男が扉を開けると、いつも通り扉の傍にある机に座り、熱心に本を読んでいる中年の男性がいた。少々痩せ気味な体はこのヴァスゲルド中央区では珍しい物で、男とこの中年男性――図書館の主を別とすれば、男が知る限りでは数人と居ない。
男が自らの城に入ってきた事に気付いたのか。男性は僅かに本から目を上げ、男と、その後ろに居る数人を一瞥した後、また目を本へと落とした。
他人に興味などないのか、それとも今手にしている本がいい所であるのか。
深々とフードを被った二人、エリザヴェータとミレットがいてそんな態度なのだから、元々他人に興味が無いだけだろう。
男は軽く一礼してから、男性の横を過ぎていく。続く皆もそれに習い一礼し、そして男は、いつも座る奥のテーブル、そこに誰も座っていない事を確かめ本棚の一角に近づいていく。
狭い図書館である。時間があれば入り浸り、手当たり次第読み漁っていれば、目を通していない本などもう僅かだ。今や数少ない未読書物を三つほど手に取り、男はエリザヴェータと少女の姿を探した。
「んー……私は化粧品関係でも探してみるかな」
「え……エリザヴェータが?」
「そこまで驚くような事かい? ……まぁ、いいさ。私の為じゃないよ。ジュディアに頼まれてね」
口元に手を当て驚きの相も隠さない少女に、肩をすくめて返すエリザヴェータ。そんな二人の姿に男は溜息を吐き、先程誰も居なかった事を確認した机へと歩み寄ろうとし、立ち止まった。
男の視線の先には、椅子を引いて待機するミレットがいた。おまけに椅子には、ハンカチらしき物まで敷かれていた。白いそれは、ミレットの物なのだろう。
「……そこまでしなくても」
「ここは少々埃が多い様で御座いますので」
「それが良いんだろうが」
「如何様。流石で御座います」
男は持っていた本の背で軽く肩を叩き、椅子に腰を下ろした。
さて、と男は本を正面に置き、ページをめくろうと手を伸ばし……視線を感じた。何かと思いながら正面に目を向けると、そこにはいつの間にか椅子にちょこなんといった様子で座る、二人の少女が居る。元々小柄な少女二人である。小さくなって佇む姿は愛らしい物であるが、そうなってしまう要因はどこにあるのだ、と男に首を傾げさせた。
その男の様を見て、エリザヴェータが小さく声を発した。
「いや君、私達は冒険者と言えどもただの一般市民だよ。メイドを侍らせて、こうも当たり前と言った姿を見せられれば、少々気後れもするさ」
そうなのだろうか、と男はエリザヴェータの隣に座る少女を見えると、こちらは男の前に置かれた本をじっと見ていた。
つられる形で男は自身の持ってきた本に目を落とす。そこにはこう書かれていた。
『めいきゅうのおうさま』
シンプルな表紙に、シンプルな文字。それに合わせる様に、淡いイラストが描かれた本だ。
「あの、それ……御伽噺ですよ?」
「もうこれくらいしか、読むのがないんだ」
「……君は何気に凄いな」
戸惑いがちな少女と、呆れの含まれたエリザヴェータの視線に晒され、男は苦笑を浮かべる。計算速度もそうだが、男は本を読む速度も早い。
例えば、この図書館の主である中年男性が一冊読む間に、男なら三冊は読めてしまう。識字率も低い世界である。一単語、一文、一頁、それらに要する時間が、男とこの世界の一般的な読書人では相当違うらしい。
さて、それはそうと。男には言いたい事がある。
「で……えーっと、それ、全部読むのか?」
男は少女、その前に置かれた二十冊ほどの本を指差した。
「あぁ、こんなの一時間持ちませんからね……やっぱりこれじゃ少ないですよね?」
「ううん」
「ううん」
男とエリザヴェータ、二人が同時に首を横に振った。どうやらこの少女、一般的な読書人ではないらしい。
「でも……あの、普通図書館に来たらこれくらいは読みますよね?」
「エリザヴェータ、この人何気に凄いぞ」
「いや、普段は君も知っての通りなんだが、本が多くある場所ではこう、テンションが、ね?」
エリザヴェータは詳細に語らなかった。目を爛々と輝かせる少女の瞳からなんとなく目を逸らし、男は自身の前に置かれた本を数ページめくり……閉じた。次いで、男は天井を仰ぎ目を瞑った。
――あぁくそ、まただ。
口に出さず、ただ心中で舌打ちする。
「あの……どうかしましたか?」
耳に届いた少女の声に、男は目を開けて声の主に目を向けた。少女は首を傾げ、男をただ見つめている。そこに男の知る臆病な少女の姿は無い。
だから男は、真っ直ぐに見つめて声をだしてみた。
「質問」
「はい?」
「この本、文字に抜けがあったりする?」
男が差し出してきたページに顔を寄せ、少女は眉を顰め首を横に振った。
「いえ……普通です。何もおかしな所はありませんよ? ねぇ?」
同じ様に、開かれたページに顔を寄せていたエリザヴェータに少女は目を向け、同意を求めた。少女、そして男から見つめられたエリザヴェータは、顎に手を当て、ふむ、と呟いた後小さく頷いた。
「あぁ、いや、じゃあいい」
男のおかしな言葉にも、少女は首を傾げるだけで踏み込まない。エリザヴェータは男を観察者の態で眺めるだけで、男の背後に佇むミレットは置物が如くただ在るだけだ。
男には、本を読んでいると稀に全く読めない文字が出てくる。ニュアンスが分からない、読み取れない、そんな物ではなく、本当に読めないのだ。真っ黒に潰された何かが視界に映るだけで、凝視してもノイズが入りだし、脳の奥が痛くなる。しかもそれを、男は長く意識できない。
それは以前、エリザヴェータとの会話中にも在った事なのだが、男はそれを覚えていない。いや、覚えられない。そうなってしまったのだ。相談しようかと思う度、誰かに聞こうかと考える度、返った頃にはもう忘れている。
時折思い出すことも出来るが、それは読めない文字にぶつかった時だけだ。
このまま、また読めない文字が出た、と言うだけで諦め、男の記憶から消えるはずだった出来事は、しかし常と違うこの状況――他者が居ると言う事によって、大きく動いた。
「でも、めいきゅうのおうさま……カイン・フレイビットですか」
「三番目のカイン、瓦礫の王、の方で有名な王子様だね。あれは中々、夢がある」
目の前、二人の会話に男は目を細めた。その名は、英雄や武将が書き記された本で数度見ている。見ているが……何故か読めない部分が多いのだ。そこに元の世界に帰る為の情報があるとまでは男も思わないが、見えない情報への興味が無い訳ではない。
こうやって、見たときだけ読めないと思い出せる情報である。今、彼は知りたかった。
鋭い光が宿った男の瞳に興味を覚えたのか。エリザヴェータは肩をすくめて、隣に居る少女へ
「さて、彼はカイン・フレイビットの話をご所望の様子だよ。君に任せたいが、どうだろう?」
「えー……っと?」
少女は男の手元にある本を一瞥してから、困惑の相で男を見た。当然だ、と男は思った。話を所望だ、と言われても、その情報の一つは今自身の前に在るではないか。何故自分に、と少女が思うのは当然である。
しかし、自身だけでは無理なのだ。ノイズが、痛みが、邪魔をして無理で無茶なのだ。その意が通じたのだろうか。少女は口元に握った拳を当て、軽く咳払いしてから背を正した。
「で、では、光竜神殿三等神官、治癒士カリン……語らせて頂きますッ」
何やらおかしな調子で、聞かれていない自己紹介まで始めてしまった少女――カリンをじっと見つめながら、男は耳を澄ませた。
○ ○ ○
歴史上、カイン・フレイビットと呼ばれる人物は三人居る。
フレイビット、と言う姓は第二次創生戦争で火焔竜の騎手として登場したグレン・フレイビットの物である。当然、彼らはその英雄を祖にもつ子孫達であり、生まれた時代には大きな差がある。
だが、ここがおかしな所なのだが、彼ら三人のカイン・フレイビットは、時代の差こそあれ、伝承上では血と肉に大差はないのだ。
まず、一人目のカイン・フレイビット。白の炎使い。血狂い。覇王。竜殺し。
彼は祖であるグレンと同等の炎の力を身に宿し、グレンの興した国に妾腹の子として生まれた。生まれの低さ、末子と言う立場から、彼に王位継承の機会はまず無いと思われていたが、彼は自身より才覚の劣った兄達をあらゆる手段で殺害し、王位に就いている。王となったのがまだ十代の頃であったと言うから、彼が手に掛けたのは兄達だけではなく、父も含まれていただろう。
同様、血縁関係にあった大貴族なども一切の容赦なく粛清し、最初に他国からつけられた名は、血狂い、であった。
王位に就いて彼がまず成した事は、大貴族達の粛清、そして他の国家を守る竜達を殺す事だった。竜とは人の手に余る物である。故に彼はそれを恐れ、忌避した。人の世は人の手に在るべきだと彼は叫び、生まれ持った才能全てを戦乱へとつぎ込み、十数年の歳月を経てようやっと九匹の竜を殺し尽くし、国に凱旋しようとしていた時、居ないはずの十匹目の竜、魔王の翼に襲われた。
国を出た時には十万以上居た兵は千にまで崩れ、彼は満身創痍で城へと戻り……自身の娘に毒殺されている。
信じられない話だが、最盛期には世界の半分を手中に収めた、と伝えられている。
さて、次は二人目のカイン・フレイビット。黒の炎使い。災厄の王子。
彼の生誕には伝承が多く、正確な事は分かっていない。ただ、一般的に伝えられている話では――禁忌の人間なのだ、彼は。
カイン・フレイビット亡き後、後継に恵まれなかった大国は乱れ治まらず、結局大小様々な国へと分かれて行った。
それから百年ほど後の事である。フレイビット王家嫡流である、と称する小国に奇妙な魔術師が現れ、自らの国の領土の狭さに嘆く王にこう囁いた。
『世界の半分を手にした、貴方の祖の様になりたくないか』
と。成れる物ならと返す王に、魔術師は笑って懐から骨を一つ取り出した。
『魂と肉とは、決して離れぬ物。であれば、肉があれば魂は戻る』
今や失伝し、禁忌の中でも最大の禁忌される邪法を用い、カイン・フレイビットの肉体を再生させれば、魂は、才能は、肉体に戻ると魔術師は狂笑の中で語ったのだ。
それを王は、飲み込んだ。何を馬鹿な、と返す事も無く、王はただ頷いたのだ。
そして生まれたのが、二人目のカイン・フレイビットである。
才高く、在るだけで人を惹きよせる彼は、しかし驚くほど穏やかな人物であった。争いを、と求められる度、彼は首を横に振り続け、王宮からは遠ざかり、権柄を手中に置こうとは決してしなかった。
だが、世とは皮肉な物である。彼は最後、自身を慕う者達を率いて他国へと亡命しようとしていたのだが、それを王に察知され、自身最初で最後の争いを起こしてしまった。
亡命への途上、王命によって追ってきた軍を相手に、自身に従う者達を守るため、彼は身に在った才全てを使い兵を斬り、焼き払い、そして最後は自らの力の暴走により、自身の生まれた国一つを巻き込んで消滅した。
そして、三人目のカイン・フレイビット。瓦礫の王、迷宮の王、紅の審判、白と黒の炎使い。
彼もまた、伝承では二人目と同じ生まれである。
つまり、人の腹から生まれた存在ではない。しかも彼は、一人目のカインの肉と、二人目のカインの魂で作られたと伝えられている。どうやってカインの肉を用意し、消滅した二人目のカインの魂を再生させたのか、その辺りは書によって全く違い、正確な事はわかっていない。
いや、そもその生まれもただの伝承であり、二人目も、そして三人目の彼も低い身分の生母を持つが故、またその後の物語が在るが為、何がしかの伝説を必要としただけだろう。凄惨な過去、または神秘。それらがなければただの人だ。英雄には人と違う生まれや物語が必要なのだ。
兎に角、彼は小フレイビット、と呼ばれた場所に生を受けた。フレイビット王家を祖にもつ傍流、その分家の生まれである。彼の父は第二子であるという理由だけで、分家を継ぐ事になった人物である。その不遇を呪ったカインの父は、巨大な力を宿すカインを使い、兄の継いだ本家へと矛を向け、その争いは世界を巻き込んだ。癌細胞の如く広がる争いの中、カインはそのつけられた名に恥じぬ活躍を見せた。白と黒、二色の炎で戦場を焼き、真紅に光る双眸は、映る全てを塵と冷たく見据え、淡々と命を処理していった。
だが、突如として戦乱に幕が下ろされた。小フレイビットの主、カインの父が名も無き傭兵に、戦場で殺されたのである。巨大な力は持てど、戦略も戦術も知らず、ただ戦闘しか知らぬカインでは戦線も維持できる筈も無く、敗戦に敗戦を重ね、いつしか彼の名は歴史の中に埋もれていった。
その筈であった。
歴史に埋もれ、また、小さな戦場で死んだとされていたカインは名を変え、ある都市で生活していた。歴史はその時、彼が何をしていたのか黙して語らない。
ただ、彼が最後に向かい、そして戻ってこなかった場所だけを記している。
都市ヴァスゲルド、その地下世界。
迷宮である。
書はまた、こうも続ける。
三人目のカイン・フレイビットは冷酷な戦場の処刑者であった。王にはなれぬただの炎使いであった。だが、それは人の世の話ではないか。
彼は、地下世界でならば名君となるだろう。薄暗く狂った迷宮の中で蠢く異形の者達の王として、彼以上に相応しい者等いないのだから。
○ ○ ○
「そしていつか彼は、モンスターを率いて地上世界へ戻り、再び炎で焼き尽くすのだ、と」
語り終えたカリンは、紅潮した頬の熱を逃す為か、小さく息を吐いた。
「で、その後の話が、君の手元に在る御伽噺なんだよ」
カリンの後を継ぎ、肩をすくめるエリザヴェータに、男は自身の前にある本を見た。カリンが話をしている間、読める部分だけはなんとなく目にしていたので、話としては男も理解できる。
「その数百年後……今から二百年程前、だったか? 赤い目と黒い髪を持つ男がモンスターを引き連れて迷宮から出てきて……」
「時のヴァスゲルド伯の軍勢と衝突、その後迷宮に戻ってまた音沙汰なし、だよ。ただの噂話で、いまや御伽噺だけれどね」
何故それが御伽噺になったのか、と言えば簡単だ。悪い事をしていると迷宮の王様がまた来るよ、と子供に言い聞かせる為の物である。どこの世界でも、こういった話はある。
男は、なにやら満足気な相で微笑むカリンと、観察者の視線を隠さないエリザヴェータ、そして扉の前にある机の上で、本から目を離し非難がましい視線で睨んでくる中年男性を順番に見てから、最後に背後へ振り返った。
「一地方都市の貴族が率いる軍に負ける程度の王様が世界に戻ってきたとして、それは怖いって程のモンか?」
「王様がモンスターを率いてご出陣なされば、最初の犠牲者を出すのはこの都市の一般層で御座いますが」
「あぁ、なるほどな……一般層には御伽噺、上の層だと一応の軍備の言い訳、とかか?」
ミレットに問うた声は、しかしカリンとエリザヴェータを驚かせた。
「冷静に見ますね……」
「だろう? 彼は前提となる歴史的な背景を理解した上で排除して、その部分だけを見たからね」
人々が恐れているのはカインの伝承であり、実際に出てきたとされる王様ではない。それらを切り離して見る事が出来る男は、この世界の基準で見れば冷静に過ぎる。
――で、もしかすると。
市民層には噂や御伽噺でも、実際に矛を交えたかもしれない貴族連中の間では、また違った話が残っている可能性もある、と男は考えた。
男は二人の少女の声にはなんら反応を示さず、ただ黙ってミレットを見つめた。カインの話でも出てきた紅い瞳。
今はフードの奥に隠れた紅い瞳を持つメイドを、男はいつまでも見つめ続けた。
この辺りで、どうしても説明する必要があったのでここで。
そして、ここで物語全体のターニングポイントです。
因みに、初代カインはどうやって竜を殺したかと言いますと……まぁ、書いてますよね、竜の騎手だったご先祖様、グレンと同等の炎の力を宿してる訳でして……あぁこれヒントどころじゃないぞ。まぁ本編には特に関係無い事ではありますが。