『脇を締め過ぎです。もう少し力を抜くといいですよ』
京都の旧家の家系図は、非常に入り組んでいる。
宗家や分家、その他のしがらみが複雑に絡み合い、少しでも自分の家の地位を上げようと必死だ。
そして彼女、葛葉刀子はいわゆる分家、あまり地位の高くない家の出身だった。
気や魔力といった、生まれ持った素質は血筋によって左右される。
無論、それだけが力の強さを決める要因ではないし、日々の修練により増幅させることも可能だ。
稀にだが、先祖返りのような現象を起こして、強い力を宿すこともある。
実際刀子もそのタイプで、宗家である五木家にも劣らぬほどの気を宿していた。
だが、それが必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。
強い力は宗家の人間に疎まれる。
分家の分際で、と。
強い力は分家の人間に妬まれる。
同じ分家なのに、と。
その生まれ持った気と剣術の才能は、神鳴流と出会うことにより最大限に引き出され、宗家を含めた同年代で刀子に敵うものはいなかった。
刀子自身剣術は好きだったし、自分が力をつけることで家の地位が上がり、家族が喜ぶのも嬉しかった。
そのために多少の陰口を叩かれようと、我慢した。
宗家や分家の人間に嫌がらせを受けても、我慢した。
だが、今日家族に頼まれたことは刀子には我慢できなかった。
——三日後の宗家との御前試合、相手の顔を立てるために、わざと負けてくれ。
それからは何を言ったのかは覚えていない。
恐らくは怒鳴ったのだと思う。
ただ感情に任せるがままに、心の内側に溜まっていたドロドロを吐き出した。
この時の刀子は僅か十歳。
この年の子供にしてはよく我慢した方だし、聞き分けの良い子供として今まで振舞っていた。
しかし、ストレスを感じないわけではないし、嫌なことがあれば確実にそれは心に蓄積していく。
そして今日、それが爆発してしまった。
刀子は家族に一方的に泣きわめき、叫んだ後、修行を終えた時に持っていた木刀を掴んだまま、訳も分からず外に飛び出した。
外に飛び出した刀子は、とにかく人のいない場所にいたくて、山の中に入っていった。
本来、許可なく立ち入ることは禁止されていたが、冷静さを失った刀子は思い至らず、そのまま茂みを掻き分けて進む。
そこで、ふと水の音が聞こえた。
(この音って……滝?)
その音に釣られるように歩いていくと、見上げんばかりの滝の下についた。
涙やその他諸々により、顔を洗いたかった刀子は滝壺にまで移動する。
(……ひどい顔やな)
顔を洗う際に水面で自分の顔を確認したが、目は赤く腫れ上がっており、とても人前に出られた顔ではなかった。
何も考えずに家を飛び出したはいいが、行く宛もなく、これからどうすればいいかもわからない。
途方に暮れる刀子だったが、ふと家から出る時に持ち出した木刀に気がつく。
他にすることもないので、仕方なく河原で素振りをすることにした。
いつもならば、素振りをしていれば雑念が消えていく。
だが、今日に限って余計なことばかり考えてしまう。
刀子が剣術を始めたきっかけは、親に褒められたからだ。
幼い頃、子供心にもわかった。
自分が頑張れば、お父さんやお母さんが喜ぶ。
だから今まで努力してきたというのに、一体どこで間違ってしまったんだろうか。
思い返せば、また涙が滲んできた。
慌てて袖で顔を拭う。
そして、少年の声が響いてきたのは、そんな時だった。
「脇を締め過ぎです。もう少し力を抜くといいですよ」
「だ、誰や!?」
突然届いた声に刀子は動揺する。
そして、ここが立ち入り禁止の地であることにようやく思い至った。
(妖怪の類!? いや、たとえ人間でも、宗家の人やったら……!)
最悪の可能性に、刀子の顔が蒼くなる。
周囲を見回すが、人影は見えない。
その時滝の上の方から、とうっ、という間抜けな声が聞こえた。
「へ?」
刀子は反射的に上を見上げる。
そこには、自分と同じ年頃の子供が両腕を広げて、滝壺に向かって落っこちているという、よくわからない状況があった。
その子供は頭から着水。水飛沫をほとんどあげない、見事な入水だった。
予想外の出来事に思考停止する刀子だったが、しばらくして再起動する。
そして気づいた。少年が浮いてこない。
訝しむ刀子だったが、ようやく水面に影が浮かび——そして絶句した。
ぷかり、と浮いた少年の周りに、なんか、血のような赤いものが。
「え……えええええ!?」
「いやー、助かりました。ここって結構水浅いんですね」
予想外でした、と笑う男の子。
それを見て刀子は、はあ、と気のない返事しかできなかった。
あの後、動揺から立ち直った刀子はすぐに少年を引き上げ、応急手当をした。
少年も額を切っただけであり、出血量のわりに軽傷だった。
あんなに慌てた自分はなんだったのだ、と問い詰めたい。
「えっと、それであなたは誰なん……ですか?」
慣れぬ敬語で刀子は尋ねる。
家同士の付き合いの関係で、同年代の人間の顔は大体覚えている。
たとえ関わりの少ない家でも、少なくとも顔に見覚えくらいはある。
よって、このまったく見たことのない少年の正体がわからなかった。
「僕は大和といいます。この辺を散歩してたら道に迷っちゃって……山に迷い込んだ時は、もうダメだと思いましたよ」
ああ、それと別に敬語はいいです、と付け加えた。
「それで山の中をさまよっていたら、素振りの音が聞こえてきたので、こっちに来たらああなった、という次第です」
大和と名乗るこの少年は、ひょっとしたら宗家の客人ではないか、と刀子は考えた。
それならば自分が顔を知らないのも頷けるし、退屈で外を歩いていて道に迷った、と考えれば辻褄があう。
「えっと、ウチは葛葉刀子って言います。それで、実はこの山って勝手に入っちゃダメなんですけど、ウチ色々あって混乱してて」
刀子の言いたいことがわかったのか、ああ、と笑いながら頷く。
「大丈夫ですよ、誰にも言いません。そもそも僕も勝手に入っちゃったわけですし、おあいこです」
それと敬語はいりません、と言う。
「うう、でも、君も敬語つこうとるし」
「僕のは癖になってるんです。不快に感じるなら直すように努力しますけど……」
「そ、そんなことない!」
刀子の躊躇いは、自分だけ敬語を使っていないのは子供っぽい、という意地だったのだが、それを自覚することはなかった。
「じゃあ、僕もできるだけ普通に話すようにするから、刀子ちゃんもそれでいい?」
「……うん。ええけど、その刀子ちゃんって」
「嫌だった?」
「……ウチ、自分の名前、あんまり好きちゃうねん。かわいくないし……」
「そう? 凛々しい雰囲気に似合っていると思うけど。それと、僕のことも大和でいいから」
不思議な少年だと思った。
会話のペースをずっと握られっぱなしだ。
それは別に不快ではないけれど、気が付けばお互いに名前で呼ぶことを決められてしまった。
(あ、そういえば、苗字聞いてへん)
「それで、刀子ちゃんはこんな所に何をしに来たの? ここには雄大な大自然しかないけど」
「え? あ、ええと、それは」
家族と喧嘩して家を飛び出してきた、とは言いづらかった。
第一、事情を話して、外部の人間に八百長をもちかけられたなどと知られれば大目玉だ。
どう誤魔化したものかと、周囲に忙しなく目を泳がせる。
そこでふと、川辺に置いてある木刀が目についた。
「そ、そう! 素振りしに来たんよ! ウチの道場じゃ、あんまり集中できへんかったから!」
かなり苦しい言い訳だったが、大和は深く問い詰めるわけでもなく納得した。
「じゃあさ、刀子ちゃんが素振りしてる姿、見学してていい?」
「え……」
予想外の切り返しに、刀子が言葉に詰まった。
「で、でも、もうそろそろ暗くなるし」
「大丈夫。夜までには帰るし、それにどのみち刀子ちゃんに付いていかないと、山を降りられないしね」
「じゃ、じゃあ直ぐに送るから」
「それはわざわざここまで来た刀子ちゃんに悪いよ」
「ウチの素振りなんて見てもおもろないで?」
「僕も剣術を習っているから、何かアドバイスとか出来るかもしれないよ?」
反論を片っ端から潰されて、結局刀子は彼の前で剣を振ることになった。
河原で素振りをする刀子と、それを石に座りながら見学する大和の構図は、傍から見れば奇妙なものだっただろう。
「やっぱりもう少し腕の力を抜いた方がいいよ」
(うう、じっと見られると恥ずかしい)
「刀子ちゃん?」
「え、な、なに? 大和くん」
「いや、なんかボンヤリしてるみたいだったから。なにか悩みごと?」
「ううん、そんなんやあらへんよ。それで、さっきは何て言ったん?」
「そうそう、腕の力がね……」
大和は自分の体で解説する。
大和の説明はとてもわかりやすく、下手な師範代よりも要領を得ていた。
その知識に驚きながら、この大和という少年は一体何者なのだろうか、という疑問が胸の中で膨らんでいく。
(そういえば、ウチの素振りの音が聞こえたって言うとったけど、こんなに滝の音がうるさかったら、普通聞こえへんもんちゃう?)
疑問が疑問を呼び、我慢できなくなった刀子は、この不思議な少年のことをもっと知りたいと思うようになった。
「ねえ、大和くんの素振りも見せてくれへん?」
「ん? いいよ」
あっさりと了承した大和は、刀子から木刀を受け取り、その感触を確かめてから剣を振る。
そして彼の素振りを見た刀子は目を剥いた。
(す、すごい。木刀がほとんど見えへん!)
集中力、構え、体さばき、剣速、残心、そのどれをとっても刀子より上。
特に、風切り音さえ置き去りにするほどの剣速は、いっそ感動すら覚える。
その知識と指導力から只者ではないと思っていたが、大和の力量は刀子の予想の遥か上を行っていた。
「ふう、これでいい?」
一通り型を終えた大和が、刀子に尋ねる。
しかし刀子は鮮やかな、美しくすらある剣舞に見蕩れており、すぐに返事を返せない。
「刀子ちゃーん?」
「……ふえ?」
「いや、ふえって……」
「……はっ、い、いや、ちゃうねん! その、凄く綺麗な太刀筋だったから見蕩れちゃって、ああもう何言うとんのウチ!?」
テンパった。
「いや、これぐらい刀子ちゃんならすぐにできるよ?」
「いや、無理や……ウチ、そんなんできる自信ない……」
「大丈夫だって。ほら、こっちにおいで」
大和は刀子の腕を掴み、優しく引き寄せる。
「ええ!? ちょ、何するん!?」
「はい、木刀持って」
「そんなん強引すぎ……え?」
「僕が型を教えてあげるから、一緒に練習しよう?」
「……」
「ん?」
「……スケベ」
「ええええ!?」
「はい、ここで足を前に出す。大切なのは重心を崩さないこと」
「なるほど……」
刀子の力は、大和のわかりやすい指導のおかげもあり、この短時間にしては飛躍的に上昇した。
大和は観察眼も異常に優れていた。
悪い癖があれば即座に指摘し、正しい型に直す。
本当にこの少年は何者なんだろうか。
その疑問は刀子の胸の中に残っていたが、そんなことがどうでもよくなるほど充実した時間だった。
「すごいな、こんなに早く覚えちゃうなんて」
「ううん、大和くんの教え方がよかったからや」
新しい技、新しい足捌きなどを覚えた刀子の精神は高ぶっており、今すぐにでも試したくなっていた。
次の試合はいつだろう、と考えた時、不意に思い出す。
——三日後の宗家との御前試合、相手の顔を立てるために、わざと負けてくれ。
「あ……」
「どうしたの?」
「え、な、なんでもないで」
思い出してしまった。
自分は三日後、わざと負けねばならない。
感情のやり場を無くし、家を飛び出してしまったものの、旧家というものは面子を非常に重んじる。
御前試合で宗家が分家に無様に負けることが、宗家にとってどれほどの屈辱であるか、聡い刀子は十分に理解していた。
刀子自身、落ち着いた今となっては父と母の言うこともわかる。
宗家に恥をかかせたとなれば、その後に一番苦しむのは他でもない刀子だ。
ただ、こんなに一生懸命に指導してくれる大和を見ると、わざと負けるというのが、ひどい裏切りに思えて——
「ごめんなさい……」
「え、どうしたの刀子ちゃん?」
「ごめんなさい……っ」
ポロリ、ポロリと。
涙がこぼれ落ちる。
「え、ええ!? どっか痛めたの!? それともさっき、刀子ちゃんに触りながら教えたのが気持ち悪かったり!?」
「ぐす、ちゃ、ちゃうねん……ほ、ホンマに、ひっく、うう、ごめんなさい……」
罪悪感に耐え切れず、とうとう泣き出す刀子。
それを見て慌てる大和。
「うえええええええええん!!」
「うええええええええええ!?」
「そんでな、大和くんに申し訳ないって思ったんよ……」
「そうだったのか……」
刀子は大和に事情を説明した。
といっても、宗家だの分家だのと正直に全てを打ち明けてしまうわけにもいかず、ただ『今度の試合でわざと負けないといけない』とだけ言った。
「ホンマにごめんな、せっかく色々教えてくれたのに……」
「ううん、刀子ちゃんが気にすることじゃないよ」
「でも」
「はい、『でも』は禁止。そんな事情があるなら仕方がないよ。それとも、僕と一緒に練習するのはイヤだった?」
「そんなわけない!」
自分でも驚くほどの声が出た。
そんな刀子を見て、大和は笑う。
「ならいいじゃない。それに、僕にも隠してることはあるし——」
「大和くん?」
「ん、ああゴメンゴメン。もう暗くなってきたし、そろそろ帰らないとね」
「あ……」
もう、この夢のような時間が終わってしまう。
刀子の心に悲しみと、寂しさが募った。
「さあ、家の人が心配しちゃうよ。早く帰ろう」
「……うん」
そして二人は山を降りる。
その間、二人に会話はなかった。
「ここまでで大丈夫。もうあとはわかるから」
「……うん」
「刀子ちゃんは大丈夫? ここから一人で帰れるの?」
「……うん、大丈夫。この辺詳しいから」
上の空で受け答えをする刀子。
「そう。それじゃあね、刀子ちゃん」
「あ……」
くるり、と大和は宗家の屋敷へ帰っていく。
再会の約束もできなかった。
ううん、それ以前に剣術を教えてくれたお礼もしていない。
何か声をかけなければいけない。
でもなんて言えばいいんだろう?
ありがとう?
またね?
それとも……
「刀子ちゃん」
はっ、と意識が浮上する。
気が付けば、彼は歩みを止め、こちらを振り返っていた。
「月並みなセリフで悪いんだけどさ……」
彼は恥ずかしそうに頬をかく。
そして、言った。
「刀子ちゃんには、泣き顔よりも笑顔の方が似合ってる。だから安心して。僕がなんとかするから」
不覚にも、また泣きそうになった。
そして、家に帰った刀子は家族から告げられる。
宗家の方でなにかゴタゴタがあったらしく、御前試合は急遽、中止になったと。
父と母が刀子に謝る。
すまなかった。
辛い思いをさせた。
刀子は泣きそうになったが、ここで泣いたら進歩がない。
唇を噛み締めて、必死に涙を堪える。
彼にこんな顔を見せるわけにはいかない。
結局、今日は一度も彼に笑顔を見せることはできなかった。
それなのに、彼は泣き顔よりも笑顔の方が似合うと言ってくれた。
ならば、ここで笑顔の練習をしておくべきだろう。
——また、あの場所で出会った時に、とびっきりの笑顔を見せるために。