薄暗い部屋の中、オレンジ色の小さな光がともった。その明滅に合わせて紫煙がくすぶり狭い室内を満たしていく。
「ふぅ……けほっ」
肺を満たした煙を吐き出して、軽く咳き込むと彼は慣れた手つきでチビたタバコを机の上の灰皿に押し付けて火を消した。
タバコの余韻に浸りながら、ぼんやりとする頭で彼は先日のことを思い出す。
ラブライブという舞台がもう一度幕を開けること。
彼女たちがもう一度立ち上がったこと。
今度は――今度こそは彼女たちの為にこの身を使おうと決めたこと。
どうすれば、それが出来るのか……そう悩んでいた彼はもうここにはいない。
悩むよりも動くのみ。
行動してから悩む。
そしてまた動き続ける。
それが津田京助という男の核となるものなのだから。
部屋の片隅に置かれたギターに一瞥を送る。
それはかつて彼が夢を目指した時に手にした、初めての楽器だった。
――俺も、もう一度……
そんな思いが胸の奥で燃え上がっている。
もう燻らせておくのは限界だった。
だが、それでも京助はその溢れんばかりの思いをもう一度胸の奥にしまい直して、足元に置かれたバッグに手を伸ばす。
今やるべきことはこれじゃない。情熱を燃やすのはまだ今じゃない。
ひとまずは目先の事を片付けなければ。
彼は荷物の最終確認を兼ねてバッグをあさり、その中から徐に一本のナイフを取り出した。
洋物の諸刃作りの刃は手入れが行き届いていて、鞘から引き抜いた刀身は部屋に差し込む僅かな日の光を受けて鈍色に輝いていた。
「ほいじゃ、そろそろ行きますかね……」
鞘に収め直したナイフを放り込むと、その大きなバッグを背負って彼は立ち上がる。
キーホルダーに指をかけてクルクルと回しながら部屋をあとにする彼は、いつになく楽しそうだった。
†
「大変です!今度のラブライブで使える曲は未発表のものに限られるそうです!」
放課後の屋上、いつものように集まったメンバーを前に、花陽が深刻な顔でそう切り出した。
「それって今までの曲は使えないってこと?」
「なんで急に!?」
「参加希望チームが予想以上に多く……今のうちに篩にかけようということかと」
A-RISEが優勝を飾った第一回ラブライブは運営の予想を上回る大盛況を見せ、その余熱は未だ冷めない。恐らく同じ年度内に第二回ラブライブの開催を決定したのは、この熱が冷めぬうちにラブライブという舞台を確固としたものにする意味があってのことなのだろう。
余熱が冷めない、どころか更に燃え上がらんばかりの勢いは日本全国に広がり、今や各地のチームがこぞって第二回大会にエントリーをはじめているのだった。
「こうなったら仕方ない!こんな事もあろうかと、この前私が作詞した『ニコニーにこちゃん♡』という詩に曲をつけて……」
「実際のところどうするんや!?」
毎度の決まりごとの如く、むしろ清々しいまでににこをスルーして話の先を促す。
「どうするも何も……作るしかないわね……津田さんにも協力してもらえないかしら?」
「そうだね!この間きょーちゃんも、協力してくれるって堂々と言ってくれたし!」
「ちょっと!なんでここでアイツの話が出てくるのよ!」
京助の名前が出た瞬間、にこが不機嫌を隠そうともせずに食ってかかった。
「にこちゃん、どうしたの?いつもなら真っ先に賛成しそうなのに」
「別に……何だっていいでしょ?」
「にこちゃん、もしかしてまだおじさんと仲直り出来てないの?」
凛が不安げに尋ねると、にこは答えずにあからさまに目をそらした。
「にこっち……」
「ほっといてよ……それに、別に私は反対してるわけじゃないんだから好きにしなさいよ」
μ’sはこの前の苦難を乗り越えて、もう一度立ち上がると決めた。
京助もまた、完全ではなくとも迷いを振り切って、もう一度立ち上がろうとしてくれた。
だが、全てが元に戻ったわけではない。
にこと京助の間に生まれた溝は、まだ埋まりきってはいないのだ。
にこの事を心配そうに見ながら、希は電話帳に登録されたあの青年の番号にそっと触れる。
「……だめやね。電話にでぇへん。昼休みは購買にいたんやけど」
しかし、いつまでたっても電話口から聞こえてくるのは無機質な呼び出し音だけだった。
「そういえば、今日の午後から木金土日はお店も購買もパートさんに任せて休むって言ってたよ?もしかして旅行とかかな?」
「……いつも思いますが、経営は大丈夫なんでしょうか?」
海未の心配ももっともである。
気分で店を閉め、挙げ句の果てにはいつも何だかんだ言って彼女たちに何かを気前よくおごったりと、彼女でなくてもいろいろと大丈夫なのかと心配になってくるのだが、当の本人はあまり気にしている様子もない。それが余計に不安を掻き立てる。
「旅行……そうだわ!真姫!」
「え?……まさか」
旅行、というフレーズから何かを思いついたのか、絵里は目を輝かせて真姫に声をかける。一方の真姫は急に振られたことに一瞬だけ驚いたものの、絵里の顔を見て全てを察してしまった。
「合宿よ!」
絵里の突然の宣言に驚きこそすれ、反対の声は不思議な事に一つも上がらなかった。
「いいね!合宿!夏以来だね!」
「うん!でもどこに行くの?また海?」
「そんな訳ないでしょ。この時期だと……山かしら?パパ……お父さんにちょっと聞いてみる」
そんなわけで合宿の予定はともかく、その開催は最早決定したも同然のことのようだった。
「山ですか……いいですね!静かな秋の自然の中なら良い歌詞も思いつきそうです」
「きっと衣装作りにも良いアイデアが浮かぶかも!」
海未とことりも乗り気で、そして何より真姫も、
「そうね……絶対良い曲を作って見せるわ」
「真姫ちゃん、いつになく乗り気だね?」
さらっとこともなげに、しかし瞳に強い意思を込めて言う真姫に花陽が驚いたように問いかけると、彼女は目を背けて髪をいじりながら、
「別に……ただ、ちょっと引っかかってることがあるだけよ」
「引っかかること?」
「カシみたいなものよ。結局有耶無耶になっちゃったんだけど……今度こそギャフンと言わせて見せるんだから」
それはきっと、あの時のこと。
だが、その時のやり取りを、約束を知る者はここにはいない。
「津田さんの手を煩わせずに、私たちだけで頑張りましょう」
「そうね……にこもその方がいいでしょ?」
「だから何であいつの名前が出てくるのよ!」
絵里は心配しているようだったが、にこはうんざりしたように切り返す。もうこの話題には触れて欲しくないようだった。
それを見て苦笑しながらも希は、
「そうやね……でも案外また意外なところで会ったりするかもしれんよ?」
「そんなまさかー。いくら希ちゃんの占いでもそれはありえないにゃ」
希のふとした呟きを凛が軽く笑い飛ばすが、しかし彼女は妙に神妙な顔で愛用のタロットカードを一枚、指に挟んで目の前に掲げてみせる。
それは彼女の占いで、例の青年の有り様を、これからを暗示するカード。だがその図柄は希以外のメンバーには見えなかった。
「カードがそう告げとるんや……けど、さすがにそれはないわな」
†
急斜面を登る脚にこれが最後とばかりに力を込める。
一歩を踏み込んだところで、すでに歩き通しでクタクタになっていた脚は悲鳴を上げてもう一歩も動いてなるものかと態度で示し始めた。
「ふぅ……」
脚の主もそれには苦笑して、手近な切り株に腰を下ろすと、背負った大きな登山用ザックを地面に下ろした。
額を濡らす汗を乱暴に袖で拭うと、彼は―津田 京助は胸ポケットから取り出したタバコに火を点ける。
木々の間から漏れる午後の日差しに目を細めながら、全身で味わう山の空気は格別だと、柄にもなくそんなことを考えていた。
そう、京助は現在深い山の中にいた。
紫煙をくゆらせながら、先日の宣言の事を思い出す。
あの時、彼女たちはもう一度立ち向かうと決めた。
あの時、彼は今度こそ力を貸すと宣言した。
そしてあの時、人知れず彼は誓ったのだ。
「我ながら、馬鹿なことしてるな……」
周りに誰もいないのをいい事に大きな声で独り言を呟く。
今こうして彼が山にいるのは再起に向けたトレーニングためだった。古来より武芸者は修行のために山にこもるというが、京助もまた同じ心持ちである……なんて格好つけてはいるが、実際のところはただの気分転換である。
もとより体を動かすことは好きであったし、たまに一人で自然の中に身をおくのも気分が良い。その点、山を散策するのはなかなかに彼の趣味にあっていた。
特に今の時期の山の様子は良い。
街の喧騒を離れ、一人になって始めて見えてくるものがある。
目を閉じて視界を封じれば、今まで眠っていた五感が鋭く尖って、見えないものが見えてくる。
体を撫でる秋の風は、標高が高いこともあって冷たく、火照った体に心地良い。鼻腔をくすぐるのは土の匂いだろうか。かつて幼い頃、泥だらけで遊んだ事を思い出して懐かしい気持ちになってくる。
近くを河が流れているのだろうか。耳をすませばせせらぎの音が……
「ん?」
一人で格好つけていたら、ふとどこからか聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
怪訝な顔をして左右を確認するが、何もおかしなものは見えはしない。空耳だろうかと、首をひねる。
『いやぁぁぁぁぁぁああああ!?』
『誰か止めてぇぇぇぇぇええ!!」
「いやいやいや!」
絶対に空耳ではない。
確かに聞き覚えのある声だった。しかも割とよく聞く、今は出来れば聞きたくない声。
慌てて立ち上がり、左右を確認するがやはり何も見えない。
否――
「上!?」
斜面の上を振り返って見れば、木々の合間を縫うようにして物凄い勢いで走ってくる二つの影――いや、それは走っているというよりも斜面を滑り落ちているといった方が表現としては正しいのかもしれなかった。
しかも、その人影には見覚えがあった。
「てめえらッ!?」
二人が横をすり抜けていく瞬間、考えるよりも先に体が動く。
とっさに左右の手にそれぞれ彼女たちの片腕を握りしめ、二人を止めるべく急制動をかける――が、間に合わない。
相手が女の子であるとはいっても片手で人一人、合計二人分の体重を支えるのは流石の京助といえども無理である。
ましてや相手は斜面を滑り落ちてきた勢いもあるわけで。
「のぉおおおお!?」
どうにかこうにか踏みとどまろうとは試みてみるものの、足場の悪い山の斜面のこと、京助もまた二人に引きずられるる形で、しかも後ろ向きのまま斜面を滑り落ちていくのだった。
「って、おじさん!?」
「先輩!?なんで、」
左右から掛けられた疑問の声に、相手が顔見知り……どころかほぼ毎日のように顔を合わせている人間だと確信する。
右手ににこ、左手に凛。字面だけ見ればまさに両手に花――なんて事を考えるくらいには京助も混乱していた。
それでもどうにかこうにか落ち着こうと、首だけを回して後ろを見れば、
「げぇッ!?」
そこに控えているのは崖である。
どうにかしようと考えるが一瞬ではいい案も思いつかず、思いついたところでどうにもならない。
瞬く間に崖から三人仲良く宙に舞い、
「こ、んちくしょうがぁぁぁぁぁぁああああああ!!」
京助が吠えた。
気合一閃、それに応じるかのように全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、なまりきった体がきしむ。
それでも京助は両腕を思い切り、力の限りに振り抜いた。
「きゃっ!」
「にゃッ!」
結果、二人はギリギリのところで、崖の上に無理やりぶん投げられて不時着、事なきを得る。
滞空状態から人を、それも二人も投げ飛ばすなど最早人間の技ではなかった。むしろギャグマンガの域である。
勿論、そんな無茶を決行した京助が無事なわけもなく、
「何でお前らがここにいるんだぁぁぁ……あばばばば!!!!!????」
断末魔のような大声、そして盛大な水しぶきの音が山中の静寂を切り裂いた。
「……」
「……」
数秒間の沈黙のうち、恐る恐る二人が崖下を覗き込んでいれば、下に広がる沢の水面に、大きな波紋と泡が浮かんでいるのだけが見えたという。