大切な友達が瞬く間に逃げ去ってしまい、鹿目まどかは取り残された形となった。
追いかけようとしたが、暁美ほむらは必死でどこかへ走っていき、見えなくなってしまったのだ。
その場で立ち止まっていた鹿目まどかだったが、もうこの場所に用事はない。立ち去ろうと足を進めた所で、見慣れた先輩が姿を見せた。
「マミさん?」
「こんな所に居たのね」
巴マミが駆け寄っても、鹿目まどかは特に警戒を抱かなかった。
巴マミは優しい先輩の顔をしたままだ。全く自然と手を握り、一つの曇りもない笑みを見せている。
「わたしを探していたんですか? あ、もしかしてこくかちゃんが見つかったとか?」
「あ、そういうのじゃないんだけれど……そうね、鹿目さんに少し、やって貰いたい事があって」
「やって貰いたいこと?」鹿目まどかは思わずオウム返しをした。
「そう、やって貰いたい事なの」悪戯っぽく微笑む巴マミ。
今日の巴マミは少しばかり強引だった。軽く手を引き、鹿目まどかを連れていこうとしていた。だが、戸惑いを抱かれていると察したのか、咳払いを一つしてから、改めて顔を向く。
「少しで良いから、一緒に家へ来てくれないかしら。今、時間は平気?」
「大丈夫です。あの、何かするんですか?」
「んー? そうね、あると言えばあるし、無いといえばな無いのかも?」
とても楽しそうにそう告げると、巴マミはまた鹿目まどかの手を引いた。それまでよりも丁寧で優しい手つきだ。
鹿目まどかは安堵して、肩の力を抜いた。
「とりあえず、話があるの。来てくれる?」
「は、はいっ」
鹿目まどかは、巴マミの少し後ろを行く。
歩きながら、二人は世間話や最近のナイトメアの話題、魔法少女達に関する話をした。巴マミの表情は決して見えなかったが、口振りは普段と変わらず穏やかで柔らかい。
尊敬すべき先輩だ。
一抹の不安すらも払拭された所で、二人の魔法少女は目的地へ到着していた。
巴マミはドアを軽く開き、先に入る様に促した。
「さ、鹿目さん」
「はーい、お邪魔します」
慣れた調子で部屋へ入ると、鹿目まどかは小さく息を吸った。紅茶の良い香りの中に、ほんの僅かなチーズの匂いが混ざっている。
それは決して不快な物ではなく、来訪者を歓迎する様に優しげな香りだ。疑う気持ちを持たないまま、鹿目まどかは振り返る。
そこで、巴マミが玄関の鍵をかけ、それをリボンで覆い尽くしている事に気づいた。
「マミ……さん? どうしたんですか?」
玄関の扉を完全に密閉すると、巴マミがゆっくり振り返る。その表情は、やはり柔らかなままだ。笑顔で、何一つ曇りがない。
そう、曇りが、何一つ、ない。
「鹿目さん。あのね」
その歩みは、静かな物だった。
ただ、鹿目まどかが気づいた時には、巴マミは既に彼女の両手を掴み、顔を近づけてきていた。
「え、あの?」
「ごめんなさい、騙す様な事をして。でも、大丈夫よ。危害は加えないから」
戸惑う鹿目まどかを、巴マミはゆっくりと部屋の中へ連れ込んだ。
特別な所は何一つない、ただの巴マミの部屋だ。テーブルの上には冷めた紅茶が二つ置かれて、食べかけのチーズケーキが転がっていた。
「だ、騙すって、なんの事ですか?」
「ん、そうね……あら、意外と……騙してなんかいないのかもね」
軽く舌を出し、巴マミは楽しげな吐息を漏らす。普段は多少の優雅さを纏っているが、今日はそれがまるでない。
そのまま手を引き、鹿目まどかをテーブルの前にまで運ぶと、巴マミはすぐに一歩引いた。
「さ、座って?」
「あ、はーい」
何の疑いも抱かないまま、鹿目まどかはその座布団に座った。
その身体が座る姿勢に移った瞬間、巴マミは目を逸らした。
「マミさん?」
「ごめんなさい」
途端に、座布団の中からリボンが生まれた。何の警戒もしていなかった鹿目まどかが、それから逃れられる筈もない。
リボンは即座に鹿目まどかを拘束した。戦闘に使われる物より遙かに縛りが緩いが、決して獲物を逃がさない。
「へっ!? マミさん!?」
「ごめんね、鹿目さん。騙してなんかいないけれど、やって欲しい事があるの」
対面席へ座ると、巴マミは紅茶を一口飲んだ。冷めたままだからか、あまり良い味はしていない風である。
それでも巴マミは紅茶を飲み干した。拘束された鹿目まどかに一瞥をくれたが、決して目を合わせはしなかった。
「あのね、鹿目さん。ここはあなたの世界なのよ」
「え、え?」
「ここは、あなたが見ている世界。あなたの心の中の世界。あなたが目を開けたら消えてしまう。そんな世界なの」
鹿目まどかには、その言葉の意味はまるで理解できない。ただ、自分の先輩が、何やら怪しげな事を口にしている事だけは分かる。
「あなたにはこのままでいて欲しいから、このまま生きて貰わないといけなくって」
「ど、どういう事ですか?」
「分からなくてもいいの。ただ、怖い事じゃないわ。ずっと幸せな夢を見続けるだけ。何も問題はないでしょう?」
鹿目まどかの前に置かれたカップに紅茶を注ぐと、巴マミが立ち上がった。
溢れる寸前まで注がれた紅茶を手に、彼女は鹿目まどかのすぐ隣へ座る。湯気が顔に当たって、鹿目まどかは熱さを感じた。
「あ、あの、マミさん。も、もしかして罰ゲームとかですか?」
「いいえ? ああ、確かにこれは少し熱すぎたかしら」
待っててね、と口にすると、巴マミは魔法で紅茶を冷たくする。そして、改めてカップを持ち、そのまま鹿目まどかへ近づけていった。
「さあ、鹿目さん。このまま、この世界で永遠に過ごしましょう。きっと楽しいわ。これからも、ずっとね」
「さて、それには及ばないんじゃないかしら?」
そんな声が部屋の全てから現れ、窓を突き破った何かが紅茶のカップを撃ち抜いた。
中の紅茶が巴マミの手を濡らすと同時に窓ガラスが大きく割れる音がして、空から黒い人影が落ちる。
その人影の黒髪が舞った。巴マミは即座にマスケット銃を取り出したが、僅かに遅い。黒髪が揺れたかと思うと、そこは既に巴マミの懐だった。
悲鳴をあげさせる間も与えず、黒髪は巴マミを攻撃した。
どんな攻撃だったのかを知る事を許さない一撃が容赦なく迫り、そして、巴マミは吹き飛んだ。
「マミさん!」
鹿目まどかが悲鳴をあげた。腰を上げようとしたが、リボンの拘束はまだ続いている。
黒髪の影は巴マミに追撃をかけた。しかし、巴マミは既に姿勢を立て直しており、軽々と壁を蹴って避けた。
それすらも予想通りだったのだろう。黒髪は、巴マミが避けた方向へ回り込み、致命傷を与えるべく動く。
「やめてぇっ!」
もう一度、鹿目まどかの悲鳴が部屋の中で響いた。
黒髪の影は一瞬だけ動きを止めた。その隙に、巴マミは影を蹴り飛ばし、窓から飛び出す。
人間なら死ぬ高さだが、問題はない。彼女は空中でリボンを使い、建物の間を潜り逃げていった。
「……まどかを狙うなんて、あなたも随分と大胆ね。繊細で弱かった頃とは大違い。成長したのね、巴マミ」
窓際に立つと、右手で髪をかき上げた。
割れた窓ガラスの破片を踏まない様に避け、鹿目まどかの前に立つ。その表情は、何ともいえない暗さを帯びている。
「ほむら、ちゃん?」
「驚かせてごめんなさい。だけど、まどかが無事で良かったわ」
暁美ほむらは首を傾け、口元を歪ませる。
魔法少女としての姿も、声もそう変わりない。聞き慣れた、見慣れたものだ。ただ、その目だけは鹿目まどかがそれまで一度も見た事が無いほどに冷たかった。
地獄の氷を切り出してきた様に見えてしまう。思わず、鹿目まどかは息を呑んだ。
「ほむらちゃん、マミさんが……」
「彼女はあれくらいで死んだりしないわ。ほら、むしろ私の方が危なかったくらいなのよ?」暁美ほむらは小さく手を叩く。「それより、身体に異常はない? 意識が薄れるとか、そういった事は?」
「な、ないよ?」
暁美ほむらは見るからに安堵した態度を示した。鹿目まどかに向けられた目は、いつもより更に優しかった。
「じっとしていて」
リボンを魔力で力任せに引きちぎると、暁美ほむらは両手を鹿目まどかの腋へ回して持ち上げた。
くすぐったさに鹿目まどかが声を漏らす。すると、暁美ほむらはほんのりと笑い、彼女の背を撫でた。
「立てる?」
「うん、大丈夫……」
しっかりと両足で立つと、鹿目まどかは、目の前の暁美ほむらと向き合った。
よほど心配しているのだろう、立つ際に少しよろけただけで、暁美ほむらは慌てて身体を支えようとしていた。
「まどかっ」
「あっ、ごめん。なんだか少しだけ立ちくらみがしちゃって」
「……もう平気?」
「今はもうないよ。変な感じもしないし」
深刻そうな口振りに、鹿目まどかは思わず笑ってしまった。だが、すぐに巴マミの身を案じた。
暁美ほむらが訝しげに目を向けてくる。「何でもないよ」と鹿目まどかは首を振った。
「そう……さあ、まどか。とりあえずここから出ましょう」
「えっと。あの割れちゃった窓とかはどうするの?」
「それくらい巴マミが何とかするわ。ここは巴マミの領域よ。戻って来られると少し不利になるわ、早く逃げましょう」
「そ、そっか。うん、わかった」
戸惑いを自覚しつつも、鹿目まどかは従うことを決めた。今の暁美ほむらからは、有無を言わさない圧迫感があった。
望み通りの言葉を引き出せた為か、暁美ほむらは機嫌良く鹿目まどかの手を取る。室内には幾つかのトラップが仕掛けられていたが、敵ではない。
「ほむらちゃん、どうしてわたしがここにいるって分かったの?」
「ん……あなたが巴マミに連れ去られる所を見たの」
腕に巻き付いたリボンが魔力の余波で崩れ落ちた。
魔力の質も、立ち振る舞いも、普段のそれを遙かに越えている。何とも頼れる力強さだ。
あっさりと、玄関前にまで到着した。トラップなどまるで問題になっていなかった。
「ふふ、まどかは無防備だから、悪い人に騙されやすそうなのよねー」
「えー? そんな事ないよ?」
「いえいえ、きっとみんなそう思っているわ……さて、やっと出られるわね」
何の感慨も無く、暁美ほむらは玄関扉に手をかける。彼女は、暁美ほむらというには強すぎる。
「待って」
玄関の扉が開けられる音と共に、鹿目まどかの足が止まる。
暁美ほむらは振り返った。それは無表情だったが、何やら不安そうだった。
「どうしたの? 早く行きましょう、ここは危険よ」
そっと手を引かれるが、鹿目まどかは足を動かさず、ただ暁美ほむらを見つめた。
「まどか?」
「……違う」
「え?」
「あなたはほむらちゃんじゃ、ない」
一種の確信が秘められた声だった。
それを聞いた暁美ほむら、いや、そう見える誰かはくしゃりと顔を歪め、深く深く俯いた。
驚き、いや失望だろうか。その中に微かな絶望まで匂わせて、暁美ほむらは顔を上げる。絶望を思い知らされた様な表情をしていた。
「……正解。どうして分かっちゃうかな」
「だって、なんだか……なんだか違うの。ほむらちゃんだけど、ほむらちゃんじゃないっていうか……」
上手く説明できず、鹿目まどかは必死で言葉を探した。そこで、暁美ほむらの全身を改めて眺め、違和感の一つを探り当てた。
「そ、そうだ。ほら、その、左手!」
「?」
「ほむらちゃんの盾がない!」
確かに、そこにはあるべき物が、暁美ほむらが手に入れた時間操作の盾がない。
手の甲にはソウルジェムが備わっており、間違いなく紫色をしている。だが、盾だけがない。彼女の武器だけがない。
暁美ほむらは口を小さく開けたまま、自分の左腕を眺め、やがて呆れた風に溜息を吐いた。
「……ああ、失敗したわ。でも、うん。本当に、まどかって意外に私の事をよく見ていてくれたのね。凄く嬉しい」
そう呟くと、暁美ほむらの形をしたものは両手で顔を覆う。それも一瞬だけのことだ。次に顔を見せた時、それは別人の物に変化していた。
別人は小さくウインクをして、ニコリと、決して暁美ほむらが浮かべることのない、僅かに邪悪で底抜けに明るい笑顔を作りだした。
「私だよ、まどか。私」
「こ、こくかちゃん?」
そこにいたのは、詐襟こくかだった。少なくとも、そういった名前で呼ばれている誰かだった。
ふらふらと、鹿目まどかは驚きながらも彼女に身体を寄せる。顔を近づけてみても、確かにこくかだ。
「あ、あの。どこに行ってたの? 探したんだよ?」
「うん、ちょっと死んでたの」こくかは何の躊躇いもなく言い切った。
「えっ……? じゃ、じゃあさ、マミさんとは何があったの?」
「うーん、色々とね。まどかには聞かせたくない様な事が」その場で壁に背を乗せて、こくかは肩を竦めた。「でも、そっか、私はもう暁美ほむらで居る価値も無いんだね」
どこか涼しげに、しかし寂しげに彼女は告げる。
だが、鹿目まどかには彼女が何を言っているかは分からない。
「どういう意味?」
「こういう意味」
両頬を抱くと、こくかの目が僅かに光った。魔力が現れているのだ。
それに気づいたと同時に、鹿目まどかは意識を失う。何が起こったかを知る事もなく、ただ、戸惑いだけに包まれた。
その場で倒れそうになった鹿目まどかを、こくかはあらんかぎりの注意をもって、繊細なガラス細工を扱うよりも丁寧な手つきで抱き止めた。
気を失っているのではなく、あくまで単純に眠っているだけだ。怪我の一つもない事を見て取り、こくかは目つきを緩ませた。
「本当に、かわいい寝顔」
こくかは、意識のない鹿目まどかを抱きしめる。少しずつ、吐息が震えだしていた。
「ごめんね、まどか……でも、私が暁美ほむらでなくなったって、あなたが、その責任を負うことなんか無いのよ。私の責任は、私の物なんだから」
そこまで口にして何事かに気づいたらしく、割れた窓際へと視線を送る。彼女が見ている場所には、誰かが立っていた。
「あなたも、そう思うでしょう?」
こくかの言葉はその先にいる相手、暁美ほむらへ届く。
暁美ほむらは返事をしない。ただ、鹿目まどかに向かって近づき、こくかの全てを重苦しく睨みつけた。
だが、当人であるこくかは、まるで平気な顔をしたままだ。それどころか、待ちくたびれたと言わんばかりに手を挙げている。
「遅い到着だね、暁美ほむら」
「……巴マミに相談があったのよ」
「そう? なら、本当に遅かったわね。彼女ならもう逃亡した後よ」
「……」
「ああ、大方自分の正体を理解した所? 私が誰なのかだって、もう予想できるわよね」
こくかの堂々とした言動には取り合わず、暁美ほむらはひたすら鹿目まどかを凝視した。
鹿目まどかは眠ったまま、こくかの腕の中で大人しく眠っている。
「まどかに何をしたの」
「……失礼な事を言わないで。私はまどかを傷つけたりはしない。他の全てを滅ぼしたって、まどかには傷一つ付けない」
「今までは散々傷つけてきた癖に……」
「分かっているじゃない。だからもう傷つけたくないの。心も、体も」
こくかの形が剥がれ落ちた中に立っていたのは、間違い無く暁美ほむらだった。
彼女は僅かに首を傾けて、不思議そうにする。
「まどかを離せとか、近寄るな、とか、そういう事を言ってくると思ったのだけれど?」
「言わないわよ……あなたが私なら、まどかに危害を加える事なんか、自分がどこの何になったって出来ないんだから」
暁美ほむらはそう言い返し、相手の姿を見つめ続けた。
目つきの悪さや、どこか退廃的な空気を纏っている所は異なっていた。だが、鹿目まどかの頭を愛おしげに撫でる姿は、紛れも無く暁美ほむらだった。
「とりあえず……まどかを避難させましょうか? 話はその後で、ね?」
不気味な暁美ほむらの提案に、暁美ほむらは小さく頷いて答えた。
+
「まあ、入りなさい」
促されるまま、暁美ほむらはそこへ足を踏み入れる。見慣れた筈の場所だが、どこか居心地が悪い。
そこは暁美ほむらの部屋ではなく、詐襟こくかの部屋だったからだ。
そこは暁美ほむらのよく知る自分の部屋とまるで同じ内装だった。強いて言えば、パラソルが装着された丸いテーブルが置かれている程度だ。
「……」
「部屋がそっくりな事がそんなに不思議? 同じ人間が住む部屋なんだから、部屋が同じであっても構わないんじゃないかしら」
考えを読み取っているのか、同じ人間だから発想が似るのか。暁美ほむらは目を一度深く閉じ、動揺を沈めて精神を落ち着かせた。
「……どうでもいいから、まどかを早くベッドに寝かせなさい。抱き上げられたままだから、少し苦しそうよ」
「ええ、当然」
こくかは、こくかと名乗っている暁美ほむらは、腕の中の鹿目まどかをベッドへと寝かせる。
柔らかいベッドで鹿目まどかが寝心地の良さそうな顔をしている所を確認すると、こくかは満足げに布団を肩までかけた。
「ここなら安全よ、まどか。全部終わるまで、ゆっくりおやすみなさい」
鹿目まどかの額を軽く撫でると、こくかは冷酷な目つきへ戻った。
パラソル付きのテーブルを引っ張りだし、彼女は椅子へ腰掛ける。
使い魔と思わしき人型のものに命令を下すと、それらは指示通りにポットとカップを運んできた。
特に労いもせず、むしろ忌々しげに使い魔を睨む。そして、彼女が小さなポットを傾けると、コーヒーが中から流れた。
「どうぞ、座って」
「……ええ」
注意深く観察しながらも、暁美ほむらは大人しく従った。こくかの背後で鹿目まどかが寝返りを打っていた。やはり寝相が悪い。
自分に視線が注がれていない事に気づいたらしく、こくかは一瞬だけ訝しげに首を傾げ、次いで鹿目まどかを見た。冷たい空気がかき消えた。
「まどかって、結構寝相が悪いのよね」
「ええ、でも、そういう部分も可愛い様に思えるんだから、やっぱり良い子は得よね」
「そうね。私の寝相が悪かったら、きっと色々なイメージが崩れるんじゃないかしら」
面白がった様子でクツクツと笑いつつも、こくかは両手を顔の前で組んだ。どこか妖しく、おそろしい笑顔だ。
だが、違和感はない。自分と同じ顔が邪悪な表情を作った所に、暁美ほむらは何一つ違和感を覚えなかった。
「……今のそれが、本当のあなた?」
「ええ。これが今の、本当の私」
すっかりと暁美ほむらの姿に戻ったこくかは、その耳にかけられたイヤーカフスを撫でた。まるで生きているかの様に蠢くカフスが、嬉しそうに揺れている。
ほとんど自分と同じでありながら、決定的な部分で異なっている。暁美ほむらはそれを感じ取った。
そう考えてみれば、この部屋もまるで別な物に見えるだろう。
「……こんな所に住んでいたのね」
「誰も私の住居を知らないんだもの。あの世界では作れないから、ここで過ごしているわ」
こくかは写真立てに目を向けた。
撮った記憶の無い、鹿目まどかと暁美ほむらが並んだ写真だ。鹿目まどかに機嫌良く抱きつかれ、恥ずかしそうにしている暁美ほむらの姿がある。
そこには文字が書かれている様だった。遠目には何を書いているかは分からない。
しかし、暁美ほむらにはそこに書かれた言葉と、その意味が理解できる。
「……『会いたい』」
「何?」こくかが反応する。
「いえ……その写真は?」
「昔、撮ったんだよ……撮ったのよ」
口調を乱した事が恥ずかしいのか、こくかは小さく咳払いをする。
「あなただって、最初の頃は素直にまどかや、他の人達と友達として過ごしていたでしょう。あれは、その中の一ページ」
天井を見上げたこくかに釣られ、暁美ほむらも同じ様にした。天井には何らかの映像が幾つも映し出されていた。
それはこくかの記憶だった。魔法少女になる前の姿から、今に至るまでの多くの体験が、そこにあるのだ。暁美ほむらにとって見覚えのある映像も、まるで知らない映像も存在していた。
その中で一際輝いているのが、鹿目まどかの姿だった。
「……幸せだった。今にして思えば、人生で一番幸せな日々だったわ」
記憶を切なげに思い返しながらも、その幸せな過去へ戻る気はなさげである。
まさに、暁美ほむらのそれだった。
「……やっぱり、あなたは私だったのね」
「気づかれちゃったかー」こくからしい言い回しだ
「普段から思っていた事よ。あなたは余りにも身勝手で、人を傷つけて、その癖、まどかに嫌われるのは一番嫌がるのに、どうしてか、まどかを避けていく。どうしたらそんな人間が出来上がるのか前々から考えていたのだけれど」渡されたコーヒーで喉を潤す。「……何の事も無い、私自身がそういう人間だった」
「酷い言い方をするわね。自分の事なのに」
「あなただって、私の事を散々に言っていたでしょう。お互い様……いえ、同じ人間だからそう言って良いのかは分からないけど」
こくかが小さく相槌を打ってきた。
「なるほどね。では、答え合わせといきましょうか」
暁美ほむらは頷いた。その為にここへ来たのだ。
鹿目まどかが小さく寝言を口にする。それがこの場で唯一の癒しだ。こくかとの間に漂っている物は、決して友好的とは言えなかった。
同族嫌悪、なのだろうか。
「あなたは、私が誰だと思う?」
こくかは飄々としているが、その実、自分と同じ様な嫌悪を覚えている筈だ。暁美ほむらは、それを肌で感じ取った。
だが、構わなかった。この場で大切なのは事実の確認で、感情は別の問題だ。
「あなたは……そう、私の魔女なのかもしれない」
「惜しいけど、僅かに不正解よ」こくかは笑って続けた。「安心なさい、あなたは魔女ではないし、もっと言えば既に魔法少女とも違う」
「……ええ。そうよ。私は既に魔法少女ではないわ。とっくに、円環の理へ導かれた後の、かつて魔法少女だったもの」
「そう。あなたの正体はそれで間違いないわ」
事実を確認した事で、暁美ほむらは深々と息を吐いた。
自身の左手の甲には変わらずソウルジェムが乗っているが、それが欺瞞であると暁美ほむらは知っている。
「いや、可能性はあると思っていたけれど。やっぱり魔獣との戦いで命を落とした暁美ほむらも存在していたのね」
こくかは自分の左手と暁美ほむらの左手を交互に見比べて、どこか侮蔑した様子を滲ませた。
その侮蔑は他の誰にも読み取れないだろうが、暁美ほむらには手に取る様に彼女の気持ちが分かってしまう。
「……そうみたいね。あなたは、違う様だけど」
「よく分かってる。ええ、となると改めて、挨拶をしないといけないわね?」
多少の気取った態度で、こくかは慇懃無礼に立ち上がる。大仰に礼をして、彼女は病的な瞳を晒す。
「はじめまして、暁美ほむら。私は暁美ほむら。知っての通り私は暁美ほむらの魔女よ。後、悪魔を少しね」
「悪魔?」
「悪魔は悪魔。私は悪魔。別に気にする事も無いわ。過去を繰り返し、希望を胸にしていた少女は、未来の絶望へ落ちて、最後にもっと大切な気持ちを手に入れたのだから」
意味合いの分からない言葉だった。理解しようと考えた所で、こくかが指を突きつけた。
「そこまで行っていないあなたに分かる必要は無いし、むしろ分からない方が良いわね」
座り直すと、素面に戻ったこくかが落ち着かずにコーヒーを飲み干した。
カップの中身が無くなると、彼女は手早くポットからコーヒーを注ぎ足す。
「その名前は何だったの?」
「偽名。ほら。さえりこくか、あえいおうあ、あけみほむら。音が同じでしょう?」
暁美ほむらは少しの間だけ考え、それを理解する。そして、こくかが渋い顔でコーヒーを飲んでいる姿を見つめた。
「さっきから見ていて思ったんだけれど、それ、美味しい?」
「……全然。むしろ最低の味」こくかは呟く。
「だったら飲むのをやめておいたらどうかしら」
幾らか迷ったのだろうか、こくかはコーヒーの表面を眺め、何故か鹿目まどかの寝顔に振り返る。
暁美ほむらの位置は、こくかの表情を見られない。
「……これくらい苦い方が、自分のしてきた事を考えられて良いのよ」
「随分と自虐をするのね」
「あなただって、覚えがないとは言わせないわよ?」
反撃を受けた暁美ほむらは黙った。
確かに、思い当たる所がある。記憶を取り戻した時に抱いた感情の中に、忘れていたかった気持ちが含まれていたのは否めない。
「ほら、やっぱり自分を貶める」
だが、こくかのバカにした風な目を見ていると、暁美ほむらは奮起した。
「あなた、相当に性格が悪いわね」
「それを言うと自分にまで返ってくるって理解してる?」
「私とあなたは別人よ。悪魔なんてふざけた名乗りを上げるなんて、あり得ないわ」
「うん? まあ確かに。でも、何も出来ず、まどかに助けられるだけ助けられた女と一緒にされたくないのよ、私だって」
互いに強い同族嫌悪を向け、二人は鋭く睨み合った。
そのまま戦闘に及んでも不思議ではない程度には険悪だ。暁美ほむらは深く銃を握った。
そんな時、鹿目まどかの寝息が聞こえた。
幸せな寝顔に、幸せな吐息である。何の心配もなく、何のストレスも覚えていない。気楽で、心地良く、何とも愛おしい幸福に包まれている。
二人は顔を見合わせた。そして、どちらともなく首を振った。
「……ここはまどかが作った世界、そこは間違いないの?」
「その通り、ここはまどかの夢の中。あなた達は迷い人、私は外から来た侵略者」
唄う様に告げると、こくかはわざとらしく腕を広げる。
「あなたの記憶は本物だけど、ここは違う。魔女の結界? ……もっとシンプルな物、ただの夢」
「夢、ですって?」
「ええ、夢。まどかが一晩に見る、素敵で楽しい魔法少女のお夢。でも、夢は覚めないといけない物だから」
こくかの目は鹿目まどかを慈しんでいた。当然だ、彼女は暁美ほむらなのだから。
同族嫌悪をなるべく抑え、暁美ほむらは今の話を頭の中で幾度か繰り返す。最初に出会った時に聞かされた話とは、随分と異なっている内容だ。
「あなたの作った結界、ではないの?」
「あれは嘘。酷い嘘よ。真実の一つも突いていない嘘。本当は、まどかが見ている夢の中」
嘘を吐いている様な雰囲気ではなかった。
だが、暁美ほむらはその言葉を疑いに疑った。何故なら、それがありえない事を、誰よりも知っているからだ。
「現実に……まどかは、もう居ないのに?」
「喜びなさい、居るわ」
こくかは心の底から嬉しそうに言い切っている。邪悪極まりない表情が、今だけは幸せと祝福に満ちていた。
「あの子は、この外側に間違い無く居る。何故、という顔をしているわね。簡単な事よ。この世界の外には、魔法少女という概念そのものが存在しないの」
こくかは目を瞑り、夢を見る様に微笑んだ。
「存在しないものは存在しえない。魔法少女が居なければ魔女も無く、魔女が生まれるという理屈が無いなら円環の理は存在しないし、円環の理という概念そのものが存在しない、する意味も無い世界なら……」
「鹿目まどかは……ただの人間として生まれる事ができる?」
暁美ほむらの疑問に、こくかは機嫌良く頷いた。
苦いだけのコーヒーも、今は砂糖菓子より甘く切ない味わいだろう。その喜びは、外側から見ているだけでも溢れ返っている。
暁美ほむらは自分の存在が殆ど忘れられている事に気づいた。
だが気持ちは痛い程に分かった。鹿目まどかが存在する。その事実だけで、何もかもが救われた様な気分になったからだ。
「自分で言っておいてどうかと思うけど、暁美ほむらの魔女が作った結界だなんて、最低の嘘だったわ」
言葉とは裏腹に、こくかはすこぶる機嫌が良さそうにしている。
「ここはね、魔法少女なんか少しも知らない世界の鹿目まどかが見た、友達と一緒に素敵な魔法少女になって、一緒に遊んだり、一緒に戦う夢の中。優しくて温かくて幸せな物になって当然よ」
何の遠慮もせず、こくかは暁美ほむらへ顔を近づけた。
覗き込まれた事に不快を感じても、暁美ほむらは無言で話の続きを促すだけだった。
「あなたなんか、いえ」こくかは言い直した「私なんかが、こんなに優しさに溢れた世界を作れる筈が無いでしょう? 仮に作れたとして、途中で自分を信じきれずに崩壊するわ。私は経験者だから、保証してあげる」
暁美ほむらは反論をしなかった。確かに、その通りだと思ったからだ。鹿目まどかに比べれば、自分の人を信じる気持ちは酷く薄い。
それでも疑問は付いて回った。これもまた、人の言葉を信じきれない証だ。
「……じゃあ、どうして魔法少女の概念が夢の中に有るの。インキュベーターを知らず、魔法少女の真実も知らないあの子が、どうしてここまで精巧に、魔法少女を作る事ができるの」
「そうね。物語の中の魔法少女を元に作られた設定なら、もっと本来の形から遠ざかっていた筈よね。でも、答えは簡単、誰かが、この夢を自分に都合の良い形で改変しているの。魔法少女を知っている誰かが」
明確な名前をこくかは出さない。自分が口にするのを待っているのだろうか。
暁美ほむらは少しの間だけ考え込んだ。可能性として、一番に高い魔法少女は誰なのか。美樹さやかに巴マミ、佐倉杏子、最後に鹿目まどかと自分の姿が思い浮かんだ所で、暁美ほむらは答えた。
「……巴マミ?」
「それも僅かに不正解。彼女は魔法少女を知らない世界の住人だもの」
半ば正解だったのだろう。こくかは首を横へ振ったが、返答を馬鹿にはせず、真剣だった。
「さて、黒幕は誰? 私? それともまどか? 居もしないインキュベーター? 正直に言えば、私も確信は無いけれど、それに近そうな存在には心当たりがあるの」
こくかは答えを言わない。明確な所は一つも告げていない。思わせぶりに指を揺らせていて、馬鹿にしていると思われても仕方がないだろう。
だが、同じ人間だからだろうか、暁美ほむらは直感した。
「……この世界はまどかの夢だと言ったわね」
「言ったわ」
「それなら、この世界はあくまで、まどかの知っている物で構成されている筈、そうでしょう?」
悪魔は頷かなかった。しかし、笑みの混じった対応が、それだけで肯定を示していた。
暁美ほむらは、心の底からこくかに笑いかけた。相手は暁美ほむらだ。少なくとも、鹿目まどかに関する事だけは信頼できる。
「一つだけ、人間のまどかが、魔法少女なんて知らないまどかが、絶対に知り得ない存在が居たわね」
「ええ、居るわね」
いきましょう、と暁美ほむらが告げると、こくかはコーヒーとカップを消失させた。