「へー、ここがせっちゃんの修行してる場所なんやー。スゴイ滝やなー」
「このちゃ……お嬢様、あんまり水辺には近づかないでください。昔のようなことがあれば、私は……」
「大丈夫やえ、ここから眺めるだけやから」
その日、いつもの修行場所には近衛木乃香の姿があった。
現在、木乃香は大きめの岩の上に座り、周囲の風景を物珍しげに見ている。
刹那はそんな木乃香をハラハラしながら見守っていた。
どうしてこんな状況になっているかと言うと、それは今朝の朝食後にまで遡る。
いつものように修行に向かおうとした刹那の前に、木乃香が現れた。
話を聞けば、刹那の修行風景が見たいと言う。
刹那は修行は遊びではない、と言って断ろうとするのだが、木乃香も譲らなかった。
木乃香は二週間後、麻帆良の小学校に転校する。
日本でも有数の霊地であり、関東魔法協会の本拠地でもある場所だ。
祖父である近衛近右衛門に預けることで木乃香の身の安全を守るという目的もあるが、どちらかというと人質としての意味合いの方が強い。
かつて大和が西洋魔法使いを打ち破ったとはいえ、その大和も今は存在せず、そもそも本国からいくらでも兵士の補給は可能だ。
まともに戦えば、関西が負けるのは目に見えている。
人質として麻帆良へと行ってしまえば、そう簡単には京都に帰れなくなってしまう。
それを木乃香は周りの雰囲気から察したようで、最近は刹那に特に構うようになった。
麻帆良に行く前に、刹那との思い出を作っておきたいのだろう。断ろうとすれば涙目になる始末だ。
そして刹那に逃げ道はなく、結局同行を許してしまった。
(すぐ近くに刀子も隠れているし、問題はないか……二人はまったく気づいていないようだが)
「それじゃあ今から素振りをしますけど、その間は危ないので近寄らないで下さいね」
「うん、わかっとるよ」
岩の上に座る木乃香は、初めて見る刹那の修行風景に目を輝かせている。
その期待の視線を受けている刹那は居心地が悪そうだが。
《小娘、木乃香を意識しすぎだ。体に力が入りすぎている》
「は、はい」
「どうしたん、せっちゃん?」
「え? あー、えっと、なんでもないです!」
《……忘れていたが、人のいるところで俺に話しかけたら痛い子になるぞ》
(先に言ってくださいっ)
これは念話も習得させる必要があるな、と大和は思った。
「周囲に異常は無し……と。桜咲も剣の才はあるようですが、私にまったく気づかないというのは少し問題ですね」
葛葉刀子は滝の上から刹那と木乃香を見下ろしていた。
それはもちろん木乃香の護衛のためだ。
あまり縛られるのを好まない木乃香は護衛の人間を撒くことが度々あり、こうして隠れるように見守っているのである。
とはいえ、友達と遊ぶ時に大人が近くにいたら、誰でも嫌だろうが。
「……それにしても、この場所で修行していたとは……」
刀子は滝の下にいる二人に目を向ける。
一生懸命に剣を振る刹那と、それを見守る木乃香。
その二人の姿は、かつての自分達に重なって——
刀子はそこで思考を打ち切る。
自分に襲いかかる様々な負の感情を、我慢するのではなく、考えないようにする。
それこそが刀子が過去を乗り切るための、唯一の方法だった。
(この場所には、あまり来たくない……)
刀子は近くの木に背をもたれさせ、ため息をついた。
ここに来ると、自分が何を失ったのかをはっきりと突きつけられる。
だから大和が………ことを知ってからは、一度もここには来なくなった。
(もうやめよう……彼のことを考えるのは……)
刀子は思考を切り替えて、二人を見張る作業に戻った。
刹那は拙いながらも、一通りの型を木乃香に披露しようとしているようだった。
もちろん刀子から見ればまだまだ隙だらけではあるものの、刹那の年齢を考えれば十分だろう。
詠春に『少しでいいから気にかけてやってくれないか』と言われたので、取り敢えず稽古を見るつもりではいたのだが、これは想像以上に教えがいがありそうだ。
(ふむ……強いていうならば、少し重心が高いのが気になりますね……)
刹那の修行をつけることになれば、そこを注意しようと考える。
だが、ここで刀子の予想を裏切る光景が目に入った。
(重心が下がった……?)
眼下にいる刹那の剣を振る様子が、急に改善されたのだ。
偶然かと思い、しばらく刹那を見ていたのだが、刹那は明らかに身体の重心を意識して剣を振っている。
——まるで、誰かの忠告を聞いたかのように。
疑問に思う刀子だったが、それよりも優先すべき事項が出現した。
誰かがこの場所に近づいている。
気を使って移動しているのか、一般人に出せるスピードではない。
自らに与えられた役割を鑑みて、即座に刀子は戦闘体勢に入った。
出現した気配は真っ直ぐに刀子に向かってきている。
気を隠す様子がないことから木乃香を狙う暗殺者の線は薄いが、それでも油断はできない。
数分後、木々の奥から一人分の人影が現れた。
刀子は身構えるが、その人影は両手をひらひらさせながら歩いてくる。
敵対心の無いことを示す仕草だが、刀子は油断をしない。不意打ちをしてくる可能性もある。
だが、気軽に挨拶をしてきたのは流石に予想外だった。
「やあどうも、葛葉刀子さんですよね?」
その男を見て、刀子は訝しげに眉を潜めた。
「貴方は……五木、葉一さん?」
刀子の前に現れた優男の名前は、五木葉一。
大和の従兄弟に当たり、斬魄刀を操る術に長け、将来を期待されている男だ。
人当たりも良いので、人望も厚い。
まさに好青年を絵に書いたような男だった。
ただ、常に浮かべている微笑が不吉なものに思え、刀子はこれまで関わらないようにしていたのだが。
「なぜこんな場所にいるのですか。ここは立ち入り禁止区域ですよ」
「ははは、それを言ったら葛葉さんもじゃないですか」
「私は木乃香お嬢様の護衛としてここにいます。それよりも質問に答えて下さい」
「うーん、つれないなぁ……僕何か葛葉さんに嫌われるようなことしました?」
「いいから、質問に答えなさい」
詰問する刀子に対し、葉一は余裕の態度を崩さない。
「本題に入りますが、僕は長からの伝言を預かってきたんですよ」
「長からの伝言……?」
「ええ、これからは僕が木乃香お嬢様の護衛を務めます。貴方は至急本殿にまで戻るように、と」
その言葉を聞いて、刀子は耳を疑った。
「そのような話、私は一言も聞いておりませんが」
「僕にそう言われても困るんですけどね。緊急事態のようでしたし、とにかくここは僕に任せて、早く戻ったほうがいいですよ?」
そう言われて、刀子は少しだけ考える。
しかし、すぐに結論は出た。
「——いえ、私はここに残ります」
「……へえ、長の命令に背くのですか?」
「なにか緊急事態が起きているのであれば、尚更お嬢様の側を離れるわけにいきません」
以前、刀子が長期の出張任務から帰ってきた時、詠春は言ったのだ。
——刀子君がいる間は、一番信頼できる君に木乃香を任せたい、と。
その詠春が、木乃香を別の人間に任せて帰還せよ、などと言うのは考えにくい。
詠春の言葉とこの得体のしれない男の言葉、どちらを信じるかと聞かれれば、言うまでもなく前者だ。
その刀子の様子を見た葉一は苦笑する。
「僕の言葉は信じられませんか?」
「長の言葉と比べれば」
「ひどいなぁ」
葉一はさして気にした風でもなく笑う。
そして、おもむろに懐から一通の封書を取り出した。
「そう言われると思い、僕は長から直筆の手紙を預かってきています」
「手紙?」
「ええ。これなら貴方も納得して下さると思いますが」
葉一は封書を刀子に差し出す。
「とりあえず、これを読んでから判断してもいいのでは?」
葉一の言うことにも一利ある。
訝しみながらもそれを受け取り、刀子は開封した。
中には一枚の紙が入っており、刀子はそれを取り出して読もうとする。
しかし、紙を取り出した瞬間、絶句した。
中に入っていた紙に書かれていたのは詠春の文字ではなく、五芒星と奇怪な文字の羅列。
それは刀子も何度か見たことがある代物。
——転移魔法符!
咄嗟に手放そうとするが、もう既に手遅れ。
封書から符を出した時から、発光を始めている。
自分の迂闊さを恨むと同時に、刀子はその場から飛ばされた。
「今頃、木乃香は刹那君と遊んでいるのだろうか……」
近衛詠春は自室で書類にサインをしながら、そうぼやいた。
正座している詠春の前にある机には、既にサインが書かれた書類が山のように積み上がっている。
仕事が一段落し、気が緩んだ詠春は愛娘のことを考えた。
詠春は、木乃香のことを目に入れても痛くないほどに溺愛している。
だから、それ故に迷う。
木乃香に魔法の存在を教えるか否かを。
関西呪術協会の長の一人娘である木乃香の立場は、いつまでも表の世界で暮らすことを許さないだろう。
それ以前に、木乃香は生まれ持った魔力が膨大すぎる。
近衛家の血に篭められた性質もまた、木乃香が狙われる要素となる。
本当は、今すぐにでも魔法のことを教えるべきなのだ。
いずれこの世界のことを知るとしても、早くから修行をしていれば、その分かなりのアドバンテージになる。
場当たり的に魔法を知ることは非常に危険だ。
理性は早く魔法を教えるべきだ、と告げている。
しかし、親としての詠春は、木乃香に血生臭い世界など知ってほしくない。
幾度となく繰り返した自問自答。
そして、その問いに結論が出る前に、詠春が気付く。
「静かすぎる……?」
屋敷から音が消えていた。
詠春の部屋は近衛の屋敷の中でも奥まった場所にあるのだが、それにしても気配をまったく感じないというのは普段からしてありえない。
「この時間帯ならば、誰かが掃除でもしているはずだが……」
詠春は数秒考え、立ち上がる。
その際に、背中でボキボキと小気味いい音がして苦笑した。
自分の部屋を出て、少し歩く。
やはり誰とも出くわさなかった。
人の気配を探しながら歩き続けている内に、とうとう縁側にまでたどり着いた。
散歩がてら誰かを探してみるか、と考えて、詠春は外に出るためのスリッパを履く。
——そして、上空からの殺気を感じてその場を飛び退くと同時に、今までいた縁側が破壊された。
「っ、誰だッ!」
「お、これを避けるとは、やっぱり関西の長なだけあるやないか」
詠春は転がって体勢を立て直し、そして縁側を破壊したものを見て息を呑む。
そこにいたのは人としての姿を大きく逸脱した者。
——いわゆる、鬼と呼ばれる者の姿だった。
「式神か!?」
「そういうこっちゃ。依頼主との契約につき、アンタを痛めつけさせてもらうで」
「誰の差し金だ!」
「そりゃ喋ることはできんわ。ワイらもただ雇われただけやしなぁ」
鬼はそう嘯くが、式神が使われている時点で十中八九、関西呪術協会の誰かだろう。
それならば総本山の結界に反応しなかったのも頷ける。
——そう、これは協会内の人間による謀反なのだ。
詠春は懐から一枚の符を取り出し、破いた。
直ぐ側に空間の歪みが生じ、そこに手を突っ込んで斬月を抜き取る。
あまりに巨大すぎる斬月を持ち運ぶための術だ。
斬月を鬼に向けて構える。
「貴様のような鬼一体で私を討ち取ろうとは、舐められたものだ」
「いや、アンタが強いこと知ってるで? サムライマスター言うたら有名やし」
「はは、まさか鬼に評価される時が来ようとは」
十数年も書類仕事を続け、詠春の腕は鈍りきっている。
しかし、鬼一匹を倒すことぐらい造作もない。
詠春は斬月で鬼を両断しようとして一歩を踏み出し、そこで踏みとどまった。
——この鬼の余裕はなんだ?
ニヤニヤと笑う鬼。
それを見て、詠春は冷静になる。
そして思い出すのは先程の会話。
——ワイらもただ雇われただけやしなぁ。
「まさか……」
「察しのええ人間やな」
詠春は鬼から視線をずらし、屋敷の屋根を見る。
そこにいたのは、鬼の群れ、いや、軍勢と呼べるほどの鬼の集団だった。
「本当は一対多ってのは気に食わんけどな。依頼主からの命令やから勘弁してくれや」
視界を埋めつくさんとするほどの鬼達を見て、詠春は思う。
——無事でいてくれ、木乃香……!
「せっちゃんすごい! さっきのビュオオってやつ、もう一回やって!」
「は、はいっ!」
《……はあ》
一通り型を終えた刹那を待っていたのは、木乃香からの溢れんばかりの賞賛だった。
三年前、川で溺れる事故があってから木乃香を避けてきたものの、大好きであることには変わりがない。
木乃香に褒められて、刹那の顔は緩みっぱなしだった。
大和はそんな刹那を見てため息をつく。
《おい小娘、木乃香は一般人だぞ。お前の動きが凄く見えるのは当然だ。それで気を良くしてどうする。第一、お前はさっきも言ったとおり重心の位置が……》
「えへへへ」
《……聞いちゃいねえし》
再びため息。
《……ま、落ち込んでるよりかはいくらかマシか》
刀子と会話をしてからというもの、刹那は大和によそよそしくなった。
話しかけても上の空で、夜に込める気の通りも悪い。
本人は特に異常はないと言っているが、側で見ていれば様子がおかしいのは明白だ。
(刀子と俺のこと、踏み込みすぎたと感じているのだろうな……)
刹那の持つ白い翼。
それが原因で、刹那が鳥族の里でひどい迫害を受けてきたことは、大和も知っている。
そのトラウマから、今でも夜にうなされることも。
だが最近はマシになった方だ。
三年前、『大和』を手に入れたばかりの刹那はひどかった。
川で溺れた木乃香を助けられなかったという罪悪感からか、毎晩のように悪夢に苛まれる日々。
見ているだけの大和ですら辛くなるほどの苦しみよう。
大和はうなされる刹那の頭を、撫でてやることもできなかった。
(あの時ほど、身体の無いこの身を呪った時はない)
刹那は対人関係にひどく敏感で、臆病だ。
それも過去を考えれば当然ではあるだろうが、自分と刀子の関係で刹那が苦しむ理由などどこにもない。
(今回はいい気分転換になったか……木乃香には感謝だな)
笑い合う二人を見て、大和はそう思う。
そして、この笑顔が曇ることの無いようにと、祈った。
——しかし、その願いは容易く覆される。
大和がふと感じた違和感。
(刀子の気配が消えた?)
立ち去った、というわけではない。
その場から唐突に消えてしまった、と大和の感覚は告げていた。
疑問に思った大和は自分の感覚を最大限に研ぎ澄ます。
大和が索敵範囲をどんどん広げていくが、刀子の気配は無い。
少なくともこの付近にはいないようだった。
その代わりに、自分達のすぐ近くで一つの気配が索敵に引っかかった。
その感覚を捉えた大和は息を呑む。
——刹那の背後から、気配を殺した鬼が近づいている。
《小娘っ!! 後ろだッ!!》
大和の声は悲鳴じみていた。
自分に察知されずにここまで接近した鬼は只者ではない。
そこらの式神とは一線を画す、明らかに戦闘慣れしている鬼だ。
そんな鬼が、刹那のすぐ後ろにまで忍び寄っている。
「え?」
だが、大和の忠告は遅すぎた。
次の瞬間に大和が見た光景、それは。
——鬼の豪腕に跳ね飛ばされ、まるでオモチャのように宙を舞う刹那の姿だった。