「この煙は何事だ!」
「いったい何が起こっている!」
赤々とした煙が、ヴァリエール家の屋敷を覆い隠す。
この異常事態に気づいた衛兵、使用人が大いに慌てている中――。
普段は誰もいない、中庭の湖のほとり。そこに二十メイルはある鉄の巨人が佇んでいた。
その巨人を精製した主、ジャックは静かに、火薬混じりの煙を見下ろしていた。
今は巨人の肩の部分に立ち、頭と思わしき丸い隆起に右手をかけている。
あと二分ほどで煙は十メイルに立ち上るはず。屋敷の屋根にあたる部分にまで、赤い靄が侵食しようとしているところだ。
今発火させれば、間違いなくここら一帯は更地と化すだろう。
(なのに何故だ? これでもまだ……、不足しているように感じる)
これならもう、あと一歩だというのに。なぜか自分が、最後まで抜刀斎を殺せるイメージが、湧かないのだった。
あの日――――浮遊船での立ち合い……、あの止めを刺す最後の一瞬。
あの目にも止まらぬ抜刀術を食らい、目まぐるしく変わる視界で……、確かに見た光景。
一瞬だけ振り向いた奴の顔。
どこまでも冷徹で、自分の事を塵か何かのようにしか見ていなかった視線。刃のような眼が、どうしても忘れられない。
(ええい、今はそんなことを考えている時ではない!)
あとは『着火』の呪文を唱えるだけでいい。何なら、鉄と化した拳を地面に打ち付けるだけでもいい。あと一瞬の所作だけでいいのだ。命を厭わぬ特攻なのに、なぜこんなにも臆するのか。
疑問を振り切り、最後にジャックは叫んだ。
「最後にお前たちにかかった額を教えてやる! 抜刀斎は十四万エキュー、小娘の方は六万エキュー、締めて二十万エキューだ! これはオレたち兄弟が受けた依頼でも最高額! 誇りに思え!」
暗殺を承った際、必ず行う流儀。自分にそれだけの価値があったと思えば、少しは気が晴れるんじゃないかという、ジャックなりの考えでもあった。
事実、これ以上の仕事は絶対無いことだろう。あったとすれば――――。
(三万エキューか……。その額の多寡をまだ俺は知らねえが、そのツラを見るに『割りに合わねぇモン受けちまった』って、感じだな――――)
獄炎を操りしあの『悪鬼』に、仕事の上書きを依頼された時以来か……。
殺しに来た自分を返り討ちにし、あまつさえ逆依頼を堂々と言い放ったあの男。
抜刀斎と同じくらいに異質な殺気を放っていたあの男。兄弟の中でも、そんな異質な人間に最初に接触をしたのは、自分が初めてなのは間違いなかった。
(どうせてめえも『オルレアン公』って奴から殺しの依頼を受けたんだろ? どうだ、俺はその倍をくれてやる。こっちにつく気はないか――――?)
断れば――。そこまで過去を逡巡して、ジャックは口を一文字に閉める。
恐らく今、下にいる抜刀斎と刃衛、そしてあの包帯男は『同類』なのだろうと、確固たる予感を抱いていた。
もしあの時、逆依頼を断っていたら、自分は今ここにはいない。奴、刃衛、そして抜刀斎。別の世界から来たのかと頭をもたげるような、異質な強さを持った『人間』……。そう、ただの人間たち。
だが、この三人は間違いなく、骨と躯でできた海を渡ってきたかのような、凄まじい強さを持つ連中でもあった。亜人の血を引く自分たちを歯牙にもかけないほどに。
自分もまた、その域に向かわねば、兄の『夢』など叶えられるはずもない。金よりももっと恐ろしい壁が、ジャックの前に立ちはだかっていた。
「これで止めだ! すべてちり芥となれ!」
そう叫び、ジャックは巨人の鉄腕を振り上げる。火薬と化した地面とカチ鳴らそうとしたのだ。
その刹那――――。
「飛天御剣流」
その声で、ジャックの思考は一瞬停止する。視線を上に移せば……、そこには二つの月光を浴びた、巨人の片腕と――――。
「-翔龍閃-!」
それをデルフを使って真っ二つに切り裂いた、剣心の姿があった。
「――――あぁ――……」
声にならない声をジャックは上げた。口の動きさえゆったりとなる中、ただただ思考だけが鋭敏化していく。
何故鉄製の腕を切り裂かれて、火花を起こさなかったのか? それは切られた部分が元の土に戻っているのを見れば一目瞭然。
(あの剣、魔力を吸収するのか……)
だが、そんなことはどうでもいい。元々これで倒せるとは、心のどこかで、思えなかったのも事実だったからだ。
しかし、もう自分にはこれしかないのも、また事実。
(ならば『着火』の呪文を――――)
しかしスペルの一文字目をつぶやこうとして、もう、そんな時間すら自分にはないことを悟る。
土の塊へと戻った、未だ宙を舞う巨腕を足場に、剣心はジャック目掛けて殺到する。
「――――ちぃ―――!」
刹那、ジャックはスペルを唱えるのを止め、巨人の中に空洞を作って内部に潜り込んだ。
遅れて、頭上すれすれを白銀の閃光が走っていく。
巨人の頭部と思しき丸い隆起が、腕と同じく宙を舞った。
(はぁっ、はっ……、くそっ、あの化け物め……)
巨人の内部に逃れたが、もはや時間の問題、今の奴の実力なら、この巨人ごと次は真っ二つにすることだろう。
完全に動きに『キレ』が戻ってきている。もはやその動きを視界に、写させないほどの速さになっていた。
だが――。
(何だ、あの目は)
腕を足場に、こちらに斬りかかるときの奴の目は、何というか……、光のある目をしていた。
すべてを等しく塵にしか見ていないあの目では……、なかったのだ。
それがなぜか、ジャックの癪にすごく触っていた。
(何故あの目をしない! ふざけるな……)
そんなにオレは格下か。
貴様らからすれば、オレなど蟻にも等しいってか……!
ああ、憎い。憎い憎い……っ!
ただひたすらに、黒い憎悪が滾っていく。
剣心ではなく、抜刀斎への魅力に憑りつかれていたジャックは、あの目こそ奴らの強さの本質だと、そう思っていたのだ。
どうすれば、奴のような域にたどり着けるのだ……!?
刹那、ジャックは凄まじい衝撃音をその身に感じる。
次の瞬間、巨人は上から一閃、『龍鎚閃』で真っ二つに断ち割られていた。
鉄の巨人はすべてが土くれと化し、音を立てて崩れていく。
ジャック自身は無傷だったが、巨人が崩れたことで強制的に外へと弾き出される。
だが、ジャックは嗤った。
(まだだ! まだ――)
真上に打ち上げられた、巨人の頭部分。その内部に施した最後の仕掛け。経過で発火する爆弾。火力は中庭の池のほとり一帯を消し飛ばすには十分。
いかな小娘とて、この噴煙舞う中あの爆弾が見えるはずも――。
そこまで思考を巡らせた瞬間、ジャックは見る。
カリーヌが起こした風が、噴煙を一斉に晴らして上空を見上げられるようにしたことに。そこで詠唱を完了したルイズが今、杖を、爆弾の方へ力強く向けていることに。
「『
その声から放たれた閃光が、噴煙を、爆弾を、元の土煙へとことごとく返していった。
(くそ、どこまでも……、化け物ども……が)
そう心中で毒づきながら、ジャックもまた、白目を剥いて倒れた。それと同時に噴煙も晴れていき、澄み渡る夜空に満点の双月が、光の帳を下ろしていた。
(すまん、兄さん……)
「はあっ、はあっ……」
呪文を唱え、ジャックが倒れた後、ルイズは大きく息を吐いた。
過度も緊張はしてないつもりだったが、それでも一歩間違えれば自分も家族も木っ端みじんだったのだ。そんな非常事態を無事収束できたことに、えも言えぬ虚脱感に包まれていた。
(わたしが、家族を、みんなを……、助けられた……?)
今の今まで『ゼロ』という不名誉に預かっていた自分が、頼れる使い魔と共にヴァリエール家を救う。いや、救った。
その事実に、何というか、まだ実感が追い付いていない。
そんな彼女の余韻を打ち壊したのは、シエスタだった。
「やりました! やりましたよミス・ヴァリエール! ケンシンさんとミスがあいつらをやっつけたんですよ!」
そう言って、涙を流しながら自分に抱き着いてくる。よほど嬉しかったのだろう、貴族とか平民とかここが貴族の領地とかも忘れて狂喜していた。
ルイズもまた、それを不快に思わず、つぶやく。
「わたしが……?」
「そうですよミス! もっと自信持ってくださいよ!」
きゃあきゃあ喚くシエスタをよそに、ルイズはゆっくりと視線を、母に移す。
この家での恐怖の象徴であり、トラウマ。相変わらず厳粛を絵画にしたような顔つき。
「あの、母さま……」
「ルイズ」
その言葉にビクッっとして姿勢を正す。怒られる……。と反射的に思ったからだ。
しかし、次に出た言葉は――――。
「よく頑張りました」
「――――ぁえ?」
ここ十六年で初めてかもしれない、混じりっ気のない褒めの言葉。それがルイズの脳内で何度も反響していた。
一瞬だけ見せた、慈愛のような微笑みも。
「ただし、嘘をついたことは見過ごせません。あなたの系統は火の筈では? あんな魔法、初めて見ましたよ」
その言葉で再び厳粛な顔つきに戻ったカリーヌが問い質す。驚きもつかの間、ルイズもしどろもどろになって答えた。
「あ、はい……。申し訳ございません」
「嘘をつかずに言いなさい。あなたの本当の系統は何ですか?」
もうここまできたら、隠し事はできないだろう。観念したようにルイズは言った。
「とても信じられないと思いますが……、わたしの系統は、零番目の『虚無』です……」
「――――そうですか」
静かにため息をついた後、カリーヌは言った。それを聞いたシエスタもまた、口を手元に抑える。
「ちゃんとそのことを、父さまにも伝えなさい。良いですね」
「……はい」
ちょっと気落ちするルイズ。再びシエスタが慰めの言葉を紡ごうとした時だった。
「みんな、怪我はないでござるか?」
颯爽と上空から現れる、秘色の影。それは勿論剣心の姿だった。
「ケンシン……!」
「ルイズ殿のおかげで、みんなは救われた。それは紛れもない真実でござるよ」
そう言って、剣心はカリーヌの方を見やる。彼女もまた、小さくであるが肯定の頷きを返した。
達人同士だからこそ伝わるシンプルな応酬。二人の間に過度な言葉は不要なのであった。
「そうよ。ルイズも、よく頑張ったわね」
「……ちいねえさま!」
次にカトレアがそう言ってルイズの頭を撫でる。それでようやく、ルイズも活気を取り戻した。
ぱぁあぁっと明るくなったルイズは、剣心の方を向こうとして――。
「ケンシンさんも! やっぱりケンシンはすごいです! あんな鉄のゴーレムを斬っちゃうなんて!」
シエスタが剣心に、思い切り腕を回して抱き着いているのを目撃した。
「おろ!?」
いかにも腑抜けたような声を出す剣心。ピシリ、とルイズの中で何かが鳴った。
「おいおい! あれを斬ったのはこの俺だぜ! 逆刃刀じゃねえ! この俺デルフリンガー様よ! そこを忘れてもらっちゃ困るなぁ!」
いかにも自慢げな声で鍔を鳴らすデルフ。「デルフさんも凄いんですね!」とシエスタが褒めれば「だろだろ!」と満足げに返す。
そして今更気付いたかのように、シエスタは逆刃刀を返そうと剣心に差し出した。剣心もまた、それを受取ろうとして……。
「……えいっ!」
「おろ!?」
シエスタ、逆刃刀ごと貰ってくださいと言わんばかりに、そのまま剣心の胸へと一気に体を寄せる。貴族の前で何とも大胆なシエスタであった。
それを見たルイズ、またピシリと自分の中で何かが鳴るのを感じる。
「シエスタ殿!?」
「ケンシンさん……わたし、やっぱり、ケンシンさんのことが忘れられないんです! この気持ち、どうかわかってください!」
「おろぉろぉ!」
「ヒューヒュー、モテるねぇ相棒! いよっ、必殺人間磁石!」
デルフが呑気な声ではやし立てる。ブチッッ! とルイズの中で何かが切れた。
「あぁぁぁんたぁぁぁぁぁねぇえええええええええええええ!」
「おろぉ! ちょ、待つでござるルイズ殿ぉ!」
「なぁぁにメイドの胸に顔埋めてヘラヘラしてんのよ! この! バカ犬ぅぅぅぅぅううう!」
さっきのしおらしさもどこへやら、杖を鞭のようにしならせながらルイズは叫ぶ。
剣心もまた、一向に離れようとしないシエスタと共に、彼女から逃げ回るのであった。
「大体あんたっていっつもそうよ! わたしがどんだけあんたの事で頭を悩ませたと思ってんのよおおおおおおお!」
「お、お、落ち着くでござるよルイズ殿ぉぉ!」
それを見てカトレアはクスクス笑い、カリーヌもまた、一段落ついたかのような安どの表情を、一瞬だけ浮かべた。
「――――それで、あなたはどうしますの?」
そして鋭い目を光らせながら、捕縛したままのジャネットに問いかけるのであった。
ジャネットは若干、すねたように口を開く。
「……どうもこうもありませんじゃないの」
遅れて、大勢の足音がこちらに殺到してくるのが聞こえる。
ヴァリエール公爵が、護衛のメイジを多数引き連れ、周囲を取り囲んできたからであった。
一方、こちらは上二人の兄が戦闘不能。この状況を脱することもまた、不可能。
「素直に降参しますわ」
親に叱られた子供のような口調で、ジャネットはそう呟いた。
その後、捕えた元素の兄弟三人は、かつてフーケが送られたチェルノボーグ監獄へと移送されることが決まった。
事態も収束し、その後何事もなくラ・ヴァリエール家はいつも通りの朝を迎えることとなった。
その朝の食事会。
朝食は日当たりの良い小ぢんまりとしたバルコニーでとるのが、ヴァリエール家の常である。陽光の下、眩しく光る白テーブルの上に、朝食の皿が次々と置かれていく。
その朝食の席にて。
「刺客に殺されかけたぁ!? ルイズ、あなたいったい何やったのよ!」
エレオノールが興奮冷めやらずといった声色で叫んだ。
彼女だけはあの夜、屋敷の上階にて一人ヤケ酒を飲んで(無論破談の件であることはいうまでもない)ぐっすり熟睡していたため、人知れず襲撃があったことや、煙が巻き起こるパニックとは無縁で過ごしていたのだった。
「お、お姉さま。今は食事中ですよ……、もう少し静かに」
「これが静かにしていられますか! しかもカトレアまで死にかけたそうじゃない!? なんでわたしだけ蚊帳の外になっているのよ!!」
それはもう、矢継ぎ早の質問であった。事件経過からまだ数時間しか経っていないため、いま彼女に与えられた情報は、「ルイズやカトレアが刺客に殺されかけ、あまつさえラ・ヴァリエール家が危うく吹き飛ばされそうになった」ぐらいであった。
……それだけでもう、エレオノールは興奮と動揺を抑えられないのであるが。
自分の与り知らない所で、下手したら自分も死んでいたかもしれないとくれば、心中冷めやらぬのも致し方無いことだろう。
「まあまあエレオノール姉さま。そんなにまくし立てていたらルイズも困っちゃうわ」
そんなエレオノールを諫めたのはカトレアだった。その表情はもう、襲撃があったこととか、みじんも感じさせないような微笑みである。
「あ、あんたねぇ……、何でそんなニコニコできんのよ。死にかけたんでしょ?」
「えぇ。とっても危なかったでしょうね」
さらりとカトレアは言って、更にこう続けた。
「でもね、ルイズと頼れる使い魔さんが、わるい人を全部やっつけたのよ。すごいでしょ? 今日くらいは褒めてあげてほしいわ」
「はぁ! ルイズが? あの平民と!?」
そう叫んで、ルイズの後ろに控えている剣心を指さした。当然入り込んだ賊は、母や父の周りにいる護衛隊のメイジが、倒したからと思い込んでいたからだ。
思い切りエレオノールに睨まれる形となった剣心は、思わず頬を描く。
「何にもできなかった『ゼロ』のルイズに、そんなことできるわけないじゃない!」
「姉さま! いくらなんでもそれは酷すぎます!」
「二人とも、静かに」
ヒートアップして思わず席を立つルイズとエレオノールを諫めたのは、父ヴァリエール公爵であった。
「でも……!」と言いかけるエレオノールを手で制し、二人に座るよう促し……、そして厳しい視線でルイズを見つめた。
「カリーヌから聞いたよルイズ。お前の系統、火ではないようだね」
すでに事情を知ってはいるが、それでもなお知らないような素振りで公爵は口を開いた。
「……はい」
「今一度聞きたいのだ、わしの可愛いルイズよ。……お前は一体、何の系統に目覚めたのかね?」
昨晩の母の言葉を思い出したルイズは、観念したように告げる。
「……虚無、ですわ。とても……、信じられないとお思いでしょうが……」
「はぁ!? 虚無! あんたが!?」
当然何も知らないエレオノールは大きくのけぞった。そしてまた何か口を開こうとして、公爵夫人の目がそれを抑える。
「虚無か。そうか……」
手を額に当て、放心していたようにしばらく固まっていた公爵は……、やがてそのやさしい瞳を、ルイズに向ける。
「ではお前は、わしに嘘をついたことになるね。ルイズや」
「はい……」
「昨晩の連中も、お前の虚無を狙った者の仕業か?」
「……そうなります」
ジャネットの発言をまた、思い返していたルイズは小さくうなずいた。
「――――」
それに対し、公爵は物憂げな表情でただ、上空を仰いでいた。
いつも厳粛な態度で接する父の、こんな追い詰められたような顔つきも、ルイズたちは初めてだった。
しばらくして、公爵は口を開く。
「わしも老いたものだ。この敷地内まで敵の侵入を許すとは……。あまつさえ、それに気づいたときは既に、事が終わっていたとはな……」
もう、ここはルイズにとっても安全な場所ではない。その事実だけが、公爵の頭を悩ませていた。
では、彼女にとってどこが安全なのか――――。否、それはもう、カトレアや公爵夫人に聞いて既に分かっている。
「父さま……」
「いいかいルイズ、嘘をつくのはもう、これきりにしておくれ」
それだけ告げると、公爵は席を立ち、娘たちに退出するよう促した。
「ああ、ヒムラ君。きみはここに残りなさい」
「……了解でござる」
そう言われることが分かっていたのだろう。剣心もまた、公爵に軽く会釈した。
さて、場面は再び、昨夜と同じ広いダイニングルームに移る。
そこで公爵とカリーヌ公爵夫人、剣心の三人が向かい合って立っていた。
「それで、話とは?」
神妙な面持ちで剣心は切り出す。すると公爵は杖を取り出し、部屋中のカーテンを閉めた。続けて夫人が、周囲に聞こえないよう『サイレント』を唱える。
これから公爵がしようとしていることを察し、先手を打ったのだった。
「そうだな……、まずは最初に一つ、きみに言いたいことがある」
そう言って、公爵は剣心と正面に向き合い、胸に手を当て、そして意を決したように頭を下げた。
トリステインで五本指に入る大貴族。その頭であるラ・ヴァリエール公爵は、平民であるはずの剣心に向かって、最大限の敬意と礼を表明しているのだった。
「窮地に立たされた娘たちを……、命を懸けて救ってくれたこと。心より感謝する」
「公爵殿……」
「事情はカリーヌからすべて聞いておる。もしきみが駆けつけてくれなかったら、最悪の場合、わしは愛しい娘を二人も失うところであった」
それは貴族としてではない、『父』としての最大限の感謝。
「この屋敷にいればルイズは安全だろうと、わしは考えておった。しかしどうやら敵は、あの子の秘めたる力を既に、脅威に思い始めているようだ。この認識を改めなければまた、同じ過ちを繰り返すことも、よく分かった」
やりきれないばかりのため息をついて、それでもなお、公爵は頭を上げなかった。
トリステイン屈指の大貴族が、ただの平民に頭を下げているこの光景。
もしこれが外部に知れ渡ったら、大スキャンダルなのは間違いないことであろう。
「頭を上げてほしいでござるよ。公爵殿」
優しい面持ちで、剣心は告げる。
「拙者は拙者の責務を果たしたまで。公爵殿がそう長く頭を下げるようなことはしていないでござる」
「その責務を全うできる武人が、今このトリステインにどれくらいいるのか、それを憂いてもいるのだよ。ヒムラ君。――ワルドでさえ、わしの期待を見事に裏切ってくれたのだからのう……」
そう言ってようやく公爵も頭を上げた。そして杖を取り出しカーテンを開ける。
再び日光が、窓の外から注がれ始めた。
「わしは今も、戦争には反対だ。この気持ちだけは変わらん。……だが、そうも言ってはいられないようであるのも事実。だからこそ、今一度頼みたい」
剣心の顔を、瞳を、その奥に移す情景を見やりながら、それでもなお、公爵は告げる。
「わしの娘をこれからも、守ってやってはくれまいか? わしはもう……、あの子を守るだけの力は……、ないようだからのう……」
ヴァリエール家の敷地内に敵の侵入を許したのが相当ショックであったのだろう。その瞳に透明の粒を湛えながら、公爵は懇願する。
それに対し、逆に剣心の方が気後れしたように、口を開いた。
「……けれど公爵殿、拙者は」
「分かっておる。戦に出るのであろう。――――それでも、今はきみの近くにいた方が良いと、わしは思ったのだ」
力強い口調で、公爵はそう言った。無論、こう断言できるのには、「剣心がルイズたちを助けてくれたから」以外にも、理由があった。
それは一刻前の事――――。
「カトレアや、大丈夫か?」
「わたしはもう、大丈夫ですわ。父さま」
事件解決後、公爵は真っ先にカトレアの様子を見に彼女の部屋に訪れていた。彼女の部屋には様々な動物たちがおり、皆一様に彼女の事を心配するように見つめている。
「ルイズとその使い魔さん……、ケンシンさんに、助けて頂きましたから」
「カリーヌからも聞いたよ。そうか、彼には頭が上がらないな」
ルイズとカトレアの危機に、誰よりも早く駆けつけてくれたのが、よりにもよって娘から離れるように告げた剣心だったということに、公爵は申し訳なさと感謝の心でいっぱいであった。
だが何よりも心配だったのは、敵はもう、すでにルイズの『虚無』の能力に、勘づいている事であった。それがレコン・キスタの手先であることにも。
恐らく今後もまた、敵はルイズの命を狙い続けることだろう。カトレアもまた、そのことを強く察していた。
「最初に会った刺客の子……、ジャネットと言ったかしら? あの子の水魔法のおかげで、むしろ体調の方はすごくよくなっていると感じてますの。わたしは本当に大丈夫です。――――ただ、あの子は今後もルイズを狙い続けるでしょうね」
捕縛され、王政府に引き渡されていく元素の兄弟を思い出しながら、カトレアはそう呟いた。
上二人の兄が気絶したまま担架で運ばれていった中、唯一元気だったジャネットは、手かせで繋がれたまま、最後にルイズと会話していたことを、カトレアは思い返す。
『あーあ、とんだ貧乏くじ引きましたわ』
『あんた、本当にちいねえさまに何もしてないでしょうね?』
『安心なさいな。誓ってなにもしていませんわ。むしろ少し治療もしてあげましたのよ。感謝してほしいぐらいですわ』
枷で繋がれた両手をヒラヒラさせながら、小悪魔のような笑みをジャネットは浮かべていた。その表情には、未だ反省というものは見られなかった。
ルイズに噛まれた右腕の歯形を舐め、妖しい目でジャネットは言った。
『この歯形のお礼もしたいですし、いずれまたお会いしましょう。使い魔さんには二度と、ええ二度と会いたくありませんけれども』
『ふんだ、また来てもケンシンが守ってくれるもん』
『では、彼がいない隙を見計らってまた会いに行きますわ。昨晩のように。楽しみにして頂戴ね』
そう言って、最後にジャネットはルイズの頬をなめると、後は大人しく龍籠の牢へと姿を消した。
彼女たちにとって、監獄などただの休憩地点にしか見ていないことがありありととれる、その表情だけを残して――――。
「あの子は将来、ルイズにとって因縁のある敵になりそうな……、そんな予感がいたしますの」
神妙な面持ちでカトレアはそう答えた。公爵もまた、それを聞いて顎髭をなでる。
「わしではもう、ルイズは守り切れんと?」
「そこまでは言いませんわ。ただ、今のルイズを安心して任せられるのは、彼をおいてほかなりません」
力強い声でカトレアは言うと、ここでまたルイズに見せた時と同じように、左頬を十字になぞった。父にも伝わるように――と。
「父さま。あの人は……、恐らくですが、父さまが昔抱えていた『傷』よりも、さらに深い『傷』を受けてなお、立ち上がってきた強い人だと、わたしは思っていますの」
「カトレア……」
「今のルイズに何よりも必要なのは、間違いなくあの人。そして最終的にあの二人は――」
そこでカトレアは、なんとなくだが幻視する。この戦いの行く末を――。
髪を纏め、若き母のように立派な『騎士』へと成長したルイズが、力尽き、何処へと落ち行く剣心に、手を伸ばすその瞬間を……カトレアは何となくだが、予感していた。
「このハルケギニアを救う、英雄になると、強い予感を抱いていますの」
「……その根拠は?」
「勘、ですわ。確証とかは、とくにありませんけれど」
コロコロとカトレアは笑った。だが、この娘の勘はこの家の誰よりも鋭いことは、当然ながら父も知っている。
「わたしも、父さまと同じように、戦争は嫌いですし、本音を言えば、ルイズには行ってほしくはありません。けれど……」
「分かった。カトレアよ。彼は信頼できると、お前の口ぶりからも凄く伝わったよ」
そう言って最後に、公爵は優しく次女の髪を撫でるのであった。
さて、ヴァリエール公爵が剣心にそう頼み込んでいる一方で。
「――はぁ」
朝食を終えたルイズは、人知れず中庭の方に歩いていた。何か嫌なことがあるたびに、いつも池のほとりに向かっていたからか、自然と足がそこへ進んでいたのだった。
桟橋の先にある、あの小船は今、ひしゃげて残骸だけが浮かんでいた。あの夜、剣心が助けに来た際の衝撃で、思いきり潰れてしまったのであった。
夢の時と同じように、剣心が助けに来てくれた。それについては嬉しく思うも、この船がつぶれたことで自分はもう、昔のままではいられないこともまた、強く感じさせるのであった。
(レコン・キスタはもう、わたしの虚無について知っている……)
いや、薄っすらだが分かっていたのだ。刃衛が自分を狙ってきた時から……。だが、気付きたくないと無意識に思い込んでいたのかもしれない。でも今回の襲撃ではっきりと分かった。
このままでは、姉を、両親を、家を、そしてここに住む人々を……また危険にさらしてしまう。それだけは、ルイズも耐え切れなかった。
(やっぱり、いかなきゃ。わたしも戦争に)
どれだけ反対されようとも、ちゃんと決着はつけないといけない。
そう無意識に拳を握り締め、決意を新たに踵を返そうとした時であった。
「ミス・ヴァリエール? こんなとこでどうされましたか?」
「―――あんたこそ、何やってんのよここで」
振り返れば、怪訝な表情をしたシエスタが、そこに立っていた。