―――かつて見た、あの鳥は。
今はどこの空を飛んでいるだろうか。
目を閉じると、今でも瞼裏に鮮明に映る。
美しく輝く尾羽の煌めきが。
全ての理を見通すかのように澄んだ瞳が。
太古を彷彿させる力強いいななきが。
空に吸い込まれていく炎の軌跡が。
その全てが。
今でも私の中に息衝いている。
あの鳥は。
どこの空を飛んでいるだろうか。
まだ生きている。
意識を取り戻した瞬間、私はその事実を知覚していた。
同時に轟々とした何かの燃える音と、肌を焦がす熱気に包まれていることに気づく。
倒れたまま、目だけで辺りを見回すと、炎の柱が初めに見えた。
黒煙を上げて、暴火に巻き込まれた鉄くずが、熱によって現代美術のようなへしゃげたオブジェクトに変わっていき、やがて炎に耐えられずに崩れ始めた。
墜とされたか。
セレステは口の中で呟いた。
あの鉄くずは私が乗ってきたヘリだった。ボディ側面に羽ばたく鷲のエンブレム、"ShAFT"の刻印が見える。
圧壊したコクピットの辺りを見ると、墜落の際に頭を強く打ったのだろう。計器類に倒れこむ男性が炎に巻かれて倒れていた。
パイロットのマティアス伍長である。ピクリともしない。おそらく即死だろう。
頭上に見えるのは覆い茂る樹林の緑。星空の見える人間大の穴が木々の間に開いている。
私は奇跡的に木々がクッションになって助かったのだろう。上空400メートルから落下していて、良く助かったものだ。
感傷に浸っている暇は無い。マティアスには運がなく、私には運があった。生きている人間が為すべきことをしなければいけない。
私は直ぐに自分の体の総点検を始める。
軽く手を握る。指はどれも無事だ。
足、目、耳、一つずつ点検をしていく。打撲程度で済んでおり、欠損はしておらず、動く。問題ない。
ゆっくり体を起こすと、胸部に鈍い痛み。左の肋骨に負傷があるようだが、不幸中の幸いと言うべきか痛みの量的に恐らくヒビ程度で済んでいるだろう。また、内臓とは遠く、危険な位置では無い。問題ない。
再び周囲を見回し、脅威が存在しないか確認してから立ち上がる。
少し離れた場所に転がっていた自分のリュックサックとXM8アサルトライフルを拾い上げて、それから手早く全身の装備を確認する。
背中に背負っていたAC58ライフルグレネードのみ紛失していた。落下の際に無くなってしまったのだろう。
惜しいが仕方ない、他の装備が無事な事を喜ぼう。
腰のホルダーから無線機を取り出し、通電。
「こちらセレステ・篠田少尉。司令部応答願う、聞こえるか。繰り返す、こちらセレステ・篠田少尉」
(聞こえるぞ。セレステ少尉、そちらの状況を説明してくれ)
ノイズに混じって聞き慣れた、低い中年男性の声。私は簡潔に状況を報告する。
「キサンガニから北東150km地点1000m上空をヘリで飛行中に撃墜された。現座標は1.941119,25.435356。墜落時に胸部を負傷、作戦行動には支障が無いと思われる。それと、ヘリは全壊し、操縦者のマティアス伍長の死亡を確認したわ」
マティアス伍長死亡の旨を伝えるくだりで、無線機の向こう側の男の息を飲む音が一瞬聞こえた気がした。
が、すぐに声が返ってくる。その声には僅かな痛痒の陰りも無い。
(周囲に"魔獣"の反応は?)
「目視では確認できず。熱反応に関してはヘリの影響が酷くて、手持ちの探知機では上手く感知できないわ」
(他の反応は?)
「無し」
ちらりと左手に巻いた強化プラスチック製の腕時計を見る。これは超小型の高性能探知機となっている。
側面にあるスイッチを押すとモードが切り替わり、周囲の熱反応、放射線量、音波、そしてとある特殊な電磁波の波長がそれぞれ検知できる優れものだ。
現在は熱反応を走査するモードが設定されており、何らかの熱源が存在した場合は電子パネルに赤い点が打たれるのだが、すぐ近くに燃え盛るヘリの残骸があるせいで電子パネルの半分が赤で塗りつぶされていた。他のモードに切り替えたが特に変化は無い。
(では可及的速やかにその場を離れ、安全を確保しろ。その後はブリーフィング通りに事を進める。現在地点より北西約30kmに位置するサンティエバ村に向かい、"卵"の確保を行え。不可能な場合は破壊する事。完了次第、指定の場所にて回収を行う)
「了解。現在時刻0015、これより作戦を開始するわ」
(健闘を祈る)
ぶつりと無線機のノイズが途切れ、辺りは再び炎の音だけが響き始める。
炎の勢いは徐々に収まっているようだ、これなら山火事になる恐れも無いだろう。
開けている場所に墜落したことは運が良かった。あるいは、マティアス伍長が最後の力でこの場所に墜落させたのだろうか。
それはどんな思いで行われた事なのだろう。それを聞く相手はここには居ない。既に彼はここから居なくなっている。
彼は運が悪く、そして私は運が良かった。生きている人間はその責務を果たさなければならない。
"卵"の捕獲、無理ならば破壊。
いつもの事だ。いつもやっている事だ。
「―――じゃあね、マティアス」
呟いたその言葉は、大きな炎の中に消えていった。
密林の奥深くに位置するその村は、かつては小さく、一度この国が植民地になった際には北への流通路としてそこそこの賑わいを見せ、この国が独立してからは完全に廃村となってしまった。
サンティエバはそんなどこにでもあるような村であった。
セレステはその村の入り口から500m程離れた草むらの中に静かに潜んでいた。
頭にノクトゴーグルを装着し、物音一つ立てずにじっと村の中を観察している。
人の気配は感じない。当然である、既にこの村は70年近く前に無くなっている。
村の外周にはかつては金網で覆われて居たのだろうが、風雨で殆どが網の形を成しておらず、そこから伸びた村の入口となる鉄の扉だけがぽつんと地面に据え付けられていた。
扉に打ち付けてある酷く錆びた銅板には、かろうじて判別できるほど擦り切れた字で、現地の言葉で「ようこそサンティエバへ」と書かれている。
網の残骸の内側は、奥の方はここからでは確認できないが、この地方では一般的な木造住宅が数軒並んでいるのが見えた。
それら全てをセレステは丁寧に確認していき、やがて敵の姿が見えない事を確認した彼女は、素早い動きで村正面の門へと移動する。
鉄扉の影に滑るように隠れ、ノクトゴーグルを額上にずらしてから腕時計型の探知機を確認した。
モードを切り替えていき、N波観測モードを設定した地点で電子パネル上に変化が起きた。
"卵"だ。
確信を持つセレステの視線の先には、小さな光点が打たれた電子パネルがあった。
位置から察するに、恐らくこれは村の中心地点だろう。
光点を確認した彼女は、再びノクトゴーグルを装着し、鉄扉に背中を預けるように村の内部を覗きこむ。
はっきりと確認はできないが、村の奥側にやや背の高い建物が見える。恐らくはあれだろう。
セレステは中腰に立ち上がると、辺りを警戒しながら静かに村へと足を踏み入れた。
昨晩はスコールがあったのだろう、荒れ果てた草地となった地面は軽くぬかるんでおり、湿った泥土と草の匂いが充満していた。
深夜のジャングルに生きる虫の声の中を、彼女は暗闇に紛れて歩いて行く。
やがてセレステの目の前に、他の建築物よりはやや大きな建物が見えた。
それはカトリックの教会であった。
教会といっても今は見る影も無い。壁は崩れ落ち、植物の蔓が至るところを覆っていて、入口は扉が無かった。それでも落ち掛かった屋根に錆びの浮いた十字架が添えつけられているので、かろうじて教会と分かる。セレステはかつてはジャングルを行き交う人たちの羽休め所として栄えたこの村の一旦を、垣間見た気分であった。
探知機を確認すると、光点は教会の中を指し示している。
この中に、"卵"がある。
彼女は慎重に、朽ち果てた教会の扉をくぐる。
中には乱雑に椅子やら長机やらが散乱していた。かつては人々が安らぎを求めて来たのだろうが、今は完全な廃墟と化していた。
その他の机や椅子の転がる最奥に、一つだけ大きな机があった。
恐らく教壇だろう、埃をかぶった木製の机は、半分木片と化した他の机と異なり不自然に綺麗だった。
セレステはノクトゴーグルの光量を高めると、教壇の上に"それ"を見つけ、ゆっくりと近づいていく。
教壇の上には30cm程の、陶磁器の様に表面がつるりと丸い、置物のような物が見える。
これが"奴ら"の卵である、彼女はこれを取りに来たのだ。
腕の探知機で全モードを確認し、周囲の安全だと分かってから、腰のホルダーから無線機を取り出すセレステ。
通電と同時にリュックを下ろし、肩と頭の間に無線機を挟みながら、慣れた手つきで円筒状の回収ポッドを取り出すと、すぐさまポッドのセットアップに取り掛かる。
無線機はすぐに司令部と繋がった。
「こちらセレステ。目標である"卵"を発見したわ。これより確保に移る」
(こちら司令部、了解した。"母体"は?)
「確認できない。探知機にも反応は無いわ。今のうちに回収するわよ」
(了解。注意を怠るなよ)
通信が切れ、セレステは作業の手を止めて無線機をしまう。
その次の瞬間であった。
入口辺りから、突然の轟音と衝撃。
倒壊しかけたこんな建物など、一瞬で崩れ落ちてしまう。そんな衝撃が辺り一面を覆い尽くした。
「ッッ!」
引きつった声を喉で鳴らしながら、セレステは瞬時に入口側へ体を向ける。
そして彼女は、崩れ落ちる教会の瓦礫の隙間で、"それ"を見た。
人間の意識の外に存在する、常識の外を闊歩する、化け物。
『周囲n電磁波反応増大、周波パターン認識、照合完了。個体コードNo.095【イワーク】と識別』
彼女の胸の小型端末から出た無機質な機械音声。
それはすぐに、崩れ落ちる教会の轟音にかき消された。
『周囲n電磁波反応増大、周波パターン認識、照合完了。個体コードNo.095【イワーク】と識別』
胸元から発せられる無機質な機械音声を、セレステは意識の外で聞いていた。
初めに見えたのは巨大な岩壁であった。
少しばかり視線を引くと、その岩壁は幾重にも連なるようにして垂直に立つ、連続した岩の塊だと言うことが分かる。
そして更に視線を引くと、それは体長9メートル程もある、体表面の総てが石化した、大きくうねらせる大蛇である事が分かった。
有り得ない。
この様な生物は、生物学的にも、遺伝子学的にも、その他どの分野の学問を紐解いた所で到底その存在を認められる物ではなかった。
しかし"奴ら"は今、この場に"居てしまっている"のだ。
あの日、神話で語られているかの如く、総ての災種を積んだ箱舟の様な―――あのたった一つの岩塊のせいで。
総てがおかしくなり始めた、あの一瞬のせいで。"あれ"が降って来てから。
遥か頭上から影が落ちる。見上げるとそこには悠然とこちらを見下ろす大蛇の姿があった。
岩の隙間から覗く青い眼だけは、爛々としてこちらを睨みつけていた。
ノクトゴーグル越しの緑掛かった視界でも分かる、凶暴な化物の眼が。
次の瞬間、大地の鳴動が世界を満たした。
大蛇が彼女に向かって、体を地面に叩きつけたのである。
ほんの僅か手前で横っ飛び、爆発にも似た衝撃風に半分吹き飛ばされながら辛うじて避ける。
すぐさま体勢を整え、大蛇の方を見ると、先ほどまでそこに有った全ての物がすり潰され、弾け飛び、地面に大きな痣を刻み込んでいた。
セレステはゾッとする。
あの大質量を叩きつけられたら、確実に命は無いだろう。形を残すのも難しい所だ。
「こいつは……割とシビアね」
セレステは大蛇を見上げてそう呟く。
彼女と"こいつら"の接触は既に五度を数えていたが、これほどに巨大なものは仲間から耳にはした事はあるものの、未だ自らの目に捉えた事は一度も無い。
今回もとんだ仕事だ、と吐き捨てながら、彼女はもうもうと上がる砂煙の中で、大蛇を見据えた。
大蛇とセレステの目が合う。
無機物の様な瞳が、小さな彼女をのぞき込んでいた。
自然と息が荒ぐ、額と背にじっとりとした脂汗を感じる。
それは生物としての本能である。絶対的な畏怖を覚えた時の、身体の拒否反応だ。
心の芯が冷えついていくのを必死で抑えながら、セレステは痛烈な感情を抱いていた。
やっぱりこいつらは、本当に、化物だ。
大蛇の巨体が、小さく動く。
半瞬遅れてセレステは思い切り横に飛んだ。
その直後、再び地面へと大蛇が体を叩きつける。
二度、三度、続けて衝撃が世界を揺らす。
セレステはその度に瓦礫の中を転げまわり、ギリギリの所で回避を行う。
辺りにもうもうとした土砂煙が立ち込める。視界は覆われ、夜の帳を白いコンクリートの細粒が染め上げる。
だがセレステ・篠田は避ける、避ける。間一髪、すんでの所ではあるが、それでも命を永らえさせている。
カモシカの様な足を操り、鷹の如き瞳をしながら、コンクリートの森の中を縦横無尽に駆け回っていた。
同時に、隙を見つけて左胸のガンポケットからM686Plusを抜き、無差別に部位を斉射する。
二発、三発。.357マグナム弾の咆吼は一瞬の内に無慈悲な轟音にかき消され、その化け物の表皮すらも傷付けられない。
それを見て、苦く舌打ちする。
どこかに隠れなければ。
例え敵がどのようなものにしろ、まずは敵の情報を知ることが先決であった。そのためには一旦奴から隠れる必要がある。
セレステはそっと腰に巻きつけたミニポーチに手を添える。中には多少の食料と、それから情報端末、それと"球"が入っていた。
額に玉のような汗を浮かべながら、セレステは歯を軋ませる。
セレステは走りながら辺りを見回す。
見つけた。
崩れ落ちた教会の壁から見える、村の風景。そこに2メートルほどの、小さな納屋が見えた。
この化け物の暴力の前ではあんなもの、紙同然であろう。だが姿は隠すことが出来る。あれに隠れれば、多少の時間を稼げる。使える。
彼女は、方向を変えてそこへと走りだした。
当然大蛇もそれを追う。
大蛇が再び体をよじり、数瞬の後に巨大な風圧がセレステに降り注いだ。それが教会を崩壊させる決め手となった。
元々老朽化が進んでいたのだろう。がらがらと音を立てて、化物とセレステを包む建物が完全に崩れていく。
もはや建物としての壁一つ足りとも残っていなかった。
大きな衝撃音、音塊、土砂、全てが入り混じり、完全に辺りを覆い尽くす。
セレステは全てを覆う瓦礫の中を踊るように、納屋の影へと滑り込んだ。
既に崩れ去った瓦礫の山に、大蛇の吼びが響き渡った。
続いてうろうろと地面を這いずる巨体の音。
見失った。確定的だった。化物は自分を見失ったのだ。
荒ぐ息を抑え、納屋の影から化物を覗きながら、急いで腰のポーチから端末を取り出し待機状態を解除する。
すぐに画面に簡素な、文字だけのメニューが映り込む。彼女はそれを操作していく。
項目を選び、識別ナンバーを選び、そして詳細画面を開いた。
一秒ほどして、画面が大量の文字列で埋め尽くされる。
画面の上部には大きく、こう書かれていた。
イワーク。岩蛇型魔獣。
ShAFTのデータバンクにアクセスする為の、特殊な端末である。
様々な事象を始めとして、今目の前に居るような、巨大な"本来居る筈の無い"生き物の情報が多数記録されている。
彼女の属する組織の人間ならば、必ず携帯している物であった。
セレステはそれを操作して、猛スピードで情報に目を通していく。
――極めて獰猛であり、その巨大な体は成獣となると8m以上に達し――
――その重量と外皮の頑強さは正に岩そのもので、獲物となる動物の――
次々と情報を流し読みしていく。
高速にスクロールしていく画面、そしてとある項目で彼女は目を止めた。
(……これは)
―――また、ユニークな習性としてはその捕食方法が第一に挙げられる。
イワークは普段は土の中に生息しており、地中を高速で掘り進みながら餌となる動物が近くに存在しないかどうかを探しまわる。
そして地上に餌を発見した場合、一気に地上へと這い上がり、捕食対象の立つ地面から飛び出し、その巨大な口で餌を丸呑みにしてしまうのである。その速度は最大80km/hにも及ぶという。
地中の餌を探すため、イワークは音を頼りにしているという。足音で獲物の位置を探し当てるのである。それはまさしく強大な狩人のようであり――
彼女はそこまで読むとすぐさま端末を待機状態にし、音を立てぬように手早くポーチへと仕舞いこむ。
装備を確認する。
左右胸のガン・ポケットにM686Plusが一挺づつと.357マグナム弾22発。肩に下げているXM8アサルトライフル一挺と6.8×43mm SPC弾56発。それと、腰元に大振りのコンバットナイフ。これだけだ。
ナイフなど言うに及ばず、奴の外皮にはこんな小口径では相手にならないだろう。6.8×43mm弾は人間サイズの相手には脅威だが、こいつにはかすり傷を付ける程度しか効かないだろう。
せめてヘリの墜落時にどこかに無くしてしまったAC58ライフルグレネードがあれば多少は話が異なっていたのだろうが、今言っても詮なき事である。
絶望的だ、この装備では奴には勝てない。
ただ、背負ってきたリュックには卵の鹵獲機器の他には、M15対戦車地雷が1つだけ入っていた。
大蛇の初撃で吹き飛ばされてしまったが、あの衝撃でよく分からなかったが、あの時火薬が炸裂する独特の爆発音はしなかったと思う。
恐らくまだどこかに転がっている。それを見つければ、僅かではあるが勝機はある。
しかし、果たして奴に見つからずにあの瓦礫の中で地雷を見つけれられるだろうか?
何か奴の「注意を引く物」が無くては、とてもでは無いがあそこで生きてはいられないだろう。
つまり結局は、また『こいつ』に頼るしか無いわけだ。
と、彼女は皮肉げに口端を持ち上げる。
そうして腰のポシェットから一つの球体を取り出し、じっと見つめる。
それは球体ではあったが、真球とはとても言えない、表面に複雑な機構が幾重にも重なった、ごつごつとした機械仕掛の球体であった。
高密度炭素プラスチックと精密な電子回路の塊であるその球体を、彼女は左手の親指で小さく撫でる。
「……頼んだわよ、μⅡ(ミュウツー)」
巨大な岩蛇は怒っていた。
あの小さな生き物は今までのどんな獲物よりもすばしっこくて、そして頭がいい。
今まで自分が望んだものは全て手に入った。
腹が減れば獲物を漁り、眠くなればその地中全てが自分の家として働いた。
住処も、食料も、環境の全てが、自らの思い通りになっていた。
しかし、あの小さなすばしっこい生き物は、違う。
あろうことか自分の卵を狙い、自分と対峙し、そして今生き延びて姿を隠している。
巨大な岩蛇は激しく憤る。生涯で、思い通りにならない事は、これが初めてであった。
ちうり。
声がした。
村に広がる闇の中からである。
鼠の様な、聞いたことの無い声。
ちうり。ちうり。
今度は声が続けて、二度。
明らかに、自分に居場所を知らせようとしている。
―――馬鹿にしているのか?
岩蛇の思考が怒りで真っ赤に染まる。
数瞬後、岩蛇はその巨体を大きく唸らせる。
そして、声のする場所へ、全長8.8メートルもの巨大な体を、思い切り踊らせた。
一迅の槍の如き格好で、弾丸の様な速度で、その巨大をまっすぐに、声の鳴る方へ突き出した。
轟々と風を切る音、そして。
瞬間、巨体が弾けた。
壁。
見えない壁にぶつかったのだ。
制限の無い全力を使った運動エネルギーが、直接岩蛇自身に叩きつけられる。
岩蛇は大きくもんどり打って、そのまま瓦礫へと倒れこむ。
何だ。
何が起こった。
岩蛇は酷く混乱しながら、先ほど自分がぶつかった"壁"を見やる。
それは紅色のアクリル板の様な、透明な壁であった。
ただし表面が常に、水の様に小さく波打っており、それが只の壁ではない事が見て取れた。
その教会と壁を隔てた向こう側に、奇妙な"生き物"が2足歩行で立っていた。
一見すると人の形をしている、しかし"それ"は人ではない。
"それ"には、人には無い角があり、尾があった。
背の丈は2メートル程で、牛の角が根本から折れた様な物が二本、頭から飛び出ていた。
全身は病的に白く、ひょろりとした尾だけが藍の色に染まっている。
肋骨が鎧の様に浮き出ており、寸胴な手足の先には鋭い刃物のような爪がある。
そして眼。
自分以外は何も存在しないかのような、自分さえも否定している、虚無の眼。
暗闇の中、その色をした二つの眼だけが、岩蛇をじいっと見つめているのである。
その眼で射抜かれた瞬間、岩蛇の全身が生まれて初めての畏怖の感情で満たされた。
そして、その直後に困惑した。
何故、あの生き物は自分を襲ってこないのだろう。
岩蛇の思考は極当然の帰結を辿る。
暫しのにらみ合い。
数巡の思考の後、やがて岩蛇は一つの考えに行き着く。
奴は、弱い。
岩蛇の困惑の表情が喜びに移り変わっていく。
壁?そんなもの、こうすれば良い。
そうして岩蛇は、意気揚々と地中へ潜り込んだのであった。
いつものように、岩蛇は地中から音を頼りに獲物を探す。
程なくして、見つける。
あれだ。
あれに向かって、飛び込めば良い。
岩蛇はその巨体を踊らせるように、地面へ猛スピードで突っ込んだ。
―――悲しいかな、岩蛇がこの思考に至るまでの経路には三つの誤りがあった。
一つは、己自身の力量を見誤ったこと。
一つは、普段の習性通り、地中から敵を襲おうと思ったこと。
そして一つは、どこにも見当たらない、もう一匹の"小さな生き物"の事を忘れていたことである。
途中までは当たり前の思考展開だったが、そこから先の思考に至る事は出来なかった。
極小域の大将として君臨していた岩蛇は、余りにも経験が足りなかったのである。
その代償として。
夜の闇を、コンポジションB爆薬10Kgが生み出す衝撃と轟音が切り裂いた。
岩蛇は己の身に何が何が起こったか、結局、最期の最期まで理解できなかった。
「ほんと、ギリギリって所だったわ」
セレステは息を荒げながら、もうもうと爆薬の煙が立ち込める地面を見つめる。
地面には先程まで岩蛇だった物の肉片と、残りの巨体が横たわって痙攣していた。
いかに巨大で岩石で覆われた蛇といえど、生物は生物。口中であの量の爆薬が炸裂しては、防ぎ様も無いだろう。
セレステが一人ごちた通り、彼女はすんでの所で間に合った。
複数の幸運に恵まれなければ、恐らくは目の前に転がっていたのはこの化け物ではなく彼女だったろう。
いや、恐らくは蛇の胃の中か、瓦礫の下敷きで、こんな風に形は残らないか。と彼女は苦笑する。
セレステは岩蛇の習性を利用した。
前述の通り岩蛇の習性の一つとして、音で獲物の居場所を察知し、地中から飛び出して獲物を捕食する、というものがある。
それを逆手に取った。と言ってもやった事は単純だ。
ただ岩蛇の注意を引き、その間に彼女は地雷を探し、地中に潜った所で音源の元に地雷を置く、これだけである。
幸運の一つとして、地雷が瓦礫の下敷きではなく、教会の敷地の外に転がっていたのが大きかった。
あの僅かな時間の間に肝心の地雷が見つかったのは、本当に運が良かったとしか言いようがない。
それともう一つの幸運が、彼女のポシェットにはあの"でくのぼう"の"化物"が入っていたということだった。
「5分間こっきり、能力制限付き、しかも使い捨てってね。無々尽くしって奴だわ。
けどまぁ、今回"も"カカシくらいには使えたわね」
彼女はポシェットから高密度プラスチック製の珠を取り出し、見つめながら言う。
爆薬と共に四散し、既に白色の化物は跡形も残っていない。
彼らは極小規模のサイキック能力のみを使用出来る、試作開発された人造魔獣だ。名をミュウツーという。
彼女が右手に握りしめた"珠"の中に存在し、表面の安全トリガーをホールドしながら解除スイッチを押すと、この世に姿を表す。
その生命は僅か5分。今も改良中ではあるが、試作段階の現状ではこれが限界だという話だ。
開発の一貫として彼女らShAFTの隊員は皆携帯を義務付けられていた。
これが何の研究に繋がるのかは分からないが、それなりに使い道はあるので彼女は特に気にしていない。
ただ欲を言えば、もう少し『使い道のある生き物』にして欲しい。現状ではそれこそカカシがせいぜいである。
まあ、文句は戻ってからたっぷりと言えば良い。今はとにかく当初の目的を達することだ。
と、彼女はおもむろに"卵"のある瓦礫の方向へと歩き出す。
鹵獲装置が破壊されたため回収は不可能だが、破壊はしておく必要がある。
あの瓦礫の中では、既に形も残っていない気がするが、念のため確認だけしておく。
暗がりの中、埃にまみれた瓦礫の中をぐるりと二・三週して、やがて彼女は見つけるのを諦めた。
N波の反応が無いことを探知機で確認し、その後無線機を取り出し、通電。
「こちらセレステ少尉、先ほど卵の主と思われる魔獣と遭遇、交戦した」
(了解。個体コードは?)
「確か95番、イワークとか言ってた。あの蛇野郎、地雷で頭ふっ飛ばしてやったわ」
(そうか、残念だったな。新種ならボーナスが入ったところだったのに)
「ほんと。そしたら貴方にも一杯奢ってあげたのにね」
(おいおい、そいつは本当に残念だな。そんなチャンス滅多に無いってのに。まあ良い、それで卵は?)
「見つからず。瓦礫に埋まってしまったようだわ」
(N波反応、その他はどうだ?)
「無し。完全に消滅」
(分かった。では指定の場所に向かってくれ、博士(ドク)が首を長くして待ってるぜ)
「了解」
ぷつりと、無線機から音が途切れる。
無線機をしまいこむと、彼女は小さくため息をついた。
ふと空を見上げると、爛々と月が輝いている。
セレステはおもむろにノクトゴーグルを外し、月を見つめる。
「……ほら、あんたの分も働いたわ。あの世に行ったら一杯奢りなさいよ、マティアス」
軽く、口の中で呟くように声を出す。
マティアスという男は半年ばかり前に会ったばかりだが、馬が合い、良く一緒に酒を飲んだ間柄だった。
ブラックな冗談が好きで、こちらが冷め切っているのに関わらず、シニカルな笑みで下手な笑い話をしていたのを覚えている。
これで何人目だろう。
私は、あと何回味わえば良いのだろう。この乾いた感覚を。
親しい人が死ぬ、この感覚を。
生ぬるい風が吹き、木々が揺れる。
はっと我に返り、小さく身震いをしてから、セレステは再びノクトゴーグルを装着する。
帰ろう。ここにはもう用は無い。
感傷は置いていこう。
あの、"彼"を失った時、私はそうすると決めた筈だ。
踵を返し、セレステは歩き出す。
その時。
なんとも言えない感触が、背中に走る。
まるで数百の虫が、一斉に、じいっとこちらを見つめているような、気色の悪い感触。
思わず彼女はそちらを見やる、だが特に何も無い。
あるのは一面のジャングルと、どっぷりと墨を浸した様な闇色の空気だけ。
念のためもう一度探知機の反応を見る。
熱、放射線、音、n波、全て異常なし。
気のせいか。と、彼女は指定箇所の方角に向かって、おもむろに歩き出した。
彼女を遠くで見つめる眼が二つ、闇に潜んでいた。
ジャングルの闇に溶けこむような黒い肌、顔中髭むくじゃらの、オールバックの男である。
豹の様な鋭い眼を、男はセレステに向けていた。
脇に抱えているのは、一つの卵。
「―――回収は完了だ。後は女がどこかに行ったらそちらに向かう」
野太い嗄れ声を口中で留めるように、小声で無線機に向かって話す男。
やがて視線の先の彼女が消えると、男も闇の中へ消えていった。