったみたい、ごめんなさい」
こくかもまた、心から謝っている様だった。
「まどか、マミさんも、杏子も、ほむらにも、迷惑かけてごめんなさいっ!」
「ごめんなさい」
二人が謝罪した事で、その場の空気はずっと軽くなる。
「二人とも、ちゃんと反省しなきゃダメよ?」
「あはは、反省します……」
「暴れやがって、腕が痛かったんだからな」
佐倉杏子は毒づきながらも、それまでとは異なり苦笑気味だった。
ようやく、美樹さやかを拘束する事を止めて、佐倉杏子はその場で肩を竦めてから、こくかを一瞥する。
鹿目まどかが、こくかの両手を握っていた。
「こくかちゃんも、ね?」
「ええ。大丈夫、きちんと反省します。ほら、美樹さん」
「うん」
ぎこちなくも、美樹さやかとこくかは軽く握手をした。
喧嘩の前までよりは素っ気ない態度だったが、二人はもう敵意を浮かべる事は無い。特に、美樹さやかは思い切った笑い顔となると、両手を叩いて音を響かせた。
音に周囲の視線が集まると、美樹さやかが恥ずかしそうに顔を掻いた。だが、すぐに平素の悪ふざけが含まれた彼女が戻ってきた
「よし、埋め合わせだ埋め合わせ! こくか、あんたの事は後回しにしてあげるからさ、あたしが言うのも何だけど……今日は楽しもう!」
「……そうですね」
美樹さやかは元気一杯に走り出した。佐倉杏子を引きずる勢いで連れ出し、そのままアトラクションへ走っていってしまう。
はしゃいでいると言える姿だ。ただ、美樹さやかの顔に浮かぶ笑顔は、誰の目にも無理に作られている事が明らかだった。
+
ナイトメアとの戦いで、美樹さやかは今日に入って三度目の負傷を受けていた。
軽い打撲や、戦闘中に障害物と衝突しての怪我だ。騒ぐ程の怪我でもない。しかし、本人の表情を見ていれば、その内面は窺えるだろう。
ナイトメアからの攻撃が迫っているというのに、彼女は上の空だった。急いで飛び込んだ佐倉杏子が守らなければ、怪我をしていただろう。
「おい!」
「ご、ごめん」
謝罪と同時に飛び跳ねて、ナイトメアを封じ込めた。
美樹さやかは集中を切らせていたが、実力はそれまでよりも圧倒的だった。抵抗するナイトメアを軽々と吹き飛ばし、一人だけで呪いを解放してしまえる程に。
消えていくナイトメアを目にして、美樹さやかは膝を崩した。佐倉杏子がビルの屋上へ到着して、目を見開いて駆け寄った。
「お前、怪我してるじゃねえか!」
「大丈夫……直せるから」
機械でも修理する様に告げると、美樹さやかの身体が光る。怪我は一瞬で消滅し、息を一つ吐いた彼女は静かに立ち上がった。
「ほら、平気だって」
「お前……」
「大丈夫だよ、自分を大事にする気持ちはちゃんと有るからさ。でも、ちゃんと直ってるから心配要らないよ」
笑顔を浮かべても、美樹さやかは疲労を隠し切れていなかった。
遅れて到着した他の魔法少女達も、彼女に対しては気遣わしげな目を向けている。ただ、こくかだけは、僅かに不快そうな面持ちで眉を寄せていた。
「美樹さん、本当に大丈夫なの? かなり辛そうよ?」
巴マミの言葉に、美樹さやかは乾いた笑いで答える。
あの日以来、美樹さやかは明らかに精細を欠いていた。
戦闘は以前より強力だが、集中はまるでなく、チームワークにも力が入っていないのだ。とてもではないが、ナイトメアと戦える様な状態ではなかった。
意味深げにこくかを一瞥して、美樹さやかは顔を覆う。もう一度深呼吸をすると、彼女は巴マミに頭を下げた。
「ごめんなさい。マミさん」
「いいの。それより、今日はもう寝た方が良いわ。ゆっくり休んで、きちんと回復しなさい」
「はい……」
落ち込んだ顔のままで、美樹さやかはその場から飛んだ。鹿目まどかが声をかけようとしたが、届くよりも早く消えてしまった。
見えなくなった美樹さやかの背をじっと見つめて、鹿目まどかは心配そうな面持ちをしていた。
「さやかちゃん……どうしちゃったんだろう」
「私と喧嘩したの、まだ引きずってるみたいだね」
こくかは穏やかにそう言った。僅かに悪びれた顔をしていて、肩を落としている。
ただ、同情する者は、鹿目まどかを除けば居なかった。佐倉杏子など、冷めた目で見ている程だ。
「……じゃあ、何で喧嘩なんかしたんだよ」
「いえ、別に喧嘩というか。ちょっと話がこじれただけで、私は美樹さんに怒ってるとか、そういうのは無いんです。ただ、少し行き違いが有るというか。向こうは私を敵だと思っているみたいで」
肩を竦めると、こくかは腕を組んだ。口を噤んでいて、何とかする気は無いのだろう。何か困った雰囲気を出している。佐倉杏子が頭を押さえた。
「どうにかならないのかよ」
「私の問題じゃ有りませんからね。ただ私が謝れば解決、という話でもないと思うんです」
ベベが巴マミの肩に乗って、その頭を撫でた。慰められた巴マミは優しく抱き上げて、胸元に乗せる。気持ちが良いのか、ベベは目を細めていた。
巴マミはこくかを庇う様に前へ立った。口元に微笑みを浮かべていて、こくかの肩を撫でている。
「こくかさんが喧嘩をした事は仕方ないわ。それよりも、美樹さんに何をしてあげるかが大切よ」
「分かってるよ……でも、そいつは」
「そいつは? 何かしら、杏子」
暁美ほむらが声を差し込んだ。佐倉杏子は一瞬だけ身体を震わせ、首を振る。
「……何でもねえ。それより、本当にどうするんだよ。あいつは結構頑固だぞ」
「さやかちゃん、大丈夫かな……」
「まどかはあいつとは長いんだよな。話はしたか?」
「うん、聞いてみたんだけど、あんまり話をしてくれなかったの。わたしが聞いても分からない話だから、って」
落ち込み沈む鹿目まどかに、暁美ほむらは背後から両肩を撫でた。柔らかい笑みを浮かべた顔を見せて、とても優しい手つきだ。
鹿目まどかが仄かに笑顔を取り戻した姿を目にして、暁美ほむらは安堵の息を吐いた。
「今度、みんなで美樹さんを元気づけてみましょうか」
巴マミが年上の余裕を持った声で提案する。とても良いアイデアだと思っているのか、自信が浮かんでいる。
しかし、周囲の反応は余り良い物ではなかった。首を傾げられている事を見て、巴マミは小さく咳払いをした。
「そうね、何でも良いから理由を付けて、美樹さんを目一杯楽しませるの。誰だって美味しい物を食べたら機嫌は良くなる筈よ、そうしたら、元気だって出ると思うわ」
「良いな、それ。あたしは賛成だ」
「うん、さやかちゃんもきっと喜ぶよ」
最後に暁美ほむらが頷いた事で、巴マミは会心の笑みを浮かべた。
「そうと決まったら早いわね。じゃあ、いつ開くか決めましょうか」
巴マミの言葉を聞き、佐倉杏子と鹿目まどかは楽しげに話をする。ケーキの数や用意する茶の銘柄に、場所から参加するメンバー、果ては進行の流れまで、細やかに決めている様子だ。
友達の為に開くパーティである。彼女達が喜んで打ち合わせをするのも当然だろうか。暁美ほむらは、黙って話を聞き入れ、時折相槌を打った。美樹さやかの事に関して口出しが許されるとは思っていなかった。
こくかも同じだ。鹿目まどかに同意を求められると、困った様に頷き、佐倉杏子が意見を求めると、迷いながらも答えている。
全くパーティを行う意気込みが無いらしく、こくかの言葉は軽かった。それでも話は纏まり、打ち合わせは終わる。
「うん、これで美樹さんもきっと元気になるわ」
「はい! マミさん、ありがとうございます!」
「どうしたしまして。でも、ね」
不意に言葉を止めた巴マミに鹿目まどかは首を傾げた。
「はい?」
「でもね、美樹さんを助けられるのって、最後にはやっぱり鹿目さんだと思うの。一番長い付き合いの友達なんだし、美樹さんだって、鹿目さんの言葉を望んでる筈よ」
「マミさん……」
「勇気を持って、鹿目さんならきっと大丈夫」
「は、はいっ」
背筋を伸ばして答えた姿に、巴マミは笑い出した。すぐに笑い声を止めたが、よく通る声だ。
鹿目まどかは釣られて笑う。そして、笑い終えた時には真剣な感情を瞳に浮かべていた。
「わたし、もう一回さやかちゃんと話してみる」
「そうですか。美樹さんは幸せ者だね」
こくかの言葉は独り言の様だった。少なくとも、誰かに聞かせる為の作られた声ではなかった。
冷たさの中に弱味が見え隠れした声は、柔らかくも冷え込んでいる。暁美ほむらはその口振りを異質に感じた。
「それじゃあ、さやかちゃんの所に行ってくるね」
「え、まどか。今から行くの? 何も今でなくたって、今度でも良いと思うわよ」
「ううん、やっぱりさやかちゃんの事が心配だもん。今から会いに行くね」
友達思いの鹿目まどかが口にした言葉に、暁美ほむらは少しだけ目を伏せる。
「それなら、私も一緒に……」
「いや、他の奴が居たらさやかも素直に話し辛いだろうよ」
「何だったら、佐倉さんがついていってあげたら良いと思うの」
口を挟んだ巴マミに向かって、佐倉杏子は首を傾けた。
「あたしが?」
「私の目から見ても、美樹さんと佐倉さんはとっても仲が良いから」
そう口にした巴マミの表情は、年上としての余裕が含まれていた。しかし、どこか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
佐倉杏子はその顔をじっと見つめた。そして、口元を僅かに歪ませると、その場の全員から背を向けて、両手を後頭部で組んだ。
「ま、そうだな。あたしも行くよ。だから、ほむらはそんな心配そうな顔をするなって」
「……」
暁美ほむらは顔を伏せて、周りに自分の顔が見えない様にした。明らかな反応に、佐倉杏子だけではなく、巴マミまで笑い声が出ていた。
笑い声が空気を暖めると、鹿目まどかも不安そうな表情をやめて、元気良く両手を握っている。
「それじゃあ、杏子ちゃんとわたしはさやかちゃんの所に行ってくるね」
「ええ。しっかり励ましてあげるのよ?」
「はいっ!」
元気良く返事を口にして、鹿目まどかは佐倉杏子の手を引いた。
「さ、杏子ちゃんも行こ!」
「おう、これ食うか?」
「うん!」
佐倉杏子からお菓子を受け取ると、鹿目まどかは嬉しそうに封を開けて食べ始める。お菓子を口にしながら会話を進めて、二人は美樹さやかの元へと向かっていった。
「……上手く行くかしらね」
「さあ? でも、まどかと佐倉さんなら信じても良いんじゃないかな」
暁美ほむらの独り言に、こくかが笑い混じりで返す。
真剣ではなく、かと言ってふざけた態度でもない。こくかは単純に笑うだけで、美樹さやかの心配をしている風ではなかった。
「それじゃ、私もこの辺で」こくかが背を向けた。
「ええ。また明日会いましょうね、こくかさん」
手を振りながらもこくかは一瞬で去った。魔法によって移動したのだろうか。暁美ほむらはこくかの居た場所を一瞥する。
巴マミはベベを抱いた。既に魔法少女の姿を解除して、制服姿に戻っていた。
「さて、暁美さん、今日は私達だけで集まりましょうか。パーティの準備もしなきゃいけないし」
「ええ。話したい事も有りますから」
暁美ほむらもまた、普段の制服へと戻る。隣に巴マミが並んだが、彼女は決して目を合わせない。
不思議な事に暁美ほむらの歩幅は普段よりも早く、巴マミより少し前を歩いていた。
+
紅茶を少しだけ口にすると、暁美ほむらは仄かに暖かな息を吐いた。
巴マミの容れた紅茶は落ち着く味わいで、暁美ほむらはゆっくりと飲み進めている。一度カップを置いて、暁美ほむらはその場へ座り直した。
「私達だけ、というのは初めてですね」
「そう、暁美さんが居たら、鹿目さんも居たものね。二人ともいっつも一緒で、本当に仲が良いと思うわ」
「そう言って貰えると、嬉しいです」
暁美ほむらは満更でもなく喜び、巴マミとは反対側の座布団へ目をやった。
しかし、そこには誰も座っていない。何事か口にしかけて、暁美ほむらは口を深く閉じた。
「美樹さんはきっと大丈夫よ。心配しなくても平気だから」
「はい。私も、まどかを信じていますから」暁美ほむらは微笑んだ。嘘は欠片も混ざらなかった。
「ふふっ、本当に鹿目さんを大切に思っているのね。あの子はとても良い子だから、分かるわ」
自分の紅茶を注ぎ足すと、巴マミはもう一度口を付けて、どこか不満そうに「ちょっと失敗したかしら」と呟いた。
暁美ほむらはもう一度紅茶を飲んだ。巴マミには分かる僅かな味の違いが、彼女には分からなかった。その事実に多少の落胆を覚えながら、彼女はもう一度、誰も居ない座布団へ目をやる。
暁美ほむらはそっと目を閉じた。
「美樹さんが鹿目さんを傷つける様な事を言わないか、心配?」
声をかけられて、暁美ほむらは首を振ろうとした。だが、巴マミが顔を近づける方が早い。
「それも、きっと心配は要らないわ。鹿目さんは良い子だから、酷い事を言って一番に傷つくのは美樹さんの方。本人もきっとそれを分かってる」
紅茶に口をつけて、饒舌に続ける。
「だったら、美樹さんは折れるしかないの。鹿目さんを傷つけて自分も傷つく、そんな事が出来る子じゃないもの」
巴マミはどこか悪戯っぽく言い終えた。
暁美ほむらは驚きを浮かべた。ある意味で長い付き合いだが、この様な事を口にする巴マミは初めてだった。
「巴さん……意外と黒い事を考えますね」
「そう? そうかもね。みんな私を正義の味方みたいに言うけど、本当は、そんなに凄い物じゃないのよ。少しくらい悪い事だって考えるわ」
巴マミは暁美ほむらの背後に周り、その両肩を撫でた。
「苦労をしている肩ね」
「巴さん、ちょっと……」
暁美ほむらは、不思議と離れたいと思っていない事に戸惑っていた。
今日の巴マミはやけに積極的で、背中から手を回している。そして、肩の上に頭を乗せると、耳元で優しげに声を吹き込んだ。
「鹿目さんは、あなたが思っているよりもずっと強いし、ずっとみんなから大切に思われているのよ? 美樹さんと鹿目さんの友情を、ちょっとだけ信じてあげて」
「……はい」
暁美ほむらは素直に聞き入れた。非常に狭まった距離の中で、巴マミから僅かに甘い香りがする事を感じていた。
香水だろうか。はたまた紅茶だろうか。暁美ほむらは、その香りが嫌いではなかった。
「何だかお説教みたいになっちゃったわねー……暁美さん、お茶菓子のクッキーが有るんだけど、食べる?」
食べたい旨を伝えられると、巴マミはやっと暁美ほむらから手を離し、台所へ歩いていった。
抱き締められていた自分の肩を、暁美ほむらは左右に揺らせる。人肌の暖かさが、そこには残っている。巴マミに抱き締められるのは、初めての経験だった。
「……」
暁美ほむらはベベを見つめた。それは特に呪いを沸かせる事も無く、チーズケーキを両手で持っている。魔女と断定するには、やはり理性的過ぎた。
しかし、姿はお菓子の魔女だ。僅かに、暁美ほむらはソウルジェムへ指をかける。
「うん、美味しいわ。これ、こくかさんが選んでくれたの」
どうぞ、と巴マミが自分の前へ皿を置いた為に、暁美ほむらは力を抜いた。
自分のクッキーをもう一つの皿に乗せて、巴マミは対面席へと座り込んだ。目が、クッキーを食べる様に促していた。
乗せられた気分で暁美ほむらはクッキーを一つ取って口にした。レーズンが埋め込まれた甘味の強い一品だ。紅茶によく合う味で、とても好みだった。
思わず二枚目に手を伸ばしてしまった所で、暁美ほむらは巴マミの視線に気づいた。
「……うん、雰囲気は変わったけど、前の暁美さんとそこまで変わった訳じゃないみたいね。安心したわ」
「……」
手を引いていると、巴マミが楽しげに「恥ずかしがらなくても、食べていいのよ」と口にする。
暁美ほむらは、表面的には顔色を変えず、全く問題が無いと主張した。しかし、巴マミは全く信じていないのか、緩く笑うだけだ。
「それじゃ、貰います」
暁美ほむらはまた一枚口にして、紅茶と合わせた。思わず固めていた表情が緩んでしまい、慌てて元の平坦な精神を取り戻す。
「やっぱり、こうして一対一で話すと、いつもより暁美さんがよく見えるわね」
ベベが巴マミの頭を叩いた。自分も居ると主張したかったらしい。巴マミは微笑みながら謝っている。
クッキーを食べながらも、暁美ほむらは彼女の姿を観察した。そして、思わず問いかけていた。
「巴さんは、今、楽しいんですか?」
「え?」
彼女はまだべべを撫でている途中で、不意を打たれた様に顔を上げた。
真剣な問いだと気づいたのか、少しばかり考え込むと、唐突に嬉しそうな顔をする。紅茶を片手にする姿は、優雅でもあった。
「うん……そうね、毎日がとっても楽しいのは確か。みんなと一緒に魔法少女なんて、夢みたい」
そこまで口にした時は、まだ幸せそうだった。しかし、暁美ほむらと目を合わせた時には、何故だか暗い目をしていた。
何度か目元を覆うと、巴マミはいかにも楽しげにベベの頭を撫で回す。
「ベベ、チーズなら冷蔵庫に仕舞ってあるから、取りに行ってらっしゃい?」
それを聞くと、ベベが素早くチーズを取りに走っていった。その姿は、ぬいぐるみが走っている様だ。
余程チーズが好きなのだろうか。とてとて、という擬音でも鳴らさんばかりに走り去っていき、冷蔵庫の中で体をねじ込んでいる。
巴マミは、その姿を楽しそうに眺めていた。だが、ベベが完全に冷蔵庫へ入り込むと、身を乗り出して、暁美ほむらにしか聞こえない程度の囁きを口にした。
「ここだけの話、本当にたまに、なんだけど。親に会いたくなるのよね。本当に、たまによ?」
「でも、巴さんは」
「ええ、私の親はこの世にない。私だって死ぬ所だったのよ?」
「……」
内緒の話だと、巴マミは人差し指を口元に当てた。暁美ほむらが頷くと、彼女は満足げに座り直した。正座している為か、普段より背が高い。
「ベベが、私を助けてくれたの。事故に遭った私を引っ張りだしてくれて、それからずっとの付き合い。この子は、私の一番の友達だもの」
「……大切にしたい人が居るのは、素敵な事だと思います」
「そうね。本当に、自分よりも、他の誰かよりも大切な人が居るっていうのは、とっても良い事だわ」
巴マミは正面から暁美ほむらを見つめる。
「そういう人、暁美さんには居る?」
思わず言葉を詰まらせてしまう。自らの内心を口にして良いのか、悪いのか。暁美ほむらには判断がつかない。少し迷い、軽く頷くだけに止まってしまう。
しかし、それで十分だった。巴マミは関心の有りそうな息を吐き、戻ってきたベベを膝に乗せた。
「暁美さんって、何だか変わったわね」
「それは、確かに前よりは」
「あ、いいえ。雰囲気とかの話じゃないの。何だか、物の見方が変わったのではないかしら」
小首を傾げて、暁美ほむらは聞き返した。
「見方が?」
「ええ。だって、前までの暁美さんって、何だか……そう、魔法少女になってやりたい事とか、そういうのを見つけられていない様な気がしたの」
指を立てると、説明を口にする。
「ほら、鹿目さんは、みんなの役に立ちたい、美樹さんは、誰かを助ける魔法少女になりたい、佐倉さんも似た様な感じでしょう? 私は……まあ、飛ばすとして」
頬を掻いて薄く笑い声をあげると、巴マミは軽く咳払いをする。言葉を整えると、彼女は紅茶をまた飲んだ。
そして、カップを静かに置いた。
「暁美さんは、そういう、魔法少女としてやりたい事が無かった気がするの。あ、それが悪いんじゃないわよ? ただ、みんなが魔法少女だから、自分も魔法少女として戦う、そんな感じだった」
それは、魔法少女になった時の記憶を失っていたのだから、当然の事だ。
巴マミの淡い黄色をした瞳が、真実を突いている。暁美ほむらは動揺を隠して、声音を押さえつけた。
「でも、今は違う、と?」
「今の暁美さんは、自分の気持ちで、自分のやりたい事、やるべき事の為に魔法少女をやっている様に見えたのだけど、違う?」
疑問をぶつけられ、暁美ほむらの返答はかなり遅れた。
「違いません。巴さんは鋭いですね」
「ふふ、みんなより一つ先輩なんだもの。暁美さんは慣れるまで心配だったから、特によく見ていたのよ」
だから変わった事に気づいた。巴マミはそう言って締めくくった。
だが、どこか得意げな面持ちから一転して、巴マミは表情を薄暗く染めた。
「ねえ、暁美さん。最近、佐倉さんと一緒に何かしているのよね?」
唐突な言葉に暁美ほむらは驚いたが、即座に心を引き締めた。それでも動揺が前に出てしまう。
「……気づいていたんですか」
「ええ。二人とも、時々何か話しているでしょう。楽しい話とかじゃないのは分かるの。きっと、私には余り関わって欲しくない事なのね?」
巴マミの目は何もかも見透かしていた。表情は笑っていて、あくまで穏やかそうに見えたが、内心は全く違う物だろう。
何かを答えようとして、暁美ほむらは膝の上で小さく拳を握る。
「巴さん……」
「良いの、そんな顔をする事は無いわ。ただ、もし何か有ったらすぐに私へ言って欲しいのよ」
素早く横に座ると、巴マミは暁美ほむらの鼻先に指を向けた。頼もしげに胸を張った姿は力強く、どんな困難とも戦える様だった。
暁美ほむらは自然と頷いていた。すると、巴マミの目つきは一層優しい物となった。
「なら、良いわ」
足りなくなった紅茶を注ぎ、また口にしている。すぐ側でチーズを頬張るベベを愛おしげに眺めて、どこか満足そうだ。
この話は、ここで終わりの様だ。暁美ほむらはそう直感した。
「……美樹さんを励ますのなら、ケーキのお店も押さえておきましょう」
話題を変えるべく、暁美ほむらはその場で適当に思いついた事を口にする。
意図は伝わったのか、巴マミはすぐに話へ乗った。
「そうね。暁美さんは美樹さんの好みを知ってる?」
「いいえ」
「だったら、私と鹿目さんで選ぶわね。だけど暁美さんも味の方は確認して欲しいから、それで良い?」
自分の舌に自信はまるで無いものの、暁美ほむらは何となく頷いた。何となく、嬉しそうな雰囲気すらも漂わせていた。
眼鏡と三つ編みが変わらないからか、纏う気配も外見に引きずられている様だ。
「みんなで仲良く出来る様に、頑張りましょう、ね?」
「……はい」
大人しく纏まった態度を取ってしまい、普段の自分が出し難い。暁美ほむらにとって、それは多少の苦痛が有った。
しかし、巴マミの笑顔に向かって、戸惑いを告げる事は無かった。