あの人が消えてから、どれ程の時が過ぎただろうか。
私は未だに彼を待ち続けている。
鶴子も素子ちゃんも、あの場所には集まらなくなってしまった。
あの日々を思い出すのが辛いのだろう。私だってそうだ。
でも私は今でもあの場所に通っている。
そして待ち続けるのだ。
彼が滝の上から声をかけてくるのを。
『こんな所でどうしたの?』と、いつもの声で呼びかけてくるのを。
でも、彼は帰ってこなかった。
代わりに帰ってきたのは、一本の刀だけ。
その刀を見た瞬間、彼にあの場所で言われたことを思い出した。
——僕が英雄になったら、刀子ちゃんも守ってみせるよ。
……嘘つき。
刹那と大和は、現在刀子が留まっているという近衛の屋敷まで来ていた。
護衛という任務の関係上、木乃香の近くに控えているのだろう。
埃一つ無い廊下を歩きながら、刹那は大和に問いかける。
「大和さん、さっきから何も喋ってないですけど……どうかしましたか?」
《……いや、何でもない》
「……」
《……》
あの場所で葛葉刀子の名前を出してから、大和はずっとこの調子である。
幼い刹那にも、大和の様子がおかしいということは察せられた。
刹那は何故こうなったのか、自分なりの推論を組み立てていく。
(葛葉刀子っていう人の話になってから大和さんの様子がおかしくなったから……やっぱり知り合いなんやろうな……)
葛葉刀子という人物は長からの信頼も厚いらしい。
ということは、長の友人である大和さんとも知り合いであってもおかしくない。
そこまでは刹那にもわかったが、問題はどういった知り合いであるか、ということだ。
(……恋人、とかやったりするんやろか)
刹那にはその推測が一番的を得ているように思えた。
というより、それ以外思いつかない。
無意識に腰に差した『大和』を強く握る。
結局二人とも終始無言のまま、刀子がいるという部屋の前にたどり着いた。
刹那は大きく深呼吸を一つ。
「失礼します」
「——どうぞ」
短いやり取りの後、刹那はゆっくりと襖を開ける。
その部屋の中で、葛葉刀子は正座をして瞑目していた。
《……っ》
「お入りなさい」
「は、はいっ」
部屋の中に入り、襖を閉める。
部屋の中に私物はほとんどなく、生活感が感じられなかった。
刀子の物とわかるものは、正座している本人の横に置いてある一本の刀だけ。
刹那が部屋に満ちた雰囲気に呑まれていると、刀子がゆっくりと目を見開いた。
「桜咲刹那、ですね」
「あ、はい」
「長から話は聞いています。そこへお座りなさい」
刀子は刹那を対面の座布団に促す。
刹那は緊張でカチコチになりながらも、刀子の前に座った。
「は、初めまして、桜咲刹那と申します。えっと、この度は葛葉さんにお願いがあって参りました」
刹那は拙い敬語を使って必死に話す。
刀子はそれを身動き一つすることなく聞いていた。
「……なるほど、私に神鳴流を教わりたいと、そういうことですね?」
「はいっ、お願いします!」
刀子は再び目を閉じる。
しばらく二人の間に沈黙が下りた。
「……基礎訓練は終えているのですか?」
「え、あ、はい」
「ならば、お嬢様の護衛に差支えの無い範囲でという条件で、指導しましょう」
「本当ですか!?」
刹那にその条件に対して不満はない。
というより、自分から頼もうとしていたぐらいだ。
修行をつけてもらえるのはありがたいが、それで木乃香の護衛がおろそかになっては本末転倒である。
「ありがとうございます!」
「いえ」
頭を深く下げる刹那と、あまり興味の無さそうな刀子の姿は対照的だった。
修行の同意を得たことに喜ぶ刹那だったが、ここでさっきの疑問が再び浮かび上がる。
それは、目の前の麗人と大和との関係性。
立ち居振る舞いや(立っていないが)、雰囲気からでも刀子が強いということはわかる。
さらに言えば、刀子は刹那が今まで見た中でも指折りの美しさだ。とても長と同年代とは思えない。
そのような人物とどういった関係なのか、刹那の中に強い興味が湧いた。
しかし、いざ聞こうとしてふと気付く。
——聞いて、答えてもらったとして、そこからどうする?
——もし恋人だったと答えられたならば、それは大和を傷つけるだけではないのか?
刹那の頭の中でグルグルと疑問が渦巻く。
聞くべきか、聞かざるべきか、二つの間をさ迷う。
そして、気が付けば刹那は——
「——あの」
口を開き、
「この刀の前の持ち主と、どういったご関係なのですか?」
目の前の女性に聞いていた。
「……」
《……》
刀子は答えない。
大和もまた、何も語らない。
ただ、刀子の返事を待っていることは察せられた。
しばらくの間、沈黙が場を支配する。
そして、刀子はおもむろに口を開き——
「——そんな刀、知りません」
その表情を見て、刹那は理解する。
ああ、やはり、この人と大和さんは親しい間柄だったのだと。
なぜならば、問いに答える時の刀子の表情が、鳥族の里を追放された時の自分の表情とまったく一緒だったから。
絶望に打ちのめされ、救いなどどこにも無いと告げられた表情。
全てを諦めた表情。
救いを諦めた表情。
——それなのに、心のどこかで希望を捨てきれない表情。
その全ての表情に、刹那は覚えがあった。
《小娘……もういい……》
大和の絞り出すような声。
それを聞いて刹那はハッとした。
「——申し訳、ありません」
失礼しましたと言って、刹那は刀子の私室を後にする。
部屋の襖を閉める際に見えた、刀子の顔。
——まるで、泣き出しそうな子供の顔。
それが、深く頭にこびりついて離れなかった。
廊下を引き返しながら、刹那は謝り続けた。
「大和さん……すみません、私……」
《いいんだ、気にするな》
悪いのは俺だから、という言葉を言いかけてやめる。
刀子があれほど苦しんでいたことに気が付けなかった自分が言っていい台詞ではない。
自分がこの場所を去ってから、もう二十年近く時が流れている。
(もう、とっくに忘れられていると思っていた……)
別れすら告げずに消えた男のことなど。
一本の刀だけを残して、帰ってこなかった男のことなど。
もう既に、忘れ去っているものとばかり思っていた。
自分の過去に後悔があるわけではない。
全てを失うことを覚悟して、あの鬼道を使ったのだ。
もしもあの時に戻れるとしても、また同じ選択をするだろう。
自らの夢を叶えるために。
でも、部屋を出る際の刀子の表情が、大和の脳裏に焼き付いて消えなかった——
「まったく、戦力を整えるのに、これほどの時間がかかるとはな……そのせいで葛葉刀子が帰還してしまったではないか」
「まあまあ、いいじゃないですか狩谷さん。彼女の相手は僕がするんですから」
「勝てる勝てないの問題ではない。できる限り不確定要素を増やしたくないのだ」
「まったく……そういう所はシビアですよね、狩谷さんって。強いくせに」
「お前が大雑把なだけだろう」
「ごもっとも」
京都には多数の派閥がある。
それらの派閥は主に、関東との関係をどうするか、という方針の違いから反発しあっている。
現在は詠春の属する『穏健派』が主流であるが、もちろんその反対も存在する。
それがいわゆる『強硬派』と呼ばれる者達だ。
そして、その『強硬派』の一派が使用している集会所にて、二人の男が向かい合っている。
一人は三、四十代の厳めしい顔をした男。
そしてもう一人は二十代半ばの優男である。
狩谷と呼ばれた厳めしい顔をした男は、優男に向かって告げる。
「本当に信じていいのだろうな? お前がどれだけ葛葉刀子を引きつけられるかが、今回の謀反の肝なのだぞ」
「酷いなあ。僕は負けることが前提なんですか?」
優男は少年のように笑う。
そのルックスと相まって、非常に様になる笑顔だった。
だが、
「——大丈夫ですよ。僕はあの女を嬲り殺すために、今回の謀反に参加するんですから」
優男の雰囲気が一変する。
女性を虜をするような笑顔は、獲物をどうやって狩るか、という残虐な笑顔に。
「あんなカスみたいな家の出のくせして斬魄刀を使う、あの女は許せないんですよね。だから僕の心配は無用。手出しも無用です」
「……そうか」
「狩谷さんこそ失敗しないでくださいよ? 貴方が長の娘を手に入れなければ全ては水の泡です。彼女さえ拉致してしまえば、あの甘い長はこちらの言うがままでしょうし」
「言われるまでもない」
狩谷と呼ばれた男は踵を返し、集会所の外へと向かう。
優男もそれに追従した。
「今回の謀反、必ず成功させるぞ。『五木葉一』」
「ははは、相変わらず狩谷さんは硬いなあ。そんなに心配しなくても大丈夫ですって」
五木の名を冠する男は笑う。
笑顔の端に、狂気を乗せて。