夜。一通りの騒動を終え、いい加減に静かになった頃。
静寂と夜に満たされた森の中、焚き火の灯りと細枝が爆ぜる音。
煌々と燃える火の前で丸太に腰掛ける男が一人。
両の掌を膝の上で組み合わせ、目は半分閉じて項垂れている。
しばらくの間そうしていたが、彼はふと目を開き、
「……いるんだろ?何でこそこそしてんだ?」
森の中の一角に鋭い視線を投げかけると、
「……寝てるのかと思った」
火に照らされて出来た木の陰から、真姫が顔を覗かせる。
「半分寝てた。こんな夜中に何のようだ?寝ぼけてきた……ってわけじゃなさそうだな」
「まぁね……それより津田さんは何してるの?」
「俺か?俺は……なかなか寝付けなくて難儀してたところだ」
「私もそんなとこ。隣、座ってもいい?」
そう言って、真姫は京助の返事も聞かず、横に腰掛けた。
ぱちぱちと火の音だけが響く。
座ってから、真姫は何も言わない。だから京助も何も尋ねなかった。
彼女がこうして訪ねてくるなんて、何か用事があっての事だろう。そう分かっているから、彼女が言いたくなるまで、いくらでも待つつもりだった。
「ねぇ」
「ん?」
「津田さんが音楽を始めたのっていつからなの?」
「随分唐突だな。俺の事に興味なんてないと思ってたぜ」
からかうように返すと、真姫は京助を軽く睨んで、
「良いから答えて」
「はいはい。そうだな、ありゃ確か13の頃だっけな?うん、中学に上がってすぐだった気がする」
「へぇ……てっきりもっと前からやってたんだと思ってた」
「あいにく、習い事やら何やらとは無縁でね。音楽の授業も嫌いだったから、基礎知識も何もなくてすげぇ苦労したよ」
基本的な技術も、何もかもが足りていなかった。
だから、人一倍努力して、それでも足りなくて。
そもそも才能が足りない事に気付くのは、割とすぐの事だった。
「それなのに、音楽を始めたの?きっかけは?」
「きっかけ……ねぇ?そうだな」
契機となった出来事は今でもきちんと覚えている。
だが、それを口に出すのはなんだか少し照れくさい。
「……友達が、ピアノ弾いてるのを見てな」
もの凄くしょうもないきっかけ。
人に語るような事ではない。それなのに
「それがまた格好良くてさ。思わず見入って、聞き入ってた」
かつての友人たちにすらも言った事のないそれを、彼は何の躊躇いもなく口にしていた。
「俺もあぁなりたいな、なんて思ったのが始まりだよ」
この先、誰にも言う事はないと思っていたそれを真姫に語って聞かせたのは、いい加減そろそろ誰かに聞いて欲しくなったからなのかもしれない。
一歩、また進みだす為に。
「じゃあなんでギターを始めたの?」
「そりゃあ……」
苦笑してしまう。
「俺は根っからの偏屈者だからさ。おんなじ事をするってのは気が乗らなかったってだけさ」
「ふーん?」
「そんで、いざ音楽を始めてようやく気づいた。あいつが格好良かったの、楽器弾いてるからじゃなくて……」
「元々が格好良かった?」
「ははは!そうそう!」
けらけらと、子供のように京助は笑い出す。
釣られて真姫もこらえきれずに笑い出してしまった。ここにきてやっと見せた笑顔だった。
「それじゃ、俺からも一つ聞いていいか?」
「何?」
「西木野ちゃんはいつからピアノ始めたんだ?」
答えはすぐ返ってこなかった。
ぱちぱちと、火の粉の爆ぜる音だけが響く。
京助はそれ以上問いかける事はしなかった。言いたくないことならば聞く気はないし、言いたくなったら言ってくれればそれでいい。
まだ、夜は長い。眠くなるまではいくらでも付き合ってやれる。
「お前も飲むか?」
焚き火にかけていたケトルから、マグカップに湯を注ぐ。
インスタントコーヒーの安っぽい香りが湯気と共に二人の間に満ちた。
「うん」
京助からコーヒーを受け取ると、そっと口をつける。
まだ熱いそれをほんの僅かだけ口にして、彼女は小さくため息をついた。
「私がピアノを始めたのは、幼稚園の頃だったかしら」
「うん?」
「何で始めたか、なんて実はあんまり覚えてない。ただ、習い事としてパ……お父さんに勧められただけだったのかもしれない」
「なるほどな」
京助は頷いて自分のコーヒーを口にする。
粉を入れすぎたのか、飲みなれたはずのインスタントコーヒーがいささか苦かった。
「あなたみたいに、何かきっかけがあったとかそういうわけじゃ、」
「やっぱ、そんなもんだよな」
「え?」
しみじみと、京助は一人頷いた。
「始まりなんて、そんなもんだ」
きょとんとする真姫の顔も見ず、京助は続ける。
「俺のきっかけだって、しょーもない事だった。始まりに理由なんて必要はないんだろうな」
「……そうかしら」
「そうだろうよ」
呟いて、京助はポケットからタバコを取り出した。
「難航してるみたいだな。曲作り」
「うん……まぁね」
焚き火から燃える薪を一本取り出すと、青年はその火を使ってタバコに火を点けた。
「三年生のために、とか考えてるのか」
「え?」
「その反応は図星みたいだな」
京助は薄く、呆れたような笑みを顔に浮かべた。
「人ってのは案外器用に出来てないんだ。一つ所を見つめると、それ以外が見えなくなってくる。そんで変なところに迷い込んだが最期、抜け出せなくて堂々巡りの台無しさ。そうなっちまったら――」
「そうなったら?」
紫煙を吐き出して、京助はその先を続ける。
その横顔を、真姫は真剣な顔で見つめていた。
「いっぺん深呼吸して周りを見渡してみる事さ。案外道はすぐそばにあったりするし、壁だと思ってたもんがただの障子紙だった、なんて事もある」
手元のタバコから上がる煙を見つめながら、
「何が言いたいかって言うとだが……あんまり気負いすぎるなよ。きっと、矢澤ちゃんも、絢瀬ちゃんも、東條ちゃんも、きっと、そんなのは望んでないから」
京助は真姫の方に向き直る。
二人の目があった。
京助はいつになく真剣で、優しい目をしていた。
「ふふ……」
「何だ、急に笑い出したりして」
「さっき、にこちゃんにも言われたの。同じような事をね」
「それは……」
困ったような表情を浮かべて、京助は口ごもった。
その様子を真姫は見逃さない。
「喧嘩したの?にこちゃんと」
「は?俺が?まさか、」
「嘘。二人共、なんだか態度が余所余所しい。前まで仲良さそうだったじゃない」
気づいているのは真姫だけではない。
メンバーの全員が二人の間に漂う妙な違和感に気がついていた。
それでも誰も表立って指摘しないのは、その問題がひどく彼らにとって繊細なものだとなんとはなしに気がついているからなのだろう。
知らぬは当人達のみの事だった。
「そう見えるか……」
「うん。何が原因なのかは知らないけど、早く仲直りしなさいよ?」
「仲直り、ったってな。どうすれば良いのかよく分からないんだ」
元より人付き合いは余り得意な方ではないのに、こうなってしまっては最早京助にはどうすれば良いのか分からなかった。
「そんなの簡単でしょ?自分が悪いならちゃんと謝って許してもらえば良いし、にこちゃんが悪いなら、ちゃんと説明して理解してもらえばいいじゃない」
「西木野ちゃんに人間関係の事で怒られるとはな」
「茶化さないで」
真姫に怒られて、京助は肩をすくめてみせた。
そして吸わないうちに小さくなったタバコを咥えると、
「謝ってすむような事でもないんだ……いや、俺が悪いんだけどな。でもな、」
「煮え切らないわね。何があったのか教えてみなさいよ。相談に乗ってあげる」
「え?」
思わずタバコを取り落として、目を瞬かせた。
「相談に乗ってあげるっていってるの。二人がこんなんじゃ、見てて何だか調子が出ないのよ。……教えなさいよ、京助だってもう、私たちのメンバーみたいなもんでしょ」
「お前……」
ぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返す。
まさか、彼女からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。目の前で起きていることなのに信じられず、頬をつまんでみると鋭い痛みがある。
どうやら夢ではなさそうだった。
「……立場が逆だろうが」
何とも自分が情けなかった。
本来ならば彼がこの地に残ったのは彼女たちの相談に乗るためだ。
彼女達の手助けをしようと、そう決めたばかりだというのに、こうして逆に真姫に心配をされてしまっている。
「そう、だな……」
この場から消え去ってしまいたい位、自分の事が嫌になる。
だが、それでも京助は重い口を無理に開く。
今、まさに彼女に言ったばかりの事が自分に跳ね返ってきていた。袋小路に迷い込んだ考えを、今の自分ではどうする事もできずにいる。
ならば、うだうだと一人考え続けて周りに心配をかけ続けるより、この場で彼女に話だけでも聞いてもらう方が良い。
「どこから、話すかな……」
そう、前おいて京助はぽつり、ぽつりと事のあらましを語り始める。
大人のメンツなど、そこにはもう残ってはいなかった。僅かなプライドさえも捨てて語る、京助のみっともない話を、しかし真姫は嘲ることも呆れる事もなく、ただ真剣に聞いていた。
更新が滞おってしまってもうしわけありません。
今回は短めですが、今後も地道に続けていきます……