人生に必要なのは妥協と諦め。
今の状況に落ちぶれてから、彼が常々考えてきたことである。
夢を追いかけて、何もかも投げ出して。何度折れそうになっても耐えて立ち上がって、その先にあったのは越えられない才能の壁だった。
夢に裏切られた末路――いや、それとも彼が夢を裏切っただけかもしれない。それはどちらでも同じことであった。才能の限界にぶち当たり、何もかも失った彼を待っていたのは
その日暮らしの流れ者というどうにもならない現実だけであった。
「……ふぅ」
ヘルメットを脱いで短く溜息をつく。
愛用の単車を降りてまずは一服。煙草の数ももう残りわずかとなっていた。
「結局戻ってきちまった……」
渋い顔をしながら一人ごちる。
絶対に帰らないと、昨晩そう宣言したばかりであったのに、今彼がいるのは実家の目の前であった。
ここまで走って来る間に目に映った景色。秋葉原の町並みは彼が旅立った時に比べ大分様変わりしているように思えた。だが、その一方で変わらないところは彼が小さかった頃から何も変わってはいなかった。
薄暗くなった夜空に目を向けてみる。モヤのかかった空に星は見えない。それもまた彼が生まれ育った街の景色であった。
吸い終わった煙草を足元に捨てて踏みにじり、覚悟を決めたかのような面持ちで彼は実家の一階部分、店舗スペースに脚を向けた。
今の時間ならこちらにいるはずだ。
「……うっす。」
ベーカリー&カフェTSUDA。
そう書かれた木製のドアを開けると、小気味良いドアベルの音が彼を出迎えた。
明るく品の良い証明に照らされた室内に広がる香ばしいパンの懐かしいにおいに思わず目を細める。時間が時間だけに品物の数は少ないものの、陳列された商品はどれもこれも美味しそうだった。
彼は昨日の朝から何も食べていないことに気づいて生唾を飲み込む。
今では喫茶店のようなことも兼業しているが、祖父の代から続く街のパン屋さん――それが彼の実家だった。
「いらっしゃ……って何だ、あんたか。放蕩息子がようやく帰ってきたようだね。」
店の奥から顔を出したのは初老の女性――紛うことなき、彼の母親だった。
「久しぶりだな。」
少し硬い笑顔でそう告げる。
ほとんど何も言わずに勝手に家を飛び出したことに対して、後悔はあまりしていないが、多少なりとも気まずさは感じているのだった。
しかし対する彼女はそんな彼の様子を鼻で笑うと、
「大分老け込んだねぇ……あんたももう三十路だっけか。」
「ふざけんな!息子の歳くらい把握しとけ!」
思わず彼も声を荒げてしまう。
確かに出奔時に比べて成長はしたし、過酷な生活で外見が老け込んだ自覚もある。だが、三十路呼ばわりされるほどではない……と思う。
第一彼はまだ20代前半である。
「まぁそんな些細なことは置いといて」
「俺にとっては些細じゃないけどな。」
「さ、そんなところでボケっとしてないでお上がりな。どうせ長旅で疲れてるんだろ?ゆっくりと――」
「あぁ。じゃ……」
実際、船に揺られる事5時間、バイクを飛ばすこと1時間、その上ほとんど飲まず食わずで来て、疲れているのは確かだった。
母親の言葉に甘えて、一先ず荷物を降ろし……
「休む前に仕込み手伝いな。」
その場でこけた。
「いや、実際疲れてるから少しくらい休ませてくれよ。」
「休むのはいつでも出来るけど、仕込みは今しか出来ないよ。何のためにあんたを呼び戻したと思ってるんだい。」
何か反論をしたかったが、こうなるのを知っていて戻ってきた手前何も言えない。
昔からこの母には勝てた試しがない。
溜息をついて着替えのためにロッカールームに向かう彼の背中に、ふと思い出したように母が声をかけた。
「お帰り。京助。」
「あぁ。ただいま……でいいのかな?」
彼――津田 京助は照れくさそうに笑うのだった。
†
「……で、だ。」
翌日、時刻は昼前。
京助は母に連れられて外に出ていた。母が仕事の一環として店の経営だけでなく卸売のようなこともしていることは彼も勿論知っていた。そしてその仕事に付き合わされることも勿論構わない。
構わないのだが……
「これはどういうことだよ。」
呆然と見上げる彼の視界一杯に広がるのは、学校の校舎である。
しかもそこはただの学校ではない。彼の記憶が確かならば――
「ここ……音ノ木坂って女子高じゃねぇか?」
古くから続く、伝統ある女子高校……そんな記憶が頭の片隅に残っていた。
「そ。ここの購買でも販売をやってる……って昔話さなかったかい?」
「いや、初耳だ。ってか良いのか?俺みたいなのが入って。」
彼が不安を感じるのも無理はない。
女子高という響きだけで男としては気後れするのに、挙句彼はほんの1日前まで浮浪者同然の事をしていた身の上である。
「仕事なんだから構うことはないだろう。………くれぐれも生徒に手を出すんじゃないよ?」
「小娘に手を出す趣味はねぇし、犯罪に手を染めるつもりもねぇよ!……ってか、それ親が真顔で聞くセリフか?」
「まぁあんたに限ってそんな心配はないか。どうせまだ童貞なんだろ?女性恐怖症の気はまだ治らないのかい?」
「うるせぇ黙れ!それより実の母親にそれ言われる息子の気持ちを察しろよ!?少しはデリカシーってものを持ちやがれ!」
くだらない言い合いをしながらもワゴンに積んであったコンテナを片っ端から降ろし、校内の販売スペースに運び、机の上に並べていく。
5分と経たないうちに机は大量のパンに埋め尽くされていた。
「いいかい京助。よく聞きな。昼の購買は戦場だよ。」
「あ?あぁ、まぁ良く聞く話だな。」
真面目な顔で言う母親を見て、彼は何の気なしにそう答えた。
あいにく京助はまともに高校に通っていなかったため、その辺の知識はドラマや小説でしか見たことがない。
故にこれから起こる戦いに対して危機感を感じていないのだった。
「分かってないねぇ。いくらここが女の子しかいないからって甘く見たら、あんた……死ぬよ?」
「は?」
京助が怪訝な顔をするのと時を同じくして校舎内にチャイムの音が鳴り響いた。
音が鳴り終わるかならないか、そのタイミングで多くの人間の話し声やドアの開く音が、まるで爆発でもしたかのように今の今まで静かだった校舎に響き出す。
その中で、大勢の足音と話し声が物凄い速度でこちらへ向かってくるのを京助は感じ取った。
「さぁ、来るよ!」
「い、いらっしゃいま……!」
後に京助は語る。
それはさながら古の合戦場のような光景であったと。
†
「う~……」
4限が終わった教室にて、机に突っ伏してうめき声を上げる女子生徒の姿があった。
「穂乃果ちゃん……授業終わっちゃったよ?」
なおも机に伏したまま動こうとしない少女のとなりに立ち、声をかける少女が一人。灰色がかった髪が印象的なおっとりとした雰囲気の少女であった。
「うーん……廃校……」
「まだ言ってるんですか。さっきも言いましたが、それはまだ先の話です。」
呆れたように別の方向方声をかけたのは深い蒼みがかった長い髪の少女だった。
「はっ!」
急に今までうつむいていた少女ががばっと顔を上げた。
キョトンとした様子で周囲を確認し、
「いつの間に授業終わってたの!?」
どうやら英語の授業を受けるうちに寝入ってしまっていたらしい。
そんな彼女を見て、またかと言った風に友人である少女二名はそれぞれ肩をすくめる。
「全く。たるみすぎです。」
「あはは……でも最近暖かくなってきたからお昼寝しちゃう気持ちもわかるかも。」
そんな友人たちを見て、えへへと苦笑すると穂乃果と呼ばれた少女は大きく伸びをする。
「んー……!じゃ、ことりちゃん、海未ちゃん。お昼にしようか。穂乃果、ちょっと購買行ってくるね。」
そう言って席を立とうとしたとき、彼女は教室がいつもと少し様子が違うことに気がついた。
「何か、いつもよりざわついてない?何かあったの?」
「え……?言われてみればそんな気もするけど……」
見渡してそんな感想を抱いた彼女たちは、今まさに教室に談笑しながら戻ってきた友人達に声をかける。
「あ、ヒデコ、ミカ!何かあったの?」
「あぁ、穂乃果。今その事を話してたんだ。」
「そうそう。今日、購買がちょっと変わったんだ。新商品がいくつも出てるんだよ!」
そう言って彼女は新商品と思われるパンの袋を穂乃果達の方に見せた。
「新商品……ですか?それにしては妙に……」
「行こう!」
首をかしげる友人はそのままに、穂乃果は席を立ち一気に購買部の方へ走り出していた。
慌ててことりと海未もその背中を追って駆け出す。
「穂乃果ちゃん!」
「ちょっと穂乃果!」
残された級友達はいつもどおりの彼女たちの様子を笑いながら、
「あの三人はいつもどおりだね。」
「うん。もう、穂乃果は話を最後まで聞かないんだから。」
何も購買が話題になったのは新商品が入荷されたからだけではない。
それに伴って新たに販売員として働き始めた人間の方に目下生徒たちの注目が集まっているのだった。
「あの人、結構格好良かったよね?いくつくらいなんだろう?」
「えぇ!?あんた、趣味悪くない?どう見てもあれ、いい年したおっさんでしょ?」
当の本人はその頃くしゃみをこらえながら接客に勤しんでいたという。
どうもこんばんは。北屋です。
主人公の名前とあらすじで言っていた実家の稼業が出てきました。
ともかくようやくおっさんも音ノ木坂に潜り込むことが出来ました。次回には一部のメンバーと接点が持てるはず!
……主人公の実年齢はまだ秘密ですw