「よいしょ、と」
「ちょっと、お姉ちゃん!こんな夜にどこ行くの!?」
「あ……えへへ、ちょっとだけ走りに」
居間から驚いた顔を覗かせる妹に、穂乃果は短く答えて、靴紐をきつく結んだ。
時刻は八時をまわったあたり、いかに夏場とはいえども外は既に真っ暗になっている。それを承知した上でのことだった。
ラブライブへの出場が現実味を帯びてきてからというもの、毎日欠かさずに行ってきた夜のランニング。今日は文化祭前日で、友人の海未からはゆっくり休むように言われているが、とてもじっとなんてしていられなかった。
玄関から一歩踏み出してみれば、顔を冷たい雫が打つ。
雨――しかも、それなりにまとまった雨だった。
けれども躊躇は一瞬のことだった。上着のフードをすっぽりとかぶって、いつものルートを走り出す。
こんなところで止まっていられないと、その思いだけが彼女を突き動かしていた。
神田明神、裏門に位置する男坂と呼ばれる石段の前に、彼女は一人立っていた。
降りしきる雨は冷たく、止む気配は微塵もない。
少女はそんなことは問題でもないとでも言うかのように、念入りにストレッチをして、石段を見上げる。
アイドルをやると決めた日、海未からこの階段を使ったトレーニングを課せられた時は正直ちゃんとメニューをこなせるのか不安だった。
でも、今となってはそれも日課となって、苦もなくこなすことができるようになった。
――よーい、どん!
心の中でスタートの合図を出し、合わせてスタートダッシュを切る。
息を切らすこともなく、石段の中腹まで走りきりながら、自分の成長を感じて少し可笑しく思った。
何の取り柄もないただの女子高生だった自分が、今では大きな目標を目の前にしている。頑張って頑張って、ようやくここまで来ることが出来た。
この姿を、かつての自分が見たらどんな風に映るのだろう。
「あ……」
別のことを考えたのがいけなかった。
雨で濡れて足場が悪くなっていた石段、足を滑らせたと気づいた時には既に踏みとどまることも出来ない程に体が傾いていた。
スローモーションで景色が流れ、真っ暗な空が目の前に広がってくる。
「てめぇッ!!」
穂乃果の後ろで、だん、と地面を蹴る凄い音が響いた。
続いて傾いた体が、倒れこむ寸前で誰かに支えられて止まった。
「大丈夫か、高坂?」
穂乃果はきょとんとした表情を浮かべてしまう。
なんで彼がこんなところにいるのか、助けてくれてありがとう、いろいろな言葉が頭の中で渦巻く。しかし、心配そうに覗き込んでくる京助の顔を見たら、何を言っていいのかわからなくなってしまった。
初めて間近で見る京助の顔――見慣れたはずの彼が、不意に別の人物に見えた。
「高坂ちゃん?」
「わ、わわわ!パン屋さん、顔近いよ!」
「げ!?す、すまん」
京助は慌てて、それでも優しく穂乃果を起こしてから手を離した。
きまりが悪そうに頬を掻き、彼は、
「ヒフミ……じゃねぇ、ヒデコちゃんら三人からちらっと聞いてな。何だか、高坂ちゃんがこの頃夜も練習してるらしいって。流石に文化祭前日、こんな雨の中走る馬鹿はいねぇと思ったが――予想を裏切ってくれたな、小娘」
「いや、だって……」
こつり、と。
京助の握った拳が、言い訳をしようとした穂乃果の頭を叩いていた。
決して強くはない、弱々しい拳。しかし、口ではどれだけ乱暴なことを言っても、決して実行しようとはしなかった彼が、初めて上げた手に、驚いて言葉が出なかった。
「だっても明後日もあるかボケ!てめぇのドタマには味噌じゃなくてアンコが詰まってんのか、この饅頭娘!」
いつにも増して辛辣な暴言を、京助は火を吹かんばかりの勢いで穂乃果に叩きつけていた。
「酷い!そんなに言わなくてもいいでしょ!?」
「戯け!今日に限って俺が言ってるのは正論だ!こんな無茶しやがって、何かあったらどうすんだよ!」
「パン屋さんにそんなこと言われる筋合いはないよ!」
売り言葉に買い言葉。彼がこんなに怒っているのも、自分のことを、自分たちμ’sの事を、本気で心配してくれているからだと、頭では分かっていても、つい反論してしまう。
その言葉を言ってから、穂乃果は“しまった”と思った。
今までの勢いはどこに行ったのか、京助は口をつぐみ、渋い表情で穂乃果を見つめる。
彼は、初めて彼女たちと出会った時と同じ目をしていた。
眩しそうに、または遠くを見るかのように、彼女たちを心配そうに見ながらも、決して彼女たちを同じ時間、同じ場所から見ようとしなかった目だった。
「それは――」
目を伏せて、言いよどむ。しかし、青年は、意を決したようにすぐに真っ直ぐに少女と目を合わせて、
「……違うぜ、高坂のガキよ。俺には言う筋合いがあるんだ」
「え?」
「俺は――――μ’sの一ファンだ。ファンが、お前らアイドルのことを心配して何が悪い」
言いながら、京助はゆっくりと石段を降りて、麓に投げ出された傘を拾いあげる。先ほど、穂乃果に駆け寄る際に放り投げたらしかった。
「ステージで頑張るのはお前らだ。ファンに出来ることなんざ、ほとんどねぇ……せいぜいが応援してやることと、心配してやることだけだ。それくらい、俺にもさせてくれ」
そう言って、彼は掴んだ傘を穂乃果に差し出す。
自分が濡れるのも構わず、彼女だけを覆うように傘を支える。
「パン屋さん……」
「……無茶も無謀も、努力の内だ。そこを頭ごなしに責めるつもりなんざ毛ほどもねぇけど、今のお前はちっと頑張りすぎだぜ。それで体壊したら元も子もない」
寂しそうな、苦笑。
だが、彼女を見つめる彼の瞳は、いつかとは……先ほどとは違う輝きを湛えて、真っ直ぐに目の前を見据えていた。
――いつからだろう。この人がこんな目をするようになったのは
出会って初めての頃、京助は、穂乃果からはいつも不機嫌そうに、怖い顔ばかりをしているように見えていた。
彼が怖い人なんかではなく、むしろお人好しの部類であると気がつくのに時間はかからなかったが――
時折どこか遠くを見つめる彼の瞳は、けれども何かをちゃんと映しているようには見えなくかった。この世界が全部灰色に見えているのではないかと、彼女が心配になるような顔ばかりをしていた。
それが、今ではこうして遠くではなく、ちゃんと今を見るようになったのはなぜなのか?
彼女には残念ながらそれは分からないし、聞いたところで京助は絶対に教えてはくれないだろうと、そんな確信があった。
穂乃果が黙って傘を受け取ると、京助は踵を返して、石段を降り始めた。
「高坂ちゃん。今日はもう帰ってゆっくり休みな。明日のライブ――楽しみにしてるぜ」
「……うん」
小さく、穂乃果が頷くのを見届けて、京助は満足したのかゆっくりと歩を進めていく。その物悲しい背中を見て、穂乃果は彼から渡された傘の柄を強く握り締めた。
彼女は気づいていた。
俺は――
京助がそう言って黙った後、彼が続けようとしたのは別の事だったと。
もちろん、さっき彼が言ったことが嘘ではない。あれもまた彼の本当の心なのだろう。しかし……
「何て、言おうとしたんだろう?」
それはきっと、彼が今までにたどってきた道に関係があるのだろうと、漠然とした予想があった。
苦労を刻み込み、癒えぬ疲れから歳とは不相応に老け込んで見える顔。
それは、百の努力をくり返し、千の挫折を乗り越えてきた証明。
「ッ!?」
先ほど間近で見た彼の顔が脳裏にフラッシュバックする。
いつもは気にもしていなかったが、改めて見ると彼は割と整った顔立ちをしていた。決して凛々しいとか、優しそうとかそういった特徴があるわけではない。ただ、自分をまっすぐに見つめる姿は、何故か――
「わー!!」
大声をあげて、首を左右に思い切り振って、気持ちを入れ替える。何故だかわからないが、これ以上考えてはいけない気がした。
「……うん。今日はもう、帰ろうかな」
そうつぶやくと、彼女はびしょ濡れになった上着を脱いで、傘を差しなおす。
――風邪、ひいちゃったのかな?
何だか無性に顔が熱い気がした。
†
穂乃果に傘を渡してしまったことを微かに後悔しながら、京助は雨の帰り道を急いでいた。体に気をつけろと言った本人が、風邪などひいた日には良い笑いものである。
少しでも自宅までの時間を短縮しようと、近道の路地裏に入る。ビルとビルに挟まれた狭い道、ただでさえ昼間から薄暗くてかび臭いというのに、日も暮れたあとの土砂降りの中ともなれば不快感はいつもの倍増しだった。
「ちっ」
舌打ちを一つ、ポケットを漁る。
既に浸水が始まっていたらしく湿ってヨレヨレになった一本を忌々しげに咥え、今度はライターを探す。
湿った衣服がぴったりと体に張り付いてきて、目当てのものはなかなか見つからなかった。仕方なしに京助は足を止めて、両手でポケットをあさり始める……
「……?」
ふと、京助は道の先に目を凝らした。
人が通るには十分すぎるが、車が通るには狭すぎる一本道。そのど真ん中にぼう、と立つ人影があった。
ゆったりとしたレインコートをフードまですっぽりとかぶった男――それ以上の情報は見て取れない。
ただの通行人かと考えて、しかしただでさえ人通りのないこの道を、こんな時間に通るもの好きが自分の他にいるのかと、彼は首をかしげた。
「ッ!ちぃッ!」
京助が瞬きをした僅かな間。
それを狙ったとしか思えぬ動きでレインコートの男が動いた。
獣の如き反射神経を持って反応し得たのは、京助にとって僥倖としか言えない。
後ろに跳びずさった彼は、咥えていたタバコを吐き捨てて、男を睨みつけていた。
目と目の間を、ジリジリとした痛みが焼いている。
一息で距離を詰めてきた男が地面と水平に薙いだ手刀の、その爪の先が、京助の目前をかすめたのだった。わずかでも回避が遅れていれば、両目を抉られていたかもしれない。
そう考えて、京助は背中を冷たいものが走るのを感じた。
「てめぇ、どこのモンだ!?」
尋ねてはみるものの、案の定返事はない。
突然の襲撃者と対峙し、しかし京助の思考は冷えていた。
常人ならば理解が追いつかぬ事態ではあるが、あいにくと彼はこのような状況に追い込まれるのも別に初めてのことではない。
学生時代は悪いことを死ぬほどしてきた。旅の間も、およそ人には言えない汚いことを、それこそ殺されても文句がいえないくらいにしてきた。当時の恨みを未だ持ち続けるものがいたとておかしくはない。
ゆえに、この状況は想定の範囲ではあった。
「まったく、難儀なことだな。明日は外せない用事があるってのによ」
面倒臭そうに言いながら、彼は脳内で考えを巡らせ続けていた。
――逃げるか?
まず真っ先に逃走を考えた。相手の実力も、目的さえも分からぬ以上、ここで敵対するのはあまり良い手とは思えない。
だが――すぐに逃走の案を取りやめる。今さっきの動き、下手に背中を見せればどうなるか分からない。
相手は、それほどの手練であると、本能的に分かっていた。
――ならば、立ち向かうか?
決断は早かった。
体勢を立て直し、ゆっくりと腰を落とす。
気息を整えていく内に、全身の感覚が戦いのためのものに置き換わっていくのが分かった。
じりり、と。
アスファルトの上を靴底が擦り上げる音が響いた。それはどこか、雷の前触れの音に聞こえた。
「ひゅっ――」
笛の音ノように鋭い呼気を吐き出して、京助と男は同時に踏み込んだ。
両者の間合いが詰まった。
京助の右脚が跳ね上がり、男の顎を狙う。軸足と蹴り脚が一直線に、地面に対して垂直に伸びた。
凄まじいまでのバネと柔軟性がなくては出来ない蹴りだった。
――ぬぅッ!?
京助の脚は、けれども何の手応えも伝えてはこなかった。
つま先が直撃する寸前、男が急制動をかけてその場にとどまったのだった。目測が外れた脚は虚しく空を切り、大きな隙を相手に与えることになる。
その瞬間を見逃す相手ではなかった。
構えた右手の五指を全てぴんと伸ばし、手刀を形作る。抜き手で京助の腹を突くつもりらしかった。
対して――
にぃ、と。
京助は獰猛な獣の笑みを、顔いっぱいに浮かべた。
「――ッ!」
最大限に伸びきった脚が、空中で止まった。その間は僅か半瞬にも満たない。頂点から逆に、跳ね上がった軌跡をなぞるようにして振り下ろされるそれは、天より下る雷の閃に似ていた。
襲撃者の頭を砕くかと思えた見事な踵落とし。
男は間髪いれずに十字に組んだ腕でその脚を受け止める。京助の脚と男の腕がぶつかってその場で停止した。
「しゃぁッ!!」
吠えた。
獣の咆哮とともに、京助の脚に全体重がかかる。
骨の、血肉の軋む音に続いて、力の拮抗はついに崩れ、互いに大きな隙が生まれた。
勝負は一瞬……恐らく、両者は同じことを考えていた。京助の右足が地面につくのと、男が構えなおすのはほぼ同じタイミングであった。
再び地面を蹴って跳ね上がった脚、コメカミを狙った上段回し蹴りを、男は立てた左腕で防御してみせた。
みしり、と嫌な音を立てながら、それでも男は止まらない。空いた左手の二指を立て、突き込む。
二本抜き手が京助の鳩尾に吸い込まれたその瞬間――男の体が横に、不自然に吹き飛んだ。
京助の脚はガードの腕の上で弾けて、二段目の蹴りをがら空きとなっていた男の左のアバラに叩き込んでいた。
「かっ……げほっ……」
その場で崩れ落ち、京助は膝をついたまま胃を押さえて咳き込む。
男の二本抜き手は正確無比に彼の鳩尾を捉えていた。蹴りが届くのが刹那でも遅れていれば、胃壁を破られていたかもしれなかった。
内から沸き起こってくる吐き気をこらえてようやく顔を上げる。
目線の先に襲撃者の姿はなく、どうやら既に逃げ去った後のようだった。
京助の脚が直撃する寸前、男はあらかじめ力の方向に合わせて跳び、その威力を殺していた。アバラを軒並みへし折ってやるつもりだったが、これでは骨の一本も折れたかどうかさえ怪しいところだった。
男の回避の動きがなければ、決着はついていたかもしれない――が、あるいは両者共に重傷で共倒れとなっていたかもしれない。
男の行動は明らかに共倒れを避けてのことだった。
――恐ろしいな
心の底からそう思った。
技の冴えはもちろんのこと、見事な去り際の見極め。今回は何事もなく済んだが、次はどうなるか、自信がなかった。
震える手でライターを取り出して、新たなタバコを口に咥える。湿りきったタバコは、一口吸い込むだけで火が消えてしまった。
こんばんは、北屋です。
これが年内最後の更新となります。
いつか言ったように、本当なら、一期分を今年中に終わらせるつもりだったのですが、書ききれませんでした。私の不徳の致すところで、非常に申し訳のない限りです。
では、読者の皆様、良いお年を。