「っ……」
酷い目眩を感じた。
今朝方から感じていた体の不調は治るどころか、むしろ時間を追うごとにひどくなっていく一方だった。
購買の仕事をどうにか終えて帰宅して、そこで限界。重い体を引きずって洗面所に向かい――そこで倒れた。
受身も取らずに全身を強打したというのに不思議と痛みは感じなかった。むしろ床の冷たさが思ったよりも心地よくて、そのまま意識を手放してしまいそうになる。
いつものように苦笑を浮かべる余裕もなく、歯を食いしばってようやく壁伝いに立ち上がる。
「これは……まずいな」
鏡に映った顔は酷く青白く、今にも死にそうだった。
旅先での不摂生な生活が祟ったのか、急に一変した生活に体が遂に音をあげたのかも知れない。
そういえば最近ロクに休日も休めていなかったな――
仕方がないから午後の店の仕事のことは諦めよう。ふらつく体に鞭打って店を閉め、自室に引っ込む。普段ならばものの5分とかからない作業だが、終わった時には30分以上も経っていた。着替える余裕もないくらいに、まるで鉛でも詰め込まれたような重い体をベッドに投げ出すと、瞬く間に意識が消え去っていくのが分かった。
――っ!
意識がぼんやりと戻ってきた。体は全くいう事をきかないし、まぶたさえも重くて開いてはくれない。
誰かが歩く音が聞こえる。
どうやら誰かが部屋に入ってきた気配で目が覚めたらしい。
一人暮らしの家、自分しかいない部屋。誰かがいるなんていくらなんでもおかしい。
家の方の鍵を締め忘れていたことに今更になって気づき、危機感を感じるが、矢張り体は動いてくれなかった。
足音は自分のベッドの横まできて、急に止まった。そこに立ち止まったまま、動く気配も感じられず、何やらこちらを覗き込んでいるのが分かる。
こんな野郎の寝顔除いて何が楽しい?物取りならさっさと取るもの取って帰ればいい。それとも俺に何か恨みがある奴だろうか。思い当たる節は――たくさんありすぎて数え切れない。
どっちにしてもさっさとお引き取り願いたい。このまま俺の体が動くようになったら、即刻息をお引き取り願うのだが……
――?
不意に何かが額に当てられた。
暖かくて柔らかくて、そして頼りないくらいに小さな感触にはっとした。
俺も大分ヤキが回ったらしい。こんな、どう考えてもマズい状況だというのに、額の感触にどこか安心を感じてしまっているのだから。
その優しさに身を任せているうちに、俺の意識はまたしても暗闇のなかへ落ちていく……
「っ!」
また目が覚めた。
体のダルさは完全に抜けていないが、倒れる前よりは十分マシだ。ゆっくりと上体を起こすと、膝の上に何かが落ちた。
「なんだこりゃ?」
つまみ上げてみれば見覚えのあるタオル。大分ぬるくなってしまっているが、水で湿っているそれは、どうやら俺の額に置かれていたらしい。
でも誰が?
冴えない男一人暮らし、家族も今は遠くにいるし、ましてやこんな風に看病をしてくれる彼女もいない。思い当たる節は――全くない。
寝ぼけて自分でやったのか?
そんな風に無い頭を悩ませていたら、ふと階段を上がってくる音が耳についた。小さな、可愛らしい足音は俺の部屋の前まで続いて、
「あら?起きたの?」
ひょっこりと顔をのぞかせた彼女に、俺は言葉を失った。
真っ黒な髪を、特徴的なツインテールに結んだ見覚えのある少女。制服の上にエプロンを着た彼女が手に持ったお盆には、水の入ったグラスと一人用の土鍋が置かれていた。
「……おやすみなさい」
うん、きっとこれは夢に違いない。
でなければこんな状況有り得ない。こういう時は夢の中でもう一度寝てしまうに限る。
全く、俺もつくづくヤキが回ったものだ。熱にうなされているとはいえ、こんな小娘に看病される夢を見るなんて。どうせならもっとボンキュッボンのお姉ちゃんに……
「ちょっと!無視しないでよ!それと今物凄く失礼なこと考えなかった!?」
「うるせぇ、病人の耳元で騒ぐんじゃねぇ……」
ただでさえ痛い頭に声が響いて、いつもの怒声も尻すぼみになってしまう。
ともかく、どうやらこれは夢ではないらしい。
「……一応聞くけど、矢澤ちゃんだよな?」
「何よ?私以外の誰に見えるっていうの?」
念のため尋ねてみると、怪訝な顔で睨まれた。
「……何でこんなところにいるんだ?ここ、俺の部屋のはずなんだけど」
念には念をいれて辺りを見渡してみるが俺の部屋で間違いない。物が少ない、片隅に置かれたアコースティックギターとハードケース以外に特徴のない部屋だ。
本当に何でこんなところにこの子がいるんだろうか。
――私だって来たくて来たわけじゃないわよ
そう前置いて、
「今日、学校で見かけた時にいつにも増して顔色悪かったから……買い物ついでにお店に来てみたら閉まってるし、家の方は鍵どころか家のドアが開けっ放しなんだもん。挙句家の中覗いてみたら荷物は思い切り散らかってるし、何事かと思ったわよ」
思わず苦笑が浮かんできた。
片付けはきちんとしたつもりだったが、やはり頭が回っていなかったらしい。これで訪ねてきたのが矢澤ちゃんだったから良かったようなものの、本当に物取りだったら――ぞっとしない話だ。
「それで――寝込んでる俺を見つけたわけか。……ほっといてくれりゃいい物を」
「そんなわけにもいかないでしょ?見つけちゃったんだから、もし放っておいて入院とかしたら後味悪いじゃない」
――心配、したんだから。
そんな小さな呟きが聞こえた気がした。
でも、俺の口をついて出たのは、
「それこそ矢澤ちゃんには関係ないだろうよ。良いからほっとけっての」
言ってから後悔した。
ついいつもの癖で――いや、こんなみっともない所を見られた照れ隠しなのかもしれないが、心にもないことを言ってしまう。
「……」
むすっとした顔で矢澤ちゃんが睨みつけてくる。そんな彼女の様子を見て、後悔が罪悪感に変わって胸を突き刺す。
確かにドアが空いてたからって勝手に人の家に入ってくるのはどうかと思うし、女の子一人で野郎の家を訪れるのは色々と向こう見ず過ぎやしないかとツッコミどころも満載ではあるが――
本当は、そんな厚意が純粋に嬉しくて、素直に礼を言いたかった。
もし俺が、仮に彼女と同じくらいの歳だったら友人として自然に接することも出来たのだろうか?
そう考えて首を振る。仮定の話に意味はなく、実際にここにいるのは冴えない大人。
大人としてのくだらない見栄やちんけなプライド、そんな吹けば飛びそうな自尊心が邪魔をして、素直になれない自分がつくづく嫌になる。
「あんたも、面倒くさい性格してるわね」
矢澤ちゃんが呆れたようにで大きく溜息をついた。
どうやら俺の考えは表情に出ていたらしい。葛藤を見透かされたようで、余計に気持ちが落ち込むが、それとは逆に、俺の考えを分かってもらえたようで少し安心している俺がいた。
本当に俺は薄っぺらい人間だ。
「……それはさておき、すまんな。こんな調子なんで店は開けられないんだ。」
「え?」
「買い物に来たんだろ?明日以降で問題なければ……礼がわりといっちゃ何だが、好きな品物、特別に半額にしてやるよ」
そんな提案に、しかし矢澤ちゃんは困ったような顔を見せた。
「……えぇ。その位当然よ!」
そう言って彼女は笑ってみせるが……その笑みはどこか寂しげに見えた。
「……今日じゃなきゃマズイ、とかか?」
……つくづく俺も面倒くさい性格をしていると思う。そんなこと、気がつかなかったことにして流せばいいものを、ついつい深入りして余計な事に首を突っ込んでいく。
「べ、別にそんなことないわよ!ただの買い物!」
彼女の反応を見て確信する。
今日じゃなきゃマズイ……うちの商品でそんな妙な需要があるものがあっただろうか?商品を片っ端から頭の中に浮かべてみるが、なかなか思い浮かばない。
今日じゃなきゃ……ん?
「もしかして、今日誕生日だったりとかすんのか?」
「!」
なんとなく、根拠もなしに言ったことだったが、どうやら図星だったらしい。
うちはパン屋だが、注文があればちょっとした――それこそ本当に簡単なケーキなんかも作ったりしている。どうやら彼女はそれを求めてうちを尋ねてきたらしい。
「……すまん。」
俺に出来ることは、頭を垂れて謝ることだけだった。本当はもっとちゃんと謝りたいけど、頭が悪くて語彙の少ない俺にはこんな短い言葉しか出てこない。
「ちょっ!?あんたは何も悪くないでしょ?」
「いや……年に一度の事で、わざわざうちに頼みにきてくれたのに、俺がこんな体たらくで――」
「別にいいわよ。他のお店を当たればいいことだし。それより今はその風邪をさっさと治しなさい。……全く、誕生日に先輩の看病することになるなんて私もついてないわ」
今度は寂しげではなく、優しく彼女は微笑んだ。
「……」
「あ!話聞いてなかったの!?今は大人しく寝てなさいよ」
矢澤ちゃんの制止を聞かずに布団から起き上がり、まだ本調子ではない体をおして部屋の隅に置かれたガラス棚に向かう。
確かここに仕舞ってあったはず……あった。
棚の中から見つけた目当ての物、ぶっきらぼうに矢澤ちゃんに差し出す。
「何これ?」
「誕生日プレゼント……っていうには剥き身で色気もなんにもないが、これで勘弁してくれ。」
俺が差し出したそれを受け取って、彼女は不思議そうに見つめていた。
それはペンダントだった。黒い紐に申し訳程度の銀色の飾り玉が施され、中央にギターピックが付けられた、どこにでもありそうなペンダント。
「ちょっとしたお守りだと思ってくれ」
「お守りって……本当になんなのこれ?」
彼女は半透明のギターピックを光に透かして覗きこんでいた。大分傷だらけで角が磨り減ったそれは、どこにでもある使い古し。
でも俺にとってそれはどこにでもあるものじゃない。
「俺が一番最初のライブで使ったピック……記念品みたいなもんだ」
本当はもっと気が利いた物をあげられればいいのだが、あいにく今はそんなものの手持ちがない。
「……大切な物なんじゃないの?」
「あぁ。だから、矢澤ちゃんにならくれてやっても良い」
俺にとってそれは夢の始まりになった物。
まだ未来だけしか見えなくて、怖いものなんて何もなかった頃の、輝きの証。
夢に敗れて逃げ帰ってきて、そしてそのことを彼女に告げることさえ出来ない、そんな臆病で矮小な俺にはもう必要ない――持つ資格なんてない。
昔夢を語った彼女に、今も夢を追い続ける彼女になら託せる。どうか彼女が夢を叶えられますようにと、そんな願いをこめて。
気がついたら俺は微笑んでいた。俺に笑顔なんて似合わないが――こんな穏やかな気持ちで笑うのなんていつぶりだろう。
こんなにも優しい気持ちになれる時がくるなんて。
矢澤ちゃんは俺の顔とペンダントを交互に見て、そして何か感じ取ったのかそれを小さな手に握り締めた。
「じゃあ、ありがたくもらっておくわ。……後で返せって言っても返さないわよ?」
「あぁ、もちろん。だが、そんかわし――」
――必ず夢を叶えろよ?
そう言おうとして、ぐらりと体が揺らいだ。踏みとどまれたため倒れこそしなかったが、いい加減限界らしい。
「だから寝てなさいって言ったでしょ……」
呆れた顔で矢澤ちゃんは立ち上がると、ごく自然な動きで――そっと俺の肩を支えてくれた。
腕に伝わるぬくもりと柔らかさに一瞬たじろいでしまった。
思っていたよりも俺の風邪は重症らしい。
じゃなければこんなこと有り得ない。この俺が――こんな小娘相手にドキリとしてしまうなんて。
「それじゃ、私はそろそろ帰るわよ?」
窓から外の様子を見れば、日が傾きかけている。
いつ来てくれたのかも分からないが、帰るには今が頃合と言ったところか。
「っと、その前に言うことがあったわ!あんた、ちゃんとご飯食べてるの?冷蔵庫の中ほとんど空っぽじゃない」
「お前はお袋か。あぁ、心配しねぇでもちゃんと……」
「ゴミ箱がカップ麺で溢れかえってたけど?」
痛いところを疲れて二の句がつげない……
「パン屋なんてやってるんだし料理くらい出来るでしょうに……」
「いや、男の一人暮らしなんてこんなもんだぜ」
ジャンクフードが好きなわけでも料理が苦手なわけでもないが、それとこれとは話は別だ。
……自分一人の料理にこった物作るのって、時たま寂しくなってくるんだぜ?
「まったく。そんなんだから体調崩すのよ。これ作ったから食べて休むのよ?いい?」
そう言って彼女はテーブルの上に置かれた鍋の蓋をあけた。
ちょうど良い位の温度まで下がったおかゆ。湯気にのって美味しそうな香りが立ち上ってくる。
「なんだったら、にこにーが食べさせてあげようか?」
悪戯っぽく笑う彼女を見たら、年甲斐もなく俺にも少しだけ悪戯心が湧いてきた。
にやりと笑って、
「あぁ、それじゃお願いしようかな……」
「え!?」
「あーん」
「えぇ!?」
笑いをこらえ、大きく口を開いてみせた。
矢澤ちゃんよ。大人をからかうとどうなるか、思い知ったか?
さぁ、どんな反応をしてくれるのか……
「……っ。……あーん」
逡巡は一瞬。スプーンですくったお粥をこちらに差し出してきていた。
これは、完全に予想外の反応だった。てっきり揶揄い返してくるものかと思っていた。いや、照れるくらいまでは予想してたが、まさか本当にこんな風に……
「……何よ、早くしなさいよ」
固まっている俺を睨みつけ、それでもなおスプーンをこちらにつき出す彼女の顔は、もう信じられないくらいに真っ赤で――
「……ん」
「……美味しい?」
「あ、あぁ」
本当はからかって終わりにするつもりなのに引っ込みがつかなくなってしまい、一口食べさせてもらってしまう。
実際にやってみると、これ物凄く気恥ずかしいんだな……正直なところ味を感じる余裕さえなかった。
「……もっと食べる?」
「いや、後は自分で食べるから大丈夫だ……その、何だ。すまん。」
顔が熱くてたまらないが、きっとこれも熱のせいだ。
――本当に今回の風邪は質が悪い
「そう。じゃ、今度こそ帰るわね」
「あぁ、今日はすまなかった……いや」
今度こそ彼女はカバンを持って部屋のドアに向かっていく。その背中に謝罪の言葉をかけて、そこで気がついた。
俺が矢澤ちゃんにかけるべき言葉はこれじゃない。今は……今だけはせめて。
「ありがとうな。それと――誕生日おめでとう」
あぁ、ようやく素直にお礼が言えた。
†
日も落ちてきてうっすらと影がさした帰り道。
ポケットからペンダントをそっと取り出してみる。
かつて、夢を笑わずに聞いてくれた人。
同じように――ううん。私よりもずっと無謀と言えるような大きな夢を語ってくれたあの人。
私よりも先に実際にその夢に向けて第一歩を踏み出して見せたあの人は凄く輝いていて。
私のファンだと、私の夢をずっと応援してくれると、あの人に言われたことは――そう言わせたことは、何でかは分からないけどいつしか私の支えで、誇りにすらなっていた。
ギターピックを夕日に透かせば、光を受けたそれは夢そのものみたいにキラキラと綺麗に輝いている。
「……本当に色気も何もないわね。こんなのを女の子にプレゼントするなんて」
そんな風に愚痴るけど、本当は何より嬉しいプレゼントだった。
あの人からの初めての贈り物。あの人の夢の始まりを、まだまだ小さいこの手に握りしめ――
私は明日もまた一歩ずつ歩いていくんだ。
こんばんは、北屋です。
にこちゃん誕生日おめでとう!
今回は趣向を変えて、一人称の視点で物語を進めてみましたが、なかなか難しいものですね。
そして、筆を走らせる中で、何度京助を殴り飛ばしてやりたいと思ったことか……
それはさておき、この話はあったかもしれないしなかったかもしれない、そんなお話。本編に深く関わることは有り得ない、ほんのひとコマでした。
では、次回は普通に本編を進めていきます!