ギターケース担ぎ上げる。
ケースの紐を肩から掛けて部屋を出ようとすると、よろけた拍子に壁にぶつかって仲のギターが悲鳴のような嫌な音を立てた。
だが、そんな事はもうどうでも良かった。ふらつく足取りのせいか、何度も壁や柱やらその辺にぶつけて、しばらくしたら相棒は悲鳴を上げるのをやめた。
店を出て、鍵を締める。短い間だったが、それなりにこの平穏――とは一概に言い切れない生活は楽しかった。恐らくこんな日々は二度とはないだろう。
今際の際でこの数ヶ月を思い出せば、きっと自分の人生にもそれなりの満足を得られるだろうと、そう思いながら彼は己の実家に背を向けた。
愛車にまたがり、キーを差し込む。しかし一向にかからないエンジンに怪訝そうな顔をして、彼は燃料が空になっていることに気がついて苦笑を浮かべた。
どこまで行っても決まらない。
だが、そんな最後も自分らしくて良い。ギターを担いだままに、彼は歩き出す。
燃料の調達ついでに背中のゴミを処分して、見納めに街をふらつくつもりだった。
「津田さん?」
正面から誰かに声をかけられ、立ち止まる。
焦点のいまいち定まらない目で見つめ、それが誰なのかようやく気づいた時には、彼女は京助のすぐそばまで来ていた。
「……園田ちゃんか」
疲れきった溜息を一つ、少女の名を口に出す。
今、彼が一番会いたくない相手だった。
「今ちょうど、あなたに会いに行こうと思っていたところだったんです」
「……」
黙りこくる彼を無視して、彼女は困惑の表情で言葉を続ける。
「穂乃果がスクールアイドルをやめると言い出して、にこが怒ってしまって……ことりが、留学することになって……すみません、少し落ち着いて話します」
自分でも何を言っているのか分からなくなったのか、そう言って海未は小さな笑みを浮かべる。
だが、その目は全く笑っていなかった。悲しみと不安に今にも押しつぶされそうで、誰かに助けて欲しいと、そんな目をしていた。
助けを求めるその瞳に映るのは、一人の青年の姿。
「……大体の、事情は聞いてるよ」
表情を崩さずに、京助は小さな声で呟いた。
酷くしわがれ、錆びた声だった。どうやら深酒とタバコで喉が焼けてしまったらしい。
「……さっき、矢澤ちゃんが来て、事の次第を話してくれた」
それだけ言って、京助はもう一度黙り込むと、二人の間に沈んだような沈黙が訪れる。
季節はずれの冷たい風が頬を撫でた。
「そう、ですか……」
5秒にも満たない、しかし永遠とも思える静けさを破って先に口を開いたのは海未だった。
「……もう、私にはどうしたら良いのか分からないんです。ことりや穂乃果と、ずっと一緒にいたのに……変な話――情けない話ですよね」
「……」
京助は、何も語らない。ただ口をよこ一文字に結んで、疲れきった顔をうつむかせるだけだった。
「だから、その、津田さんに相談しようかと」
「俺に、相談?」
「はい……」
海未はどこかで期待していた。
かつて、一年生達三人の背中を押してくれたように。
以前、にこの手を取るようにして導いてくれた時のように。
そして、絵里の閉ざした心を力ずくでこじ開けてくれた時のように。
また今度も彼が力になってくれると彼女は思っていた。
だが――
「……無理だ」
京助は短く、ため息混じりにそう答えた
「もうこうなっちまったら、何も出来ることはねぇ。……相談なんざ持ち込まれても、俺には何も出来ないぜ」
その答えを聞きながらも、海未はまだ希望を捨ててはいなかった。
いつも口では嫌だと言いながらも結局は力を貸してくれる、だから今回も――そう思って彼の顔を正面から見つめ、淡い期待が崩れ去るのを感じた。
いつにも増して疲れきった彼には、一切の気力が感じられなかった。諦観と絶望をありありと浮かべる彼の雰囲気が、その言葉が嘘偽りのない本心からのものだとそう言っていた。
「悪いが俺は、てめぇの事で精一杯なんだ。……とても小娘共の相手なんかしてる暇はねぇ」
その言葉を最後に、彼は止めていた足をゆっくりと動かし始める。
よろよろとしたおぼつかない足取りで海未の横を通り過ぎ、
「あばよ。達者でな」
振り向きもせずに別れを思わせる一言を残し去っていく。
海未はどんどん離れていく彼の後ろ姿を見ながら、立ち止まったまま何も声をかけることが出来なかった。
夕闇に溶けるように小さくなっていく彼の背中は、酷く儚くて、何かの拍子に消えてなくなってしまいそうだった。
このまま二度と会えなくなるのではないかと、そんな不吉な予感が彼女の胸のうちで生じていた。
†
「……ごほッ」
咳を一つ。
震える手でタバコを摘んで口に咥える。
安物のオイルライターの小さな火をその先端に移して、辛い煙を肺一杯に吸いこんだ。
すでに日は沈み、夜の帳が街に降りている。
腕時計も携帯電話も忘れてきてしまい、時間を確かめる術はない。もしそれらを身につけていたとしても、時刻を確かめようなどという気力自体が今の彼にはなかった。
ただガソリンスタンドに行こうとしただけだというのに、あれからどれほど彷徨ったのか、足がまるで棒のようだった。活気に満ちた街の喧騒はどこか遠くへ消え去って、車や電車の走る音だけが遠くに聞こえている。
今までに感じたことのない倦怠感を抱えて、彼はビルの壁にそっとその背中を預けた。
ビルとビルに挟まれて、昼までさえも日が差さないような暗い路地裏。この場所にくると昔から何だか無性に気分が落ち着いた。
タバコを咥えたまま、背中に担いだままのギターケースを乱暴に地面に下ろす。かつては夢そのものとさえ思えたそれが、今はただひたすらに重くて、自分を縛る忌々しいモノに思えた。
「……ヘッ」
おもむろにケースを開いて中身を取り出すと、京助は鼻で笑う。
それはどこまでも暗くジメジメとした笑いだった。
もうとっくに潰えた夢。その残骸を惨めったらしく大事に抱えるのが馬鹿らしかった。
こんなものがあるから、期待をしてしまう。まだ自分には何か出来ることがあるのではないかと、今までの自分の努力と苦労は無駄ではなかったと、そんな幻想を抱いてしまうのだと、そう考えたら自然と笑えてきた。
実際に自分に出来ることは何もなかった。何かが出来ると思い込んで、結局やったのは少女たちに、無用な混乱を与えることだけだった。
結局、努力も苦労も、夢さえも、何もかも無駄でしかなかった。
乱暴にギターのネックを持って、ケースから引きずり出す。いい加減に全てを捨てる覚悟は出来ていた。
疲れた体に鞭打って、かつての相棒を頭上に持ち上げる
――あばよ、相棒
心の中で呟いて、力の限りに両手を振り下ろした。
耳を覆いたくなるような破壊音。だが、京助は手を休めずに何度も何度もギターをアスファルトの地面に叩きつける。
どれほどの時間が経っただろうか。京助が見下ろす先に転がるのは、かつての夢の、文字どおりの残骸だった。
粉々に砕け散り、もう二度とは元に戻らないそれを満足げに見下ろして、いつのまにか火の消えてしまったタバコを吐き捨てると、疲れが一気に体を襲ってきた。
崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。もうこのまま泥のように眠り込んでしまかった。出来ることならば二度と目覚めることのない静かな眠りを、心身が欲していた。
徐々に重くなっていく瞼に抵抗する気などもとよりなくて、望んでいた静かな闇が目の前を覆い始める。
やがて聴覚も触覚も、五感の全てが意味をなさなくなっていき、そして――
「ッ!?」
真っ白な閃光が闇を裂いた。遅れてやってきた凄まじい衝撃が体を突き抜け、飛びかけていた意識が無理矢理に呼び戻される。
何が起きたのか分からずに目を開いてみれば、いつの間にか自分の周りを数人の人影が取り囲んでいるのが分かった。
意識がはっきりしてくるに連れ、頭に感じる酷い痛みが自己主張をしてくる。人影の一人が手にしている金属バットが目に移り、それで殴られたのだと理解が及ぶのにそれほどの時間はかからなかった。
「何だ、てめぇら……」
痛みをこらえながら、ゆっくりと体を動かそうとする。だが、体はまるで錆び付いたように動いてくれなかった。それどころか、この状況が危険であると分かっているにもかかわらず、何とかしようという気さえも湧いてこなかった。
ひどくだるい。何もかもがどうでも良い。
そんな気さえしてきて、立ち上がることさえも億劫だった。
「ぐぅッ!?」
二度目の衝撃が肩口を襲った。不思議と痛みは感じない。だがその衝撃で地面を転がって、アスファルトの冷たさを全身で感じることになった。
今度こそゆっくりと立ち上がり、襲撃者達に目を向ける。人数は5人程で、いずれもどこかで見たことのある顔をしていた。
「何だ、お前ら……」
「何だじゃねぇんだよ!」
先頭の若者のつま先が鳩尾に食い込んだ。普段なら難なく避けられる不格好な蹴りだったが、その気が起きなかった。
前かがみに崩れ落ちると、体の中からこみ上げてくる不快感に耐え切れず胃液を吐き出してしまう。
――そういえば、昨日から何も食べていなかった
そんな風に、場違いな事を考えていた。
「津田ぁ!この間は世話になったな」
「この間……?あぁ、あの時のチンピラか……ッ」
金属バットが容赦なく胸板を叩いた。
みしり、と。嫌な音が体の中から響いた。どうやらアバラが折れたらしかった。
「てめぇが街に帰って来たって言ったら、是非ともいつかの借りを返したいって奴らが集まってくれたんだぜ?」
地面に倒れたままの京助の体を、二人の男が強引に引っ張って立たせた。
「へっ……人気者は辛いぜ。雑魚がよってたかってこんなロクデナシに挨拶とはな。よっぽど暇なのか?」
軽口を叩きながら、京助はようやく状況が理解出来てきていた。
ここにいるのは、かつて京助が若い頃に叩きのめしたことのある相手ばかりだった。もう二度と立ち向かう気など起きないくらいに潰したつもりだったが、一部はまだ恨みをもったままだったらしい。かつての自分の甘さがつくづく笑えてくる。
だが、この状況はある意味では幸運といえなくもなかった。
動きを封じられたままに何度も殴られ、打ちのめされながら、京助はまたしても場違いな事を考えていた。
それはこの街に戻ってきてから知り合ったあの少女たちのこと。
今まで死ぬほど、殺される程に悪いことをしてきた。だからこうしてそのツケを払うことになるのは半ば覚悟していたことだ。しかし、そのツケを払うのは自分一人でなければならない。もし、この連中に彼女達と一緒にいるところを見られていたら――そう思うと言い知れない恐怖が体の芯を凍りつかせる。
「ぅッ!」
金属バットが京助の横っ面を叩いた。
飛び散る血に白いものが混じっていた。どうやら歯が何本か折れたらしい。
下品な笑い声に混じって、彼らが何かを言っているのが聞こえるが残念ながらそれを理解する気にはなれなかった。
――もうどうにでもなれ
何度も打ち据えられ、殴られ、蹴られ、傷つく中で京助は反撃さえせずにそんな心持ちでいた。最早痛みなど感じない。
何もかも失った身である。もう何かを考えることも億劫になってきていた。ここで死んでも構わないとさえ思っていた。
全身余すところなく叩きのめされて、指一本動かす気力がなくなった頃、京助はようやく暴力の嵐から解放された。
何かを囁きながら男たちの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
まだ、京助にはそれを捉えるだけの感覚が残されていた。
――まだ、死ねないのか
人の体というのは、自分が思っているよりは頑丈に出来ている。
ましてや昔から頑丈だけが売りの自分の体。死のうと思ってもそう簡単には死ねないらしく、こんな時ばかりは嫌になってくる。
京助は密かに、今この場で自身が終わる事を期待していた。
生まれてこのかた何事も上手くいかず、失敗続きの毎日。ようやく見つけた夢も果たすことが出来ず、守りたいと思ったモノさえ手の中から滑り落ちていく。
そんな己の人生がたまらなくなって、今度こそ消えてなくなりたいと思っていた。
――素人め
急に激しい怒りが胸のうちに燃え上がってくるのが感じられた。
ここで全て終われると思った。
だから無抵抗で受け入れたというのに、それも無意味だった。
先に進むことも、ここで終わることも出来ない。そんな状況に腹が立って仕方がなかった。だから、これから自分がすることはただの八つ当たりであると、薄々は気づいていた。
――もう、どうにでもなれ
自分の中に、唸り声を上げる獣がいる。
ともすれば自身を食い殺しかねない、忌むべきはずのそれに京助はそっと、自分の身を差し出した。
全てが、どうでも良かった。
男の一人――先日京助に脅されて逃げ帰った男が何気なく振り返った。
それはあるいは異様な気配を本能的に感じてのことだったのかも知れない。
「!」
男の視線の先。そこにあるのは傷だらけで転がる京助の姿ではなかった。
今にも倒れそうではあるが、そのくせにしっかりと二本の足で立つ青年。あれほど打ちのめされたすぐ後のことである。それは異常なことであった。
「まだ立てんのかよ……!」
無造作に、金属バットを持って彼は京助に近づいていく。その顔には暴力に酔う嗜虐的な表情が浮かんでいた。
だが、彼は数歩進んだところで己の間違いに気がついた。
全身の毛が逆立つような殺気を放つ、京助の幽鬼のごとき有り様に。
一瞬、時間にすれば刹那にも満たない程の時間。その僅かな隙に京助の右腕が跳ね上がって一閃した。
「があぁぁぁぁッ!?」
男の汚い悲鳴が路地裏に反響する。先ほどの京助と立場が逆転して、地面の上をのたうつ男の口元の片方が耳元まで裂けていた。一瞬にして、京助の指先が男の唇を引っ掛けて力ずくで引き裂いたのだった。
悲鳴に気づいた残りの男たちが踵を返し、そして戦慄する。
にぃ、と。京助の顔に浮かぶ獣じみた獰猛な笑みの凄惨さ。
そこから始まったのは暴力と呼ぶには惨すぎる、蹂躙だった。
運が良かった者は一撃で顎を蹴り砕かれてそのまま昏倒した。
両腕をへし折られて泣き叫ぶ者、血泡を吹いて痙攣するだけの者、片耳をちぎられて悲鳴を上げる者……意識を失うことさえ出来ず、苦痛にのたうつその様は、地獄の一区画をこの世に再現したかのようだった。
「ちっ……」
舌打ちを一つ。
暴れるだけ暴れて、しかし京助は満たされないものを感じていた。
――こんな事がしたかったわけじゃない
先に進むことも、死ぬことも出来ず、自分がどうすれば良いのか分からなかった。
戯れに暴力の限りを尽くしてみても答えは見つからない。自分のやりたいことさえもわからなかった。
「 」
吠えた。
言葉に表せぬ咆哮は、夜の闇の中に飲み込まれ、誰かに届くこともなく虚しく消えていく。
獣の遠吠えの如く、何度も声にならない声をあげ、やがて枯れた喉からこみ上げる鉄の匂いにむせ返る。
「……ぃッ!」
不意に背中側に衝撃を感じた。
何事かと思案を巡らせれば、皮膚の下に冷たい異物の感触を感じる。
ゆっくりと、だるい体を動かして後ろを振り向けば、最初にノした男が血の滴るナイフを持って震えていた。
がちがちと、歯を鳴らす男の顔から感情は読み取れなかった。今にも泣き出しそうな目元に、裂けてつり上がった口元――悲と喜が同時に存在する、狂気の顔だった。
「てめぇ……」
「ひっ!」
濡れたシャツが体に張り付いて気持ちが悪かった。服の生ぬるいシミが広がるに連れ、逆に体から熱が抜けていくような気がした。
「半端なことすんじゃねぇ……この位で……」
――人は死なない
一歩、逃げるかのように後ずさった男の顔を思い切り掴んだ。そのまま力任せに引きずって、男の後頭部をビルの壁に叩きつける。
何度も、何度も、何度も。
男が抵抗を辞め、やがて鈍い音に湿った音が混じり始めた頃、飽きたとでも言うように京助は手を離した。
「ちっ……」
転がって喚き続ける彼らに一瞥もくれることなく、京助は重い体を引きずって歩き出す。路地の更に奥に進む彼は、まるで光から逃げているかのようだった。
夏だというのにひどく寒い。
一歩進むごとに体の奥から大事なものがごっそりと削られていく気がした。やがて自分が歩いているのか止まっているのかさえも分からなくなっていく。
京助は気がつけば震える手を無意識に伸ばしていた。
何かを求めるように、誰かに手をとって貰おうとするかのように。
しかし、彼の手が何かを掴むことはなかった。
深い闇だけが、冷たくなっていく彼の体を包み込んでいた。
こんばんは、北屋です。
……なんというか、間違った方向に力を入れすぎてしまった感が拭えませんorz
この後、加筆修正するかもしれません。
さておき、これにてこのサイトにおける第一部は完了となりました。
これまでがうだうだといい大人が悩みまくる話でしたが、この後は……
次回からは短編を何本か投稿した上で、本編の続きという形になります。次回も早いうちに更新できるように頑張っていきます!