ラブライブ! ―夢を追って―   作:北屋

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fragment 5 紫煙にのせて

昼休み。

午前中の仕事から解放されてほっと一息をつき、コーヒーを淹れる。

立ち上る香ばしい香りが心地よくて、思わず溜息が出てしまった。

至福のひと時。

僅かの気の緩みも許されない、大切な仕事だからこそ、休める時にはゆっくりと休むべき……そう考えながら、彼はコーヒーに口をつけ、

 

 

「先生!大変です!」

 

「ぶっ!」

 

 

いきなりの自分を呼ぶ声にコーヒーを吹いてしまった。

羽織っている白衣に飛沫が飛んでいないことを確認して振り返れば、大分慌てた様子の看護師の姿が彼の目に飛び込んできた。

 

 

「どうしたんです?」

 

「302号室の患者さんが――!」

 

 

――まさか容態が急変したのか!?

 

……しかし、その考えに微かな引っ掛かりを覚えた。

 

302号室の患者――

 

さっきとは別の意味で嫌な予感が脳裏をちらつく。

 

 

「患者さんが、いないんです!」

 

「津田ぁぁぁぁあああ!!」

 

 

思わず患者の名前を叫んでいた。

何度目になるのか分からない報告にうんざりしながらも、彼――西木野医師は白衣を翻して部屋を飛び出す……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぱちり、と。

小気味良い音が病室に響いた。

 

 

「8一龍!どうだ!?」

 

「7八龍……必死じゃな」

 

「な!!待て待て、待ってくれ!」

 

「ダメ。待った無し」

 

 

清潔なベッドの上、老人と向かい合って将棋を指すのは一人の少年だった。

不健康そうな青白い顔色をさらに青くし両手を合わせて拝むも、その甲斐なく彼の頼みは却下されてしまう。

 

 

「ほい。詰み」

 

「あぁぁぁぁああ!!」

 

 

少年の悲鳴が室内に響いた。

そんな様子にもなれているのか、老人はにっこり笑う。

 

 

「これで儂の12連勝か。いい暇つぶしになったよ」

 

「うぎぎぎぎ……何で勝てないんだ……」

 

「中飛車で速攻をしかけるその戦い方は面白いがのぅ……いくらなんでも後先考えなさすぎじゃろうて。真っ直ぐ過ぎるわい」

 

 

まだまだ若いの。

そう言って老人はからからと声を上げて笑い、対して少年はむすっとした顔で、

 

 

「次は勝つ!」

 

「……そのセリフ、何度目だ?」

 

 

呆れたようにため息を一つ。

そのタイミングを見計らったかのように、急に病室のドアが勢いよく開いた。

 

 

「津田ぁぁぁああああ!!」

 

「げっ!?院長センセイ!!?」

 

 

およそ医療従事者にあるまじき形相を浮かべて、西木野医師は少年の方に向かうと、徐に彼の手をねじり上げた。

 

 

「あだだだだ!ちょっ!何すんだよ!?」

 

「何するんだはこっちのセリフだ!この不良患者、これで何度目だ!?勝手に病室を抜け出すなと、何回言ったら分かるんだ!?」

 

「いや、まだ……何回目だっけか?センセイ?」

 

「知るか!いい加減にしろ、津田京助!!」

 

 

ごつん、と。

いい音を立てて少年――津田京助の脳天に拳骨が落とされた。

 

 

「いてぇっ!」

 

「さっさと自分のベッドに戻れ!まったく点滴まではずして、君は……」

 

 

その騒ぎを見ながら、病室にいた患者たちが皆一様にクスクスと笑っていた。

何度目になるか分からない、西木野医師とこの少年の掛け合いは最早この病院の名物と貸しているのだった。

 

 

「分かった!分かったから!せめて部屋に戻る前に一服させてくれって!」

 

「院内禁煙だ!それに君はまだ未成年だろうが!!」

 

 

もう一度拳骨が京助の頭を直撃した。

頭を押さえて悶える京助を見て、すっきりしたように西木野医師は、ふん、と鼻を鳴らす。

普段は理知的で温厚、威厳のある院長として通っている西木野医師であるが、この時の彼はおよそそう言った評判からは程遠い有様であった。

 

 

「まぁまぁ、先生。そんなに怒んないでやってくださいよ」

 

 

先ほどまで京助と将棋を指していた老人に声をかけられて、西木野医師はバツが悪そうにメガネを直し、こほん、と咳払いを一つ。

 

 

「いや、キツく言わないと彼は聞きませんよ。……それにあなたがたも、彼が病室を抜け出してたらナースコールで教えてくださいよ……」

 

 

からからと老人が笑うのを見て、西木野医師は溜息を一つ。不良患者の襟首を掴んで無理やりお辞儀をさせ、

 

 

「では、お騒がせして申し訳ありませんでした」

 

 

同じく自分も病室の人々に向かって一礼し、少年を引っ張って彼を自分の病室まで運んでいく。

これもこの少年が入院してからというもの何回繰り返されたか分からない光景だった。

 

 

「なぁセンセイ、他の患者さんと俺とで扱い大分違わないか?」

 

「うるさい!元はと言えば君のせいだろうが!」

 

 

よほど不満が溜まっていたのか、声を荒げる。驚いて振り向いた看護師に、慌てて取り繕うような笑みを見せて、本日何度目か分からないため息をついた。

思えばこの少年が運び込まれて以来、気が休まる日がなかった。横目で見てみれば、心労の種である少年はどこ吹く風、口笛など吹いていて余計にイライラが募ってくる。

 

津田京助

 

ある日、急患で運ばれてきた少年。

喧嘩か何かの末に刺され、西木野医師が自ら緊急手術を行った患者だった。

全治3ヶ月の絶対安静にしていなければならない大怪我で、通常なら歩くことはおろか立ち上がることさえ辛いはずだというのに――だというのに、彼は勝手に部屋を抜け出しては勝手に帰ろうとしたり、今日のように他の病室に遊び行ってみたりと問題行動ばかり起こしているのだ。

いくらなんでもデタラメすぎる。

 

最初は他の患者と接するように丁寧な対応を心がけていた西木野医師だったが、脱走が3回を越したあたりで、遂に堪忍袋の緒が切れて現在に至る。

 

 

「ほら。もう抜け出すんじゃないぞ?こんなことばかりしていても退院時期が伸びるだけだ」

 

 

京助を布団に押し込んで、点滴針を刺しながら言ってみたが、言ったところでこの無茶苦茶な少年にどれほどの効果があるのかは分からなかった。

 

 

「へいへい。しばらくは――そうだな、寝て起きるくらいまではそうさせてもらうぜ」

 

 

面白い事を言ってやったとでも言うような彼のドヤ顔を見たら、無性に腹が立った。医師として、大人として、いや人としてどうかと思ったが、そんな理性のブレーキが働くよりも早く、

 

 

「づぁっ!」

 

 

またしても拳骨が落ちた。

会心の一撃。効果は抜群。

くらった本人は頭を押さえてプルプルしながら苦悶の呻きを漏らす。

 

 

「おい、あんた、それでも医者かよ……重傷の患者になんてことしやがる」

 

「重傷なら重傷らしくおとなしくしてろ」

 

言いながら、ふと、こんなことをしていいのか……と、自分の今までのこの少年への仕打ちを思い出して不安がよぎるが、すぐにそんな迷いはどこかへ飛んでいった。

気にしたら負けだ。

 

 

「とにかく安静にしていたまえ。まだ若いんだから、退院したらやりたいことだってたくさんあるだろう?」

 

 

大分落ち着いてきたのか、平静の調子を取り戻した西木野医師は、ちょっとした世間話のつもりでそう尋ねてみる。

 

 

「   」

 

「え?」

 

 

てっきりまたしても頭の悪い軽口が返ってくるとばかり思っていた。

ぼそり、と。

京助が呟いたセリフはよく聞き取れなかった。

 

ただ、ちらりと見えた横顔が――

 

 

「いや、なんでもない。まぁ、そうだな……いつまでもこんなとこで寝てても仕方ないし、ちっとは脱走回数減らすよ」

 

「待て、減らすんじゃなくてもうするなと私は言っているんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「津田ぁぁああああ!!」

 

「げッ!?えぇい、逃げるが勝ちだ!!」

 

「待て!!院内を走るな!!」

 

 

今日も今日とて西木野病院は騒がしい。

日課のごとく不良患者の襟首を掴んで病室に連れ戻して院長室に戻ると、西木野医師は盛大なため息をついた。

この日々に慣れてしまった自分が何とも情けなくて、さらにため息をつきたくなってくる。

娘が出来てからはきっぱり辞めたはずのタバコが何故だか無性に欲しくなった。

 

 

「お疲れ様。……大分疲れてるようね」

 

 

そんな声と共に部屋に入って来た彼女――自分の妻に目を向けて、彼は力なく微笑んだ。

 

 

「どうぞ」

 

「あぁ、ありがとう」

 

 

そっとデスクの上に置かれたカップを手にとってコーヒーに口をつける。疲れた体に優しい苦さが染み渡るような気がして心地良かった。

 

 

「大変ね、津田くん――だったかしら?面白い子みたいじゃない」

 

「何が面白いものか。あんな問題児、当院始まって以来だ。おかげで私がどれほど苦労していることか!」

 

 

間髪いれずに飛び出した夫の苦言に彼女は目を丸くして、そしてすぐにクスクスと笑い出す。

 

 

「どうした?」

 

「いえ……だって、そんなに楽しそうなあなた、久しぶりに見るんですもの」

 

 

妻の言葉に、彼は耳を疑った。

コーヒーを片手に怪訝な顔で、

 

 

「楽しそう?私が?」

 

「えぇ。最近忙しかったせいかしら?仏頂面ばっかりしてたのに、津田くんが入院してから大分表情が柔らかくなったの、気づいてる?」

 

「そんなまさか――」

 

「最近パパの表情が明るくなった、何かあったの?……って真姫ちゃんも言ってたわよ?」

 

「……」

 

 

話に上った娘のことを考えて、彼は眉間に深い皺を浮かべた。

そういえば、最近娘ときちんと話したのはいつ以来だっただろうか?忙しい日々を贈る中で、それさえも思い出せなくなっていた。

 

 

「大変なのは分かるけど、たまには息抜きも必要なんじゃない?」

 

 

そう言って部屋を出ていく彼女の背中を無言で見送って、西木野医師はぼそりと、

 

 

「……そんなに暗い顔をしていたか?」

 

 

眉間の皺を深めてそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

津田京助の手術が終わって丁度一週間が経った頃。西木野医師が彼の二十数度目の脱走を未遂に押さえた日のことだった。

 

 

「はい。では退院おめでとうございます」

 

 

いつぞや京助と将棋に興じていた老人は、西木野医師にそう告げられて心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

それを見て、彼も顔を綻ばせる。

患者のこの表情を見る時こそが、自分のしていることにやりがいを感じる瞬間だった。

 

 

「ありがとうございました、先生。何とお礼を申していいか……」

 

「いえいえ、これが仕事ですからお気になさらず」

 

 

老人と握手を交わして、西木野医師はここのところの疲れが吹き飛ぶのを感じた。

今日は平和だ……そう思ったとき、不意に老人が、

 

 

「ところで先生。津田の小僧はいつごろ退院するんですかね?」

 

「え?津田……さんですか」

 

 

老人の口から、胃痛の種の名前が出てきて驚いてしまう。

せっかくの穏やかな気分が一気に冷めていくのを感じてしまう。

 

 

「……そうですね、まだ大分かかりそうですよ」

 

「そうですか……」

 

 

老人は少しだけ寂しそうな顔をして、

 

 

「いや、あの少年のおかげで退屈せずに済みました。私も、他の皆も久々に楽しい日々でしたよ」

 

 

そう言って、彼はからからと気持ちの良い笑い声をあげた。

 

西木野医師はそれを聞いて、顔を抑えながら――渋い顔で頷いた。

 

彼も気づいていた。あの少年が、他の患者たちにどんな影響を与えていたか。

ある時は長期入院中の子供を笑わせるために無茶をやり。

またある時は見舞いの少ない患者と談笑をし。

 

彼のやっていることは決して褒められたことではないというのに、憎めないのはなぜなのか。

 

 

「先生もそうでしょう?」

 

 

認めたくはなかったし、認めてはいけないことだったが――正直なところ西木野医師も彼が嫌いではなかった。

 

 

「では、先生。津田の小僧をよろしくお願い致します。退院したら将棋をする約束なんですよ」

 

 

そう言って、老人は楽しそうな笑みを浮かべて診察室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今、何て言った?」

 

 

それは津田京助の病室の前を通りかかった時のことだった。

ふと聞こえた声が気になって、覗いてみれば彼のベッドの横には4人の少年の姿がある。

面会謝絶も無事に解けた今日、見舞いに友人が来たのかと思ったがいささか様子がおかしかった。

小柄な少年が親の敵でも見るような目で彼を睨みつけていた。

 

 

「……今何て言ったかって聞いてんだよ!」

 

「よせ、堀!」

 

 

京助に掴みかかろうとする少年を、二人が抑える。

明らかに剣呑な雰囲気だった。

 

 

「なんつったてめぇ!!あ?何がやめたいだよ!?」

 

「よせって!」

 

 

取り押さえられてもなお少年は京助を問い詰める。

だが、京助はそれに答えずうつむいたままで――今までの彼からは考えられないような思いつめた顔をしていた。

 

 

「――そこまでにしよう。ほら、病院の人も困ってる」

 

 

壁に背中を預けて今まで黙っていた長身の少年がそう言って、西木野医師の方にちらりと視線を送った。

 

 

「さすがの京助も、大分こたえてるみたいだね……らしくもない。まぁ、疲れてるみたいだし、少しそっとしてあげよう」

 

 

彼がそう言うと、渋々掴みかかろうとしていた少年は体から力を抜いた。だが、まだ納得はしていないのか、京助に対して憎しみを込めた目を向けていた。

その肩にぽん、と手を置いて、

 

 

「さ。帰ろう。……お騒がせしました」

 

 

長身の少年は爽やかな笑みとともに西木野医師に一礼すると、彼の横をすり抜けていく。

それに続いて少年たち病室を去っていき、最後には京助だけが残されていた。

 

 

「……」

 

 

何があったのかと問いかけたかった。

だが、京助の様子がそれを許してはくれなかった。

何も出来ず、居た堪れなくなった西木野医師はゆっくりと白衣を翻して……その場を逃げるように後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

書類整理が終わって顔を上げてみれば、時刻は夜8時をゆうに回っていた。

今日は早めに帰って、久々に娘と話すつもりだったのに、どうしてこうも上手くいかないものかと苦笑を浮かべる。

 

 

 

「はい?」

 

 

荷物をカバンに詰め込んだ時、不意にドアをノックする音が聞こえた。

当直の看護師だろうか?まさか、何かあったのか?

 

 

「おっす」

 

「津田!?」

 

 

しかし、扉を開いて出てきたのは一人の少年だった。

今までに何度も問題行動を起こしてきた彼だが、こうして彼が自分のところを訪ねてきたのは初めてのことで、呆気にとられてしまう。

 

 

「いや、急だけど退院しようと思ってな。今まで世話になったから、西木野先生にはちゃんと挨拶しようと思ってさ」

 

 

どこか捨鉢な笑顔で彼は言う。

穏やかな声音で、まるで友達の家から帰る時のように自然な調子だった。

 

 

「じゃ、お世話になりました」

 

 

ぺこり、と。

深くお辞儀をして部屋を後にする少年を見送って――

 

 

「って!待て、津田!!」

 

 

すぐさま正気に戻り、彼の後を追ってドアを開く。

だが既にそこに少年の姿はなかった。遠くから聞こえる駆け足の音を便りに、西木野医師も駆け出していた。

 

――何かが違う

 

彼が脱走することは今までに数え切れないほどあった。そのたびに追いかけて、拳骨をくれてやっては病室に連れ戻して……

だが、今回ばかりはいつもと違う気がした。

 

先ほどの少年の顔が脳裏をちらつく。

疲れきった微笑み。いつもの小憎たらしい顔ではなかった。

 

このままでは取り返しのつかないことになる――そんな予感がした。

 

階段を駆け下り、正面玄関に急ぐ。裏口や職員用出入り口はあっても、彼が行くとしたらそこしかない。

短い付き合いだが確証があった。

 

 

「おい!」

 

 

玄関付近で京助はうずくまっていた。

苦悶の表情で脇腹を――傷を抑えてうずくまる少年の姿に背筋が冷える思いがした。

 

彼の傷は冗談では済まないくらいに深い。

 

 

「君、やっぱり無理してたんだな!?」

 

 

京助の横に片膝をついて問いかける。

本当ならば立っていることすら信じられないような重傷。こうして出歩こうものならば文字通り死ぬほどの激痛に苛まれることは想像に難くない。

 

 

「何であんなことばかり……待ってろ、今他に誰か呼んでくる」

 

 

彼を運ぶための応援を呼ぼうと立ち上がった西木野医師の白衣の裾を、京助の手が握り締めて止めた。

震える手に、しかし確かな力をいれて、彼は呟く。

 

 

「……らさ」

 

「何?」

 

「おとなしく、部屋に戻るからさ。頼むから、一服だけさせてくれ。……後生だ、先生」

 

 

思えば彼がこうして人に何かを頼む姿を見るのは初めてだったかもしれない。

そのあまりにも弱々しい姿に、西木野医師は息を飲んだ。

普段の言動の所為で勘違いしていた。

彼は――彼はどこにでもいる普通の、ただ心と体に深い傷を負った少年なのだ。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……あぁー!生き返った!やっぱシャバの空気は違うぜ」

 

 

西木野総合病院――の外。

玄関から少し離れたところに作られた申し訳程度の喫煙所に彼らはいた。

 

本当ならばこんなことは許されない。そう知っていても、先ほどの彼を見てほうってはおけなかった。

 

 

「いいか?特別だぞ。その一本を吸いきったら病室に戻れ」

 

「わかってるって、センセイ。流石の俺でも、命の恩人の言うことを無下にはしねぇよ」

 

「……どの口がそれを言う?」

 

 

京助は声を上げて笑いながら、ゴールデンバッドの灰を灰皿に落とした。

呆れながら空を仰ぐ。もうすっかり暗くなっているというのに、東京の夜空に星は見えなかった。

街頭の光にぼんやりと照らされた紫煙だけが空に溶けていくのが見えるばかりだった。

 

 

「……」

 

「ん?何ですか、センセイ?」

 

「一本くれ」

 

 

むすっとした顔のまま差し出された手を見て、京助は目を丸くし、おずおずとポケットからタバコとライターを取り出して彼に手渡した。

 

 

「驚いたな……センセイも吸うんで?」

 

「……たまには良いだろう」

 

 

ライターを返して煙を深く吸い込む。

久しぶりだというのにそんなことをしたものだから、ゴールデンバッドの重い煙にむせそうになってしまった。

 

 

「渋いのを吸ってるな」

 

「えぇ、まぁ……こいつが一番安いですからね」

 

 

そう言って、京助は美味そうに煙を吸い込む。

西木野医師も京助もこれといっていう事もなく、二人の間に沈黙が流れた。

タバコがみるみるうちに小さくなり、漂う煙だけが増えていく。

 

 

「センセイよ。こんな俺がいうのもあれだが――ちっと仕事熱心すぎやしませんかい?」

 

「……何?」

 

 

急に、しかも思っても見なかった相手に言われた一言に驚きを隠せなかった。

 

 

「誰に対しても優しく丁寧、なのに時たま見せる顔がすげぇ疲れて見えて、さ。特にこんなロクデナシまで気にかけて……大変な仕事なのは分かりますけど、少しは息抜きも必要なんじゃないですか?……なんてガラにもなく思った次第です」

 

「……考えておこう」

 

 

妻にも言われたばかりの言葉。それをこんな短い付き合いの、ふた回り近く年の離れた少年に言われるとは思ってもみなくて、苦笑を浮かべてしまう。

生意気なことを、と思わないでもなかったが、今はそれよりももっと気になることがあった。

 

 

「津田。何があった?」

 

 

今度は西木野医師が問いかける番だった。

 

痛みを押し殺してまで続ける無意味な行動。昼間の来客。ガラにもない言葉。そして、さっき見せた疲れた顔。

 

その意味を問いかけずにはいられなかった。否、聞かなければならない気がした。

 

 

「いや、答えたくないなら答えなくて良い。これは個人的な興味だ。」

 

 

そう続ける西木野医師だったが、京助困ったような顔を見せて空を見上げると、ぼそぼそと、倦怠を隠そうともせずに彼は話し始める。

それは、むしろ聞いて欲しいようでもあった。

 

 

「なぁ、センセイ。人は何かを成すために生まれてきたって言うけどよ……何も持って生まれてこなかった奴はどうしたら良いと思う?」

 

 

それは一見して西木野医師に問いかけるようではあったが……

きっと彼は答えなど望んでいない――そう感じ取って、西木野医師は何も言わずに京助の話に黙って耳を傾ける。

 

 

「勉強も、運動もダメ。人付き合いも苦手。唯一の取り柄が喧嘩だけ――てんで箸にも棒にもかからない、ロクデナシ。でもよ、そんな奴にも夢が出来たんだ」

 

 

紫煙を、吐き出す。

京助の手元のタバコはもう吸えない程に小さくなっていた。

 

 

「もちろん、夢を叶えるための才能はなかったさ。だけどよ、悔しくて、諦めきれなくて何とかしたくて……努力して、泥水すすって、ようやくスタート地点に立てたんだ。それなのに、こんなの、あんまりだぜ」

 

「……夢を追うのが嫌になったのか?」

 

「いいや。そんなことなないさ。夢は俺の全てだ。何があってもそれだけは譲れない。譲ったら、俺は俺でなくなる」

 

 

火のついたままの吸殻を灰皿に投げ込んで、京助は西木野医師に向き直った。

街頭の光で逆光になっていて、彼から京助の表情は上手く読み取れない。

 

 

「だけど、さ。今、こんな体たらくになって、ふと思っちまったんだ。俺の選択に、今まで何人が巻き込まれてきたんだろうって」

 

「……」

 

「てめぇで選んだ道なら、その先が地獄でも悔いはないさ。……だけど、その選択に人様を巻き込んだ挙句、一緒に地獄なんてのは――いくら俺でも笑えない。……情けねぇよな。そんなこと考えたら怖くなっちまって、おかげでロクに眠れもしねぇ。じっとしてたらそのまま腐っちまいそうで、怖くてたまらねぇんだ」

 

 

気がつけば、少年は小刻みに震えていた。

相変わらず顔は見えず、何を考えているのかなど分からなかったが――目の前の少年は泣いているように思えてならなかった。

 

 

「っと、いけねぇいけねぇ。ガラにもないこと言っちまいましたね」

 

 

くるり、と。京助は西木野医師の前で踵を返す。

 

 

「おい、どこに行く?」

 

「いや、どこにも何も……病室に戻るだけっすよ。約束だからな。……くだらねぇ話に付き合わせちまって、すみませんでした」

 

 

そう言って、彼は一人で歩きだす。

真っ黒なシルエットとして浮かぶ彼の背中が、何故か小さくしぼんで見えた。

 

 

「おい、津田……」

 

 

何か声をかけなければと、そう思って呼び止める。が、その先が続かなかった。

何をいえば良いのか。何と言ってやれば良いのか、彼にも分からなかった。

 

 

ぼそり、と。少年が去り際に呟いたように聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、大変です!」

 

 

翌朝、妙な胸騒ぎから早めに病院についた彼を出迎えたのは当直の看護師のそんな一言だった。

 

 

「津田さんが、またいなくなってて……あちこち探したんですけど、どこにもいなくて……それで、ベッドの上にこれが」

 

 

看護師が差し出してきたのは、二つ折にされた一枚の紙切れだった。

五線譜が描かれたノートの切れ端に、開いてみればそこに書かれているのは大きく乱暴な文字。

 

 

『お世話になりました』

 

 

「津田……」

 

 

ため息混じりに呟く。

何となく、昨晩の時点でこうなるような予感はしていた。

病室に戻る、と……その約束だけは果たしていて、それを思うと呆れを通り越して何も言うことが出来ない。

 

 

「今、親御さんに連絡をとっているのですが――」

 

「分かった。私の方からも少し心当たりをあたってみる」

 

 

恐らくそれも無駄に終わるだろう。

 

あの時の彼の様子を思い出すと、どうしてあそこで何か言ってやれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

 

 

 

――俺はどうすればいいんだろう?

 

 

 

最後の彼の呟きに、自分は何と答えてやれば良かったのだろうか?

 




こんばんは。北屋です。
津田京助18歳、仲間との決別の日のお話でした。

話のなかであんな調子でしたが、あれでも京助は西木野医師に対して凄い感謝していたり……

まぁそんなことはともかく、次回は園田さん編。
後2,3話をもって、そろそろ本編に戻ります。
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