「はぁっ、はっ……」
「なんじゃ、もうギブアップか? だらしがないのう」
その空間には、二人の人間がいた。
一人は女。
鮮やかな薄紅色の着物を違和感なく着こなす、妙齢の美女だ
腰まで伸ばした黒髪は鴉の濡れ羽色の如き色彩であり、その色気は男女の区別なく魅了するだろう。
それに加えて顔の作りも神懸かりのバランスで際立っており、まさに傾国の美女である。
そしてもう一人は男。
その男は薄紅色の着物の女の前で膝をつき、乱れた呼吸を元通りにしようと必死だった。
その目は非常に殺気立っており、眼前の女を親の仇とばかりに睨めつけている。
余裕の態度で男を見下ろす女と、それを荒い呼吸で見上げる男。
誰の目にも異様な光景だった。
「まったく、五木家創始以来の天才だというから期待しておったのに、以前と変わらずゴリ押しか。そんなんじゃ、いつまで経っても妾は口説けぬぞ?」
「くっ……」
だが、男のことを知る人間からすれば、この光景は異様どころの話ではない。
それこそ、自分は夢でも見ているのか、という思いを抱かせるだろう。
何せ、その膝をつく男は名は——あの五木大和なのだから。
「どうして……!」
「ん?」
「どうして、僕に力を貸してくれないんだ……!」
大和が悲痛な声を上げる。
薄紅色の着物の女は、その叫びにまったく興味を惹かれないらしく、これみよがしに欠伸までしてみせた。
「どうしてと言われてものう……正直な話、今のお主に力を貸す気が全然起こらんのじゃ」
「ふざけるなッ! せめて納得のいく理由を話せよ!」
その女の態度に、大和は激昂する。
震える膝に喝を入れて立ち上がり、手に持った刀を女に突きつける。
「どうして僕を受け入れてくれないんだ! 答えろ——鏡花水月!」
二人が対峙している空間、それは広大な草原だった。
ただし草原と言っても草だけではなく、ぽつぽつと背の高い木も存在し、サバンナを緑豊かにしたかのような場所だった。
ここは大和の精神世界。
五木家秘伝の斬魄刀戦術は、この精神世界で斬魄刀を屈伏させることによって完成する。
大和は今までそうしてきた。
しかし——
「ほれほれ、こっちじゃぞー」
「舐めるなぁッ!」
大和は鏡花水月と呼んだ女性に向かって走る。
音すらも置き去りにする歩法、瞬歩による接近は目視など不可能。
大和によって独自に改良された瞬歩は、京都に伝わるそれより遙かに速く、鋭く、隙がない。
対して鏡花水月はまったく身構えず、ニヤニヤと笑いながら自分に迫りくる大和を見ていた。
大和は刀を振り上げ、無手の鏡花水月に向けて最大加速をする。
そして、大和が刀の間合いに鏡花水月を捉えた瞬間——『突如として眼前に出現した』樹木に、大和は顔を思いきり打ち付けた。
「が、あっ……!」
「はっはっは、大当たりじゃ」
たまらず、大和は鼻を押さえて数歩下がる。
その手の隙間から赤黒い血がボタボタを垂れ落ちた。
「本当に学習せんやつじゃのう。妾には勝てんと何度も言っておるではないか」
そんな大和の様子を見て、鏡花水月が呆れた表情を見せた。
だが、大和は鏡花水月を射殺さんばかりに睨みつける。
「うる、さいっ!」
「まったく……頑固者め」
大和は再び鏡花水月に向けて走る。
今度は直線ではなく、カーブを描いて回り込む形だ。
さらに腕を前方で交差させ、障害物に備える。
そして鏡花水月の側面に回り込んだところで——姿を現した石に足をとられて転倒した。
「無駄じゃと言っておろうに。お主の五感と知覚能力は既に把握済みじゃ。見えず、聞こえず、匂わず、触れず、感じることすらできん状態で何ができる」
「くっ……」
先程からこの繰り返しだった。
大和が突っ込み、鏡花水月があしらう。
そして、それを可能とする鏡花水月の能力——完全催眠。
対象者の感覚の全てを操るこの力に捕われれば、逃げる術はない。
たとえ無類の戦闘能力を誇る大和であってもだ。
視覚を操られれば、存在していた樹木を避けることもできない。
触覚を操られれば、手に持っていたはずの刀をいつの間にか落としていた、などという事態もあり得る。
自分の感覚を信じられぬというのは戦闘者において致命的だ。
大和は鏡花水月を睨むが、いや、それ以前の問題として——『本当に鏡花水月はそこにいるのか?』
そんな疑念を抱いた瞬間、鏡花水月の姿が溶けるように消える。
「そろそろ気が済んだか?」
その声は、すぐ背後から聞こえた。
「……」
大和は振り向かない。
振り向いても無駄と分かっているから。
たとえ背後に鏡花水月の姿があったとしても、それすら本物とは限らない。
今の大和に抗う術は無かった。
「なんでだよ……」
大和は俯いて呟く。
「それだけの力があるのに、どうして僕に力を貸してくれないんだよ……!」
手に持った刀を、間接が白くなるほど強く握りしめる。
「あの時にお前の力があれば、僕は……!」
——誰も殺さずに済んだのに。
一か月前、大和は総本山へ攻め込んできた西洋魔術師の軍勢を、皆殺しにした。
その後関西を脱走。
魔法世界に密航し、目的もないまま旅をしている。
現在はオスティアという都市の安宿に身を置いているが、これからのことは何も決めていなかった。
「……」
二階にある自分の部屋のベッドに座りこみ、大和は思考の海に沈んでいく。
一階の酒場をを兼ねた食道から、アリカ王女は美しい、聡明だなどと聞こえてくるが、まったく興味は惹かれなかった。
あの時自分はどうするべきだったのか、大和はそのことしか考えられない。
(僕は、間違っていたのか……?)
——この力で誰かを救おうなどと、傲慢でしかなかったのか……?
大和は後ろのベッドに倒れこむ。
安宿のベッドに相応しいスプリングが耳障りな音を鳴らした。
仰向けに倒れたまま首を捻り、立てかけている自分の刀を見る。
ただ頑丈であるという以外に特徴のない刀。
これをひたすらに振り続けた意味は——
「……あいつの、力があれば」
大和はゆっくりと体を起こす。
壁に立てかけておいた刀を手に取り、再びベッドに戻って座禅を組んだ。
膝の上に刀を置き、目を閉じて集中する。
思い起こすのは、五木家に伝わる秘伝の書物。
『鏡花水月』と記された書物の中身。
唯一つ、大和が御しきれなかった斬魄刀。
(あいつの力さえあれば、こんな結果には……)
思考力の低下した今の大和には、その一つしか考えられない。
そして、妄執と後悔に支配された大和は解号を紡ぐ。
屈伏させるためでなく——ただ、恨み事をぶつけるために。
「砕けろ——」
「この草原は、漠然と『世界が平和でありますように』と考えているお前の心象風景じゃ。この世界に外敵はなく、天災もない。何も変わらない優しい世界」
鏡花水月の声が大和に届く。
最早大和に抵抗の意思はない。
草原に膝をつき、力なく項垂れていた。
「斬魄刀に好かれない典型じゃな。あ奴らは一瞬の、煌く命に価値を見出す。変わらぬお主に興味は抱くまい」
「……悪かったな、面白味のない男で」
「ふふ、そう卑屈になるでない。少なくとも妾はお主の生き方も気に入っているぞ?」
「っ、じゃあっ!」
大和は弾かれたように立ち上がり、背後の鏡花水月に詰め寄ろうとした。
だが振り向いた瞬間、口元に人差し指を置かれ、慌てるなという合図を送られる。
「お主の生き方も気に入っておるが、それで力を貸すかは別問題。お主も知ってのとおり、妾の能力は他の斬魄刀と比べてもかなり危険じゃからな」
「僕は人を傷つけるような使い方はしない! 誰かを助けるためだけに使う!」
「それは不可能じゃ」
必至に叫ぶ大和に対し、鏡花水月は断言する。
「感覚を支配する、認識を誤魔化すなどと言うが、妾の能力は結局のところ『その人間の全てを支配する』というもの。下手な暴力よりも余程タチが悪い」
まるで、聞き分けのない子供に言い聞かすような口調だった。
そして今の大和は聞き分けのない子供そのもの。
鏡花水月の言い分を理解せず、理解しようとも思わなかった。
「それが何だってんだ! お前の能力なら、西洋魔術師達を無傷で捕らえることだって出来たはずだろ!」
「……ああ、その通りじゃ」
「ならどうして!」
「五木大和」
静かな、しかし重く響いた鏡花水月の声に、大和の動きが止まる。
「お主の周りの人間が、全て妾の作りだした幻想だと言われたら……どうする?」
「……え?」
鏡花水月の急な質問に、大和は反応することができない。
自分の身近な存在と言えば刀子に詠春、鶴子に素子だろう。
彼らが幻想であるなどと、今の鈍った頭では想像もできなかった。
「……今のお主には、何を言っても無駄か」
鏡花水月はため息をつく。
直後、鏡花水月の体から尋常でない量の気が溢れ出した。
「なっ……」
本気の自分を遙かに凌駕するであろう気を叩きつけられ、大和は思わず後ずさりした。
「どうした? 言っておくが、これは催眠ではないぞ?」
「そんな……馬鹿な……」
呆然とする大和の前で、再び鏡花水月の姿が消える。
今回のは先程の催眠とは違う、ただの高速移動。
しかし、その雷すら凌ぐスピードに、大和の目はついていけず——
「覚えておけ。妾は完全催眠の危険性を理解しない人間に、力を預ける気はない」
——腹部に強い衝撃を受け、大和の意識は闇に落ちていった。
「……和さん……大和さん!」
すぐ真後ろからの呼びかけに、大和は我に返る。
「ん……どうした刹那」
「いえ、なんだかボーっとしていたから」
おんぶをしている刹那にそう言われ、自分が深く考え事をしていたことに気がついた。
過去を思い返していたのは十分か二十分、もしくはそれ以上だろう。
その間の山道は無意識に下りていたらしい。
自分らしくもない、と大和は心中で毒づいた。
「どうかしたんですか? 私を背負うのに疲れたとか……」
「お前如きの体重で俺が参るかよ……ちょっと、黒歴史を思い出していただけだ」
「黒歴史?」
刹那は言葉の意味がわからないのか、首を傾げる。
「んー、そうだな……思い出すと、わああああって叫びたくなる思い出のことだ」
少なくとも大まかな意味では合っているはずだ、と大和は思う。
「わあああ、ですか?」
「ああ。お前で例えると、ホラー映画を見た夜にちょっと漏ら」
「わあああああああああああああああああああああ!!」
「そう、そんな感じ」
背中がポコポコ殴られるのを感じながら、大和は鏡花水月の言葉を思い出す。
——完全催眠の恐ろしさを理解しない人間に、力を預ける気はない。
あの時の自分ではまったく理解できなかった。
人の感覚を支配するという恐ろしさを。
(二十年も経ってようやく……それが分かった気がする)
それは、とても単純な答えだった。
鏡花水月の力があれば、対象の相手に都合のいい現実を与えることができる。
過去の大和ならば、間違いなくそのように使用するだろう。
それが相手にとっての幸せだと確信して。
——そう、『|完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』と同じように。
人にとっての幸福を決め付ける行為。
それは、祖父に殺しを強要された大和が最も唾棄した行動だ。
——にも関わらず、大和は鏡花水月の力を求めてしまった。
(馬鹿だな俺は……本当に)
鏡花水月に拒絶されるのも当然だ。
仮に鏡花水月に力を貸してもらっていたら、大和はその力に溺れ、数多くの人生を貶めていただろう。
自分の人生すら嘘と欺瞞に満たされていることに気づくこともなく。
「大和さん! あのことは絶対誰にも言ったあかんからね!?」
「わかったわかった。俺の胸の中に、大事にしまっておいてやる」
「しまったらあかん! 今すぐ忘れて!」
「注文の多いやつだな……」
刹那は相変わらず大和の背中で暴れ続けていた。
普段の大和ならば背中から落とすぐらいはしただろうが、今日は少し違った。
甘んじて刹那の幼い拳を受け続ける。
——この感触もまた、刹那がここにいる証明なのだから。
「そういや、お前がいつもしている髪留めはどうした?」
ふと、大和は疑問を口にする。
今日の刹那はいつもとは違い、髪を横で縛っておらず、左右対称の髪型だった。
「あれは、鬼の攻撃をくらった時に無くなってしまって……」
「へぇ……」
「や、やっぱり変ですか?」
不安そうに尋ねる刹那の声を聞いて、大和に悪戯心が湧く。
「いや……意外と似合ってる」
「——ッ!?」
結局、山を降りるまで大和は刹那に叩かれ続けた。