兇刃。倒れる。
鵜堂刃衛の身体はタバサの血刀により、右脇から心臓にかけての裂傷が走っていた。
最後まで万感の笑みを浮かべたまま、刃衛の身体は、ゆっくりと倒れ伏す。
再び、食堂に静寂が訪れた。
「……っ」
身も肌も凍るような寒さで、アニエスは目を覚ました。
目を開けばそこは、一面氷のような別世界。そしてそこで何があったのか、記憶を遡らせる。
(っ、そうだ、彼女がこれを……)
身体を起き上がらせようとして、気付く。動けない。どうやら氷で磔にされているようだ。
そんな自分に、優しく声をかける者がいた。
「無理をしてはいけない。今溶かしているから、もう少しだけ待っててくれ」
アニエスは目を見開く。自分を助けているのは、コルベールだった。
小さな火の玉を巧みに操り、熱を使って自分の氷を溶かしている。
自分が追いかけ続けた仇に、助けられているという現状。当然許せるものではない。
「きさ、っまぁ……。何故、助ける……!?」
「何故、か。何故だろうなぁ……。二十年前も、そんなことを考えていた気がするよ……」
コルベールは大きくせき込んだ。遅れて口から血を吐く。
ここでアニエスは気づいた。胸を裂かれた傷跡の上に、新たに火傷の痕があることに。熱を使って、傷を塞いだようだった。
「貴様、その傷……!」
「ああ、焼き潰した。かろうじて致命傷を免れてね。……まったく、人を焼きすぎたせいか、どうすれば上手く炎の調整ができるか、手に取るように分かってしまったんだ」
自虐気味に呟くコルベール。その態度が癪に障ったのか、再びアニエスは叫んだ。
「質問に答えろ! 何故だ! 何故わたしだけなんだ……? 他のみんなは殺しておいて、何故……?」
「…………」
気づけば涙をこぼしていた。絶対に見られたくないのに。
それを見たコルベールは、ゆっくりと手でアニエスの涙をぬぐう。
「わたしはかつて、『王国の杖』だった。 焼き尽くせと言われたら、忠実にそれを実行した。 それが正しい貴族の在り方だと、ずっと思っていた」
「…………」
「けど、貴官の村を……、いや、罪なき人々を焼き払った時、それが間違いだと知った。わたしは『王国の杖』である前に、一人の人間なのだ。 どのような理由があろうと、罪なき人々を焼いていいわけがない。たとえ命令であろうと……、決して赦されることではない」
「………………」
「きみを助けたのは、そうだな……贖罪。そう、本当に贖罪だ。この身が滅んでも、罪は消えぬ。だから貴官に、わたしの死をゆだねさせようとしたのかもしれない。本当に、何処までも身勝手な理由で……、申し訳ない」
そうする内、アニエスを縛っていた氷は全て溶けた。コルベールはふらふらと、立ち上がって辺りを見渡す。
「あともう一つ……、彼が言っていたのだよ。正確には、彼の剣の造り主の言葉だが」
彼……、剣心のことだろう。察したアニエスは、コルベールの言葉を待つ。
「『何人も何人も殺しておいて、今更逃げるな』と。そうだ、わたしももう、逃げるのを止めたかったんだ。彼のように、正面から己の罪と向き合いたいと思ったんだ」
その結果がこれだがなあ……。コルベールはやるせなさそうに顔を俯ける。
「結局あの子……、ミス・タバサに、すべてをゆだねてしまった。本当に、彼がこの惨状を見たら……、わたしに何て言うのだろうか。呆れ果てて、言葉もないような表情を浮かべるのだろうか……」
「……先の銃撃は私の失態だ。貴様が気に病むことはない」
不意に、そんな言葉が口から出ていた。
そして己を恥じる。何故だ、なぜ二十年も追い続けた仇を、今更案ずる必要がある。こ奴はこれから、私の剣で、しかるべき報いを与えねば。
剣は折れたし、銃は弾切れだが……、周囲にはタバサが作った氷の刃物が散らばっている。これを使って、刺し殺すことはいつでも可能だ。
だが今は、周囲の現状確認だ。霧はだんだんと薄れていくのが分かる。
やがて、食堂の中心部にいた二人の影を、視界に映せるくらいにまで霧は薄まってきた。
そして――――。
「いやぁぁああああああああ!! タバサぁああああああああああああああああ!!」
キュルケの絶叫が、食堂に響き渡った。
絶叫が響き渡る、数十秒前の事。
「…………」
タバサは一人、倒れ伏した鵜堂刃衛を見下ろしていた。最後の最後まで愉しんだと言ったような、安らかな笑顔だけを残して、逝った。
それを見下ろすタバサは対照的に、絶対零度のごとく凍り付いている。
ガリア王族を示す青髪の先端は、氷で白に染まり、その上で血の塗料が塗られている。
負の感情で象られた
倒した、というより、殺した。遂に……。
確実に、着実に強くなっている。その感触は……確かにあった。
だが、それが何だというのだ?
結局また、大切な人は守れなかった。助けられなかった。
その事実が、どこまでも彼女の心を凍らせる。
自分の所為だ、自分が巻き込んだ。あの時……、『黒笠事件』に首を突っ込まなければ、強くはなれなかっただろうが、親友を巻き込むこともなかった。
虚しい、ただただ、虚しさが吹雪のように襲い来る。
こんなことで、本当に母を救えるのか……。いやもう、無理なんじゃなかろうか?
親友を守れなかった悔恨が、一種の諦めすら彼女の中で生まれだす。
身体が震える。足に力が、入らなくなる。
何故そうなるのか、さっぱり分からない。でももう、ここで倒れてしまっても―――。
そう考えていた時だった。
「タバサ!!」
自分を呼ぶ声。一瞬、幻聴を疑った。だってそれは……、もう聞こえる筈のない友の声だったからだ。
「タバサ! あたしよ!!」
そう言って此方へ来る影を見やる。氷霧の先にいたのは……、真っ赤に燃える、見慣れた髪。
そこで初めて、タバサは光なき瞳を、大きく動かした。
再び、瞳の中が輝きで潤い始める。
「キ、ュルケ……?」
「そうよ。アハハ……生きてましたの、あたし」
今度は幻覚を疑った。でも違う。熱が、声が、違うと言ってきている。
キュルケは無事だった。刺されたはずの傷口は、どうやら脇腹へとそれたらしい。
そしてその傷口も、タバサの氷とモンモランシーの水魔法でもう、塞がっていた。
痛々しい痕は残っているものの、こうやって歩けるあたり、本当に問題ないのだろう。
「てか、何気にあなた、初めてあたしの名前を呼んでくれたわね」
その瞬間、自分でもよく分からないぐらい、ほろりと、涙をこぼした。
それを見たキュルケが、ちょっとびっくりする。
「た、タバサ! そんな、泣くなんて大げさよ!」
「よ、が……っ、た」
「タバ――」
「よかったよおおおおぉぉ……!」
誰よりも、助けたいと思った人が生きていてくれた。それが分かっただけで、凍り付いた体が、心が、安らかに暖かくなるのを感じた。
気づけばほろほろと泣いていた。それほどまでに、彼女が生きていてくれたことに、安堵した。
ほっとしたら、今度は眠くなってきた。
きっと疲れたんだな。うん。
「タバサ、え…あなた…それって…」
もう寝よう。起きたらもう、全部が終わっているような、そんな感覚があった。
「う――、タ――、待っ――」
ああ、母さまが、父さまが、安らかな笑顔でこちらに手招きしている。
母さまに、またタバサのお人形を、披露してあげなくちゃ。そしてうんと褒めてもらうんだ。
そうだ、今日は誕生日だった。ドラゴンケーキ、楽しみだな。
日当たりのいいところで、父さまと叔父さまがチェスをするの、また見たいな。
ま た あ の こ ろ に も ど り た い な 。
「タバサ、えっ……?」
氷霧が晴れた後、キュルケは絶句した。
タバサが刃衛を倒したというのは、遠巻きでも理解できたから、彼女に駆け寄って自分の無事を伝えたかった。
自分が生きていることを知った彼女は、滂沱の涙を流してくれた。それぐらい辛い思いをさせてたんだな……と、力が及ばなかった自分を恥じた。
でも、それと同じぐらい、自分と彼女とは、強い友情で結ばれていたということに、嬉しさを感じていた。
そんな思いを巡らせていた時、気付く。
「あなた、それって……」
濃い氷霧がタバサの下半分を覆っていいたため、気付かなかった。晴れてようやく分かった。
タバサの左腰から腹にかけて、刃が埋まっていたことに。
刃衛の放った最後の一撃、『最大左右同斬』。それに対しタバサは右側の刃は破壊した。
だが、左の方は無防備だった。というより、余裕がなかったと言ってもいい。だから、左は貰う相打ち覚悟で攻撃を放っていたのだ。
コルベールの炎で融解した刃。今は冷気で根元が折れていたが……、それでも鋭い鉄の一撃は、このあどけない少女の腹を裂いていた。
キュルケは蒼白になった。それと並行してタバサの表情に、色が消えていく。
「嘘でしょ! やだ! 駄目タバサ! 待って――――」
しかし、もう自分の声は聞こえていないようだった。
そのまま、まるで刃衛の後を追うかのように、タバサはゆっくりと倒れ伏し、そこに血だまりを作り上げていった。
「いやぁぁああああああああ! タバサぁああああああああああああああああ!!」
その声に、コルベールが、アニエスが、モンモランシーが反応した。
みんなが慌てて駆け寄る。そこには腰から夥しい量の血を流すタバサと、必死で呼びかけるキュルケの姿があった。
「ミス!!」
「うぁっ、何よこれ……ぇ!!」
「……ッ!!」
三者三様に驚愕の表情を浮かべた。コルベールは慌ててタバサの手首に指をあてる。しかしもう、体温は感じられない。
ギリッと歯を食いしばった。心内では既に「諦めろ」と、囁きかけてくる。
『火』系統で、数々の死に携わっていたからこそ分かる。
この体温は、もう……。
「先生、お願いします! 何でも! 何でもしますから!!
「キュ、キュルケ……」
モンモランシーが一瞬冷静になってしまうぐらい、キュルケは取り乱していた。いつも生意気な態度でからかってくるくせに……。その悲痛な表情を見て、思わず涙する。
「気持ちは、痛いほどわかるわよ。でも、これはもう……」
「嫌よ! あたしだってこうして生きてるんだから! この子だって!!」
「…………」
アニエスは顔を上げられなかった。元はと言えば自分の責任なのだから。
あの時、間違って撃たなければ……。こんな最悪なシナリオにはならなかった筈だと。何度も自分を呪う。
そんな時。
「きゅいいいいいい! お姉さま、お姉さまああああああ!!」
そう叫んで食堂に現れる者がいた。シルフィードである。
竜の姿では食堂に入れなかったため、人型の姿の一糸まとわぬ姿で走ってきた。
「やだ! お姉さま! 消えちゃう! お姉さまのルーンが消えちゃうぅうううううううう!」
大粒の涙をこぼして、思い切りタバサに駆け寄った。突然の闖入者に周囲は驚くも、あまりの形相なので彼女が誰なのか、質問するのを後にする。
「ねえ助けて! お姉さまを、誰か助けてなのねぇえええ!!」
「……まずは刃を抜きましょう。次に止血。そこからです」
左腹から真ん中まで食い込んだ刃を見やりながら、コルベールはすぐさま動く。
今はもう、議論している間すら勿体ない。やるだけやろう。そう思った。
『レビテーション』を使い、ゆっくりと、引き抜いていく。
だが……。
「ぐぶっ、ぐっ……」
「先生!!」
コルベールでさえ、完全に回復したわけでは無い。むしろ本来なら、すぐに治療が必要なほどの大怪我を負っている。
そんな中、彼も無理して動いているのだった。
おまけに銃弾がどうやら肺に食い込んだらしい。精密な作業など、できるわけもなかった。
「せ、先生! わたしが!!」
モンモランシーが水魔法で、コルベールの背中を癒した。深手を癒す『
なので、精神力をすり減らしながら、モンモランシーは魔法を唱え続けていた。しかし、とうとう限界が来る。
「っ……」
眠気が襲ってくる。声に力が抜ける感覚が、モンモランシーにの身に降りかかってくる。
もうダメだと、一瞬この場の空気が、最悪な方に向かい始めた時だった。
「安心なさい。わしがきた」
「おっ、オールド・オスマン!」
オールド・オスマンが、巨大なかばんを手に駆けつけてきたのだった。
「事情は全てモートソグニルから見て知っておるよ。大変じゃったのう」
そう言いながら、鞄の中にあるありったけの秘薬を使い、タバサにふりかけていく。
杖を振り上げる。詠唱。それだけで刀は静かに抜けた。
「が、学院長……」
「任せなさい。まあ、やれるだけ、やってみるわい」
そうするとオールド・オスマンは、的確な指示を残った銃士や女教師に下していく。だてに長生きしていない、ただの助平爺さんではないと、皆にそう思わせた瞬間であった。
服を脱がし、治療を開始する。
しかし、血だけは一向に止まらない。
「まずいのう。止血がうまくいかん、このままでは……」
最悪、出血死する。
本格的な治療が始まってから、あまりにも血を流しすぎた。
「えっ! どうなの!? 助かるのね!?」
「静かになさい。彼女の傷に響く」
それを聞いてからは、シルフィードは両手で口元を閉じた。そのせいで豊満な胸が、あられもなく見えてしまうのだが。
まずい、これはまずい。集中できん。というかもう、鼻血を出している。
煩悩と格闘するせいで、精度も鈍っていく中、コルベールが言った。
「学院長……、秘薬を一つ、わたしに」
「何か考えがあるのかね?」
渡りに船で助かった。とオスマンは内心安堵しながら尋ねる。
「傷を、焼き潰します」
「なんと!? しかしそれでは……」
「はい、間違いなく火傷の痕は残るでしょう。ですが現状、それしか手はない。彼女には悪いですが……」
秘薬の一つを一気飲みした後、コルベールはゆっくりと、杖を向ける。しかし手が、呪文を唱える声が震えている。
「肺をやったのかね」
「……っ、二十年前のツケですよ。これぐらい、今のミスの痛みと比べれば……」
それでも苦しそうに咳をする。弾丸が、内臓に食い込んでいるのだった。
それを見たモンモランシーは、疲労で眠るの堪えて、みんなに告げる。
「ならわたしが……、先生の体内にある弾丸を摘出します」
「えっ!」
「ミス!?」
弾丸の摘出。それは確かに、『レビテーション』を使えば、抜き取ることができるだろう。
だがそれは、一部の隙も無い流暢な動きでなくば、抜き出す際、他の内臓を傷つけてしまう危険な技術。
代々、体内の流れを診ることに長けた『水』系統の使い手であるとしても、容易ではない筈だった。
でも……、とモンモランシーは無意識に拳を握る。
「わたしの周りに、これ以上悲しみがあるのは許せない。あるなら……、癒さなくっちゃ気がすまない」
この戦い、自分は足手まといでしかなかった。だからこそ、身を張って助けてくれたコルベールやタバサは、絶対に助けたい。
自分の戦いはここにある。モンモランシーは目を見開かせた。
「そうか、では頼む」
「はい!」
そう言って、コルベールの上の服を一度脱がせる。その時表れた、引き攣れた火傷痕に一瞬、たじろいでしまう。
「はは、済まない。見ていて、気持ちのいいものではないだろうね」
「いえ、大丈夫です。失礼」
これ以上は臆さない。今はオスマンが必死に出血を抑えているが、それでも徐々に漏れ出している。
確実に止めるには、何としてもコルベールの火の治療が必要だ。
モンモランシーは一度、覆いかぶさるように、コルベールの背に身体を預ける。そうすることで一度、何処に弾があるのかを探っているのだった。
目をつむり、集中する。極限の緊張が、かつてないほどに神経を張り巡らせるような感触を受ける。
「モンモランシー、お願い……」
隣では必死にキュルケが祈っている。彼女にも攫われかけたところを助けてくれた、その思いに応えたい。
モンモランシーも知らず、『水』の二乗、ラインクラスに引きあがっていた。
(あった!)
傷口から、血の流れを手繰ってようやく見つける。肺に直撃はしていないが、呼吸で身体が鼓動するたびに当たっているようだ。これでは苦しいのも当たり前だろう。
杖を改めて構える。『レビテーション』を唱える。
「少し痛いでしょうが、ご容赦ください」
「ああ、問題ない……!」
集中して、体内に食い込んだ弾に狙いを定め、真っすぐ後ろに引き抜けるよう、力を籠める。
「――ぐっ!!」
コルベールは目を見開かせた。歯をくいしばって耐えている。辛いのが一目でわかるほどに。
だが逆にそれが、モンモランシーの覚悟をさらに強くさせた。
(人一人助けられないで、何が水系統。何がモンモランシ家よ!!)
自分と
吸って、吐く。吸って、吐く。吸って――――。
(今!)
杖を思いっきり引き上げた。瞬間、痛みを感じさせる間もなく、血に塗れた銃弾が、外へと飛び出した。
「やった――!!」
後は塗るタイプの秘薬を使い、傷口を塞ぐ。これだけでコルベールの顔色が、どんどん好調の兆しを見せた。
「済まない! 恩に着るよミス・モンモランシ!」
すぐにコルベールは呪文を詠唱した。小さな白炎の蛇が、タバサの傷に纏わりつく。
そして次の瞬間、横一文字の傷口を一気に焼き潰した。
ジュッ! と肉の焼けるような嫌な臭いが充満する。臭いに耐えきれず、吐く銃士や教師を置いて、コルベールはひたすら集中する。
オスマンもまた、『錬金』で秘薬を血液に変換し、彼女の輸血作業に入る。
その隣では、キュルケがタバサの手を掴んで必死に祈りをささげていた。
(お願いします神様。シャルロットを連れてかないで……。お願いします……!)
そう呟いているのが、口元で分かった。それを見たコルベールもまた、意識を強く保つ。
何とか最低限の火傷で、タバサの血は無事止まった。
もう、やれることはすべてやった。後はもう、ひたすらに『治癒』を唱え続けるだけだった。
(お願いします、お願いします、お願いします……)
(大いなる意思よ。お願いだからまだ……、お姉さまを連れて行かないで……)
気づけばもう、とっくに朝日が顔を出していた。それでもなお、食堂の時間は止まったかのよう。
そして――。
「っ!」
「きゅい!」
タバサの指が一瞬だけ、確かに動いた。
「タバサ!」「お姉さま!」
ついで微かであるが、胸が上下に動き出す。
無事タバサが帰ってきた。それを、みんなが理解した瞬間だった。
「やったああああああああああああ! きゅいきゅいい!」
シルフィードが大声を上げてガッツポーズをした。次の瞬間、オスマンの注意を思い出して、慌てて口元を抑える。
キュルケもまた、フッと力が抜けたかのように蹲った。
「良かったぁ……。本当に、うぅっ……」
そしてそのまま泣き始める。その様子をやり切った微笑みで眺めていたモンモランシーは、ここで身体を大きくぐらつかせる。
完全に気が抜けて、抗いがたい眠気に襲われたのである。
「モンモランシー!」
慌ててキュルケが身体を支える。モンモランシーはふらふらになりながら、最後にこう言った。
「これで、さっきの借り……、返したから、ね……」
そしてゆっくりと瞼を閉じる。
キュルケは先ほど、誘拐されかけた彼女の事を思い返した。そして優しく、彼女の頬を撫でた。
「本当にありがとう。ゆっくりとお休み……」
キュルケは再び顔を上げる。この時にはもう、タバサの顔は見る見るうちに血色が戻ってきていた。
そこまで来た時、オールド・オスマンが大汗を掻きながら言った。
「とりあえず、これで大丈夫じゃろ。後はどこかでゆっくり養生できる場所に、移すだけじゃ」
秘薬はもう使い果たしたしのう……。と憂うように続ける。キュルケは鞄を見る。確かに入っていた薬瓶は全て空になっていた。
「あの、それなんですが学院長」
「なんじゃね? ミス・ツェルプストー」
「あたしの家なんてどうでしょう? 国をまたぐ移動をすることにはなりますが、資材は豊富ですし、あたしが責任をもって面倒を見れます」
胸に手を当て、力強い声でそう言った。これはオスマンにとっても願ったりだった。これから様々な事後処理に追われることになる中、タバサも同時に看てられるか、自信がなかったからだ。
「分かった。ではお願いするとしよう。これは特別休暇という扱いにしておく。龍籠も手配しよう。彼女のことをよろしく頼むよ」
「あ、じゃあそれはわたしが運ぶのね」
涙をぬぐっていたシルフィードが、ここで手を上げた。そこでキュルケ達も、ようやくこの謎の裸体美少女に目をむける。
「ああ、そう言えばあなた。イルククゥじゃなかったっけ? でも、シルフィードでもある……と?」
チクトンネ街で会ったことがあるため、顔は覚えていたキュルケはそう尋ねる。
シルフィードはもう、仕方ないだろうといった風情で話し始める。
「うん。お姉さまは黙ってろって言ってたけど。わたしは風竜じゃなくて、本当は風韻竜なのね! だからこうして精霊の力を借りて、人間の姿にもなれるのね!」
「韻竜! あの子韻竜を召喚したの!?」
とっくに絶滅したかと聞いていたのに……。だがキュルケは、不思議とその事実をすんなり受け入れる。
タバサの実力を思えば、それぐらいの使い魔を召喚したっておかしくはないだろう。
そして、それを誰にも教えずひた隠しにしていたのもあの子らしいな……。と思い、それ以上質問を止める。
「分かったわ。じゃあタバサと……、あとコルベール先生もあたしの屋敷に運ぶの、お願いしてもいい?」
シルフィードはきゅい! とひと鳴きする。そして竜の姿に戻るため、足早で食堂を去っていった。
それを見送っていたキュルケはここで、完全に精神が切れかかっているコルベールへと目を向けた。
「先生も、しばらくはあたしの家で休養してください。何もできず、何も知らなかったバカな生徒の家に来るのは……、さぞ心苦しいかと思いますけど」
「そう卑下しないでくれたまえ。あの時、わたしを教師と呼んでくれた時……、心底嬉しかったよ」
刃衛に向かって啖呵を切った時の事を思い出し、少しキュルケは顔を朱にする。
なぜだろう。コルベールの憂いの笑顔を見ると、鼓動が確かに、これ以上なく跳ねた気がする。
自分の中で強い『何か』が灯ったような……、そんな感じが確かにあった。
やがてコルベールもまた船をこぎ始める。顔が上下に揺れ動き始めた。
キュルケはコルベールの顔を優しく自分の胸に埋める。やがてコルベールもまた、ゆっくりと瞳を閉じた。
「学院長。コルベール先生も、連れて行ってよろしいですね?」
一連の流れを見ていたオスマンに、キュルケは再び尋ねる。オスマンは若干、悔しそうな顔をしながらも頷く。
「勿論じゃ。この野郎……うらやま、ううん。そのまま帰ってこんでも……、ああいや、ゴホン。好きにしなさい」
「やった!」
そして一旦、コルベールを横にして寝かせると、一旦立ち上がって、ずっと固まったままでいるアニエスのところへ向かった。
アニエスは、ずっと蹲っていた。まるで心を、どこかに置いてきてしまったかのよう。
先ほどの治療も、アニエスは何もできなかった。何処までも無力でしかなかった事実に、打ちひしがれているのだろう。キュルケはそう思った。
「………………」
時間が止まっている。そう思わせる顔だった。それでも、きっぱりと言わなくてはならない。
「これから、タバサと先生は、あたしの家で養生することになったから」
「……」
何も返さない。
ただ、目だけはこちらに動いた。話は聞いているのであろう。キュルケは続ける。
「あなたと先生に何が起こったのか、あたしは詳しくは知らないわ。でも、これだけは言わせて。先生は、あなたのことも助けようとしてたのよ」
実際、間近で刃衛とコルベールと戦闘を見ていた時、キュルケは気付いていた。刃衛の目線が何度か、アニエスの方へ向いていたことに。
揺さぶりのつもりだったのかもしれないが……、それでもあの時、コルベールはアニエスの元へ行かせないよう、かなり警戒を払っていた。
そしてアニエスもまた、先程の寒波に巻き込まれた際、重症なのを押して自分の氷を溶かしてくれたことを思い返し……、思わず唇を噛む。そこから、一筋の血が流れた。
「そしてもう一つ。あなたは先生を恨んでいるみたいだけど……、あたしも今、あなたを恨んでいるってこと。忘れないで。あの時の銃撃さえなければ、こんなことにはならなかったのは、あなたが一番よく知っているでしょう?」
アニエスはそこで、ハッとした様子で顔を上げた。キュルケは今、静かに一筋の涙を、流していた。
怒りで歪んでこそいない、静かな表情だったが……、だからこそ、本気で怒っているということが嫌でも伝わる表情。
「もし、これで……」
震える声ながらも、決意を秘めたかのような、力強い声で続ける。
「もしこれで、タバサや先生が死ぬようなことがあったら……あたしはあなたを絶対に許さない。この杖で、必ず、あなたに報いを受けさせる。あなたは、あたしから最愛の友を奪いかけたってこと、絶対に忘れないで」
そこまで言って、キュルケは離れた。
こうでも言わないと、コルベールをずっと狙い続けると思ったからこその、発言だった。
それを聞いていたアニエスは……呆然とした表情で、キュルケの背中を見送る。
もうすでに、自分は恨みを晴らす側ではなく、恨まれる側になってしまったことに。そして頼った人に、仇に、自分の不甲斐無さを全て押し付けてしまったことに、心が悲鳴を上げていた。
だが、どうすれば良いのだ。私の二十年は一体、何だったんだ……!!
そんな思いもまた、駆け巡る。
そしてとうとう、決壊した。
「うわぁああああああああああああああああああ……っ!!」
まるで二十年前の子供に戻ったように、ただ泣いた。
蹲り、ひたすら嗚咽を漏らす。
銃士たちは、いつも気丈な彼女のこの様子に、ただあたふたしていた。やがて、それを見かねたオスマンが告げる。
「しばらく、そっとしておいてあげなさい。きみたちも、今日はここでゆっくりするといい」
下心ではない、純粋な気遣いの声に、銃士たちも力なく頷いたのだった。
これだけの悲劇が起こりながらも、今日もいつもと変わらぬように、陽が昇っていく。
トリステイン魔法学院、そのアウストリの庭にて。
キュルケやオールド・オスマン含む銃士たちが、鵜堂刃衛の火葬を執り行っていた。
『アンドバリの指輪』がある以上、もう死体を利用させないように、という処置である。
その背後では、龍籠の上に乗ったシルフィードもいた。自分の主人をこんな目に遭わせた、その元凶の最後を、きちんとその目に焼き付けたかったからだ。
籠の中には、担架で運ばれたタバサとコルベールが、眠りについていた。
(結局、お姉さまとのルーン……。消えちゃったな)
侘しそうな表情を、シルフィードは浮かべていた。
『使い魔か主人、どちらかが死ねばルーンは消える』と言われているが、まさかこんなあっさりと消えてしまうとは思わなかった。
また契約を結べば、使い魔になれるのだろうか? そんな疑問が、シルフィードに静々と襲い掛かってくる。
でも、今はそんなことを考えても仕方がない。とにかく今は、彼女がゆっくりと養生できるよう、何事も起きぬよう、願うしかない。
(お願いだから、お姉さまが目を覚ますまで任務の手紙が、来ませんように……)
シルフィードは再び、大いなる意思にそう祈りながら、立ち上る刃衛の火葬の煙を、見やっていた。