放課後に鹿目まどかが一人で下校している姿を見て、暁美ほむらは思わず走った。その背中が、どこか悲しい様に見えたからだ。
近づく足音で気づいたらしく、鹿目まどかは振り返り、嬉しそうに手を振ってきた。それだけで、全てが報われた様に思える。
暁美ほむらは足を弾ませ、こぼれた笑顔を隠さずに現した。
「まどか、一人? 珍しいわね」
「あ、うん。ほむらちゃんも今日は一人?」
問い返しを受け、暁美ほむらは答えを慎重に選んだ。
「ちょっと美樹さんと話が有って。彼女は佐倉さんと一緒に何がする事が有るみたいで」
「あ、だからさやかちゃんは用事が有るって言ってたんだね」
「……巴マミは? 彼女には声をかけなかったの?」
「マミさんも忙しいみたい。なぎさちゃんとの用事かな」
「なぎさ?」
「え、うん。マミさんの妹さん……みたいな子かな」
「へえ、彼女にそんな子が……」
美樹さやかと佐倉杏子は、調査の為に見滝原を走り回る予定だ。足で情報を稼ぐつもりらしく、二人とも考えるより体を動かす方を優先していた。
鹿目まどかは何も知らない。美樹さやかと佐倉杏子の仲が良い事を楽しげに語り、密かに暁美ほむらの側へ手を寄せている。
意識しての事ではないのだろう。鹿目まどかは、何も特別な態度を見せない。それでも暁美ほむらに手を握られると、宝石よりも明るく頷いた。
手を握ったまま歩き、暁美ほむらは人肌の暖かさを感じていた。鹿目まどかの体温だと思うだけで、それがどれほど途方も無いくらいの奇跡なのか、分かる者には分かってしまうのだ。
涙は流れなかった。しかし、彼女から生じた不自然なまでの喜びは、外に出てしまった様だ。
「ほむらちゃん」
「うん、何かな?」
「んー、なんかね。とっても嬉しそうだったから」
全くその通りだった。しかし、暁美ほむらは動揺の一つも無いまま小首を傾ける。
「そう?」
「うんうん。何か良い事が有ったの?」
「いえ、特には無いけれど……そうだね、今が楽しいから、かな」
嘘では無かった。暁美ほむらは、鹿目まどかと一緒に居る事が出来るだけで幸せなのだ。それだけで、他の何も要らないくらいには。
しかし、その様な内面を見せる気は毛頭無い。暁美ほむらは己を隠し、鹿目まどかとの会話を続けた。
「まどかこそ、何だか楽しそう」
「そうかな? そうかも。ほむらちゃんがくれたお弁当のお魚が美味しかったからかな?」
「そう? 今度、まどか用のお弁当も作ってきましょうか?」
「それなら、わたしもほむらちゃんに食べて貰うお弁当を作るよ! 毎日作る物だから、ちょっとだけ自信が有るんだ」
「ええ、それは良いわね。今度、やってみましょうか」
いつ、どこで互いの弁当を作るか。その会話を続けながら、暁美ほむらは手をもう少しだけ強く握る。
話が纏まると、鹿目まどかは何やら柔らかな視線を向けた。
「何だか不思議。ほむらちゃんって、昔からわたしを知っていたみたい」
暁美ほむらはその一言に少なからず衝撃を受けた。しかし、作り上げてきた仮面はその程度では崩れなかった。
「うん、不思議ね。でも、もしかすると本当に知っていたのかもしれないよ?」
「もしかすると、小さい頃に一度だけ会った事が有るとか、かなぁ……?」
鹿目まどかは記憶を思い浮かべている様だが、思い当たる所が無いのか、残念そうに首を横へ振った。
「うーん、私は覚えてないよ? ほむらちゃんの事だって、転校してきた時に初めて知ったし」
「そうね。私もそう」
嘘は言っていない。多少の心苦しさは有ったが、暁美ほむらは誤魔化した。
鹿目まどかは暫く考え込んでいたが、やがて無駄と悟ったらしく、頭を小さく叩いて後は笑う。そこで何事か思いついたのか、暁美ほむらの顔を覗き込んだ。
「そうだ、ほむらちゃん。明後日は空いてる?」
「ごめんなさい、明後日は先約が有るの。美樹さんや、佐倉さんと」
余計に心苦しい思いを抱きながらも、暁美ほむらは平静を装う。
鹿目まどかは特に残念がりはせず、軽く頷いた。
「そうなんだ……うん、それならさ!」
鹿目まどかは手を叩き、暁美ほむらの視線を集めた。
「あのね、明日、こくかちゃんが私の家にお泊まりするんだ。だから、ほむらちゃんも一緒にどう?」
「え、こくかと?」
「うん、こくかちゃんと」
暁美ほむらは鹿目まどかの目をまじまじと見つめてしまい、照れくさい気分で顔を逸らす。しかし、内心では疑念と動揺が何度も交差している。
詐衿こくかが、鹿目まどかの家に泊まる。それほど不思議ではなかった。どちらも相手に危害を加える事は無いだろう。
鹿目まどかの身の危険は、詐衿こくかが守るだろう。余りにも怪しい詐衿こくかの中で、数少ない信用出来る一点だ。二人が同じ部屋で寝る事の邪魔をする理由は一つも無く、暁美ほむらが加わったとしても良い点は何一つ無い。
断るべきかと、暁美ほむらは結論付けた。しかし、鹿目まどかが自分を見ている事に気づいてしまえば、拒否出来るとはまるで思えなくなった。
「……どうしたの、ほむらちゃん?」
「えっ、ううん、いえ、ちょっとね」
同じ部屋で泊まるとなれば、こくかの事を調べる目的としては、最適過ぎた。
断るよりも、加わる方が利点が多い。自分の中の天秤が傾き、暁美ほむらは思わず俯いた。
「……本当に、私も行って良いの?」
「うん、もちろん! むしろ来て欲しいくらい!」
「そう、なら」嬉しく思いつつも、暁美ほむらの胸は痛んだ。「喜んで」
鹿目まどかが軽く手を握り直し、そっと引いてくる。優しい手つきに誘導され、暁美ほむらは歩みを進める。
自分は、鹿目まどかを利用しているのだ。暁美ほむらは目を瞑り、その中で暴れる感情を押さえつけた。
+
暁美ほむらにとって、久しぶりに泊まる鹿目まどかの部屋は、僅かばかりの緊張を掻き立てられる空間だった。
そうでなくとも、隣にはパジャマを着たこくかが立っていて、どこか所在なげに小さな足踏みをしている。邪悪な気配と笑みは何処へ消えたのか、部屋のドアを見ては、また床を眺めている。
鹿目まどかはこの場に居ない。髪を解かしているのだ。二人は既に済ませていたが、彼女はまだだった。
彼女が戻ってくる事を、二人は揃って直立したまま待っていた。端から見ればさぞ馬鹿げた光景だろう。暁美ほむらは、漏れそうになる溜息を我慢した。
「……あなた、随分と態度を変えるわね」
「そんな事言われたって、お泊まりなんて久しぶりだし、まどかが歓迎してくれているし、緊張の一つくらいするよ」
「これが初めてじゃなかったのね」
「まあ、うん」
会話が途切れてしまい、また無意味な沈黙が広がっていく。
部屋の主が帰ってくる事を暁美ほむらは待ち望んだ。余りにも間が持たず、重要な話をするには場所が不適切過ぎた。かと言って、世間話をする間柄ではない。
しかし、余りにも無意味な沈黙である。こくかもそう思っていたのか、頭を掻きながら口を開いた。
「良い部屋だと思わない? 巴さんの部屋はお洒落だけど、やっぱり私はまどかのお部屋が好きかな」
「そうね、まどかは可愛い物が好きだから」
「私の部屋とは大違いで」と繋げ、暁美ほむらは家具やぬいぐるみを眺める。鹿目まどかの好みが溢れた物の数々は愛らしく、まさに夢の様だ。
クマのぬいぐるみを見つめていると、こくかがそのクマを抱き上げた。何やら表情が緩んでいる。
「……まどかって、本当に素敵な良い子だね」
「それはそうだけど、どういう意味?」
「だって趣味も可愛いし、見た目も可愛いし、性格も良い子だし、私達の事もちゃんと考えてくれるし。今日だって私達を歓迎しようって頑張ってくれたし」
「そうね」
演歌は可愛い趣味なのか、と暁美ほむらは口に出かけた言葉を飲み込んだ。その様な意味の言葉ではないと分かっているからだ。
こくかはぬいぐるみを元の場所へ戻し、祈る様に両手を合わせた。
その時、部屋のドアが開いて、鹿目まどかが戻ってきた。
「おまたせー」
「まどか……」
祈る姿勢を止めて、こくかは鹿目まどかへと目を輝かせる。その視線は鹿目まどかの髪型へと向かった。
「何だか久しぶりに髪を解いた所を見た気がするね」
「そうだったかな、結んでるから癖が出来ちゃうんだよね」
「大丈夫、その癖も似合ってるよ」
こくかの一言に疑いの気持ちが有ったのか、鹿目まどかは少し首を傾けて、暁美ほむらへと目を向ける。
「本当?」
「ええ、これに関しては彼女の言う通りよ」
それは全くの素直な感想だ。手入れは終わっている為に軽い分け目が出来る程度だが、鹿目まどかの髪は解いても癖を残して二つに分かれている。
桃色の髪が柔らかく纏まろうとしていて、まるで彼女が桜に包まれている様な光景だ。本人は髪の癖が鬱陶しいのか、軽く掻き上げているが。
「あ、良いよ良いよ。座って?」
「ええ」
言われた通りにベッドへ腰掛けると、鹿目まどかはその隣に座った。遅れてこくかも手招きを受けて、すぐ横に座り込む。
「あ、このぬいぐるみはお気に入りなの。抱き心地が良いんだよ、抱いてみて?」
それは、こくかが密かに抱き上げたクマのぬいぐるみだった。
受け取った暁美ほむらは、ぬいぐるみの頭を撫でた。クッションの様に柔らかく、触り心地は非常に良い。
「確かに、これは良い物ね」
「でしょ? こくかちゃんにはこっちね」
「わふっ、ん、これは良いかも……素敵な癒しだね」
猫のぬいぐるみを膝の上に置くと、こくかは満更でもなさそうにした。
「時々抱いて寝るんだけど、気持ちいいんだよ」
「確かに、抱き枕にしても良さそうね」
「ほむらちゃんもやってみる? 楽しく眠れるよ」
「私の家には、そういうのって無いのよね」
「じゃあ、余ったのが有ったらあげるね」
「いえ……流石に悪いし」
会話を横で聞いていたこくかは、突然笑いだした。
怪訝そうな顔をされて、こくかは機嫌良く首を振る。
「いや、まどかには似合うと思ったんだ。私とか暁美さんはほら、そういうのをすると違和感がね」
「えー? そんな事無いと思うよ? 二人とも女の子なんだし、可愛いから大丈夫っ」
「そうかな? まどかが言うならそうかもね」
どこか嬉しそうに答えながらも、こくかの目は何やら胡乱だった。ぬいぐるみを抱いている姿が、見事なまでに似合わない。
彼女は何の為に鹿目まどかの家に泊まっているのだろうか。ただ友達の家に泊まるだけにしては、余りにも大げさすぎる感情が滲んでいる。
暁美ほむらはその内面を探ろうとしたが、相手の感情を察する事など、彼女には出来ない。もどかしく思っていると、鹿目まどかが顔を寄せた。
「二人とも、何だか緊張してる?」
「え、いや、まあうん」
「お泊まりなんて久しぶりだからかしら……」
暁美ほむらは緊張を現した。
隠さずに内心を見せた事が幸いしたらしく、鹿目まどかが意外そうに目を開け、すぐに楽しそうな息を吐く。
「楽にしていいのに」
「そうね……お泊まりくらいでちょっと大げさかもしれなかったわ。次に来る時はもっと軽い気持ちで来た方が良さそうね」
「ほむらちゃん、そんなに難しく考える事なんて無いと思うよ。普通にしてくれて良いんだから」
言われてみればそうだ。友達の家に泊まるくらいで重苦しく考える事もない。
友達、友達なのだ、鹿目まどかにとっての暁美ほむらは、手が届く所に居る友達なのだ。その事実が、暁美ほむらには涙が出る程に嬉しい物だった。
だが、泣く訳にはいかない。だからこそ、彼女は笑った。
「何だか、重く考えてしまったみたいね」
「うん、その顔だよ。それで良いと思う」
笑い合うと、気分が軽くなる物だ。暁美ほむらはそれを知った。
「ねえ、次はほむらちゃんの家に泊めて貰ってもいい?」
その言葉にこくかが反応した。「おや、私の家に来てくれても良いんだよ?」
「うん、こくかちゃんの所にも今度遊びに行くから、家の場所を教えてね」
素直な言葉にこくかが一歩退く。「……分かった。まどかなら何時でも歓迎するよ」
腕を広げて歓迎を示すと、鹿目まどかは何度か頷く。
そして、鹿目まどかは気が抜けた様な小さい欠伸をする。
「んん……遊び疲れたのかな……ちょっと眠くなってきちゃったかも」
「なら、そろそろ寝ましょうか」
暁美ほむらは立ち上がり、殆ど同じタイミングでこくかもベッドから起きた。
「ところで、私達はどこで寝ればいい?」
「あれ、一緒に寝ないの?」
「いや、まどかが窮屈だったらイヤだからね。ねえ暁美さん?」
「ええ、そうね」
暁美ほむらは同意した。
同じベッドで寝るのも楽しげではあるが、鹿目まどかを圧迫する様なつもりは無く、気持ち良く眠って貰う事を優先する。
ただ、等の鹿目まどかは疑問を顔に浮かべて、ベッドの中央に座り込んでいた。
「うーん、わたしは気にしないよ? 三人ならベッドに収まりそうだと思う」
鹿目まどかは布団を持ち上げ、二人を誘った。
二人は顔を見合わせて、視線だけで会話をする。答えはすぐさま決定した。
「暁美さん、まどかを挟む形になるけど、良い?」
「ええ、そうしましょう」
珍しい事に、暁美ほむらはこくかと意見を合わせた。
鹿目まどかが、どこか不安げな雰囲気を漂わせていたからだ。断るという選択肢は最初から存在しない。
微かな緊張を抱きつつも、暁美ほむらは鹿目まどかの隣へ潜り込んだ。人と一緒に眠るなど、何時ぶりだろうか。
「こくかちゃんもおいでー?」
「え、ええっと。はい」
迷いながらも、こくかはベッドに入り込んだ。
一人用のベッドに三人が収まるのだ。かなり密着せねばならなかった。が、暁美ほむらは暑苦しく思われない程度に離れようとした。
しかし、身体が半分ベッドから外れてしまい、いつ落ちるかも分からない。暁美ほむらは妥協した。
「まどか、もう少し寄っても良い?」
「もちろんっ」
許可を得て、暁美ほむらはそっと近づいた。殆ど真横に鹿目まどかの顔が来た所で、やっとベッドから身体がはみ出ない位置に来た。
「私も良いかな?」
「どうぞー」
こくかも同じように近寄った。いや、暁美ほむらよりも少しだけ遠慮したのか、距離が僅かに遠い。
「誰かと一緒に寝るなんて久しぶりかも。前はいつだったかな……?」
「何時だって良いじゃない。それよりまどか、暑苦しくは無いかな?」
「平気だよ。むしろ楽しいかも。こくかちゃんも平気?」
「私は大丈夫。それに、まどかが楽しいなら安心だね。女二人が張り付いているのだから、正直寝心地は悪いと思ったから」
「結構良い気分なんだけどなあ……二人とも良い匂いだし」
「ちょっと恥ずかしいな」こくかが照れる仕草を取った。
「えへへ、ごめん。でも二人とも本当に良い匂いだよ? 何か特別な物を使ってるの?」
「まどかと同じシャンプーを使っているからだね、きっと」
「そうかな……?」
「ええ。まどかも良い香りがするわ。間違いないと思う」
鹿目まどかの髪からは良い香りがする。それは心地良いが、彼女の素の魅力が強調するからこそ溢れる物だ。こくかから同じ香りがした所で意味は無い。
パジャマ姿の鹿目まどかは普段よりも幼く見えるが、その緩くも暖かな面持ちは、余りにも心を軽くしてしまうだろう。
ここまで安らいだ気分になるのは、何時だっただろう。暁美ほむらは記憶を漁ったが、随分と昔の事で、もう身近な記憶では無くなっていた。
気づけば、暁美ほむらは鹿目まどかを求める様に手を伸ばしていた。昔は遠く届かなかった指先が、今やすぐ目の前に有る。
鹿目まどかは拒絶せず、手を握り返した。無邪気で、不安や悲しみとは無縁そうな、ただほのかに眠たげな目つきが、暁美ほむらに強い喜びを与えた。
「ね、ちょっと触ってもいい?」
「え? 構わないわよ……?」
喜びに浸っている内に、鹿目まどかの言葉を受けていた。何処を触りたいのか、改めて確認するのも恥ずかしく、ただ黙って待った。
鹿目まどかは許可を得ると、身体を暁美ほむらへと向けた。
何をするつもりなのか。多少の不安と共に暁美ほむらが待っていると、鹿目まどかは確認する風に相手の脇腹をさすった。
ゆっくりとした手つきにくすぐったさを覚えたが、暁美ほむらは戸惑うばかりで、止める事は出来なかった。
「ん、やっぱり」
「まどか?」
「ほむらちゃんって、肌もとっても綺麗だけど、ちょっと痩せすぎだと思うんだ。お風呂に入った時に分かったんだけど、骨が結構浮き出ちゃってるし……細くて綺麗だけど、何だか気になっちゃって」
「そ、そう? あんまり食べないからかしら……最近はそんな事も無いんだけれど……」
暁美ほむらは思わず自分の脇腹から肋骨の周辺を撫でたが、硬いだけだ、細いとは感じない。
「ねえねえまどか、私は?」こくかが興味深げに尋ねた。
「こくかちゃんも意外と、って言ったらなんだか失礼だけど、細いよね。あんまり色々と食べないのかな?」
「うーん、まあね。そういう感じかも」
「ストレスとか?」
「いや、どうだろう。特にそんな感じはしないけど……意識しないでも何か気になる事とか、有ったりして?」
「難しいね」と鹿目まどか。眠気が強まったらしく、目つきがとろけている。
天井を眺めつつ、鹿目まどかは幸せそうな息を吐いた。
「でも、いいなぁ。二人とも綺麗だもん」
「ううん。やっぱりこうして至近距離から見ていると、まどかは本当に可愛いと思うんだ。きっと絶対、私達よりも沢山の人に好かれる様な感じがね」
「そ、そうかな」
「そうだよ! 自信を持って? いや、あんまり自信過剰なのは良くないけど……」
そしてこくかは鹿目まどかの両手を握る。浮かべられる限りの明るさを表情に現す。
言葉を溜めると、こくかは目を細めた。
「最初に会った時から良い子だと思っていたんだよ。この子となら一生友達になりたいってくらいっ」
「えへへ……そう?」
「うんっ」
素直に賞賛を受け入れたのか、鹿目まどかは淡い声の仲で、満更でも無さそうに照れている。
声のみであっても伝わってくる感情は、暁美ほむらにとっても喜ぶべき物だった。自分達と一緒に居て、鹿目まどかが不快に思う点は欠片も無い。そう確信出来るのだから。
「……こくかにしては、良い事を言うわね」
「でしょう?」
得意げな表情からは、この世界を作り上げた黒幕を称する様な気配が微塵も無かった。
ただ、鹿目まどかと一緒に居る事が出来る。それが幸せなのだろう。恐らくは自分も似た様な顔をしているに違いない。そう思うと、暁美ほむらは布団で顔を隠した。
それでも耳は働いている。暁美ほむらの聴覚が捉えたのは、鹿目まどかの安堵だった。
「……良かった。二人とも、仲が良くって」
「え? そうかな……?」
「うん、思ったよりずっと気が合うみたいで。何だか安心しちゃったかも」
鹿目まどかが欠伸をする。今にも眠ってしまいそうだ。
暁美ほむらはこくかへ目配せをして、僅かに鹿目まどかと距離を作る。そして、布団を肩まで被せ、彼女が心地良く眠れる様に肩を撫でた。
「まどか……そうだね、暁美さんの事は嫌いじゃないよ」
言葉とは裏腹に、こくかが鋭い目で睨んだ。もしも鹿目まどかの望まない事を告げれば容赦しない。そう言っている様だ。
暁美ほむらは頷いた。
「ええ、こくかの事は、そうね、嫌いではないわ」
「そっか……うん、良かった……」
安心したのか、鹿目まどかは目を閉じた。
勘違い、そんな言葉で切って捨てるには、その優しさと気遣いは余りにも眩し過ぎた。
「うん。やっぱり二人とも良い人だもんね……ふぁふ……んぅ」
鹿目まどかは自分で布団を被った。その声を半ば寝息に変えながらも、二人への言葉は忘れない。
「それじゃー……二人ともおやすみなさーい……」
「うん、おやすみ。またあした、だね」
布団をリズミカルに叩きながら、こくかが鹿目まどかの耳元で囁いている。
その声は子守歌の様に聞こえたのだろうか、鹿目まどかは、完全に寝息を立て始めた。ぬいぐるみと間違えているのか、暁美ほむらに腕を絡めながら。
そんな様子を、こくかは柔らかな目で眺めている。
ただ、その表情は。
少しだけ、寂しそうだった。
+
暁美ほむらがそれに気づいたのは、単に寝付けなかった為だった。
掴まえられて動けなくなっていた所で、すぐ傍の何かが動く音を彼女は耳にする。耳をすませてみれば、ベッドに寝ていたこくかが起き上がっているのだと分かった。
ベッドで共に寝ている為か、鹿目まどかの寝息はすぐ近くで聞こえる。その中で、こくかは天井を見上げている。
「私や暁美ほむらが、良い人、か」
音も無くベッドから這い抜けて、その顔には先程までの暖かさが抜けていた。
余りにも冷淡な声音である。暁美ほむらは、そのおぞましさを明確に感じ取る事が出来てしまった。即座に鹿目まどかを抱き寄せ、下手を打たれない様に守りへ移る。
「暁美さん。まどかは本当に尊いと思わない?
振り向いた彼女の目は、ひたすらに冷ややかだった。しかし、鹿目まどかに視線を移した瞬間、異様な熱が駆け巡っていた。
「……他の何もかもが無くなったって、彼女さえ居れば、私達は生きていける気がしない?」
返事を待つ事も無く、彼女は語り続けた。鹿目まどかを起こさない様に、かなり潜められた声で。
「私はするよ。まどかが居なくなったら、きっと私は生きていけない。死にはしないけど、多分、生きてもいない」
「あなたにとっては、どう?」普段とは異なる空気を漂わせ、真摯に問いかけている。
しかし、暁美ほむらは無言で返す。彼女にとって、それは答える事すら無意味な言葉だった。当たり前だからだ。
「だろうね」
正確に解釈したのか、こくかは嬉しげだ。
ベッドの中で鹿目まどかが寝相を一つ。より強く腕を絡めてくると、暁美ほむらは顔を上げられなくなった。
「可愛い寝相」
冷ややかな中で、微かに暖かさが首を持ち上げた。しかし、その顔色を暁美ほむらが確認する事は叶わない。
こくかは部屋のドアを静かに開き、もう一度振り返る。
「少し、出るよ」
「……何かするつもり?」
「疑わないで欲しいな。私だって、まどかと一緒にお泊まりなんて本当に嬉しくて、ずっとこうしていたいんだから」
その言葉には真実が有った。心の底から鹿目まどかとの友好を求めているのが、ただその声だけで伝わってきた。
しかし、こくかはドアを開けていた。開けていたのだ。
「だけれど、私にもやる事が有って、やらなきゃいけない事も有るんだ。残念だけどね」
心の底から残念でならなそうに告げると、彼女は暁美ほむらに軽く手を振る。
暁美ほむらは起き上がろうとした。しかし、鹿目まどかは相変わらず腕を絡めて眠ったままだ。
「……動くと、まどかが起きるよ。あなたは彼女を巻き込みたいの?」
見透かした言葉だが、真剣な声だと一瞬で聞き取れる物だ。
結果的に動かなくなった暁美ほむらへ、こくかは満足げに微笑みかけた。
「おやすみ、暁美さん。まどかと一緒に良い夢を」
どこか優しい声を残し、彼女はその場から姿を消した。
+
無人の玄関を抜けた先で、こくかは伸びをした。先程まで寝転がっていた為か、身体が本調子ではないのだ。肩を軽く動かす度に、疲れが滲み出る感触が走っている。
それでも、こくかは笑った。精一杯に邪悪な笑顔となって、鹿目まどかの住む家へ振り返った。きちんと手入れされた庭は、その視界を遮っていた。
暁美ほむらは今頃どうしているのだろう。恐らくは、鹿目まどかに掴まえられたまま、諦めて眠ったに違いない。
鹿目まどかを、彼女を巻き込んで何かが出来る様な人間ではないのだ。暁美ほむらの根には臆病で寂しがり屋の面が有るのだから。
自分も言えた事ではないな、とこくかは小さく笑い声を漏らす。暁美ほむらに対して何かを考える度に、全てが自分へ跳ね返っている。暁美ほむらへの評価は、自己評価と同じなのだ。
「さて」
その一言で、今までの気分を完全に切り替える。こくかは感じ取っていた。自分を油断無く監視し続ける物の姿を。
それは、こくかが鹿目まどかと共に寝ていた頃から纏わり付き、監視を続けていた。
だが、こくかが表に現れた今、姿を隠す必要も無くなったのだろう。暗闇からゆっくりと姿を見せ、俯いている。
「ようやく来ましたね。いや、正直いつまでこうしていれば良いのか、ずっと考えていましたよ」
「……」
「黙っていないで、何か言ったらどうですか。ねえ、マミさん」
美しい黄色の髪を可愛らしくロールにセットした少女は、彫刻の刻まれた白のマスケット銃を片手に握り、何も言わず、目も瞑っている。
魔法少女の姿をしている所からして、既に戦闘態勢だ。しかし、こくかは変身せず、両手を挙げて近づいた。
「本当に待ちましたよ。結界の作り手を名乗る者が現れたならば、この夢の世界を維持している者が放っておく筈が無い。そう思ってずっと嫌な奴を演じさせられたのに、今まで接触を行わないなんて。折角まどかと楽しく過ごせていたのに」
わざとらしく溜息をひとつ。そして、冷ややかな視線を投げかける。
「どうして、今なんですか?」
「……あなたが、本格的に動くと思ったから」
「だから今。まったく……大正解。まどかとの楽しい時間も、そろそろ区切らないと、なんて思っていた所です」
こくかは冷や汗を拭いもせず、両手を大げさに振った。
巴マミの声は余りにも平坦すぎたのだ。まるで人ではなくなってしまったかの様で、目を合わせるのも躊躇させる何かが有る。
ただ、巴マミの様子に絶望は無かった。希望も無かったが。
「それで、マミさんがこの夢を維持していると思って良いんですか」
「……ごめんなさい」
「……?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、こくかさん」
銃撃がこくかの頬を掠める。
こくかはやっと魔法少女へ変わった。
二度目の銃撃が行われた時には、こくかは左手に握っていた拳銃で弾き返し、背後へと飛ぶ。着地した所で、こくかは鹿目まどかの自宅へ視線を向け、意識的に眉を寄せた。
「私を殺すんですね……でも、それじゃ私は死なないんですよ」
「分かってる。分かってるのよ。だから、ごめんなさい」
巴マミの形が崩れた。それはリボンの塊で、こくかを捕らえようと向かっていった。
しかし、こくかは最初から分かっていたのか、即座に天へ飛び上がって電柱へ立った。周囲で何かの影の様な人型が現れ、近づくリボンを切り伏せた。
こくか自身は周囲を見回し、巴マミを探す。その優れた感覚でも、相手の姿を捉えられない。
巴マミはどこにもいない。よほど上手く隠れているのか、それとも、こくかの探知が鈍く弱いのか。定かではないが、結果として、こくかは不満げに舌打ちをする。
「巴マミ、聞こえているなら言っておくけどね。あなたは私の敵じゃない。少なくとも、私は敵だと思っていない。どうしてだか、分かる?」
こくかはヘラヘラと語った。
「あなたなんて敵じゃないから、と言いたいけど、実の所違う。だって、あなたにこんな大それた真似が出来る筈が」
ないもの。そう続けようとした瞬間、こくかは悪寒を感じてその場から逃げようとした。だが、変化が圧倒的に早い。
こくかの周囲の全てがリボンへと変わる。住宅街の、鹿目まどかの家を除いた全てが。
天の月までもがリボンへと変わり、あらゆる全てがこくかを捕まえようと迫った。まるで、この世界から排除されているかの様に。
決着は一瞬で、悲鳴も口にしないまま、こくかは全身を拘束されていた。
ただ、こくかはまだ退屈そうな表情を崩さなかった。
「……やられたよ。まさか、ここが全て君の魔法の範囲内なんて。随分と魔力を無駄遣いに……ああ、いや、無駄に使っても問題無いのかな?」
リボンの中から巴マミが生まれ、こくかの直前で降りてきた。
新しいマスケット銃を片手に、彼女は目を開けていた。濁ってはいない。ただ、深く暗い。
「私の勝ちみたいね」
「まあね、戦う前から負けた。なに、これ。周囲が全部罠なんて、流石に想定外さ」
お手上げだと言い放ち、こくかは溜息を吐く。
「で? 私をどうするんですか、センパイ」
あくまで余裕は崩さず、挑発的な対応を取っている。そこに危機感は僅かにもなく、ただ当たり前の様にふざけた笑い顔を晒す。
負けているというのに、まるで勝っているかの様だ。いや、彼女は勝っているのだろう。この世界を操っている者の正体を見破ったのだから、勝利なのだ。
「試してみますか、その銃で私を撃って、どうなるか」
「……」
しかし、巴マミの行動はその勝利をあざ笑うかの様だった。
彼女は、銃をこくかの左手の甲へ近づけた。ソウルジェムのある、その左手へ。
途端にこくかは表情を変えた。余裕が消え、息を飲んで巴マミを凝視した。
「知ってるわ……あなたの、魔法少女の命は、そこじゃなくて……それ、ソウルジェム、なんでしょう」
「……まさか」
巴マミは答えない。代わりに、銃声が返事をした。
硝子細工が割れる様に、こくかの手の甲に備わったソウルジェムが砕けた。
「これを壊せば、どうなるか……知ってるわ」
巴マミは崩れ落ちる。こくかは目を見開いたまま、まるで動かなくなっていた。
マスケット銃は転げ落ち、巴マミは地面に頭を埋めた。
「ごめんなさい……」
その場に残ったこくかの身体を持ち上げ、巴マミはゆっくりと、物音を立てずに去っていく。
周囲の風景は元の通りに戻り、戦闘とも言えない戦いは終わっている。砕けたソウルジェムの破片は散らばり、元の形を失っていた。これでは、何が起きたかを知る事は出来まい。
ただ、しかし、微かに残った影だけは、その場での事を記憶していた。