るろうに使い魔‐ハルケギニア剣客浪漫譚‐   作:お団子

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第五十五幕『黒笠事件、終幕』

 

「…………さま」

 暗闇の中、誰かが自分を呼ぶ声で、ジャックは目を覚ます。

「……兄……さま!」

 薄らと目を開けてみれば、そこにはジャネットとドゥドゥーが、心配した様子で呼びかけていた。

「ジャック兄さま! 大丈夫ですの?」

「どうしたんだい! ジャック兄さん!?」

 弟妹の声を聞き、ジャックもまた身体を起こす。自分は今まで、湖岸に倒れていたようだ。

「ああ、大丈夫だ…」

 起き上がりながら、同時にゆっくりと記憶を呼び起こす。そうだ、確か船に戻ろうとした矢先、上空から巨大なマストが落ちてきて……。

 命からがらそのアクシデントから脱出は出来たものの、そこで精神力を使い果たしてしまって……、必死になって岸に上がれたはいいが、どうやらそこで気絶してしまったらしい。

 そして重大な事も思い出す。そうだ、船は――!

「どうなったのだ!? オレはどのくらい落ちていた!」

 空を仰いでも、船らしきものは見当たらない。それで益々不安になってくる。

 否、もう結果は分っているはずなのに、それでも認めたくはない。

 

 まさか、ここまできて……、そんな事はないだろうと。

 

 しかし、ジャネットは言いにくそうな表情をしながらも、それでもきっぱりとジャックに告げる。

「わたし達が来た時には、もう……終わっていましたわ。何もかもが」

 そう言って、森の向こう側で、まだ微かに立ち上っている煙の方を指さした。

 ジャックはそれを見て唖然とした。何が起こったのかが、容易に想像ついてしまったからだ。

 つまり……、自分は失敗したのだ。頼まれた二つの依頼、そのどちらにも。

「くそ、くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 ジャックは只、遣る瀬無い叫びを上げることしかできなかった。地面を何度も叩きつけ、己の不甲斐なさを呪った。

「奴さえ……、あの男さえまともに動いてくれていたなら、こんな結果には……ならなかったというのにっ!」

 いや、そもそもを言えば最初に、抜刀斎を殺したことを確認していれば、こんな事にはならなかったはずである。

 言ってしまえば、これは自身の慢心が招いた結果でもあった。

 だが、幾ら後悔したところで何かが変わるわけでもない。終わってしまった結果は、どう足掻いても戻すことは出来ない。

 それでも余程悔しいのだろうか、ジャックは暫く蹲ったままで恨みの言葉を吐き出す。

「このままでは、決して終わらせんぞ……」

 そして最後に顔を上げ、ジャネット達にも聞こえるように、ジャックは口を開いた。

 暗い決意を湛える次男にこたえるように、二人も頷くのだった。

 

 

 

 

 

第五十五幕『黒笠事件、終幕』

 

 

 

 

 

 黒笠事件は無事終結した。

 宙船から戦闘後、剣心達一行は無事にトリステインの宮廷へと戻った。

「女王陛下、探しましたぞ!」

「本当に、ご無事で何よりでございます!」

 そう言って、涙を流して喜ぶのは残った魔法衛士隊……隊長ド・ゼッサール率いるマンティコア隊だった。

 人の良い彼らは、今まで待の混乱を必死に抑えていた裏で、敬愛するアンリエッタをずっと探していてくれていたのだった。

「こちらこそ、あなた達には本当に迷惑をかけっぱなしですわね」

 そんな彼らに対し、アンリエッタは本当に申し訳なさそうに頭を下げる。

 それからすぐさま、誘拐されたというトリステイン女王陛下が戻ってきたことを王宮に報告して回り、実際にその目で見て無事かを確認し合って、ようやく事態も沈静化を始めていった。

 街で起こった辻斬り騒動も収束し始め、トリスタニアにおける長い長い一日が終わった。

 

 

 そのトリスタニアの王宮内にて。

「アニエス、傷はもう大丈夫ですか?」

「はっ、問題ありません」

 再び可憐な、純白のドレスに身を纏ったアンリエッタは、その後ろにつくアニエスに声をかける。

 一方のアニエスは、いつもと変わらず毅然とした立ち振る舞いをしているが、よくよく見ればその動きはまだぎこちない。まだ傷が十分に癒えてはいないようであった。

 それでも、治療を施してくれたアンリエッタに対し、改めてお礼を告げる。

「陛下の治癒魔法のおかげです。元が平民の身の私にとっては、身に余る光栄でございます」

「あなたはもう平民ではありません。立派な貴族で、わたくしにとっては英雄です」

 アンリエッタは思い返す。絶体絶命と思っていた。そんな中でも助けに来た彼女は、自分にとっては命の恩人でもあるのだ。

「本当にありがとうアニエス。この場でお礼を申し上げます」

「や、やめてください。私如きに、陛下が頭を下げるなど……」

 深々と頭を下げるアンリエッタに、アニエスは大いに慌てた。只でさえ宮廷はまだ混乱状態なのに、平民出身の自分に頭を下げるなど、誰かに見られたらどうなるか……。

「私は己の使命を全うしたまでです。陛下が頭を下げるようなことは何一つ……」

「わたくしは貴族とか女王とか平民とか……、そう言った意味でこの頭を下げているわけではありませんわ」

 頑なに頭を上げないアンリエッタは、それでも屹然としてアニエスに言う。

「本当にもうダメだと思った……、死も覚悟しましたわ。そんな状況の中助けに来てくれたあなた達に、一人の人間としてお礼を言いたいの。……本当にありがとう」

 そう言われると、アニエスも何も言い返せなくなった。気恥ずかしそうな表情で、己の主人を見る。

「いえ……、今後も微力ながらも、陛下の助けになれればと思います」

「ええ、頼りにしていますわ」

 そこでやっと、アンリエッタは頭を上げ、屈託のない笑顔を向けた。

 そして、長い廊下をわたり、その客室……、アンリエッタの言った『他の命の恩人』達が待つ部屋のドアを開けた。

 

「あっ、お姫さま! もう大丈夫なのね?」

 真っ先に飛び込んできたのは、今は人間の姿に化けているシルフィード。正体もバレて気が楽になったのか、活発ある声でアンリエッタ達を迎える。

「ええ。えっと……」

「あ、シルフィードっていうのね。よろしくなのね!」

「ええ。シルフィードさん。あなたもわたくしの命の恩人ですわ」

 にこやかな表情で礼を言うアンリエッタを見て、シルフィードも嬉しそうな表情をする。こんな風に褒められること自体、そんなにないからこその反応だった。

「そんな、褒められても何も出ないのね! る~るる~る~」

 くねくねと踊るシルフィードをよそに、次いでアンリエッタは壁際のソファに座って本を読む少女。タバサに顔を向ける。

 彼女もまた、『心の一方』を喰らって一時は呼吸困難にまで陥ったが、今は特に問題なさそうであった。

 それでもアンリエッタは、大事無いか今一度確かめる。

「タバサさん。本当に、お身体の方は大丈夫ですの?」

「……大丈夫」

 一言、タバサは答える。目線を上げもしないぶっきらぼうな態度だったが、アンリエッタも彼女の性格に慣れてきたようだった。

「それなら宜しいのですけど、あまり無茶はなさらないで下さいね。何かあったらわたくしも力になりますわ」

 しかしタバサは、そんなアンリエッタの言葉にも特に耳を貸そうとはせず、只本をめくっている。まるで力になることなど何もないと言いたげだ

 流石にアニエスが何か言おうと詰め寄ったが、それをアンリエッタは手で制す。

「あなたには、数え切れないほどの貸しを頂きました。それは必ず、返させてくださいね」

 ただ、それだけ告げる。するとタバサの方も、アンリエッタの方を向いて、小さく頷いた。

 反応が得られたことで気をよくしたアンリエッタは、ここで目線を……、親友のルイズとその使い魔こと、剣心の方に向けた。

 タバサとは反対のソファに腰かけていたルイズと、壁際で思案に暮れる剣心の二人は、いつもの性格なら考えられないほどどんよりしていた。

 特にルイズは、剣心の顔を見ようとせず、身体ごと別方向に向けている。剣心も剣心で、何も言わずにただじっと、固まっているままだ。

 そうやらこの二人は、アンリエッタが来たことにすら気づいてはいないらしい。

「……お前達、女王陛下の御前だぞ。なんだその態度は!」

 アニエスの言葉で、ようやくルイズは顔を上げ、そして慌てて姿勢を正した。

「も、申し訳ございません! 陛下の御前でわたしっ……!」

「いいのよルイズ。あなたも大変だったでしょう」

 しどろもどろなルイズに、アンリエッタはそう優しく言葉をかける。

「でもどうしたの? ケンシン殿と何かあったのですか?」

「いえ、そういうわけではないのですが……」

 言いよどむような声でルイズは言うと、また少し目線を落としてしまう。

 アンリエッタは不思議に思った。帰る時はあんなにも剣心に縋って眠っていたというのに……。

(でもそれも、無理からぬことなのでしょうね)

 人斬り抜刀斎としての素性。聞いてはいたけど、まさかあそこまで苛烈だとは思ってなかった。

 その記憶を呼び覚ます原因が、自分の契約(ルーン)にあると知ればまあ、心中穏やかではないのは容易に想像できる。

 ここでアンリエッタは、剣心の方を見た。そして思い出す。船上での、彼の人斬りとしての眼を。

 彼の素性は知っていた筈なのに、それでもあの恐ろしさは今でも脳裏に焼ついていた。

 それでも、アンリエッタはルイズと、そして剣心に向かって言った。

「よくよく考えたら、わたくしはあなた達にはお礼を言ってばかり。本当に、それほどまでにわたくしはあなた達に助けられているのですね」

 そう言い置いて、アンリエッタは一度目を瞑る。まるで次の一言を、出来れば言い出したくないような感じだった。

「それなのに……、わたくしは何のお礼もできて無くて、その上……」

 アンリエッタは無意識に身体をわななかせた。本当に自分勝手だ。最早不本意とはいえ、大切な友人を、命の恩人を……、そして特別な存在へとなりつつある彼の前で……。

 それでも、告げなきゃならなかった。アンリエッタは口を開く。

 

 

「今回お呼びしたのには、お礼の他にもワケがあります。……とうとう決まりましたの。アルビオン侵攻計画が」

 

 

 その言葉を聞いて、ルイズは体を一瞬硬直させた。

 分かっていた。情報を集める仕事をしていたのだから、確定していたことは分かっていたのだ。

 それでも改めて言葉で聞くと、色々と複雑な感情が綯交ぜになった気分になる。

 そして、アンリエッタの方も、苦しそうな顔で続ける。

「……最初は、怒りで我を忘れて、何が何でも攻め入ってやるって、思っていました。でも……、この事件で、本当に大切なものはなんだったのかを思い出させてくれました」

 けど……、とアンリエッタは呟く。

 彼女の今の心情とは裏腹に、宮廷では逆にアルビオン侵攻の声が激増していたのだった。

 最初の頃は、空中に浮かぶ要塞と言われたアルビオンを攻めるのに、否定的な声が大きかった。

 しかし今回の誘拐事件、結果的に二度目となった女王誘拐事件が、例によってアルビオン……、改めレコン・キスタの仕業と判明してからは、話が変わった。

 考えてみれば至極当然とも言えた。タルブ侵攻から始まる数々の非道な行い、その最後の締めくくりがこの誘拐事件と貴族の惨殺事件なのだ。今まで溜めに溜めた鬱憤や怒りが宮廷では爆発していた。今まで反対していた貴族達でさえ、身の危険やメンツをコケにされ続けた恨みから、賛成派が増え始めていた。

「本当に皮肉ですわね。やっと冷静になって周りを見渡した頃には……、もう止められないなんて」

 最初はただ、憎さだけで無茶な計画を進めていたというのに。

 勿論、まだ今のアルビオン軍が憎いという思いも、今回の首謀者である志々雄真実が恨めしいという感情も、捨てきれてはいない。

 しかし、自分も絶体絶命になって、また大切な友人を亡くしそうになって、やっと頭が冷えた頃には、もう引き返せなくなっていたのだ。

「ルイズ、わたしは……」

 視線を再びルイズに移す。一方のルイズは、か弱い声でアンリエッタに言った。

「姫さま……、ではなくて女王陛下。わたし、思うんです。わたしは……今まで『虚無の担い手』としての自覚が、無かったんじゃないかって」

「……それはどういうことですの?」

 首をかしげるアンリエッタに対し、ルイズは顔を上げた。

「虚無の力は、今でこそ伝説の力とは言われていますけど……、わたし自身、まだそれを全く実感できなくて……」

「そんなことはありませんわ。タルブで起こしたあの奇跡は、わたくし達を救ってくれたあの光は、あなたが作り出したものなのでしょう?」

 アンリエッタは思い出す。誰もが敗北を考えていた、強大な敵空軍を一斉に蹴散らした、強い魔法の力を。ウェールズ達死人の行軍を止めてくれた、あの光を。

「あなたの力がなければ、今頃この国はアルビオンと改められていたことでしょう。それくらいに、あなたはあなたの使い魔さんと、同じくらいの武功を立ててくれているのです」

「けど、その力を上手く制御出来てないわたしは……、まだまだ『ゼロ』のままだと思うのです」

 とことん自虐的な様子で、ルイズは言った。普段プライドを高く持つ彼女がここまで言うのは、幼なじみであるアンリエッタの記憶の中でもそうそうない。

(やはり、ケンシン殿につけたというルーンに関係が?)

 頭の片隅でそう思慮する中、「けど…!」と今度は力強く、ルイズは口を開く。

「もっと強くなりたい。もう誰にも迷惑をかけないくらい……、もう誰も失わないように」

「……ルイズ」

「だからこそ、この戦争に行って、本当の英雄になれる力を身に着けたいのです」

 涙を浮かべてそう告げるルイズの瞳には、危険ながらも強い光が宿っている。恐らくルーンの事も、今まで力になりきれなかった悔しさも、含めての発言なのだろう。

 どこまでも真っ直ぐな目。それにアンリエッタは只々眩しさを覚える。

「ああルイズ、どうかわたくしの事を許してください。前にあなたを、この国の切り札としては扱わないと約束したばかりだというのに……、その約束を破ってしまって。……そして今になって、わたくしは、あなたを失うのが怖いの」

 昔の頃のように、愛おしそうにルイズを抱きしめた。ルイズはそれを受け入れながらも、なおも続ける。

「わたしも、陛下を失うのが怖いのです。だからわたしはこの戦いに……、陛下の御身の安全の為に、この国の未来のために戦いたいのです」

「ああ、ルイズ……」

 感極まって、アンリエッタは泣き出してしまった。ルイズもまた、ポロポロと涙をこぼしていく。

 しばし泣き合う二人を見て……、タバサがポツリと、呟くように言った。

「泣いても始まらない」

「――え?」

 意外な人物からの声で、二人は思わずタバサの方を見た。

「泣いている暇があるのなら、今の状況を改善する策を模索するか、大人しく覚悟を決めた方が得策」

 本を閉じ、壁際に立てかけている節くれだった杖を取って、そして続ける。

「……あの人なら、多分そう言う」

 非情なようだが、正論でもあった。そんな主人の様子を見て、シルフィードもまたこう思った。

(……そうだよね、お姉さまも、このお姫さま達と同じくらいの悲惨な過去をもっているものね)

 勿論それを口に出したりはしないが、内心シルフィードはタバサに頷いた。

 そしてそれに呼応するように、剣心が立ち上がる。

「そうでござるな。これ以上思いあぐねていても、仕方がない」

「……ケンシン」

 ルイズは恐る恐るといった表情で剣心を見上げた。今剣心が自分の事をどう思っているのか、怖くて聞けないのだった。さっきまで剣心と目を合わせなかったのも、それが原因だ。

 しかし、剣心は済まなさそうな声でアンリエッタに言った。

「先だっての戦は本当に申し訳なかった。見苦しい姿を見せてしまって……」

「そっそんな! あなたのおかげでわたくし達は一命を取り留めたのです! 謝るなんてしないで下さい!」

 数え切れぬほど剣心に助けられたせいだろう。もはや女王という立場も忘れアンリエッタは大いに慌てた。

 対するルイズは、おずおずといった様子で剣心の名前を呼ぶ。

「ねえ、ケンシン……、怒ってない?」

「おろ? 何故拙者がルイズ殿に怒るでござるか?」

 いつもの優しい笑顔で、おどけた表情で剣心は聞き返した。

「だって、その、ほら……」

 ルイズはしどろもどろな言葉しか出せないでいた。核心を聞くのが、怖かったから――。

 そう思っていた矢先、剣心が先に左手を見せて言った。

「このルーンの事でござるか?」

「……っ!」

 今度は言葉も出なくなった。ただ、ゆっくり小さく、うんと頷くだけ。

 死刑宣告を受けるかのような面持ちで、ルイズは目を瞑った。

「確かに、このルーンが拙者ではなく人斬りの方を望んではいる事は知っている。全然力を使わなかったでござるからな。……けど」

 そこまで聞いた時、ルイズはゆっくりと目を開ける。

 そこには、いつもの様に優しく微笑む剣心の姿があった。

「それは元はと言えば拙者の過去が招いた事。ルイズ殿はルイズ殿で、こうしなければ進級もままならなかったのでござろう? 要は拙者の心持ちの問題。だからルイズ殿が気に病む必要は全くないでござるよ」

「でっ、でも……」

 言いよどむルイズだが、それ以上は大丈夫とばかりに剣心が微笑んで制した。

 形だけの笑顔じゃない。本当に怒っていないようで、ルイズは少しだけ胸をなでおろす。

「ううん、なら、いいの……」

 そんな二人を見て今度はアンリエッタが切り出す。

「あの、ケンシン殿……」

「話は聞いていたでござる。もう、止められないのでござろう」

 剣心の言葉に、アンリエッタはコクリと頷いた。若干冷えた自分の心情とは裏腹に、民衆も軍も、皆戦を決め込んでしまっている。

「では、もう仕方あるまい。この件だけは拙者にも思うとこはある故、微力ながら協力させてもらうでござるよ」

 いつも通りの笑顔で、剣心は言った。その笑みには若干の疲れを覗かせてはいたものの、それでもその笑顔に、ルイズ達は勇気づけられた。

「……ケンシン」

「本当に、ありがとうございます」

 

 

 少し時間を置いて、アンリエッタはまず現状の戦争準備の状況と、攻め込む期日等をルイズ達に話した。

 学園の生徒たちも徴兵すると聞いた時は、剣心も苦い顔をしていたが、そうでもしなければとても兵力を確保できないという。

 一通り話を終えた所で、誰かが扉をノックする音が聞こえてきた。

「誰だ?」

「銃士隊の者です。例の物をお持ちいたしました」

 それを聞いたアニエスは扉を開けた。銃士の女性は一例をすると、手に持っていた細長い袋の中身を取り出す。

 それは、再び元通りとなった剣心の愛刀、逆刃刀だった。

「おろ? これは――」

「どうでしょうか? できる限り再現したと思うのですが」

 剣心は実際に手に取って触れてみる。刃衛との戦いで柄部分が確かに壊れていた部分は、確かにちゃんと修繕されていた。

「幸い取っ手の部分がそこまで破損してなかったおかげで、問題はないとは思いますが、手に取ってみていかがでしょうか」

「問題ないと思うでござるよ。直してもらってありがとうでござる」

「そう、良かった」

 アンリエッタはにこやかな笑顔で剣心を見た。

「『固定化』の魔法も、専門のメイジに頼んでちゃんとかけております。ちょっとやそっとの『錬金』なら容易く弾くことでしょう。わたくしが保証致しますわ」

「何から何まで、かたじけない」

「いえ、これでもまだあなたには百分の一のお礼もできていませんわ」

 剣心は一度鞘から刀身を抜き出した。一切の刃毀れもない美しい刀身。特に問題なさそうだと判断すると、流暢な動きで再び鞘に納めた。

 と、ここで先のアンリエッタの言葉を思い出したのか、剣心が振り向く。

「――なれば、少し頼みたいことがあるのでござるが……」

 

 

「ここが、では」

「そう、ここがその『魅惑の妖精』亭でござる」

 剣心達は今、『魅惑の妖精』亭の前にいた。

 チクトンネ街も、先程までは刃衛の襲撃もあって酷い混乱状態に陥っていたのだが、流石に事態も収束して数時間も経つと、いつも通りの明るい喧騒を取り戻していた。

「彼等には、非常にお世話になった。それゆえ、ちゃんと店の修繕もしてあげて欲しいのでござるよ」

 そう言って剣心は目を伏せる。数時間前、ここで起こしてしまった悲劇が脳裏をよぎった。

(これで罪滅ぼしになるとは思ってはいない。でも、これで少しでも立ち直ってくれればよいでござるが――)

「わたしがいない間に、そんな事が起こってたんだ……」

 隣のルイズもまた、バツが悪そうな表情で妖精亭を見つめる。

 明かりがついて無いだけなのに、どうしても潰れてしまったかのような暗い印象を受けてしまう。

「わかりましたわ。あなた達がお世話になったのなら、それはわたくしがお世話になったのと同じですものね」

 剣心から事情を聴いたアンリエッタは力強く頷いた。護衛でついてきたアニエスが、先に前へ出て扉を叩く。

「中の者、いないのか?」

 しかし返事はない。

 今度は剣心が、扉をゆっくりと開ける。

「ジェシカ殿、いるでござるか?」

 辺りを見回しても、そこは閑散としていた。若干警戒しながらも剣心達は店内へと入っていく。

 次の瞬間――。急に部屋の明かりが灯った。

 そこには、少し驚いたような表情のジェシカがいた。

「っ! なんだケンシンかぁ……、びっくりさせないでよ」

「ジェシカ殿、一体どうしたでござるか?」

「何って、開店準備に決まってるじゃない」

 当たり前じゃない。といった顔でジェシカは答えた。

 見れば、他の女の子達もいつも通りの様子で、準備を進めているところだった。

 流石の剣心も驚く。

「いや、大丈夫なのでござるか? だってあんな事があったのに……」

「まあね、流石に一日休もうかとも思ったんだけどさ、皆や父さんがこんな時だからこそ頑張らなくちゃって言ってくれてさ」

「スカロン殿は、ご無事なのでござるか?」

 剣心は思い出す。スカロンは確か、刃衛との戦いに巻き込まれて……。

「ああ、父さんはね」

 まあついてきて。そう言ってジェシカは二階へと向かう。

 後を追った剣心達は、そこで別室の中へと案内された。

 そこには、ベッドで雑誌を見ながら横になっていたスカロンが、剣心達を見て嬉しそうな表情を浮かべた。

「あら! ケンシンちゃんにルイズちゃん! 戻ってきてくれたのね!」

「スカロン殿! 怪我の具合は……」

「ええ、私は大丈夫よ。色々迷惑かけちゃったみたいね」

 いつも通りのスマイルをして、スカロン。しかしその上半身は、包帯が巻かれている。

「いや、拙者の方こそ、不甲斐ないばかりにそんな傷を負わせてしまって……」

「なあに、こうして生きているだけでめっけものよ。胸筋が厚かったおかげで、傷はそんなに深くはなかったらしいわ」

 それに救護も速かったしね。と付け加えた。

 剣心はアニエスの方を振り返る。彼女はフッと笑って頷いた。

「それより、アイツは一体何だったのかしら? ケンシンちゃんは知っているの?」

「そうそう。ここまで来てもう隠し事なんてしないわよね?」

 そう言って、ジェシカがグイッと剣心達に詰め寄った。

 剣心が口を開こうとした時、先に前へ身を乗り出した者がいた。

「それについては、わたくしがご説明いたしますわ」

「へ? あの、あなたは一体――」

 改めて、ジェシカはフードを深くかぶった人物を見やる。

 次の瞬間、フードを脱いだ人物を見て、ジェシカとスカロンは唖然とした。

「ルイズ達からお話はかねがね伺っております。あなた達も大変だったようですね」

「えっ、あ――」

「アンリエッタ、女王陛下……?」

 現在トリステイン国のトップ。アンリエッタその人だと知るや否や、スカロンとジェシカは慌てて姿勢を正した。

「すっ済みません! まさかこんな場末の店に陛下がわざわざいらして下さるなんて!」

「いえ、こちらこそお構いなく。わたくしは大丈夫ですわ」

「あっ、あんた達、マジで女王陛下の親衛隊かなんかだったわけ……?」

 ジェシカがこっそりと剣心に耳打ちした。剣心は考え込むように頬を掻く。

「う~ん、拙者は少し違うでござるかなぁ」

「それについても、わたくしからお話しいたします」

 

 

「――てなわけよ」

 数十分使って、ルイズ達はこれまでの事情と素性を、ジェシカ達にも明かした。

「成程、そういうわけだったのね」

「それにしても、ルイズがまさかヴァリエール家のご令嬢だっていうのが一番の驚きかしら」

 貴族だとは内心思ってはいたものの、流石にヴァリエール家といえば国内でも有数の大貴族である。

 そこの娘だと聞いて、ジェシカも少し驚きを隠せないようだった。

「……その割には、あんまりわたしに対して態度が変わってないんじゃないの?」

「だって、今はヴァリエール家のルイズじゃなくて平民に身をやつしたルイズなんでしょ?」

「え? まあ、そうだけど……??」

 何か腑に落ちない、といった表情をルイズはした。いや別に立場を誇示したいとかそういうわけじゃないんだけど、上手く煙に巻かれたような気がしたのだ。

 対するジェシカは、貴族の相手には手馴れているといった様子でクスッと笑う。

「まあでも、そのお詫びにこの店を修繕してくれるって?」

「何か、そこまでしてくれると逆に悪い気もするわね」

「いえ、寧ろこれぐらいの事はさせてくださいな」

 アンリエッタはにっこりとほほ笑んでそう言うと、思い出したようにルイズの方を見た。

「そう言えばルイズ。あなたはどういう経緯を経てこの店で働くことになったの?」

「ああ、それはですね――」

「わーっ! ちょちょちょっと待ってぇ!!」

 ジェシカが何か言おうとして、急にルイズが慌てて止めた。

 まさか姫さまから貰ったお金をすって、しかもいろんな客を怒らせてきたなんて、知られたくはなかったのだ。

 と、ここで察したスカロンが皆を見て言った。

「まあ、つもる話もあるでしょうし、折角陛下もお越しになられたことだし、今夜は店を閉めて、皆で一杯やりましょうか」

 

 

「それでですね! その時ルイズはね、こう言いながら――――」

「だぁーっ! もういいじゃないの! そんな昔の事!!」

 その夜、一際大きなテーブルを囲んで、しばしの団欒と相成った。テーブルの周囲では暇を貰った女の子たちも笑い合っている。

「まあ、それは何というか……。ルイズ、あなたは何処に行っても相変わらずですのね」

「ひっ姫さままで……」

 可笑しそうに笑うアンリエッタとは対照的に、ルイズは顔を真っ赤にした。

「そう言えばルイズ、わたくしが差し上げた資金は結局どうしましたの?」

 ふと口をついた疑問。それを聞いたルイズは一転、ビクッと体を震わせ顔を青くした。

 ……その様子を見たアンリエッタも容易に想像がついたのか、追及を止める。

「まあ別にあげたつもりですからそこまで気にはしてないけど、その様子だと……そういうことなのですね。ケンシン殿」

「おろっ! いや拙者はその……」

 いきなり話を振られて慌てる剣心。ただ、べつにアンリエッタ自身はそんなに怒ってはいないようではある。

 逆にルイズの方が、興奮冷めやらずといった感じで、ジェシカに詰め寄った。

「っ~~~! ちょっとジェシカ! 来なさい!」

 と、ここでルイズがおもむろに席を立つと、ジェシカの手を引いて何故か厨房へと向かっていった。

 その様子を見たシルフィードが一言。

「あのおちび、また怒ってるんじゃないのね?」

「……拙者のせいでござるか?」

 流石の剣心も、どうしようもなさそうな表情で厨房の方を眼で追った。

 

 

 さて、一方ルイズ達の方は。

(ちょっとやりすぎたかな?)

 無言の後ろ姿のルイズを見て、ジェシカは内心そう思っていた。

 今まで一緒に働いていたとはいえ、相手は大貴族である。ついついいつもの感じで会話していたけど(話した内容自体は事実だし)、貴族というのは変にプライドがでかい。

 どうしたものかなぁ、と思案していると、ルイズがおもむろにこう言った。

「ねえジェシカ……」

「――何?」

 若干震えるような声。でもそれは怒りというより、恥ずかしげというか、そんな感じの声色だった。

「ちょっとさ、教えてほしい事があるんだけど――」

 

 

「――と、そういう訳であの変な奴は、このおちびがやっつけたっていうわけなのね!」

「へえ、ケンシンちゃんってやっぱり強いのねぇ」

 シルフィードがまるで英雄譚を語るような口調で、スカロンや給仕の子たちに話を聞かせていた。

 聞いていた女の子たちはもう、英雄を見る眼で剣心に向かって拍手をする。

 剣心は、少し気恥ずかしそうに呟いた。

「別に、そこまで持ち上げる事ではござらんよ」

「いいえ、多分あなたでなければ、あの男は倒せなかったと思いますわ」

 とんでもない、とばかりにアンリエッタはそう付け足した。アニエスやタバサもウンウンと頷く。

「『飛天御剣流』だったか。速さを極限まで高めるその戦い方。全く見事な剣術だな。あれなら確かにメイジ相手にも遅れを取ることはないのであろうな。……一つご教授願いたいものだ」

 瞬間、タバサが顔を上げて目を光らせる。

 二人からの期待の視線に、剣心は思わず目を反らした。

「い、いやあルイズ殿とジェシカ殿はどこへ行ったのでござろうなぁ……?」

 そう言ってふと後ろを振り向くと、そこには本当にルイズが立っていた。

 頭にお三角巾、手にお盆みたいなのを持って。隣にいるジェシカは余りに可笑しいのか手で口を隠して必死に笑いを殺しているみたいだ。

「おろ? ルイズ殿?」

「……はいこれ」

 そう言って、ルイズはお盆から料理の乗ったお皿を剣心に渡した。

 木製のせいろの中には、五つくらいの丸い生地が入っている。剣心もよく知るお菓子料理、蒸し饅頭だ。

 後で聞けば、この饅頭料理は、トリスタニア内でも『魅惑の妖精』亭内でしか出していない、珍しい料理であるらしい。

 しかし、それを見た瞬間、一気に空気が固まったような雰囲気が流れる。

「……これは?」

「作ったのよ」

 硬い声で、ルイズはそう答える。何故か顔はすごく赤い。

「……ルイズ殿が、でござるか……?」

「他に誰がいるっていうのよ……」

 それを聞いた瞬間、周りが唖然とした。あのルイズがである。しかも剣心に。

 シルフィードはきゅいきゅいと喚き、アニエスやタバサでさえ驚きで目を見張り、アンリエッタとスカロンは口をあんぐりと開けていた。

 

 

 それは一刻前の事。

「あんた、時々『マンジュウ』って料理を作って出してたわよね。それの仕方、教えてくれない?」

 その言葉を聞いた瞬間、ジェシカは耳を疑った。幻聴の間違いではないのか……、と。

 放心するジェシカをよそに、ルイズはこちらを振り向いた。その顔は耳まで赤く染まっている。

「――聞いてんの!? ねえ」

「えっ、あっうん。……本気?」

 再度確認するようにジェシカは聞き返す。ルイズはゆっくりと頷いた。

「だって、あいつにはいつも助けて貰ってるし、たまにはちゃんとご褒美でもあげないと、それが主人ってもんだし……」

 それに……、と言い置いてルイズは顔を伏せた。

 剣心の左手のルーンの事、そして人斬り抜刀斎の事を思い出す。

 こんな事になるとは思わなかったとはいえ、自分のルーンの所為で剣心はあんなにも苦しんだのだ。

 剣心は気にしていないとは言ってくれたけど、それでも彼の暴走の原因は間違いなく自分にもある。

 だからこそ、お詫びもかねて何かしら形になる物を剣心にあげたかったのかもしれない。

 そして、その様子を見ていたジェシカは、ふと思いついたように提案をする。

「それじゃあさ、うちの『家宝』使わない? そうすればケンシンにもいいご褒美になるかもしれないわよ」

 ジェシカはそう言って、『魅惑の妖精』亭に代々伝わる家宝、『魅惑の妖精のビスチェ』の事を軽く説明した。

「あんた丁度『チップレース』に優勝したわけだしさ。折角だし使ってみたら?」

 それを聞いて。ルイズはしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと首を振った。

「ありがたいけど、やっぱりいいわ。今はそういう『魅了』とかじゃなくて、普通にケンシンを労ってあげたいの」

「ふーん、分った。そういう考え、嫌いじゃないわよ」

 ルイズの言葉が余程気に入ったのだろうか、ジェシカは軽くウインクしてルイズを見た。

「あたしも少しやりすぎた、なんて考えていたからね。一丁ケンシンたちを驚かせてやりましょうか!」

 

 

 まあ、そんなやり取りがあったなんてことは露知らず、剣心はポカンとした表情でルイズを見ていた。

「これ、本当にいいのでござるか」

「いいから食べなさいよ! 冷めちゃうでしょ!」

 労いとはいえ、素直になれず、思わず声を荒げてしまうルイズであった。その顔は今までにないくらい真っ赤だ。

 隣にいたジェシカも、こっそりと剣心に耳打ちする。

「まあ食べてあげてよ。即席とはいえあの子も頑張って作ったわけなんだしさ。……味もまあ、そこまで悪いってわけじゃなかったし」

 聞けば、手包みから蒸すまで全部自分がやっていたのだという。勿論ジェシカの補助ありとはいえ。

 その時のルイズはいつになく真剣で、ジェシカですら彼女の集中力に感心してしまうほどであったとか。

 それを聞いて、剣心は改めてルイズを見た。怒ったような表情でいて、その目は「食べてくれないの?」と言わんばかりにうるうるとしている。

 そこまでされては、剣心としては断る道理はなかった。

「では、いただくでござるよ」

 そう言って、ルイズお手製の饅頭を口に運ぶ。

 ルイズが「どう?」と言わんばかりに顔を近づけた。

「……美味しい?」

「う、ん、なんとも珍味な……って、このあ、じは……」

 ひと噛みひと噛みするうちに、段々と剣心の顔が真っ青になっていく。

 ルイズが不安げな表情で剣心に詰め寄った。

「ケ、ケンシン……?」

「お、おろぉ~~~~~……」

 次の瞬間、バタンと剣心はぶっ倒れた。

「きゃあ! ケ、ケンシン!!」

「お、おちび!! 大丈夫なのね!?」

 アンリエッタが慌てて介抱するが、剣心はただ目を回しているばかり。

 何が何やら分らないこの展開に、ルイズ達は終始バタバタしていた。

「ちょっルイズ!! あなた何を入れたの!?」

「いっいえ!! わたしは何も……」

 ただ首を振るルイズをよそに、タバサは剣心が食べた別の饅頭に手を伸ばす。

 一口食べてみて、納得したといわんばかりに口を開いた。

「これ、はしばみのエキスがかかっている」

「えっ!」

 それを聞いた一同は、一斉にタバサの方を向いた。

 そこでルイズははっ、とした。そう言えばジェシカが「もう教えることはないわね」とトイレに行っていた時……、その間に『隠し味』として、身近にあった調味料に手を伸ばしたっけ……と。

「もしかしてルイズちゃんが使ったのって……、宴会の罰ゲーム用に使うあれかしら?」

「ああ、あのはしばみの苦みを百倍凝縮したって瓶?」

「あれ一滴でもかなりのものよ。もし無造作に何滴も入れたらまあ……、こうなるわよねぇ」

 スカロンや周囲の子たちは、剣心を介抱しながら口々に言い合う。

「あー……、あたしの管理不行き届きだったわ。ゴメン」

 ちゃんと最後まで見とけば良かったわ。とジェシカはそう言って申し訳なさそうに頬を掻く。

 ルイズはただ、遣る瀬無さそうな叫びを上げるのだった。

「もうっ! どうしていつもこうなんのよぉぉぉぉぉぉ!」

 

 

 

 そんな、『魅惑の妖精』亭で繰り広げられている喧騒とは裏腹に、同時刻――。

 激闘を繰り広げ、そして墜落し瓦礫の山と化した運搬船の中。月の光も当たらない程の宵闇の中、その残骸の中で揺れ動く影があった。

 

 

(どうして、俺はまだ生きている―――――――――)

 

 

 死んだと思った。あの高所から落ちて、助かるはずはないと――。

 しかし、実は落ちた直後、豪雨のせいで土がぬかるんでいたことが幸いし、奇跡的に一命を取り留めていたのだった。

 だが、そんなことはどうでもいい――。男、刃衛は立ち上がる。

 全身は、泥と血で汚れ、凄惨な傷をあちこちに覗かせていた。

 一命を取り留めただけであって、無傷だったわけではない。木々に身体中を打たれ、更に高所からの落下もあってか、顔――特に左目は完全に潰れ視力を無くしていた。

 刃衛は、右だけの霞みがかった目で、周囲を見やる。そこは何も無い、ただ暗い闇が辺りを覆うだけ。

 そして最後に、両の手の平についた、そこから地面が見える程の大きな傷穴を見て……、笑った。

(いや、別にいい……)

 刃衛は無造作に手を握る。指の関節を動かすたび、掌を動かすたび激痛が走る。それはまだ自分が、地獄ではなく現世、ハルケギニアにいることの証でもある。

(今は只、この感触が心地良い――――)

 刃衛は歩いた。朧げな足で、歩き出す。

 そしてその姿もまた、闇に覆われて消えていった。

 

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