木乃香はその光景を信じられなかった。
自分の目の前には、まるで空想の世界から飛び出してきたかのような赤鬼が立っている。
その身から溢れ出る威圧感は木乃香の体を竦ませ、その場から動くことを許さなかった。
身の丈は二メートルを優に越え、その両腕はそこらの女性のウエストよりも太い。
「まったく、狩谷の坊主め……こんな童達を襲えなどと、胸糞の悪くなるような命令をしよって」
その腕により、自らの大切な親友を跳ね飛ばしたことも含め、木乃香はこれを現実だと考えることができなかった——
「っ、やってくれる!」
葛葉刀子は森の中で悪態をついた。
あの転移魔法符により飛ばされた場所は、木乃香達の居た場所から遥かに離れた森の中。
ここから全力で戻ったとしても十数分はかかるだろう。
刀子はあんな単純な手にひっかかった自分を殴りたかった。
「とにかく、急いで戻らねば……!」
木乃香達のいる方角へと走り出そうとする刀子。
だが、ついさっき見るはめになった転移魔法の光が、刀子の前方に突き刺さる。
「今更言うのもなんですけど、僕の言うことを最初から信じて本殿に戻ってしまったらどうしようとか考えていました」
光が消えた跡に残っていた人物。
それはもちろん、刀子をこの場所に飛ばした張本人。
「——そうなってしまえば、僕自身の手で貴方を切り刻めなくなってしまいますから」
「五木、葉一っ……!」
刀子の前に現れた葉一は嗜虐的な笑みを見せる。
それは、普段浮かべている笑顔とはまるで正反対。
まさしく悪魔が乗り移ったような笑顔だった。
「ふ、ふふふ、あはあははははああははああ!! やっとこの時が来た! この女を断罪できる日が! 僕がこの日をどれほど待ち焦がれたことか!」
葉一は心底嬉しそうに声を上げる。
その様子を見て、刀子は逆に冷静になった。
(落ち着け……相手のペースに乗せられてはいけない)
刀子は自分の中で優先順位をはっきりさせる。
無論、一番は木乃香の身の安全だ。
目の前の男との戦闘を避けることができればベストなのだが、ここは既に相手のフィールド。
刀子を先行させないための仕込みがあってもおかしくないし、まだ転移魔法符を持っている可能性もある。
つまり、ここで刀子の取るべき選択肢は。
(最短時間でこの男を撃破。その後にお嬢様達の下へ……!)
「うん、貴方の考えていることはなんとなく理解できるけど、そうはさせないよ?」
葉一は刀を抜き、刀子へと瞬動で迫る。
刀子も抜刀し、これを受け止めて鍔迫り合いに持ち込む。
双方の刀が擦れ合って、耳障りな音が周囲に拡散した。
「別に私が貴方にどう思われようと構いませんが、お嬢様に危害を加えるのであれば話は別。たとえ宗家の五木家でも手加減はいたしません」
「……そういう上からの態度が……ひどく気に障るんだよなぁ!!」
葉一は刀に力を込め、その反作用で後ろに下がる。
「斬魄刀は五木家だけのものだ! お前のような下賤の者が使うべきではない!」
「……それが貴方の本性ですか」
「ああそうさ。斬魄刀は選ばれた一族、五木家だけの物。それを図々しくも使うお前をどうやって殺そうかといつも考えていた!」
葉一の笑みが一層深くなる。
「色々考えたが——やっぱり跪かせて殺すのがいちばんだな」
刀を構え、葉一は解号を口にした。
「——面を上げろ! 侘助ェ!」
その叫びと共に、葉一の刀が変化。
その刀身は中央部分から鉤状に折れ、とても人を斬るには適していない形状だった。
だが、それを見て刀子は警戒する。
斬魄刀の能力は直接攻撃型と鬼道型に大きく分けられる。
前者であれば攻撃手段を見抜くことも容易だが、後者であれば一見しても能力までは判明しない。
あの斬魄刀、侘助は明らかに後者に属するであろう。
(どのような能力かは知りませんが、出す前に終わらせればよいだけの話!)
時間がない現状も含め、刀子は押し切ることを決意。
先程とは逆に、今度は刀子から距離を詰める。
「くっ、お前らは大人しく神鳴流に縋っていればいいものをッ!」
刀子の剣は神鳴流の中でも特に速い。
打ち下ろし、袈裟斬り、斬り上げ、左薙ぎ、逆袈裟、刺突とありとあらゆる技を持って、葉一に迫る。
その一連の動きは暴風のようでありながら、流れる水のように滑らかでもあった。
現に葉一は反撃どころか、体勢を立て直すことすらおぼつかない。
その刀の特殊な形状を利用して、受け流すのが精一杯だった。
「ええい、ちょこまかと鬱陶しい!」
「神鳴流奥義——斬岩剣!」
体勢を崩した葉一に、刀子は斬岩剣で追い打ちをかける。
葉一は咄嗟に侘助を体との間に滑り込ませるが、そんな不十分な防御では斬岩剣の勢いを殺しきれない。
自然、葉一は吹き飛び、数メートル滑空して木に叩きつけられた。
「がっ……はぁ……!」
肺の中の空気を全て吐き出し、葉一は呻き声をあげる。
力、速度、技量、経験。
それら全ての含めた戦闘能力の差は歴然だった。
そもそも刀子は第一線で戦っている、いわば叩き上げの剣士だ。
命の危機を何度もくぐり抜けてきた経験は刀子の大きな力である。
それに比べて、葉一は剣技こそ洗練されているが、実戦経験はほとんどない。
両者の違いは、剣の腕として如実に現れていた。
「命までは取りませんが……二、三ヶ月は動けないことを覚悟しなさい」
刀子は刃を返し、地面で蹲る葉一を峰打ちで気絶させんと近づいていく。
しかし、葉一から返ってきたのは嘲笑。
「……くっくく」
「……何が可笑しい?」
「あはははははははは!! まだ気づかないのか!! お前の負けだよ葛葉刀子!!」
葉一がそう叫んだ瞬間、刀子の刀に異変が起こる。
(刀が、急に重く……!?)
取り落としそうになった刀を咄嗟に持ち直す。
刀子の持つ刀は一般に野太刀と呼ばれるもので、その大きい形状に見合った重量を兼ね備えている。
しかし、それでも精々が一キロ前後であり、こんな異常な重さではない。
刀子の手にかかる感触からして、少なくとも百キロを超えている。
(となると、これがあの斬魄刀の能力か!)
「やっと気がついたようだね? これが僕の斬魄刀、侘助の能力! 『斬りつけた物の重さを倍にする』だ!」
葉一は立ち上がり、刀を下段に構えている刀子を見て笑う。
「相手が重さに耐えかね、詫びるように自らの頭を差し出す。故に『侘助』」
「……貴方の性格に似合った、卑屈な能力ですね」
「ハッ、何とでも言いなよ。僕は侘助で貴方の刀を七回斬りつけた。貴方の野太刀の本来の重さが一キロだとすると、既に百二十八キロにまで達している! そんな刀を振り回せるものか!」
「……」
黙り込んだ刀子を見て気をよくしたのか、葉一の口は止まらない。
まるで演説するかのような口調で語りだす。
「実にいい眺めだ! 気に入らないヤツを這い蹲らせるのは何よりも素晴らしい!」
「……」
「この素晴らしい力は五木家にだけ許されている! 分家のお前が使うべきではないんだよ!」
「……」
「そうだ、分家のくせに僕のことを無視しやがって! 僕は五木家の中でも特別なんだ! あの五木大和にだって引けをとらな……」
「少し、黙れ」
刀子はその刀を『片手で』持ち上げる。
「はははは……は?」
「この程度の能力で封じられるほど、神鳴流は甘くない」
葉一の勝ち誇った顔が固まった。
彼は目の前の光景が信じられない。
今まで自分の斬魄刀と戦った相手は、例外なく地を這いつくばっていたのに——
「馬鹿な! そんな重さの刀を片手で持てるはずがない!」
「そうですね。あと五、六回斬りつけられたら少し危なかったでしょうか」
葉一は口を開けたまま呆然とする。
刀子の言うことを信じるならば、彼女は数トンの重量にも耐えられることになる。
そんな人間が存在するのか?
「それと、重量が増すということは、一撃の威力が上がるということでもあるのですよ?」
刀子は葉一の方へ歩き出す。
百キロを優に超す重量の刀を、苦もなく持って。
「あ、あはは……嘘だろ」
葉一の背中に硬い感触。
振り返れば、先程叩きつけられた木があった。無意識の内に後ずさりしていたらしい。
しかし、葉一のすぐ目の前には既に刀を振りかぶった刀子の姿が。
「ま、待て! 来るな! 僕を誰だと思って……」
「時間がないので、これ以上貴方の戯言を聞く気はありません」
刀子は無造作に刀を振り下ろす。
葉一は反射的に侘助を構えるが、凄まじい重量となった刀子の野太刀はそれをまったく意に介さない。
一瞬の抵抗の後、あっさりと侘助は叩き折られた。
そしてそのまま葉一の肩に峰打ちが入り、凄まじい轟音が周囲に響きわたる。
舞い上がった砂煙が晴れると、そこには野太刀を振り下ろした刀子と、地面に倒れ伏す葉一の姿。
刀子が刀を振り下ろした先は小規模のクレーターのようになっており、葉一はかろうじて生きているといった具合だった。
「……」
刀子は葉一が完全に気を失っていることを確認すると、残心を解き、刀を鞘に収める。
(彼の名前を聞くだけでこれほど取り乱してしまうとは……情けない)
刀子は頭を振って思考を切り替える。
今は反省よりも木乃香達の下へ向かうことが先決。
反省ならばその後にすればいい。
自分に護衛を任せてくれた詠春の期待に報いるためにも、今は走るべき。
「お嬢様……どうかご無事で……」
今は亡き想い人のことを胸の中に隠し、刀子は再び戦場へと向かう。
しかし、彼女はまだ知らない。
彼女の人生を大きく変えた場所。
——そこで、彼と再会することを。