深海凄艦の攻撃により浸水、座礁して乗組員の居なくなったアーレイバーク級駆逐艦の内部に『彼女』はいた。侵入する海水により金属は腐食し、艦内の壁面は汚れや錆に覆われお世辞でも綺麗とは言い難い状況だ。『彼女』がいる場所がかつてどの区画であったかすら分からなくなる程人工物から自然の一部となりつつある艦内の奥へと歩を進める。水没した乗組員の遺体の眼窩から得体の知れない無脊椎動物が顔を出し『彼女』を一瞥すると再び眼窩へと引っ込んだ。
この一見して価値の無さそうな残骸はある理由から深海凄艦の二個艦隊によって護衛されていた。だがその護衛艦隊も今や水底に沈んだか『彼女』の胃の中に収まったかのどちらかの運命を辿る羽目となった。
『彼女』がここに来たのには幾つかの理由がある。一つは陽炎型駆逐艦娘との戦闘で受けた損傷を癒す為だ。
深海凄艦は脊椎動物としては常識外の耐久力とは別に強力な再生能力が備わっている。だがそれにも限度がありその上再生に必要なエネルギー消費は無視できず、特に艤装の修復には多大なエネルギーを必要とする。再生が追い付かず逆にエネルギーの大量消費によって衰弱死する個体も少なく無い。
故に『彼女』はエネルギー原となる豊富な動物性タンパク質──つまり餌を必要としており、その点において『彼女』を同胞だと思い込み警戒しない深海凄艦達は格好のターゲットであった。手始めに巡回中の駆逐艦数体を喰らい艤装を戦闘出来るレベルまで修復させてから本格的に襲撃、餌が動かなくなったところで磯臭いディナータイムへと洒落込んだという顛末だ。
『彼女』が右手に持つネ級の残骸の下半身を艤装の口が噛み砕き、骨や外殻が砕ける破砕音と肉や内臓を噛み千切る咀嚼音が『彼女』以外誰も居ない艦内を木霊する。口から緑色の血液が漏れ出し『彼女』の膝上数センチまで浸かった水面を染める。血と一緒に零れた肉のカスを小魚が水底から這い出て啄みに来る。
陽炎型駆逐艦との戦闘で受けた治りかけの傷が徐々に再生しだした。剥き出しの筋組織や血管を青白い皮膚が覆い隠す。艤装も同様に欠損部位である装甲や装備をワイヤー状のフレームが形作り、それを覆う様にして新たな外殻が構成されていく。
瞬く間に『彼女』は戦闘で負った傷を再生、完治させた。そしてタイミング良く『彼女』のもう一つのお目当てとなるモノも無事見つかった。
彼女の眼前に鎮座する直径3~4メートル程のグロテスクな肉でできた子宮にも似た球体、それが彼女のもう一つの目的であり本命だった。球体の上部は花弁状の入り口が開いており、血管状の根とも触手ともつかない肉の紐が球体から幾つも伸びている。時たま球体の表面が発光しながら脈打ちこれが一応生物であると気付かされる。所々半透明になっている部分があり中を覗ける、中にはまだ何も入っていない。
このグロテスクな肉塊は人類が『再生の卵』と呼ぶ材料依存形式の深海凄艦製造体だ。他の製造体と違い大規模なコロニー形成を必要としない代わりに一体一体製造するのに他の生物の死骸を製造材料として必要とする。
逆に言えば水分と死体を供給できる体制さえ整えば他の製造体とは違い沿岸部や海面、海中にコロニーを形成する必要が無いので場所を問わず設置でき、前線に設置し仲間や敵の死体を材料にしてその場での人員補充に用いるという使い方も出来るのだ。
『彼女』は花弁の中に右手に持つネ級の死骸を投げ入れる。更に左手に持つ艦娘──首と脚の無くなった白露型駆逐艦の艦娘に初春型駆逐艦娘の艦娘の首を針金等で強引に括りつけたもの──の残骸にキスをすると足元へ落としPKシュートを決めるサッカー選手の如く蹴り上げた。天井に当たってから跳ね返り花弁へと落ちる。
「ナイスシュート!」
『彼女』は人間の言葉でそう言った。深海凄艦の言葉だけでは彼女の多様な感情を表現するのには少なすぎたのだ。語彙は艦娘や人間から奪った無線機越しに聞こえる会話やラジオ放送などで覚えた。
花弁が閉じたかと思うと再生の卵が活発に拍動し始めた、新たな深海凄艦を作り始めたのだ。この程度の材料では一体生まれるのが精一杯だろうが別に数は問題では無い。何が生まれるかが問題なのだ。
用事を済ませたのでこの場所から出ようと思った矢先、『彼女』は今いるこの残骸はかつて人類が作った兵器であった事をふと思い出した。攻撃を受けたせいか波風に晒されたせいか武装の欠落もあったが他にもまだ沢山残っている筈だ。
「奪えるモノは…」
壁に右手をつく、鈍い重低音と共に細かな亀裂が手の周囲に走る。振動で『彼女』の周囲を泳いでいた小魚が物陰へと避難した。
「奪っておくか…」
掌から血管状の触手が伸び蔦の様に壁一面へと広がる。壁の隙間にも侵入、侵食し艦内の至る所を覆い尽くす。今外からイージス艦の残骸を見れば全身を黒い血管が走りあたかも一つの巨大生物の様に思えるだろう。
この触手を使い『彼女』は対象の兵器の情報を読み込み自分の力の一部として行使できる。元々この触手はレ級の固有能力として備わっているモノだが同胞や艦娘の兵器しか読み込めない通常種とは違い『彼女』は人類が新たに造り出したWW2以降の現代兵器すらも読み込めた。人類側にとって幸だったのは『彼女』は仲間と行動する気は無く自身の欲求の為なら仲間ですら殺す性分だった事だろう。
触手からイージス艦の情報を読み込む『彼女』の顔は快楽で染まっている。新たな情報が脳へ流れる度に脊椎を直接撫でられるみたいな感触に身を捩じらせる。艤装を再構成する際に発生する疼きが『彼女』の快楽にアクセントを添える。隠そうともしない嬌声が艦内に虚しく響いた。
情報の流入が終り『彼女』は再びふてぶてしい、落ち着いた笑みへと戻す。用の済んだ触手がアポトーシスにより壊死し剥がれ落ち塵となって風化した。
尻尾に亀裂が走り外殻がボロボロと零れ落ちる、艤装の再構成が完了したのだ。外殻を突き破って新たな艤装が姿を現す。
まだ引っかかっている古い殻を左右に小刻みに揺れて払い落とす。生まれ変わった艤装は尻尾上側面に沿って四角い鱗状のパーツが新たに追加、艤装頭部後方にCIWSが新たに増設され側面の副砲は脱落し代わりに対艦ミサイル発射筒に換装された。皮膚を突き破り尻尾上面に背鰭状のレーダーアンテナが展開する。
産まれ変わった艤装を愛おしく撫でながらこの新たな力を発散する場を『彼女』求めた。そして幸運にもチャンスは向こうからやってきた。唐突に『彼女』にとっては聞き慣れた低バイパスのエンジン音が徐々に聞こえて来る。居場所を突き止められたのか人間が攻撃機を、しかも複数差し向けて来た。この音が聴こえる度に『彼女』は『お楽しみタイム』の中断を余儀なくされてきた。
だが今の『彼女』にとってそれは願っても無いチャンスだった。この能力のテスト相手として人類が新たに造り出した攻撃機は申し分ない。嬉々とした笑顔で『彼女』は残骸の外壁を砲撃、老朽化した外壁がいとも容易く吹き飛び海水が流れ込んだ。激流に逆らい尻尾をくねらせて泳ぎ艦内から海中へ脱出する。
水飛沫を盛大に上げて星が輝く夜空の下へと躍り出る、脱皮直後の生物特有の艶やかな外皮が月光に照らされ怪しく輝いた。
♢♢♢♢
執務室の壁越しからでも届いてくる雪風歓迎会の喧噪に鼓膜を震わせながら倉木と彼の秘書艦である大淀は執務をこなしていた。雑多な声による騒めきの中に那珂の鈴の音の様な透き通った歌声が流れてくる。
「結構盛り上がっている様ですね、前回の島風歓迎会の時とは曲が違う様ですし新曲でしょうかね」
「どうした大淀君、行きたいなら行っても構わないぞ。終わるまで君の分の仕事は私がやっておくから心配は無用だ」
「いえ、大丈夫です提督。これが私の役割ですから」
誰にでも当り障りなく受け入れられる微笑を浮かべたまま顔色一つ変えずに大淀は書類を捌く。非人間的にも思える彼女の仕事ぶりに倉木は有る種の危機感を覚えたがすぐに拭い去った。彼女らは元々人間では無い、ならば多少非人間的な部分があっても可笑しくはないのではなかろうか。
それでも疲労を溜め込み過ぎればいつかはガタが出始める。無茶な連続出撃の果てに戦死する艦娘達が後を絶たないのはその為だ。
「そうかね?息抜きするのも大事だと私は思うのだが。明日の命が保障されて無い我々なら尚更だ」
倉木は書類の束を机の脇に置き、また新たな書類を机の前に置く。書類を握っていない方の手でサングラスの位置を直した。
「ですが、今は気を抜ける様な状況では有りませんから」
「まあ、確かにそうだな」
どこか浮かばない面持ちで書類の一ページ目を開く、輸送船団の襲撃被害件数が海域別、時系列順に記されている。特に本土近海の被害件数がここ一か月に入ってから著しく上昇している。本来であれば本土からの輸送を一時中断し航路の安全確保に注力したいのだがそうはいかない事情があった。
タイミングが悪い事に南方方面の敵の動きが活発化し各々の拠点にある物資だけでは到底追いつく状況では無くなってしまったのだ。物資だけでは無い、艦娘も足りなくなっている、事実呉鎮守府を含む各拠点からは艦娘の応援が派遣されている。
「航路の安全確保もする、南方の戦力拡充の支援もする、両方ともやらなければならないのが我々の辛いところだな」
「更に哨戒任務中の艦娘がエンカウントした艦種も敵地偵察に向く駆逐艦や軽巡、潜水艦以外にも重巡、軽空母の割合も増えているとの報告もあります」
「戦艦や正規空母がまだ来ていないのが不幸中の幸いだな…だがそれも時間の問題だ」
重巡クラスの深海棲艦がいるのならば背後に戦艦や空母を擁した本隊がいるのは確実だろう。倉木にはそれについて思い当たる節があった。
「確か沖縄方面で日米両軍と深海凄艦の衝突が今も継続中、戦況は一進一退といった感じだったな。だが物資にも限度がある、不利なのはこちら側だ。一応発生源たるコロニー群は坊の岬沖に確認できたが…」
「現地の在日米空軍と空自が空爆を実行、コロニー壊滅を確認しましたが次の週に入る前には完全に復旧されてしまいました」
「コロニーが復旧…鬼、姫クラスの深海凄艦がいるのは確実だな」
深海凄艦の中でも特に戦闘能力が高くコロニー形成、修復能を持つ個体を鬼、姫クラスと呼ぶ。個体数は通常種に比べて絶対的に少ないが通常種を大きく凌駕する性能と自力で戦力を増強可能な二点において人類側から恐れられている。
「その鬼、姫クラスの個体を艦娘が確認したという報告はまだありません」
「だろうな、出来ているなら戦況はもうちょっとはマシになっている筈だ。応援を送りたいのは山々だが赤レンガは南方方面にご執心らしくてな、この前沖縄方面への作戦について意見具申したら突っぱね返されてしまったよ『敵戦力の把握が出来ない以上無暗に応援を出せる状況では無い』だとよ。それ以上に敵戦力が得体の知れない南方に戦力を向けておいてよく言えたもんだ」
「喉元のナイフより離れにある庭のチェーンソーを恐怖する、という事ですかね」
大淀が彼女らしくないジョークを口にするが倉木は笑わなかった、笑えなかったと言う方が正解だろう。喉元のナイフという表現は正鵠を射ていた。南方へ注力するのは戦後の利権争いに備えて周辺国へ媚びを売る為であろう。とは言えこのまま事態を放置すれば本土へ鬼、姫クラスの個体の接近を許す事になる。いつ手に入るか分からない金貨の代償に如何ほどの惨事が待ち受けるかは想像に難くない。金貨の価値が代償と釣り合うのかさえ分からない。
「どの道赤レンガが動かん限り沖縄への戦力派遣は望めん、こっちの身の安全も少しは考えて欲しいものだな、こんな状況で船団護衛など普通ではやってられん」
「その船団護衛に関してなのですが、明後日の沖縄方面の船団護衛任務に就くのが第十六駆逐隊、つまり雪風の艦隊なのですがいきなり病み上がりの新入りを参加させても大丈夫なのでしょうか」
リスキーな賭けが倉木の脳裏を過る。もし雪風を護衛任務に参加させアクシデント、例えば敵襲に遭ったとしよう。その際彼女がどういうアクションを取るのかが非常に気になる。あの『リヴァイアサン』を退けた艦娘だけに期待は一層高いが不安もある、彼女は駆逐艦だ、駆逐艦は(それ以外の艦娘でも有りうるが)一回の被弾が命取りとなる、非常に死亡率の高い艦娘だ。
だがまあいい、そこで死ねば彼女はそこまでの艦娘、自分の期待値以下の能力を持ち合わせていなかったという事実が残るだけだ。
「問題無いだろう、いや、寧ろ御誂え向きだと考えている。敵襲が無ければ彼女に海上での勘を取り戻すには持ってこいではあるし敵襲があれば彼女の対応の柔軟性を確かめられる」
「ですが一応他の艦娘にシフトを変えるというのもありますが…」
「非番の艦娘を連れ込んでもチームワークが乱れるだけだろう、雪風もその点では同じだが『あの戦争』では共に過ごした仲だ。見ず知らずよりはまだ上手く連携を取れる筈だ。一応念のため『首輪』もつけておく」
煙草を咥え、箱をポケットに戻すと右手でライターを取り、着火する。一服してから煙草の火を灰皿でもみ消し紫煙を虚空へ吐く。灰皿には吸い殻が三本程並べて置かれていた。
いつの間にか那珂の歌声が止み、代わりにこれからの波乱の予感を代弁するかの如く激しいエレキギターの演奏が執務室の壁を貫いた。
♢♢♢♢
黒の森にいた、正確には森の中の泉の黒い水面に立っていた。月明かりがかろうじて雪風の周囲数メートルをうっすらと照らす。森とはいっても雪風が見える範囲で葉を生い茂らせた木は無く全て枯れ木の様であった。冷たい風が雪風の頬を撫で服をたなびかせた、不快な冷たさに眉を顰めた。
足下をすべすべした感触の何かが駆け巡る。正体を探るべく足下を目を凝らしてよく見ると黒い水面と思っていたのは無数の黒い蛇だった。蛇の間からは、死人みたいに青ざめた水面が覗く。
ぎょっとしてやや仰け反った雪風の脚に蛇が絡みつく。手で振り払おうとするが蛇が絡みつく力は強く中々離れない。振り払おうとした腕にも蛇が絡みつき、噛み付いた。痛みに怯む雪風。その隙に蛇が一斉に雪風へと襲い掛かる。表面が蛇に覆われ体の至る所を噛まれた雪風は余りの痛みに耐えかね金切声で叫んだ。
「離れろ、それは『私』だ」
何処からか自分の声がした。自分で言った訳ではないのに自分の声が聞こえた、場所の判別まではつかなかった。綾波との模擬戦やあのステージで 聞こえた『何か』の声と口調が同じだった。
突如として蛇が雪風へと離れ、水面へと潜って行く。雪風の周りいた蛇以外も水面から姿を消す。全ての蛇が水面から姿をけすと同時に月が真上に来て泉の全体を照らした。
泉の中には、雪風が最期を見た艦娘の遺骸が幾つも漂っていた。漂う遺骸に蛇が齧り付く。泉の底は蛇に覆われて見えない。
状況の読み込めない雪風の肩を『何が』が叩く。振り向いたら『何か』の正体が分かった、『何か』は、自分自身だった。
『雪風』は眼がルビーを思わせる様な真紅で顔の半分を怪物の顔を模した黒い仮面が覆っていた。肌は雪風より白く死人を連想させるが佇まいは死人のソレとは程遠く気品を感じられ、容姿と相俟って地獄を統べる女王を連想させた。
もう一人の自分が目を細め邪悪な笑みを浮かべる。こいつのせいだ、こいつのせいで雪風は綾波によからぬ大怪我を負わせてしまい更にはステージで苦しい思いをする羽目になったのだ。反射的に雪風は身構える。対する『雪風』の態度は飄々としたものだった。
「そんな怖い顔するなよ、命の恩人にさぁ。礼の一つぐらいでも言ってくれたって…」
「誰が命の恩人ですか!雪風をあやつって綾波さんをあんな目に遭わせておいて!」
「じゃああの時負けても良かったのかい?」
「…っ!」
「あの倉木ってジジイの目を見ただろ、アレはお前の実力テストだったんだよ。あの時お前が負けていたら十中八九解体されるか別の場所に飛ばされていただろうね。それに私はお前を操ってない、お前をちょっとだけ自分に対して正直にさせただけだ。『あの時』みたいにさ。実際あの時はとびきり気持ちよかっただろう?」
『雪風』は左腕に蛇を一匹這わせ、キスをした。キスをすると蛇は恭しく『雪風』に首を垂れ、そそくさと泉の底へと戻っていく。
「自分に対して正直になるのはお前が怯える程そんなにいけないことなのかな?確かにそれによって誰かが傷つくかもしれない、でも誰だって知らない内に他人を傷つけている、要はお互いさまなんだよ、たとえそれが死に至るモノだとしても」
自分に対して正直になる?他人が傷つくのは仕方がない?『雪風』の発言に対して雪風は信じられない、信じたくない、そんな感情で頭がいっぱいになっていた。
あり得ない、あり得てはいけない、他人の死を望む死神めいた願望が自分の本心であるのは。
「お前の回避重視のヒットアンドアウェイな戦い方も悪くないんだよ、ただこっちが見てるとじれったくてさぁ…」
「そ、そんな事より貴女は何者なんですか?」
「何者ぉ?」
『雪風』は肩を竦め聞き分けのない生徒に語りかける様に雪風に諭す。
「まだ分からないのか?私はお前だ、お前の大脳が生み出した存在だ。寧ろ私の大脳からお前が生まれたって言っても可笑しくはないかもな」
絶句する、こんなものが自分自身の中に巣食っていたのか。こんなものを抱えて今の今まで生きてきたのか。自分自身が恐ろしくなり脚が震え、歯を鳴らす。
「まあせいぜい私に飲み込まれずに自分を保つ事だな」
『雪風』が指笛を吹くと水面から幾匹もの蛇が『雪風』に纏わりつく。『雪風』の体が見えなくなっても蛇達はまだ纏わりつき続け、『雪風』を核とした一つの大きな塊になる。
塊になった蛇が溶け出し、流動する黒い球体へと変貌する。雪風はそれに対して何のアクションも取れずにただ見るだけしかできない、逃げるのも、近づくのもできない。
変化が始まった、球体にヒビが入り出したのだ。雛鳥が孵化する寸前の卵みたいにヒビは球体全体へと広がり出す。無駄だと知りつつも雪風は身構える。
球体をつき破って腕が出てきた。黒光りする鱗で覆われた、恐竜の様な腕だった。次いで翼、頭部と体の各部位が球体から露出する。最後に脚が露出した瞬間、球体が完全に崩壊し全貌が明らかになる。
竜だった、数多の神話や伝承で語られる破壊と暴力の象徴がそこにいた。雪風の何倍ものサイズがある巨大な体躯が二本脚で立ち、月明かりに照らされる。咆哮、空気が震え水面をざわめかせ木々を揺らす。雪風も余りの大音量に両手で耳をふさぐ。耳を塞いでいても鼓膜が激しく揺れた、それ程の大音量だった。
咆哮が止む、竜は己の唇を舌で舐めてから雪風に蔑みの視線を含んだ一瞥をくれると、巨大な翼を羽ばたかせ舞い上がる。発生した余りに強大な風圧に雪風は両腕で顔を庇う。瞼を動かす事さえできない。吹き飛ばされぬ様両足で踏ん張るが風圧で少しずつ後退しているのが感覚で分かった。
風が止む。竜は雪風の眼前にはいなかった。上空を見上げると竜は片手に収まるぐらいに小さく見える程空高くへと去っていた。
唐突に脚を引かれ雪風は泉の中へと没する。身を切りそうな程冷たい水温が雪風を襲う。突然且つ予想外な事態に何のアクションも取れず口の中に大量の水が流れ込む。だが可笑しなことに呼吸が出来ないにも関わらず息苦しさは感じなかった。
足元を見る、初霜が、五体満足な初霜が雪風の脚を泉へ引きずり込んでいた。彼女の黒い髪が水に揺られ水草の様に振る舞う。蛇がいなくなり露わになった泉の底は白い珊瑚で覆われているみたいだった。だが雪風が良く目を凝らすとそれは珊瑚では無く数多の骸骨が沈み一つ一つが重なり合って出来たグロテスクな複合体だった。
底に着き雪風は初霜の手で骸骨の上に仰向けに寝かされた。背中に骨の様々な部分が当たってやや鈍い痛みを感じる。
初霜が雪風の上に来ると雪風の唇に自信の唇を重ねた。体温は無く死人みたいな冷たさだった。もう死んだのだから当然かと雪風は名残惜しく思った。
♢♢♢♢
目が醒める。先ず雪風が感じたのは嫌な汗の感触だ。下着やパジャマがぐっしょりと濡れて、重い。首筋を伝う汗の跡がカーテンの隙間から入る月光に照らされ光る。
タオルケットを跳ね除け飛び起きると雪風は裸になり脱いだ衣類を洗濯予定の衣服が入っている籠へと放り込んだ。タオルを洗面台の引き出しから取り出し蛇口を捻って冷水で濡らす。濡らしたタオルで汗ばんだ雪風自身の体を顔から順に拭う、汗を拭きとられ熱が濡れたタオルに奪われる清涼感が気持ちよい。
蒸れた頭を冷やそうと蛇口の前に頭を突っ込む。冷水が頭を文字通り冷やし夏の暑さと悪夢のコンボで霞かかった思考がクリアになる。
雪風が考えたのは悪夢の中であった自分──竜──だった。彼女は雪風の脳が生み出した存在だと言っていた。
だとしたら彼女は何者なのか、雪風のもう一つの人格か、雪風の本能か、雪風の無意識の産物か…頭の中で様々な仮説が浮かんでは消えてを繰り返す。
疑問は他にもある、彼女がいつ発生したかだ。彼女が言うにはかなり前から雪風の中に巣食っていた様だ、少なくともキマイラとの戦い以前にはいたと考えてもいいだろう。あの時より前にもチェス盤をひっくり返す活躍をした戦闘はあった。
それは思い出そうとすればするほどそれは映画で観た、あるいは他人事であるみたいに不確かで自分の手で成し遂げた気がしなかった。記憶が古ければ古い程マスキングの顕著さが増す、最初の出撃の記憶など全く以って思い出せない。
ステージでは『雪風』のせいで明確に思い出さられた筈なのに。
思い出せた記憶にも戦死者が沢山出たのはあったがそれでも生存者が雪風「だけ」というのは何一つとして無かった。
雪風がキマイラ戦以前で最後に出撃したのは比叡が殺されたあの戦いだった。それ以降雪風は輸送任務に回され合間に自主的な射撃練習をしながら死とは無縁の日々を過ごした。
何かが可笑しい、雪風は行動の矛盾点に気が付いた。輸送任務なのに何故自主的に射撃練習をする必要が有るんだ?
艦娘には例え輸送任務が主だとしても一定の戦闘訓練は課されるし自主的な訓練をしても構わない。だが雪風自身自主訓練をする理由が何一つとして思い当たらないのだ。寧ろ性格上自主訓練するぐらいならその時間を自分の為に費やす筈なのだ。
自主訓練など輸送部隊に回される前は殆どしなかった、なのに回されてから唐突に始めた。あたかも抑え込まれた衝動を少しずつ発散するかの様に、様々な理由で異性との性行為に至れない所謂童貞と呼ばれる人々が夜な夜な自慰をするかの様に。
怖かった、あのおぞましい竜がどこまで雪風の中に巣食っているかと考え始めると震えが止まらない。夏の気温三十度越えの室内にも関わらず寒気がする、洗面所の中だけが真冬の様だ。慌てて蛇口から頭を引っ込めタオルを絞り濡れた髪を拭く。
鏡を見た、同じ見た目年齢の女性と比べるといささか筋肉質な体と怒りと恐怖の入り乱れた顔が映っていた。体には入渠以外の治療で回復したせいか先の戦闘でつけられた傷が所々に残っている。暫く凝視する、またさっきみたいにうすら気持ち悪い笑みを浮かべるのではないかと思ったからだ。
雪風の期待に反して憤怒の表情のまま鏡に映る像は一向に変化しない。『雪風』は今の雪風を見て何を想っているだろうか、嫌味たらしい彼女の事だ、きっとほくそ笑んでいるに違いない。
鏡を右ストレートで殴りつける。『雪風』が自分を嘲笑っていると思うと腸が煮えくり返り、やり場の無い怒りを鏡像に映った自身を『雪風』に見立てて殴りつけて発散するしか無かった。鏡にぶつけた拳が痛む、実戦で痛みになれたせいなのかそれとも未だに消えぬ初霜の喪失の苦痛が勝っているからなのかあまり気にならない。
寝室で物音がしたので伸ばした右腕を戻し全裸のまま様子を見に行く。時津風が二段ベッドから降りて下の雪風のベッドに座っていた。初風と天津風は寝息を立てており天津風に至っては「グォレンダァ…」と訳の分からない寝言を吐いている。
「どこ行ってたの雪風、物音がしたと思ったら急にいなくなるから心配したんだよ」
「暑かったから着替えようと思ったんですよ」
嘘はついていない、暑かったのは事実だ。
「そうなの?雪風、ちょっとこっちまで来て」
時津風が自分の左隣をポンポンと叩き雪風に来るようにと促す。雪風は時津風の所まで戻りゆっくりと側に座る。いない間に程よく冷えた布団が素肌に触れて気持ち良い。互いが互いへと振り向いて見つめ合う。
舐める様な視線を受けて雪風はたじろいだ。見透かそうとしないで欲しい、心の奥底にいる『雪風』が貴女に見えてしまいそうだから。
「よかった、ここにいるのは雪風だ」
「当たり前ですよ、何いってるんですか?」
そうは言ったものの雪風自身にも自分が真っ当な陽炎型駆逐艦娘雪風である確証が持てなくなっていた。自分ですらそうなのだ、客観的に見たら違和感に気が付くのは当たり前だろう。
「そんな事無いよ、昼の綾波さんとの演習の時は雪風じゃ無かった。あれは怪物だった、本当に雪風ならあんな怪物みたいな真似は…」
「もう止めて下さい!」
雪風はぴしゃりと言った。悪夢で己の心に巣食う化け物を見た後に怪物という言葉を聞くのは相当堪えた。自然と唇が震える。時津風は雪風の態度にしゅんと萎縮してしまった。
「雪風は…怪物じゃありません…」
「ごめん…」
「雪風だって怖いんです、自分がいつ怪物に身を落としてしまうか怖くて仕方ないんです…もしかしたら怪物になって味方を傷つけてしまうんじゃないかって心配なんです」
「雪風…」
「それに今の雪風には味方を信じられないんです…ここに来る前の作戦で味方から意図的に撃たれました。雪風以外の艦娘も前線にいるのはみんな撃たれて沈んでいきました…だから…」
「大丈夫だよ」
「えっ…」
指切りげんまんの形にした右手を時津風は雪風に差し出す。
「約束するよ、時津風は絶対に雪風を撃たない、それに雪風がどんなになっても時津風は拒絶しない、絶対にしないよ」
「…」
「例え他の味方が雪風を拒絶しても…雪風を殺そうとしても…時津風は雪風の味方であり続ける。本当だよ、破ったら殺したって構わない」
時津風の顔に嘘偽りの文字は書かれて無い、信用しても問題無さそうだった。それでも猜疑心は燻り続けていたが雪風の心が誰かにすがりたいと思う程疲弊していた、一人だけではもう限界だった。
自然と雪風は時津風の右手の小指に自分の右手の小指を絡めた。二人の約束が今交わされた。絡み合った指を見て二人から自然と笑みが零れた。
「でもどうしてそこまで…」
「雪風が「あの戦争」で時津風の乗員を救ってくれたから」
「あの戦争」で時津風はダンピール海峡での作戦中に敵軍から空爆を受けた。機関室に着弾し動けなくなった彼女から脱出した乗組員を収容したのが雪風だった。艦娘として転生した時津風は雪風の恩に報いたいと今の今まで思い続けていたのだ。
この時を、時津風は待ちわびていた。
「だから今度は時津風が雪風を救ってみせる。雪風の痛みは時津風の痛みだから」
時津風に抱かれ雪風は反射的に抱き返す。初霜とはまた違った温もりがあった、抱き方も初霜のを優しく包み込むという表現をするならば時津風のは離さぬよう強く抱き留めるという趣だ。抱き方から時津風が雪風に対して内包している思いが察せられた。
問題は雪風が時津風の思いに応えられる自信が無かった事だ。初霜への思いが、強すぎる。彼女と関係を持つ事は初霜への裏切りになるのではないか。そう思ってしまう自分がいた。
どうしていいか分からない。答えを模索する程深い闇が思考を覆い隠す。
時津風には分からぬように彼女は己の下唇を噛んだ。
♢♢♢♢
ふっと目が醒めた天津風の視界に入ったのは抱き合っている時津風と雪風の姿だった。時津風が雪風に好意を寄せていたのは知っていた、だがいくら何でも速すぎやしないか。ランクアップマジックでも使ったのだろうか。
いや、天津風は考え直す。これは幻覚だ、初風の妄想話に付き合ったせいで脳味噌が百合次元に侵略された上に寝ぼけているせいで幻覚を見ているのだ、多分そうだ。
兎に角寝よう、そうすれば脳味噌も元に戻る筈だ。
「陽炎型の艦娘が二人…来るぞ遊馬…」
訳の分からない一言を残して天津風は再び眠りについた。
『雪風』のモチーフは北欧神話のヘルとニーズヘッグです