薄暗い空間の中、一人の少女が巨大な液晶画面を見つめている。
彼女の名前は篠ノ之束。何がおかしいのか、常に作り物めいた笑みを顏に貼り付けている。事実それは作り物以外の何物でもなかった。中身の存在しない束の笑みは、彼女の思い通りに物事が進んでいる事を示す以上の意味を持たない。
数十分に渡る自賛行為を終え、束は大いに満足していた。
満足して、飽きた。もしくは興味を失った。彼女の顏から笑みが消えて能面のような表情になり、その一瞬後にまた笑顔へと戻る。自分が今不機嫌であるかそうでないかをチェックした結果、まだ機嫌が好いと判断されたからだ。
そうして思考がリセットされた束の興味は当然のようにISへと向かう。
理論はできた。後は実物を生み出すだけ。ISへの関心で埋め尽くされた、或いはIS以外の物事が認識されなくなった単一的な思考に従い、彼女は早速ISを完成させる為の準備に取り掛かる。
手始めに誰の邪魔も入らない空間を作り出そうとし――そこで視界に映った箒の姿を見て、束の頭に二択の選択肢が浮かんだ。
殺すか、殺さないか。
要らなくなったものは捨てる。箒はもう要らない。だから捨てる。極めて自然な形でその結論を導き出した束は感情の無い表情で箒を見つめる。
二分の一の確率。彼女はほんの一瞬だけ悩んでから、死体を処理する手間を惜しんで倉庫の外に放り出すのみに留めた。
箒の首を掴み、持ち上げ、窓から捨てる。人道から外れた行為を平然と行う束に対して落葉は化け物を見るような目を向けていたが、束はそれに気付く事さえしない。何事も無かったように倉庫へと戻り、その中に更に密室を作って外部の影響を完全に遮断する。
既に先程までの出来事は彼女の頭から抜け落ちていた。あたかも元から存在しなかったかのように。
止めるものなど何処にも居ない。人類が生み出した天災は誰の邪魔も無い世界でひたすら作業に没頭していく。一年も有れば完成するかな、などと思いながら。
◆ ◆ ◆
篠ノ之落葉は声を失ったように呆然としていた。
土に汚れた身体で、同じように土に汚れた娘の身体を抱き締める。周囲を覆うのは重苦しい暗闇。本来生命に溢れて然るべき真夏の空気は冷え切ったような沈黙に包まれている。そこは木々に阻まれて月の光さえ届かない。落葉の目には最早何の光景も映ってはいなかった。
何をしていいか分からない。何をすればいいのかも分からない。心は声高に何かを叫んでいるのに、それが感情に繋がらない。何かを考えようとする度にそれが頭から抜け落ちていく。彼女にできるのは、ただ愛する娘を抱き締めてその存在を確かめる事だけだった。
数分ばかりそんな状態でいる内に、落葉の心にも何かを感じる余裕というものが戻ってくる。何とはなしに視線を周囲に彷徨わせ、やがて彼女の視界に地面に倒れている夫の姿が映った。
衝撃的な光景に一瞬落葉の呼吸が止まる。それからすぐに我に返り、慌てて彼の元に駆け寄って様子を窺う。直接手で触れるのは避けた。何が起こっているか分からなかったからだ。
彼女の脳裏に、糸が切れたように崩れ落ちる柳韻の後ろ姿が蘇った。滲み出すように湧き上がる不安を押し殺し、落葉は震える声で夫の名前を呼び続ける。
しかし柳韻は仰向けに倒れたままピクリとも動かない。いくら呼び掛けても全く反応が返ってこないのを見て、落葉の心にただならぬ胸騒ぎが広がっていく。
救急車を呼ばないと――そんな彼女の焦燥は、微かに聞こえた小さな呻き声によって一時的に吹き飛んだ。
意識が戻って、柳韻が最初に感じたのは壮絶なまでの倦怠感だった。
身体が鉛のように重い。そして朱色に光る金属のように熱かった。その一方で、背筋が凍るような寒気のようにも思えている。全ての骨格が同時に軋んでいるような錯覚。無理に動かそうと力を入れる度に、引き攣るような痛みが全身に走った。
一体何が起こっているのか。朦朧とする意識の中で、柳韻は必死に己の記憶を手繰り寄せる。
程無くして、記憶は戻った。彼にとってはあまり望ましくない事に。
「柳韻さんっ……!」
片手に携帯電話を握り締めたまま、落葉が柳韻の顏の上に屈み込む。彼女の目からはらはらと零れる涙が柳韻の頬を濡らした。夫の顔を見て張り詰めていた緊張が弛んだのだ。
それを見ていた柳韻は何度か細かく瞬きをし、ああ、と声を漏らす。彼は涙を流す妻の悲しみを思い、胸を締め付けられるようなショックを受けた。それはすぐに強い悲しみに変わり、ややあって自分に対する嫌悪感へと変わった。
どうして何もできないのか。役に立たないどころか妻の心を傷付けている自分が情けなく思えて、そんな自分の無能さにどうしようもなく腹を立てていた。
しかし彼がその気持ちを表に出す事は無い。何も気にしていないというような顔をしながら、思うように動かない左手をのろのろと持ち上げて落葉の目元を拭う。
「……大丈夫ですか?」
身体が動いたのを見て少し安心したのか、恐る恐るという様子で落葉が尋ねる。
その問いを受けて、柳韻は密かに答えを返すタイミングを計った。早すぎては不自然だ。しかし遅すぎてもいけない。ごく自然な様子で頭を起こし、彼はゆっくりと口を開いていく。
言うまでもなく、致死量の電流に触れて大丈夫で済む筈が無かった。身体の感覚は神経がばらばらに繋がったように滅茶苦茶で、周囲の気温さえ上手く掴めない。まるで足の付け根と爪先の向きが逆に付いているような違和感。直接扉に触れていた右腕など殆ど棒のようになっていた。
しかし、正直にそう答えれば落葉は何が何でも自分を病院に連れていこうとするに違いない。柳韻はそう確信していた。以前にも似たような事が有ったからだ。その時は比較的有り触れた怪我だった為に誤魔化しも利いたが、こんな状態で近所の病院に行けば確実に騒動になるだろう。
そして――そうなれば家族に迷惑を掛けてしまう。
「大丈夫だ」
柳韻はなるべく平気そうに聞こえる声でそう言った。同時に朗らかな笑みを浮かべてみせる。
わだかまりの無いようなさっぱりとしたその顏を見て、ようやく落葉もほっとしたように表情を緩めた。柳韻は異変を気取られないように素早く左手を付いて立ち上がり、身体の調子を確かめる。
車は運転できない。しかし電車には乗れるだろう。思いの外深刻でない症状に、柳韻はこれなら一人で県外の病院を訪ねるくらいはできるだろうと考えた。
「今日はもう休みましょう」
箒を抱え直した落葉が汚れを払いながら立ち上がる。声の勢いがやや速い。心なし気が急いているようだった。
身体を動かすのに精一杯だった柳韻がその僅かな違いに気付く事は無かったが、落葉が一刻も早くこの場から立ち去りたいと思っているだろう事は察していた。何故なら、それは別に今に始まった事ではないからだ。
自分の勝手な行動で家族に余計な心配をさせてしまっている。しかもその行動に意味が無いと理解していながら。柳韻は後ろめたさから無意識に早足で倉庫から離れていく。
そんな夫の後ろ姿に声を掛けるかどうか迷いつつ、落葉は結局何も言わずに彼の後を付いて歩き始めた。そのまま倉庫に背を向ける直前、背後に佇む固く閉ざされた扉をちらと眺める。
――もう二度と開かなければ良いのに。
そうでなければ、せめて私達を放っておいて。
心の中で呟いた本音は誰にも告げた事の無いもの。しかし、直接口にした事は無くとも、態度だけで十分な程に伝わってしまっているだろうと思っていた。そして自分が口に出さなければ、その問題が篠ノ之家の話題に上がる事は無いだろうとも思っている。
言いたい事は沢山有った。
あの子は狂っている。仲良く手を繋ぐ未来なんてやってこない。関われば関わる程苦しくなる。だからもうこれ以上傷付きに行くのは止めて――
それを口に出せばどうなるか。恐らく口論にはなるだろう。意地になる事も有るかも知れない。しかし最終的には束に関わるのを止めるだろうと落葉は朧げに感付いていた。
元々無理をしている状態で自分達という逃げ道を作るのだ。最初は自分の行動に迷いを抱くだけだろうが、やがては二人を守るという理由を付けて自分を納得させてしまうに違いない。
それが分かっているからこそ、落葉は自分の気持ちを口にする事ができなかった。
夫の意思を尊重したいのか。それとも選択の責任を負うのが嫌なだけなのか。それは落葉には分からなかったが、少なくとも敢えて考えないようにしているのが事実だというのは分かっていた。
正体の知れない不安に押され、落葉はしがみ付くように箒の身体を抱き締める。幼い子供の体温が彼女の服越しにはっきりと伝わってくるが、どういう訳か全く安心する事ができない。どれだけしっかりと胸に抱いても宙に掻き消えて居なくなってしまうのではないか――そんな不吉なイメージが落葉の心の何処かから沸々と湧き上がってきている。
落葉は反射的に箒の顏へと視線を落としていた。形にならない類の不安がそこには有った。
そうして彼女の視界に映るのは弱弱しい箒の表情。自分の娘はいつもと変わらず、いつもと同じように大人しく胸に抱かれている。人形よりも尚華奢な身体はこれ以上強く抱き締めれば折れてしまうのではないかと思わせるようなものだった。
それをじっと見る内に、落葉の心にも少しずつ落ち着きが戻ってくる。それからゆっくりとその場に立ち止まり、今度は負担の少ないように箒を抱え直しながら彼女は思った。こんなに不安がっていても仕方が無い、先程までの出来事のせいで過敏になっていたのだろうと。
落葉は唐突に訪れた胸騒ぎを無かった事にした。
箒の目には何も映らない。
◆ ◆ ◆
丑三つ時には幽霊が出ると言い伝えられている。
騒動の後始末を終え、篠ノ之家に住む者達が寝静まった夜。
静かな夜だった。全身に多大なダメージを負い、心身共に疲弊し切った柳韻は泥のように眠っている。余程の無理をしていたからだろう、死体のように布団に転がったまま身じろぎ一つしない。
その隣では落葉が箒を胸に抱いて静かに寝息を立てていた。しかし夢見は悪いのか、固い表情を浮かべながらしきりに眉を寄せている。そしてその度に箒を胸元にぎゅっと抱き寄せ――それによって無意識に安心するのかほんの少し表情が和らぐが、すぐにまた苦しげに顔を歪める。そんな事を何時間も繰り返している。
そんな中、箒は天井を見上げた状態で瞬きもせずに固まっていた。
彼女は何を考えているのか。
一〇〇人が見れば一〇〇人が何も考えていないと答えるだろう。何人かは別の答えを返すかも知れないが、概ね似たような意味には違いない。それは箒に最も近い場所に立ち続けている落葉でさえ思っている事だった。
しかしその答えは今この場においてはある意味で正しい。無論その外見からは想像もできない程の膨大な情報が流れている事は間違いなかったが、箒の思考は彼女自身から見る限りでは割かし停滞している状態にあった。
彼女が感じているのは戸惑いだった。
勿論箒にはその戸惑いという感情を知覚できる程の情緒は存在しない。しかし、それがどういう状況なのかは機械的に理解している。
だからこそ彼女には分からない。客観的に見て、箒は自分が感情らしい感情を得る事は有り得ないと認識していた。そしてその事に対しても何の問題も感じていなかったが、その前提は最早崩れてしまっている。そして、にもかかわらず彼女はその事実に未だ気付いていなかったのだ。
一体何故こんな事になっているのか。その原因は明らかにISの知識を得た事だったが、箒の感性ではそれがどのような過程を辿ってこの状況に影響しているのかを理解する事ができない。感情というバグに侵されたまま、ループ処理に囚われたコンピュータのように同じ思考を繰り返し続ける。
端的に言うと、ISの知識、より正確にはISという存在は今まで膨大な知識を取り込んできた箒にとっても尚驚きに値するものだった。
そしてそれは彼女に対してかつて無い程の大きな関心を与える。しかしこれまで何か特定の存在に興味を抱いた事の無かった箒にとって、その心の動きは完全に未知のものだった。
初めての体験。しかし、初めての体験など初めてではない。にもかかわらずこの状況。つまりこれまでの経験とは異なっている事が有る。
では一体何が違うというのか。
それは彼女が自分自身の意思で能動的に動き出そうとしている事。
コンピュータに人工知能を与える事の問題の一つに、人の手では制御不可に陥る危険性というものが有る。
どうしてそんな事が起こってしまうのか。理由は複数有るだろうが、主たる原因は恐らく人の意図しない形で能動的な学習を始めてしまうというような事だろう。人類は加速度的に進化するコンピュータを制御する事ができなくなり、やがて完全に追い抜かれ知能の格差に置き去りにされてしまう。
実際のところ、箒がその気になればできない事は殆ど存在しないと言って良かった。人類最高の知能を持つ束を赤子扱いできるのだ、その潜在能力は人間のそれを遥かに凌駕している。
しかし彼女にとっては不運な事に、或いは人類にとっては幸運な事に、箒がその気になる事は本来起こり得ない現象だった。
箒は動かない。それはそうするだけの必要性を感じていないから。時折気紛れに動く事こそ有れ、明確な意思で以て積極的な行動を起こそうとする事は無かった。あまりにも高度な知能がそれを求めるだけの自我の発達する機会すら奪っていたのだ。
例えばそれは赤子の脳にスーパーコンピュータを繋げるようなものだった。生まれたばかりで未発達な、有るか無いかも分からない希薄な自我など膨大な演算に押し流されてしまう。
そんな環境で人としての感性が育つ筈も無い。どんな情操教育も無意味。箒は感性からの視点ではバニラアイスと正弦定理の違いすら認識できなかった。
興味を持たないのが自然。感情を抱かないのが当たり前。
それ故に彼女はただ知識を際限無く溜め込み続けている筈だった。そしてそれを一切活用しないまま寿命を迎えていた事だろう。つまるところ現時点の人類の文明において、箒の関心を惹くものは何処にも存在しなかった。
ただ一つの例外を除いては。
インフィニット・ストラトス。
無限の成層圏。限界を打ち破るもの。既存の法則を破壊する存在――篠ノ之束という少女によってこの世に産み落とされた可能性の塊は、篠ノ之箒という存在の持つ可能性を宇宙の遥か彼方にまで押し広げる。
ただ実のところ、ISの知識それ自体は箒にとって特別な意味を持つものではない。事実、それに用いられている理論はいずれも受動的な進化の中で自然と導き出される程度のものでしかなかった。
故に重要なのは、彼女が今このタイミングでその極めて高度な知識を手に入れたという事実。
それは、ごく普通の子供から見た『てこの原理』のように強い輝きを放っていた。
物心付いたばかりでは理解できない。しかし学校に通い始める頃では印象が薄くなる。ISの理論を理解できる程度の知識を持ち合わせつつ、その知識に感銘を受ける程度には無知である事。
早すぎても遅すぎてもいけない。最高のタイミングで最高の知識を与えるのだ。それこそが箒に備わった人外の価値観を揺さ振る唯一の方法だった。
そして一度でも揺れる事を覚えてしまえば、後は放っておいても独りでに揺れ続ける。
能動的に動く事を知った箒は正真正銘の怪物へと変貌を遂げた。
印象深い知識を得れば試したくなる。実践したくなる。実際に組み立ててみたくなる。
初めての経験。初めての感動。
もっとこの感覚を味わいたい。知りたい。感じたい。
彼女がバグの正体を突き止めてからは早かった。ただ漠然と知識を得るだけの穏やかな時代は終わりを迎える。
待っているだけでは刺激が足りない。これからはその知識を得る為に自分から動くのだ。箒は手始めにISを組み立てようとしていた束を模倣し、実際にそれをこの世に創造する事に決めた。
それにはまず資源が要る。しかし自然界には存在しない物質が殆ど。それを得るにはどうすればいいか。作ればいい。量子変換理論の応用で生み出せる。ならばその為の装置が必要だ。
人知を超えた箒の頭脳が高速で回転し始める。彼女に流れる時間が加速し、周囲の全てが色を失う。
乖離していく二つの世界。箒の意識が知識の深海へと深く深く沈んでいく。現実世界の枷から解き放たれた彼女の思考は最早止まる事が無い。考え続け、考え続け、考え続け、考え続け――やがて箒は一つの解に辿り着く。
箒はのそりと布団から起き上がると、襖を開けて寝室を出た。
落葉と柳韻は二人共深い眠りに落ちており、箒のその行動には気付かない。そのまま迷いなく足を踏み出し、ひたひたと足音を立てながら板張りの廊下を進んでいく。
暗闇の中、僅かな月明かりに照らされて不気味に光る縁側を抜け、木枠の折れた障子が立て掛けられた廊下を曲がり、最低限片付けられた食卓にまでやってくる。しんと静まり返った屋内からは生き物の気配も感じられない。ただ幼い子供が裸足で畳を踏む、乾いた音だけが真夜中の空間に密かに浸透している。
そのままちゃぶ台の横を通り過ぎ、彼女は台所の前でぴたりと足を止めた。
襖を開けて中に入る。
隙間から差し込んだ僅かな明かりが室内にするりと伸びていく。酷く弱弱しく青白いその光は部屋を埋める濃い影に阻まれて奥まで届かない。しかし襖が完全に開き切ると光量も増え、影に覆われた台所の輪郭をぼんやりと浮かばせた。
気味の悪い光景。
光も無く、音も無く、人も居ない。丑三つ時にて薄明かりを背にたった一人で立ち尽くしている。明らかに何かが化けて出てきてもおかしくないような雰囲気だったが、当然それを気にする箒ではない。
何事も無いように食器棚からコップを取り出し、その下に有る引き出しを開けて白い袋を引っ張り出す。それなりに重いのか、床に落ちた時に少し鈍い音が鳴った。
そして冷蔵庫から取り出した天然水をコップの中になみなみと注ぎ、床に置いておいた袋の中身をスプーンで掬って入れる。そのまま粉末がある程度散るのを待った後、菜箸でぐるぐると掻き混ぜていく。
それは食塩水だった。
続きを書き始めて四日目の夜。書き終わるまで寝ないという覚悟で執筆していたら夜中の三時とかになってました。
今日は寝ます。探さないで下さい。