妙な空気だ。
暁美ほむらはその空気に辟易としていた。居心地が悪く、酷く嫌な気分である。自分の部屋だというのに、息苦しくて仕方がない。
その理由の一つが、自分をじっと見つめるこくかの顔だった。興味深そうな視線が、あまりにも鬱陶しかったのだ。
たまらず暁美ほむらは頭を押さえた。
「さっきから、どうしたの?」
「いえ……」こくかの口振りもどこか鈍い。「こうして見ると、私って意外に美人なのね。いつもまどかが居たから顔なんて見ていなかったけれど」
「……気持ち悪いわよ」
「いや、そうなんだけれども。自分の外見を客観的に見ると、そこそこかって。でも、愛嬌はまるで無いのが欠点?」
冗談を言っている風ではなかった。むしろ、本気で言っているという事実の方が頭が痛む。
自分に褒められたからといって、誰が喜ぶだろうか。むしろ鬱陶しいだけだ。
「大きなお世話よ。というか、あなた、本当に私?」
「ええ、勿論。見て分からない?」
「……分からないわよ、その外見じゃ」
今のこくかは、こくかの姿をしている。
「ああ、そうだったわね」
自分でも外見を戻していない事に気づいていなかったらしい。彼女は思いだした様に髪をかき上げた。長さが足りない。
こくかが黙り込むと、その場では気まずい沈黙が漂った。かと言って、話題の一つもない。ただ、ひたすらに気分が悪かったのだ。
「さっき、人間のまどかが絶対に知り得ない存在が黒幕だと言ったけど」
咳払いを一つすると、こくかは面倒そうに口を開いた。
「実を言うと、あのまどかはあなたを知らないわ」
「え?」
「まだ、鹿目まどかはあなたと出会っていないのよ。だから知らない。もっと正確に言えば、その世界には、暁美ほむらが居ない」
どこか切なげな表情に、暁美ほむらは返答を詰まらせた。だが、それも僅かな間だ。やがて素直な言葉が漏れだした。
「……そう、悲しいわね」
「ええ、とても辛い事ね。でも、ある意味それは、とっても幸せな事かもしれない」
「……」
「だって、暁美ほむらは鹿目まどかが無くては生きていけないけれど、逆は、違うでしょう? この幸せに比べれば、私がいないくらい寂しい事でも悲しい事でもない」
言葉とは裏腹に、こくかはどこか寂しげだ。自分という人間が不必要な世界は、彼女の目にどう映ったのだろう。
「どう、思ったの。この世界の外を最初に見た時は」
「……ただ、本当に嬉しかった。まどかが命を落とさず、魔法少女にもならず、友達や家族に囲まれて幸せに暮らす、そんな世界が有ったなんて。私が居ないくらい、些細で意味のない違いだった」
「そうね、確かに私達が望んだ世界の形なのかも」
「出来すぎているくらいにね」
付け加える様にそう言うと、こくかが何事かに気づいた風に目を見開き、顔を伏せた。
近くにいなければ分からないが、小さな声で何かを呟いている。魔法少女の聴覚は、それを的確に捉えていた。
「……本当に自然発生した平行世界なの? 魔法少女の概念も無く、魔女も無く、魔獣も無く、その上で鹿目まどかとそれに関係する人間が、暁美ほむらただ一人を除いて存在する世界……意図的に……」
「何?」不穏な発言に暁美ほむらが声を挟む。
こくかは首を横へ振った。「いいえ、ちょっと気になっただけ。でも、そうね。もしかすると、そういう事かも」
言わんとする所は、暁美ほむらにも飲み込める。
「……ひょっとすると、まどかが人間として無事に過ごせる世界を願った誰かが居たのかもね。誰かは、分からないけれど」
「ええ、誰かは分からないけどね」
相槌を打ったこくかの表情は、疑問と疑念に染まっていた。よく考えれば当然、とでも言った所だろうか。今まで気づかなかった事が不思議な程に、有って当然の疑問だった。
ただ、同じ疑問を持ちながらも暁美ほむらは少しだけ笑った。誰かが鹿目まどかの幸せを願ったとするなら、それを拒否する意味はないからだ。
「もし、まどかの幸せを願ったのなら、私達はそれに感謝しないと。お陰でまどかがあんなに笑えているんだから」
意外な言葉だったらしく、こくかは首を傾けた。そして、何やら羨ましげな目を現した。
「あなたは、私より少しだけ素直ね」
「一度死んでみなさい。毒気が抜けるわ」
「一回魔女になるのは経験したから、十分でしょう」
「魔女になったお陰で余計に毒素が増した様ね」
「……確かに」
悪魔が悪魔となった経緯は、事前に大半を聞いている。それは毒素の一つも増すだろう。口調くらい、激変しない方がおかしいのだ。
むしろ、こくかは暁美ほむらのままだった。拍子抜けする程だ。だからこそ、暁美ほむらが悪魔となる可能性は、どこまでも付いて回る。
自分を見つめる視線に気づいたらしく、こくかは訝しげな面持ちを示していた。
その場に流れる気分の悪い空気を消す為に、暁美ほむらは首を振る。
「……いえ、私も、経験次第によってはあなたみたいになっていたのかもしれないと思っただけ」
「そうね、同一人物なんだから、当然よ。でもね」
こくかは一度、ベッドの方向を見た。だが、即座に暁美ほむらへ真剣さのある声をかけた。
「同じ人間だからって、同じ風に考える必要は無いわ。ただ、暁美ほむらは鹿目まどかにしてあげられる全てをする、そこだけが同じなら、後の部分はちょっとした誤差よ。私の場合は、まどかの望みじゃなくて、私が望まなかったものを否定しただけ」
腕を広げて、彼女は堂々と立っていた。こくかはまさに暁美ほむらだったが、それ以上に、どこか自信が有る風だったのだ。
だが、羨ましくはない。彼女の自信や強い態度が、底の部分では弱さの裏返しであると分かるのだ。同じ、暁美ほむらなのだから。
だからこそ、暁美ほむらは息を吐いた。
「……この、気取り屋の格好付け」
「その通り。私だけあってよくご存じね。こくかだった時の方がまだ気楽だったかも」
自覚があるのか、こくかは否定しなかった。
無意味に邪悪さを潜ませた表情だ。しかし、その顔がどの様な決断から生まれたものであるかを知っていれば、否定はし難かった。
「……そんなあなただから、そこまでやりきったのね」
「あら、精神的には、きっとあなたの方が年上よ?」こくかは悪戯っぽく微笑んだ。
「だから、よ。あなたはまだ、まどかを救える誰かである事を諦めていないんだから。私は一度、諦めた女だもの」
「私だって一度諦めたわ」
「でも、復帰した。立ち上がった」
「……ありがとう。でも、今だってこれで良かったのかは分からない。時々、分からなくなるの」
ほんの僅かだが、こくかの表情から自信が消えた。彼女の根に残るかつての弱さが、今も心を責め続けている証だ。
自分がその様に苦しんでいる所を見て、暁美ほむらは目を瞑る。こくかの正否を判断する気は、全くなかった。人の事をとやかく言う権利はない。
ただ、少しだけ、暁美ほむらは不満に思った。鹿目まどかを助けようとした末での事なら、胸を張っていなければならない、そう思ったのだ。
「まどかが望まないと分かっていても、自分で決めて自分でまどかに手を伸ばしたんだから、たぶん、正しいも何も無いわよ。その全てはあなたが負うべき、あなただけの責任でしょう?」
「……そうでしょうね。きっと、そうなんでしょうね。ふふ、やっぱりあなたの方が心は年上みたい」
その言葉は気休めにもならなかっただろう。だが、こくかは自分の心を落ち着かせたらしい。
迷走していた心に決着をつけて手を軽く打つと、彼女は再び調子を取り戻した。口元には残酷な笑みを、指先は髪を撫でつつも。
「さて、無駄話はオシマイにしましょうか。こういうの、気が進まないんだけれど」
「ええ、本当に」
こくかは咳払いをしていた。やはり居心地の悪さは無くなっていない。
その空気から無理矢理に目を背けている様だったが、自分で連れてきた手前、逃れられないと悟ったのだろう。ベッドに座らせた相手に向け、歪みきった微笑みを見せつけた。
「お菓子の魔女。いいえ、その姿なら百江なぎさと呼びましょうか」
その声に、お菓子の魔女、らしき少女が目を逸らした。
「無理矢理に元の姿へ戻してしまったけれど、痛くは無かった? この世界で元の形に戻るのは、はじめてよね?」
ニッコリと笑っているが、それは明らかに化け物の笑顔である。
百江なぎさを拉致したが、ただ座らせているだけだ。何の拘束も行っていない。にも関わらず、こくかはまるで物語の大悪党であるかの様に振る舞っている。
「さっきから気になっていたんだけれど、その態度は作っているの? それとも、素?」
思わず問いかけてしまい、暁美ほむらは後悔した。
「察しなさい」
こうでもしなければ我が保てないのだ。こくかの両目がそう言っている。
暁美ほむらは心の中だけで謝罪した。それだけでも、こくかには完全に伝わっている様だ。
「私はね、百江なぎささん。まどかに損害を与えない相手を傷つける趣味はないの」
こくかの口振りは軽かったが、出来る限り低く重苦しく調整された声音は、殆ど脅しているのと変わりない。
「あなたが、この世界を管理しているのかどうか、ただそれを聞いて、早くまどかに目覚めて欲しいだけ。正直に言うけど、私達だって辛いのよ? あなたは私達とはそれほど関係のない、ただの小さな女の子だものね」
何度か頷き、暁美ほむらは同意を示した。
銃器を向ける事は、様々な意味で躊躇われる。仕方が無く、二人は百江なぎさの頭を撫で回した。出来るだけ優しく扱ったが、空回りだった様だ。
酷く怯えられており、恐ろしく居心地が悪い。誰が年下の、小学生の子供を泣かせ傷つけ苦しめたいと思うだろうか。
本当ならもう少し優しい扱いをしたかったのだが、鹿目まどかが絡む事で手を抜くのは許されない。
「さ、答えて。あなたはこの世界を維持しようとしている。それで良いわね?」
やはり重苦しい声音だ。暁美ほむらは、自分の声がここまで低く恐ろしいものに変わる事をはじめて知った。
百江なぎさも言われるがままに頷いている。抵抗を許さない声を前にしているからか、かなり素直だった。
「そう、やっぱりね。それじゃあ、早く抵抗を止めてまどかの目を覚まさせて欲しいわ」
「……」
「嫌なの? ……本当に?」
脅す様に顔を近づけると、百江なぎさは逃げ腰になった。
やはり、その顔は自分より幼い。暁美ほむらは言い様のない空気の悪さに辟易とした。
「あなたはとっくに死んだ身よ。私達を……いいえ、巴マミを解放なさい」
悪魔の言葉は余りにも厳しく、強い凄みに包まれている。意にそぐわなければ自分自身すら敵に回すだろう。それが確信出来た。
それは成長というべきなのだろう。幼い弱さを削り、そこに意志の強さが現れている。悪魔はあくまで堂々としていて、大胆不敵に笑うのみだ。
「退きなさい」
「……何?」
「彼女の説得は私に任せて」
しかし、暁美ほむらは悪魔の肩を叩き、少しだけ退かせた。前に出ると、百江なぎさと目が合った。
「……ベベ、あなたに悪意が無いのは分かってる。あなたが悪い訳じゃないのだって、知ってるわ。あの巴マミが守ろうとした子だもの」
柔らかな作り笑いだ。苦手だったが、出来ない訳ではない。
「だけど、それで良いの? あなたは、自分の幸せの代価として、巴マミから家族を奪っている」
「ちょっと、暁美さ……私、それは」
「黙っていなさい、詐衿こくか」
あえてそちらの名で呼ぶと、こくかは驚いた様に口を閉ざす。
暁美ほむらはしゃがみ込み、百江なぎさと目線を合わせた。自分より年下の相手に説得を口にするなど、暁美ほむらは未経験だ。
それでも、悪魔に任せておけば余計に恐ろしい結果を招くのは目に見えていた。躊躇わない彼女には、躊躇う事が出来ないのだ。
「それがどんな事か、あなたにだって分かるでしょう。分かるのなら、大人しく、マミを、私達を外へ出してくれないかしら」
失敗した時の事は考えない様にしながら、暁美ほむらは極力言葉を選んだ。敵意が伝わらない様に、殺意が伝わらない様にだ。
それが成功したらしく、百江なぎさはおずおずと口を開いた。
「……まどかが目覚めたら、わたしは円環の理に戻るのです」
「そうね」
「そうしたら、マミともみんなともお別れで、チーズも食べられないのです。わたしは、死んでしまうのです」
「本来、そういう物よ。あなたはもう生きていない。私もそう。この世界が消えたら、円環に戻る。そうでなければいけないの。そうでなければ……」
まどかの犠牲に対して都合が良すぎる。その言葉は飲み込んだ。百江なぎさには関係のない話だ。
横で話を聞いていたこくかは、小さく溜息を吐いた。なぜか、それは暁美ほむらに向けられていた。
「あなた達、円環の理に導かれたにしては、自分の生に未練が有る様ね」
「……悪魔さんなら分かってくれると思うのです。未練があって当たり前なのです」
百江なぎさは何とかこくかと目を合わせたが、素早く逸らした。
暁美ほむらは視線だけでこくかを咎めた。瞳の濁った女は、自分の不利を悟ったのか、また一つ溜息を漏らす。
「はいはい、降参」こくからしい口振りで、ふらふらと手を振った。「気持ちが分からなくて当然、死んだ事のある人間の気持ちなんて、死んだ事のない人間には分からないんだからさ」
「でしょうね」
暁美ほむらの同意を聞いて、こくかは口元に笑顔を見せた。やはり、残酷な笑顔だ。
「それでも、だからって私があなたの命を守る方を取るとは思ってはいないよね?」
「……でも、マミはわたしが生きる事を望んでくれたのです!」
こくかの言葉に反応したのか、百江なぎさは声を乱す。
「生きてもいいって、生きてほしいって、言ってくれたのです!」
「……」
暁美ほむらは流し目でこくかの様子を伺った。
百江なぎさの必死の声を、こくかは無表情で聞き入れている。
暫くの間、百江なぎさは何かを言っていた。しかし、こくかは聞いていなかったらしい。
「……私が」こくかは片手で顔を覆った。「そうやって、生きて欲しいっていうだけで、願うだけで、生きていてくれるのなら……私は、今頃……!」
百江なぎさの言葉は逆効果に働いたのか、こくかの口調は重苦しくなっていた。
やがて気が付いたのか、こくかは顔を上げた。もう決意が固まっている様だ。
「……終わりにしましょう」
「待って、こくか」
「いいえ、話は終わりよ。さあ、夢を終わらせましょう」
こくかはぞっとする様な顔をして、一歩近づいた。
命の危険を感じる事だろう。百江なぎさは身震いし、誰かへ向かって叫んだ。
「……目覚めたくないのです!」
その声は確かに、必要とする相手に届いたらしい。
恐るべき勢いで部屋の壁に穴が作られて、そこから黄色の影が飛び込んできた。顔を見るまでもない。誰が侵入したのかは明らかだ。
「巴マミ!」
姿を確認する前に、暁美ほむらはその名を口にしていた。そして、それは正解だった。
「百江さん!」
「マミっ!」
瞬く間に百江なぎさを抱き上げ、巴マミは部屋を取び出した。流石というべきか、気づけば距離を取られてしまっている。
暁美ほむらよりもこくかの方が早い。彼女は既に銃を握り、躊躇無く引き金を引いていた。
「大丈夫? 酷い事はされなかった? その姿になっちゃいけないって言ったのに……」
「ごめんなさい。でも、何もされなかったのです……」
「良いの。迷わないで、あなたが生きたいって思う気持ちが悪いなんて、誰にも言わせないから」
迫る銃弾を回避し、撃ち終えたマスケット銃で防御して、時折百江なぎさの使い魔を盾にしながら、彼女達は抱き合って逃げている。
それでもこくかの方が早かった。力任せに飛び込んだ彼女は、周囲が気づいた時にはすぐ側まで接近していた。
「巴マミ! 今度は負けられないね!」
「生きていたのね、こくかさん」
声をかけられたからか、巴マミが静かに答えた。
その平坦な声音には強い敵意が含まれていたが、こくかは鼻で笑った。
「おやおや、今度は迷いも無さそうだね、センパイ?」
「ええ。百江さんをこんな風にするのは許せないわ」
会話を維持したまま、巴マミは高速で銃弾を巧みに回避していた。夢の中だからこそ出来る、魔力の消費を完全に無視した速度である。
暁美ほむらは今も生きていた頃の感覚に囚われている。魔力をあれほど軽々しく使い倒すのは、躊躇われる行動だ。
それでも、かつての暁美ほむらには相手の早さを無視できる方法が有った。こくかはそれを知っている。
「時間操作は?」こくかがすぐ隣に現れた。
「使えないわよ、私は、その」
「……ああ、そうだったわね」
魔獣の居る世界で死んだのだ。盾はいつの間にか消え去っていた。
巴マミを追いかけながら、こくかは複雑そうに暁美ほむらの肩を叩く。
「行くわよ」
「ええ」
こくかの手を握ると、彼女は瞬くより早く巴マミの側まで移動してみせた。
進行方向に突如現れた二人に、巴マミは一瞬の動揺を示す。しかし、素早く復帰すると、すぐさま銃撃を行った。
間合いを詰めた位置からの射撃は、回避不能のそれである。しかし、こくかは避けられないと見た途端に銃弾を片手で掴み、これみよがしに握り潰した。
「夢の中というのは便利よ。銃弾ですら捕まえてしまえる」
「……そうみたいね、こくかさん」
「物騒な女の夢とは違って、とっても優しくできているわ。銃弾の正確な威力?」鼻で笑い、粉々の銃弾を捨て去った。「まどかが知る筈がないでしょう?」
悪意すら感じられる挑発的な口振りだったが、巴マミは激情の一つも見せない。
「それが、あなたの素の話し方?」
「ええ、ええ。巴マミ、その通りよ」
睨み合う格好となり、はじめて巴マミの表情が完全な形で明らかとなった。表面的には平静だったが、内心には灼熱が渦を巻いているのが見て取れた。
まさに一触即発。どちらかが動けば、戦いとなってしまうだろう。百江なぎさが息を飲み、状況を見守っている。
その、今にも爆発する寸前の中へ、暁美ほむらは静かに入り込んだ。三人分の視線に晒されながらも、彼女の目は巴マミにのみ注がれた。
「……気持ちは、痛いくらいに解るわ、巴さん。ええ、私だってきっと、同じ様にするでしょうね」
自分がどうしてこんな事を言っているのか、暁美ほむらは少しだけ考えた。
簡単な事だ。この一ヶ月もの幸せな時間の中で、自分は随分と暖かみを取り戻してしまったらしい。
苦笑しながらも、暁美ほむらはその気持ちを胸の中で受け止めた。同時に、この気持ちを共有できないこくかの事を、少しだけ哀れにも思い、誇らしくも感じた。
そして、暁美ほむらは今の自分に堂々と胸を張る。戦い抜いた末に終わりを迎えた心には、曇りの一つも無かった。
「でも、それがまどかをこの世界に閉じ込める事を意味するなら、私は、その子を消す方を選ぶ。人でなしと言いたければ言って良いわ。私はもう、人じゃないから」
言いたい事はそれだけよ、と締めくくり、暁美ほむらはこくかへ目配せをする。
意図が伝わったのか、こくかは小さく頷き、自分の背後に立たせていた使い魔達に使いを命じた。
使い魔達が飛び去る中で、巴マミがじっと黙り込んでいる。
やがて巴マミはマスケット銃を構え直した。だが、表情は穏やかだった。
「……ありがとう、暁美さん。何だか気持ちが軽くなったわ」
言い終えると、すぐさま彼女は背後へ飛んだ。こくかが追うよりも早く、その場の風景が一変した。
百江なぎさの、お菓子の魔女の結界が作り上げられていたのだ。
+
巴マミと百江なぎさが結界の中に立てこもり、防御を固めてから、どれほどの時が経ったか。
少なくとも、まだ十分は経っていまい。暁美ほむらは結界の外側で監視を続けながら、こくかの様子を伺った。
こくかは、やはりこくかの姿を維持している。全身から不気味な気配を漏らしながらも、彼女は油断なく直立していた。
「……来た」
小さな呟きと同時に、赤い髪と青い髪がその場に降り立った。人型の使い魔に連れられる形で現れた二人は、その先にある結界を見て揃って息を飲んだ。
「美樹さん、佐倉さんもこんにちは」
あからさまな作り笑いに迎えられ、二人は嫌そうに眉を寄せた。
「おう、話は聞いたぞ。どういう事だ?」
「そう? 私の使い魔はまともに働いたのね」
「話を逸らすな。結局あんたは何なんだ。というか、誰なんだ?」
「さて、私が誰かなんて今はどうでも良い事じゃない? 黒幕はベベと巴さんなんだから」
「……それ、本当なの? マミさんが犯人だなんて」
美樹さやかが疑問を浮かべた。事情を説明されたとはいえ、納得までは至っていないのだろうか。彼女は結界に目を向けながらも、現状を飲み込みきれていない。
そんな顔に向かって、こくかは呆れた風な様子で苦笑を作った。
「佐倉さんならともかく、あなたなら、あれが何かは分かるでしょう?」
「まあ、分かるけど。確かにあれは、ベベ、お菓子の魔女の結界だけど。でも、どうしてベベが……」
「今回に限っては、目の前にあるものが真実よ。私はこの夢を終わらせに来ただけで、本当の戦うべき相手はあれら」
指さす先には、当然ながら魔女の結界が作り上げられている。
結界は、外側からは異質な空間が広がっている様に見えた。病院の様な空間と、菓子を詰め込みに詰め込んだ内装が不気味なまでに色鮮やかで、あくまで現実に近い見滝原の中で異彩を放っていた。
周囲に浮かぶのはお菓子の魔女の使い魔達である。こちらを警戒しているのか、注意深く監視している気配があった。
「ね、まどかは?」
「眠らせて私の家に置いてきた。巻き込みたくはないからね」
「ふーん……そっか。まあ、あんたならそうするよね」
こくかの言葉は信じられるものだったらしい。
美樹さやかは深呼吸をして、こくかから視線を外す。暁美ほむらと顔を合わせると、どこか戸惑いがちに話しかけた。
「ほむら、あんたも円環から来たんだね」
「そうね。でも、あなたやベベと一緒に来た記憶は無いわ」
「あたしにもないよ、という事は、あんたは別口でこの世界に来たって事だよね?」
「その解釈で正しいはずよ。誰が何の為に私をこの世界に連れて来たのかは分からないまま」
美樹さやかにも心当たりはないらしく、小さく首を振ると、話題を変えてくる。
「マミさんは確かにあの中なの?」
「ええ。あの中でベベを守っている筈よ。この目で見届けたわ」
結界の奥に潜んでいるのだろう。今は姿が見えないが、その存在感は遠距離からも十分に察知できる。
「マミさんが、ねえ……」
「とりあえず、話が出来る様な状態に持ち込まねえとな」
「いや、それは……ごめん、何でもない」
何かを言いかけたが、美樹さやかは言葉を飲み込んだ。
結界の向こうから視線が飛んでくる。巴マミがそこに居るのだろう。すぐさま空気が引き締まり、臨戦態勢へと移った。
「とりあえず、マミの奴を外に出させないと話にならねえか」
「だよね。杏子、勝算は?」
「無い」
「……ま、だろうね」
佐倉杏子の顔に冷や汗が浮かんでいる。
それでも彼女は槍を握り直し、じっと結界の先を見通した。
「まあ、マミはあたしらに任せろ。あいつの事ならあたしが一番長い。さやかもな」
「全身全霊のマミさんが必死で殺しに来るなんて、想像もしたくないんだけどね……何とか足止めするしかないか」
事情を理解している為か、二人は戦う事に躊躇を見せない。時折こくかの存在を意識している節が見受けられたが、明確な敵意は抱いていない様子だ。
こくかも僅かに警戒しているのだろうが、無駄に終わると悟ったのか、肩の力を抜いている。
「私と暁美さんはベベの方をどうにかするよ」
「勢い余ってベベを殺したりしないでよね」
「それは、まあ、その」
疑わしいものを見る目を向けられ、こくかは軽薄な笑い顔を浮かべた。
僅かに顔をしかめた美樹さやかだったが、次の瞬間にはどこか悪戯っぽく肩を叩く。
「まどかに怒られて泣いた癖に」
「……」
こくかが頭を殴られたような顔をしている。その見るに耐えない表情に、暁美ほむらは深々と溜息を吐いた。
「気持ちは分かるから、その顔はやめて」
「ん、そうね。あなたなら分かるわよね」
小さな咳払いを一つすると、こくかは元通りの邪悪さを取り戻した。
そう、邪悪だ。一人で行動させれば、何をするかが分からない。暁美ほむらは即座に美樹さやかとアイコンタクトを取り、頷き合った。
「ベベの事なら私が何とかするわ」
「ん、ありがと。ベベとは無関係じゃないからさ、こくかに殺されるのはちょっとね」
美樹さやかは今もこくかを疑わしげに見つめていたが、積極的に干渉する事はなく、その剣はお菓子の魔女の使い魔を切り捨てた。
不意を打ってきた使い魔達に佐倉杏子の槍が伸び、叩き落としていく。暁美ほむらは遙か遠くから近づく使い魔を弓で撃ち、消し去った。
その中で、こくかだけは何もしていない。いや、彼女のものであろう人型の使い魔が飛び回り、周辺を固めようとするリボンとマスケット銃を排除し続けている。
見滝原を埋め尽くす黄色のリボンは、明らかに巴マミの物である。だが、魔法少女を明らかに越えた力の使い方だ。
「巴マミは、あそこまでの事ができたの?」
「いやいや、そうではないよ。魔法少女ではないだけあって、自由な事をしてくる。ここが夢の中なのを理解しているからこそだね」
「……なるほどね」
一発のマスケット銃がこくかを捉えた。だが、その弾はやはり彼女には届かず、直前で発生した翼にくるまれてしまう。
その翼からは、邪念に近い感情が漏れていた。
「あんた、本当になんなのかなあ」
「一言で表現するなら、そう、化け物?」
こくかは肩を竦める。
「ま、いいや。あんたが化け物だろうが誰だろうが、やる事は一緒。まず、マミさんは何とか押さえる。で、ベベを捕まえて、この夢を終わらせる。これで良いんだね?」
どういった葛藤があったのか、美樹さやかの出した結論はシンプルだ。そして、それが今は良い方向へ作用した。
佐倉杏子はこくかへ見せていた敵意を薄れさせ、暁美ほむらはまた深い溜息を吐く。そんな中、美樹さやかは剣を握り、いつの間にか目の前に広がっていた水溜まりへ足を踏み入れた。
「分かった。それじゃ、はじめよっか」
結界の中に潜んだ大量の使い魔が溢れ出す。美樹さやかの声が聞こえていたのだろう。
その数は万を越えているのか、瞬く間に周囲を埋め尽くされる。魔女の使い魔という次元を遙かに越えた圧倒的な勢力は、瞬時に包囲網を作り上げてくる。
しかし、美樹さやかは怯まない。むしろ笑みを浮かべ、足下に剣を突き立てた。
人魚の魔女という形の美樹さやかが発生した。同時に現れたのは、他の魔女の使い魔と、彼女自身が胸に抱いた使い魔達だ。
「……壮観ね」暁美ほむらが感想を漏らす。
「でしょ。あんたの結界に乗り込む為に借りてきたんだ」
「結局、ここは私の結界ではなかった様だけれどね」
「まあね、いや、本当にどうしてこうなったんだか」
楽譜の上に立つと、美樹さやかは指揮者として使い魔に指示を下す。
命令により、使い魔達はお菓子の魔女の使い魔に攻撃を開始した。技巧も大した力も持たないもののぶつかり合いは、その殆どが単なる衝突に過ぎなかった。
それでも、余りにも大きな数同士の衝突である。美樹さやかはその戦を観察し、手を出すべき瞬間を探っているのだろう。
「美樹さやか」
暁美ほむらが声をかけると、美樹さやかは振り向いた。戦う者の顔をしている。
「何さ、ほむ……転校生」
「私にも、それは出来るのかしら」
暁美ほむらが背後にたたずむ人魚の魔女を指すと、それを見た美樹さやかが難しい顔で考え込んだ。
幾らか暁美ほむらの姿を見つめると、彼女は首を傾げながら答えた。
「出来るんじゃないの?」
「やっぱり、そう思う?」
「あんたが本当に円環の理から来たならね。やり方は分かる?」
「いいえ。あなたの場合とは違うの?」
「うーん、こういうのって個人差だからね。普通は本能っていうか、勘? そういうので分かる物なんだけど」
会話を交えながらも、暁美ほむらは弓を引き続けた。
相手は結界に侵入させる気がまるで無いのだろう。お菓子の魔女の使い魔は、結界の入り口を完全に封鎖してしまっていた。
暁美ほむらはその弓で既に百近い数を撃ち落としているが、焼け石に水である。
「とりあえず、魔法少女になるのと同じくらい自然な感覚だから。やってみなよ」
「そうね、試してみるわ」
暁美ほむらは左手のソウルジェムを取り出し、それを深く握った。
その隙を突こうとするものは居たが、即座に美樹さやかが切り捨てる。暁美ほむらは、その光景を見ていない。
やがて暁美ほむらは小さく「まどか」と呟いた。そして、どこか寂しげに空を見上げ、続いて、空を駆けるこくかを羨ましげに見つめた。
背後に彼女の魔女が現れた。おとぎ話の魔女の様に、帽子を被っていた。
「想像していたより、良いデザインね」
帽子の上に飛び乗ると、暁美ほむらは弓を射った。盾が無い事に違和感を覚えつつも、やる事は変わらないと自分を奮い立たせる。
魔女を発生させた為か、矢の威力が向上していた。まっすぐ進んだ矢は使い魔の群を軽く消し去り、入り口への道を作り上げた。
僅かな隙間だが、見逃す手はない。彼岸の魔女は両手で使い魔を弾き飛ばし、入り口をこじ開けた。
だが、結界に侵入する事はできない。入り口の扉が開いたかと思えば、そこから銃弾が重なる様に飛び出して、彼岸の魔女を牽制したからだ。
「暁美さんには悪いけれど、させないわよ」
結界に続く扉をリボンで何重にも拘束すると、巴マミは彼岸の魔女に砲撃を行った。
およそ巴マミの手には収まらない巨大な砲弾である。暁美ほむらは神速で弓を引き、砲弾を撃ち落とした。
砲弾の中から煙が一気に溢れ出す。攻撃ではなく、視界を遮る事が目的だったのだろう。そう悟った暁美ほむらは、魔力で強引に煙を飛ばした。
煙が消えるより早く、巴マミがマスケット銃で殴りかかっていた。間一髪で背後へ飛んで逃げきり、彼岸の魔女を盾にした。
巴マミは彼岸の魔女をリボンで拘束した。
「これ、使いこなせていないの?」
「そうね、たった今使えるようになったばかり」
「そうなの? なら先輩として言わせて貰うけど、普段使わない能力を持ち込むのは感心しないわ」
何かに気づき、巴マミが首を傾げる。
「時間操作の魔法は?」
「そんな物は持っていないわ。最初からなかったのよ」
リボンが軋み、糸がちぎれる音が響くも、底抜けの魔力が再生させてしまう。暁美ほむらは僅かに締め付けられる感覚を抑え、巴マミに立ち向かった。
「おおっと、マミはあたしが相手するって言ったじゃねえか!」
「結界に飛び込む手間が省けたね!」
佐倉杏子と美樹さやかが割って入った。二人は使い魔と戦っていたが、疲れはない様子だ。
任せても問題ないと判断すると、暁美ほむらはすぐさま結界への道を再び作り上げた。だが、今度は近づく前に使い魔が復帰した。リボンで閉じられた扉が僅かに開き、百江なぎさの顔が半分だけ姿を現していた。
「百江さん、中に居て、って言ったのに」
「言われたからこうやって中に居るのです。でも、使い魔をもっと近くで操った方が、マミが戦いやすくなるのです」
百江なぎさが直接指示を出す事で、お菓子の魔女の使い魔は陣形を組んだ。円環からの使い魔よりも数は少ないが、行動が手早い。
負けじと美樹さやかは指揮者として指示を送ろうとする。だが、リボンが腕に絡まり、指揮棒を取り落とした。
佐倉杏子によってリボンは断ち切られたが、美樹さやかは顔をしかめたままだ。
「ちょっとまずいかも。早くマミさんを倒さないと押し負けるよ」
「だな。ほむら、悪いがあんたも手を貸してくれねえか?」
「構わないわ」
三人に包囲されながらも、巴マミは堂々としている。僅かにも焦りを浮かべず、また追い詰められている風ですらない。
「三人で来るの? それなら、私も相応の準備をしないとね」
軽く深呼吸をすると、巴マミは銃を握る。それだけで、圧倒的な魔法の存在を感じ取れる。
美樹さやかが目を見開いていた。巴マミはあまりにも自由自在に魔法を使いこなすのだ。
「夢だから、これくらいは出来るのよ。魔法少女だった美樹さんには難しいかも」
巴マミの目が揺れている。視線の先では、こくかが使い魔の群を打ち砕いていた。まだ百江なぎさの元までは入り込めていないが、時間の問題だろう。
「あなた達を倒して、こくかさんとも決着をつけないとね」
戦闘が開始された。ただそれだけの事だが、暁美ほむらの中で緊迫感が膨れ上がる。
巴マミが動いている。牽制に出された人魚の魔女の使い魔は、近づく前に消滅した。それは、彼女がその身からマスケット銃を取り出した余波によるものだった。
使い魔では近寄る事すら許されない、信じられない程に圧倒的な魔法少女だ。
更に信じられないのは、そんな怪物と戦わねばならない事である。暁美ほむらは美樹さやかと一瞬だけ目を合わせた。自分達が知る巴マミより、更に、そして遙かに強い。
それでも戦わねばならない。美樹さやかが視線でそう語り、突撃した。僅かに遅れて佐倉杏子が追従し、暁美ほむらはその場で弓を取り出す。
「悪くはないけれど、みんなまだまだね」
接近した美樹さやかの斬撃をマスケット銃の先端で逸らし、佐倉杏子の槍をリボンで弾き返し、暁美ほむらが弓を射る寸前に銃撃で止める。
近距離の美樹さやかを片手でいなし、中距離の佐倉杏子をリボンで翻弄し、遠距離の暁美ほむらを銃で足止めする。巴マミは冷や汗一つ浮かべず、余裕の笑顔で三人の相手をこなしていた。
佐倉杏子は一言叫び、何百本もの巨大な槍を作り出して、先端から赤い魔力を放出した。
ほとんど隙間なく赤に染まった中、巴マミは縦横無尽に飛び回り、微かな隙をくぐり抜ける。佐倉杏子へリボンが伸びるも、美樹さやかが斬って落とした。
「あら。凄いわ、それが美樹さんの実力?」
「いや……全然、凄い感じがしないんですけど……」
「いいえ、凄いわ。美樹さんって、強いのね」
「……マミはおっかないな。あたしらが本気でやってるってのに、まるで堪えてねえぞ」
「あら? 結構大変なのよ?」
実質的に三対一だが、それでも巴マミは余裕を崩さない。むしろ、相対する三人の方が顔をしかめている始末だ。
その間にも、人魚の魔女が巴マミに巨大な剣を振りかざした。反対からは美樹さやかだ。一瞬で意図を理解した佐倉杏子が上方へ飛び、両手を合わせた。
巴マミは二人の行動を観察している様子で、動こうとはしない。彼女の周囲に鎖の壁が生まれて、逃げ場を塞いだ。
暁美ほむらはやはり弓を構え、遠距離から巴マミを狙う。その肩に人型の使い魔が乗り、耳元で何かを囁いた。
暁美ほむらは小さく頷き、巴マミに矢を放つ。
甘い狙いだったが、追尾の矢は目標へと進んだ。しかし当たりはせず、巴マミの周囲を舞うリボンが弾いてしまう。
リボンが一瞬だけ飛び散った。その隙に美樹さやかと人魚の魔女が剣を同時に振りおろす。
巴マミはその場から一歩も動かなかった。動かないまま、素手で剣を掴んだ。
「えっ」
「こくかさんにも言われたけれど」
巴マミは掴んだ剣ごと美樹さやかを投げ飛ばし、人魚の魔女へぶつけた。
「ここは夢の中だから、攻撃の威力だって、夢なのよ」
美樹さやかは空中で姿勢を整え、見事に着地する。
目の前に巴マミが立っている。美樹さやかはとっさに剣を構えたが、巴マミは気にした様子もない。
「美樹さん、怪我は?」
「な、ないですけど」
「そう、良かった」
心の底から安心した風な巴マミ。
彼女はあくまで友好的に、戦う相手を気遣っていた。もはや戦いと呼ぶべきか迷われる。訓練をしていると言った方が、まだ納得が行くだろう。
「あんたさぁ、何でそんなに楽しそうなんだ?」
「だって、私が勝ったらこれまで通り楽しく毎日を過ごして貰うつもりなの。あんまり怖いのは良くないわ」
「……そうかい!」
佐倉杏子が襲いかかるも、軽くあしらわれている。
どちらから攻めても巴マミは完璧だった。二十ほど打ち合った所で、攻め手を見失った佐倉杏子が舌打ちを一つして、後方へと退いた。
「佐倉さんは結構上手いわ。ここが夢の中なのをきちんと分かってる」
いつの間にか手に絡まった幾多の鎖を紙屑より軽く引き裂くと、巴マミは一発だけ発砲した。
佐倉杏子は最小の動きで銃弾を回避したが、弾は途中で一気にカーブを決めて、対象の目の前で爆発する。
爆発した弾の中から黄色のリボンが広がった。それは佐倉杏子の腕と足を苦しさを感じさせない程度に拘束した。
「佐倉さん、痛くない?」
「痛くねえよ。でもな、なんか、釈然としねえ」
「良いじゃないの。私の敵は一人だけなんだから。いつもみたいな練習だと思えばね」
「……しまらねえなぁ」
佐倉杏子がその場で座り込んだ。周囲で使い魔同士の派手な戦いが繰り広げられているというのに、中心点となる筈の戦いは、戦いになっていない。
バカらしくなったのだろう。佐倉杏子は魔法で足のリボンを切断すると、その場であぐらをかいた。
「さやか、まあ頑張れ」
「いやいやっ、あたしだけじゃ無理だから!」
使い魔に片手で指示を送りつつも、美樹さやかはまだ諦めずに戦っている。佐倉杏子よりは遙かに必死だった。
「こうするのも楽しいけど、ごめんなさいね。こくかさんが控えているから」
しかし、巴マミはそれを遙かに覆す程の力で美樹さやかの剣を叩き折り、飛び散った破片をリボンで包み込んだ。
美樹さやかは新しく取り出した剣を投げつけて、もう一本で接近する。
迫った剣を僅かに横へ避けると、巴マミが手を伸ばして柄の部分を掴んだ。
美樹さやかが一歩遅れて飛び込み、剣を振るう。
巴マミは楽しげに剣を合わせた。軽くつばぜり合いを演じた所で、満足げに背後へ跳躍して美樹さやかから距離を取った。
「剣ははじめてだけど、結構……やれるものね」
「何で使えるんですか……」
美樹さやかは既に表情へ疲労を浮かべていた。
殺気は欠片も無いまま、巴マミは微笑みながら近寄っていく。だが、足下へ魔法の矢が飛び、巴マミは足を止めた。
「どうやら、あなた達だけじゃ無理な様ね」
暁美ほむらが矢を十本ほど撃ち込んだが、効果はまるで無しだ。その全てが、届く前に消し去られる。
弓を放り出し、暁美ほむらは祈る様に両手を合わせる。すると、周囲の世界が光り輝いた。
リボンが弾け飛び、彼岸の魔女が解放される。
一瞬だけ彼岸の魔女が姿を消し、瞬時に巴マミの目の前へ到達した。掌の上には暁美ほむらが立っていて、僅かに首を傾けていた。
「巴さん、残念だけど、あの子とあなたは本来何の関係も無い存在よ」
巴マミの表情がそれまでとはまるで違う物に変わる。
冷ややかな空気が漂った。周囲で起きている戦いの熱など、まるで感じられない。
巴マミは静かに口を開く。空気は凍り付き、二人の間だけが静まり返っていた。
「……私は、あの子を助けたいの。あの子のお願いを聞いてあげたいのよ」
「どうして?」
「どうして? ……そうね。確かにこの記憶は捏造された物よ。でもね、この部屋で一緒に過ごした時間は、嘘なんかじゃないの」
とてもではないが、戦う者の顔をしていない。巴マミは、その視線を己にとっての最も尊いものへ向かわせた。今も結界の中で使い魔を操作しているのだろう。
「あの子は私の妹みたいな物よ。それがこのまま消えてしまう事を、認められるはずがないでしょう?」
少しの間、暁美ほむらは黙った。そして口を開けた。「でしょうね。なら、私達はやっぱり戦う定めなのでしょう」
緊張感が膨れ上がった。
巴マミの目が一層険しく、一層深みが増す。通常の魔法少女なら既に十回は魔女となる程の魔力を使い尽くしながらも、疲れはまるでない。
対する暁美ほむらは一瞬だけ目を瞑り、弓をもう一度作り出す。
互いの視線が絡み合う。
巴マミの銃口と暁美ほむらの矢が交差する。ただ、二人は、その瞬間を待った。瞬間を、待ちに待ち続けた。
どれほど経っただろうか。暁美ほむらは、不意に笑った。明確な隙だ。
銃声が響いた。当然ながら巴マミが早い。銃弾は寸分違わず暁美ほむらの弓へ直撃した。だが、それは弓ではない、黒い翼だ。
今度ばかりは巴マミも驚きの声を漏らす。弓だった物は黒い羽となって散らばり、暁美ほむらは巴マミの背後にいた。
しかし、巴マミは目が背についているかの様に背中へとリボンを回す。暁美ほむらは拘束され、それで終わりの筈だった。
気づいたのは、百江なぎさだった。
「マミ! それは悪魔なのです!」
「えっ?」
暁美ほむらは二人いた。
背後に回り込んでいた筈の、暁美ほむら……に似た誰かは既に背後から消えて、巴マミの目の前にいる。
巴マミが気づいた時には、既に恐るべき魔力の秘められた腕を振っていた。
それは暁美ほむらの姿をしていたが、違う。巴マミはこくかの正体を知らなかった。
「残念ね、巴マミ。悪いけど、まどかの明日を返して貰うわ」
巴マミが驚愕を浮かべていたのも一瞬だ。次の瞬間には銃を突き出し、暁美ほむらの形をした化け物を撃つべく引き金に指をかける。
だが、その時、二人の間に割り込むものが居た。そう、割り込むものが居たのだ。
「ダメ」
愛らしい声が響いた。途端に暁美ほむら、いやこくかは完全に硬直した。
それは弓の先端で銃と腕を受け止めている。巴マミとこくかの間に立ち、悲哀を現した。
「まどかっ……!」
「ダメだよ」鹿目まどかは冷や汗を垂らした。「みんな、どうしたの? マミさんやなぎさちゃんと戦うなんて……こんな……」
こくかの顔に有るのは、ひたすらの気まずさである。
目を伏せると、こくかは言葉を探す様に僅かに首を左右へ揺らせる。悲しげな視線を受け止めて、苦しげに顔をしかめていた。
「まどか、これは、その」
遠目にも、こくかが迷っているのは明らかだった。
鹿目まどかかはひたすら悲しげで、咎めているのではない。その事実がこくかを更に傷つけているのだろう。漂っていた邪悪さが失せて、暁美ほむらとさして変わらない弱さを持った少女へ戻っている。
「……こくかちゃん?」
「あの、ね。私達は、私……」
「なぎさちゃんもマミさんも友達なのに、どうして……マミさんも、どうしたんですか?」
「うっ、う」
一言一言がこくかの精神に突き刺さっていた。
巴マミは気まずげに顔を逸らしている。説明をするつもりはまるで見られない。
暁美ほむらは顔を背け、決して鹿目まどかの顔を見ない様にした。見れば、思わずこくかに同情してしまうだろう。
それでも、鹿目まどかに説明しなければならない。暁美ほむらには分かっている。どんな風に説明すればよいか、そう考えながらも、彼女は一歩を踏み出した。
だが、暁美ほむらは顔色を変えた。
「……さっき、何と言ったの?」
鹿目まどかが声に反応しているが、今だけは、暁美ほむらは彼女を意識しなかった。
強い意志を持ち、確信に近い疑念を抱きながら、暁美ほむらは百江なぎさを睨んだ。