Moppy knows...   作:安木ポン酢

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【前回のあらすじ】
 箒が動いた。


第三話 蛇と龍

「――箒ちゃんっ!」

 

 久しく見ていなかった娘の顏を目にした瞬間、落葉は思わず叫んでいた。

 

 一目散に駆け寄って泣きながら箒を抱き締める。大粒の涙を流して娘との再会を喜ぶ母の様子に、傍でお守りをしていた警官が如何にも身の置き所が無いというような表情を浮かべた。

 感極まって号泣する落葉。静かにそこに寄った柳韻が肩を撫でてそんな彼女を落ち着かせる。しかし落葉は激しく乱れる自分の感情を抑え込む事ができない。湧き上がる衝動に身体を震わせる様子を見て、柳韻は妻の心の揺れが収まるまで暫く待つ事にした。

 落葉は娘の身体を抱き締め、声を詰まらせてむせび泣く。柳韻はそんな妻の傍に立ち、肩に手を置いてじっと待つ。

 現在、二人は隣県の警察署を訪れていた。

 

 

 

 発端は箒が五歳の誕生日を迎えた日、その次の日の朝の事。長い悪夢から目が覚めて、落葉は最初にその事に気付いた。

 

 箒が居ない。

 

 一瞬彼女の思考が止まり、次の瞬間呼吸が止まる。空白の時間。石のように固まったままどういう状況なのかを考え、何が起こっているのかを知り――意味を理解して悲鳴を上げた。

 錯乱したような妻の声に、隣で倒れていた柳韻も即座に意識を取り戻す。そして想像以上に取り乱している落葉の姿に息を呑み、それから自分達の娘が何処にも見当たらないという事に気付く。

 

 ――よりにもよってこんなタイミングで!

 

 箒という子供の行動は束とは別の方向で予測できない。彼女が目を離した隙にふらりと居なくなる事は昔から有った。

 だからこそ箒に対しては未熟な子供に向けるものとは別の種類の注意も払っていたが、意識が無くてはどうにもならない。しかも今回はただ寝ているだけではなく、殆ど気絶しているような状態だったのだ。

 狙っていたのか偶然なのか。思わず有り得ない選択肢が頭に浮かんでしまう程の焦燥。柳韻はあまりのタイミングの悪さに自分の不運を呪いたくなったが、すぐにそんな場合ではないと未だ違和感の残る身体を引き摺って寝室を飛び出した。

 

 しかし、居ない。

 何処にも居ない。

 

 家の中を落葉に任せ、境内に出た柳韻を待っていたのは空振りという結果だった。

 広い敷地を隅々まで探しても箒の姿は見えない。何処かには居る筈だった。境内の周囲は柵で囲まれている。越えられない高さではないが、それは大人に限った話。幼い子供である箒にどうにかできるものではない。

 入れ違いになったのかともう一度探そうとしたところで、ふと何かに気付いた柳韻が門に向かう。そこで彼は重大な事実を発見した。

 鍵が開けられている。

 

 同じ頃、落葉もまた柳韻と同じように、或いはそれ以上に必死な様子で家中を駆け回っていた。

 やがて彼女は何者かに荒らされた形跡の有る台所を発見する。引っ張り出された引き出しに、開け放たれたままの冷蔵庫。明らかに人為的に生み出されたその光景を見て、落葉はまず束の存在を疑った。

 脇目も振らずに倉庫まで走り、半狂乱になって扉を叩く。今この瞬間、落葉の思考は居なくなった箒の事で埋め尽くされ、束に関わろうとする事への危険など完全に頭から抜け落ちていた。

 しかし幸か不幸か、そんな彼女の声も完全に自分の世界へと閉じ篭った束には届きすらしない。結局それは、落葉の様子がおかしい事に気付いた柳韻が彼女を無理矢理扉から引き剥がすまで続いた。

 

 柳韻の気付けによって冷静さを取り戻した落葉。二人はお互いに自分の持つ情報を交換する。

 一度呼吸を置いた後でも落葉はこれが束の仕業だと信じて疑っていなかったが、柳韻の言葉を聞く内にその考えを改める。そもそも箒が生まれてからは彼女の事に掛かり切りで、落葉は数える程しか束の顔を見ていないのだ。落ち着いて考えれば二日連続で外に出てくるという事は考えにくい。

 そして何より、あの束の非行の被害がこの程度で済む筈が無かった。

 

 箒が外に出て行っているかも知れない。

 総合的な判断からその可能性に思い至った瞬間、落葉と柳韻は最早これは自分達の手に負える事態ではないとして警察に助けを求めた。そして失踪した状況からその捜索願は特異家出人に分類され、即座に捜索が行われる。

 しかし一日経っても発見される事が無い。その事実を受け、この失踪には事件性が有るものとされてより大規模な捜索が実施される。するとその甲斐有ってか箒は五体満足で発見された。

 一〇〇キロメートル以上離れた隣県のとある公園で。

 

 何故そんなところで。

 どうして無事なのか。

 犯人は誰だ。

 何が目的だったのか。

 全てが不明瞭。何一つ明らかな事が無い。関係者はこの不可解な事件に一様に首を傾げたが、行方不明者と最も関係の深い二人は素直にこの知らせを喜んだ。

 

 張り詰めていた緊張が抜け、落葉は万感の思いを込めて愛する娘を抱き締める。箒はぼうっとした様子でその胸に大人しく抱かれている。柳韻はそんな二人の様子を安心したように眺めている。

 離れ離れになっていた家族の激しくも穏やかな再会の光景。心に圧し掛かるような疲労の中、一組の夫婦は安堵混じりの幸せを噛み締めていた。

 五体満足で無事に帰ってきてくれた。それだけでいい。自分達の娘は居なくなる前と何も変わらないのだから。

 

 落葉の胸に抱かれたまま、箒は沈黙を保ち続ける。その瞳に光は無く、視線は何処にも向かっていない。自分の傍で何が起こっていようとも、箒が反応を示す事は無かった。

 それが彼女にとって何らかの意味を持つものでない限り。

 

 箒の服の中で真新しい装飾品が光っている。

 あの日から一週間後の出来事だった。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 三人が帰宅する頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。

 夏の夜は短い。完全に日が落ちた今、時刻は既に八時を回っている。大人にとっては特に問題の無い時間帯であっても、幼い子供にとって健康的であるとは言えない。篠ノ之家において八時という時刻は箒の就寝時刻を示す言葉でもあった。

 

 風呂の脱衣所で、落葉は箒と二人きりで向かい合っていた。

 そのまましゃがんで視線を合わせ、目を覗き込む。彼女の瞳はガラス玉のようだったが、こうしていれば箒の心を見る事ができるような気がしていた。

 怖くはなかったのか。辛くはなかったのか。一人で寂しくはなかったのか。ちゃんとご飯は食べていたのか。

 

 ガラス玉の向こうで落葉が見ている。

 問い掛けに意味が無い事は他ならぬ落葉が良く知っていた。しかし、この一週間で箒が体験した事を想像するだけで不安になるのも事実だった。

 いくら心を鎮めようとしても感情の動きを抑える事ができない。一週間前のあの時に感じた不安はやはり気のせいではなかったのだ。根拠の無い思い込みと考えるには受けたショックが大きすぎた。

 二度と目を離してはならない。一瞬でも目を離すのが怖い。

 落葉の表情に苦悩が滲む。今日はきっと一睡もできないだろうと彼女は思った。

 

 少しの間沈黙が流れる。

 一つ大きく深呼吸をすると、落葉は静かにその場から立ち上がった。心配するのは後でもできる。それより今は早く寝かせてあげないと――そう決めて一旦思考を取り止め、落葉は箒を風呂に入れる為に彼女の服を脱がせていく。

 

「……あら?」

 

 薄い肌着に手を掛けたところで、見覚えの無いネックレスのようなものが首に掛かっているのを見つけた。

 

 ――誰かに貰ったのかしら?

 

 一瞬驚くが、すぐに納得する。良く見れば子供が欲しがりそうな玩具だ。何処かで貰っていたとしても不思議ではない。わざわざ服の中に入っていた事が疑問と言えば疑問だったが、深く考えるような事でもないと落葉は軽く思考を打ち切った。

 そのまま首に掛かったそれを外そうとし――寸前で止まる。

 何か明確な理由が有ってそうした訳ではない。ただ漠然と、これに触れてはならないという直感が働いたのだ。

 

 後頭部の裏側をひりひりと冷風が抜けていくような感覚。

 落葉の脳裏で鮮烈なまでの警報が鳴った。心臓が痛い程に強く脈を打っている。馬鹿馬鹿しいと思いつつネックレスに手を伸ばそうとするが、彼女の腕は麻痺したように動こうとしない。突如自分の身に起こった異変に、落葉はどうしていいか分からなくなった。

 暫くそうして固まっていたが、やがて彼女は一つ溜め息を付いて手を下ろす。ネックレスを外す事を諦めたのだ。不思議な事に、ネックレスを取る事を考えなければ自由に身体は動いた。

 

 しかし、その勢いでもう一度ネックレスに手を出そうとすると途端に身体が動かなくなってしまう。訳が分からない――落葉は自分の額に手をやって熱を測った。熱は無く、至って健康のように思われた。

 結局、落葉は気にしないでこのまま風呂に入れてしまう事にした。行儀が良いとは言えないが、絶対に外さなければならないと決まっている訳でもない。先週は無視した直感を信じ、ネックレスを着けたまま二人で一緒に浴室へと入る。

 

 落葉の手が離れていくのを見て、箒は無反動粒子砲の発動をキャンセルした。

 

 

 

 ――端的に言えば、彼等が認識している篠ノ之箒という子供は最早何処にも存在していなかった。

 もしくは最初からそんなものは存在しない。生まれながらにして異端。精神の構造が根本から違うのだ。その感性は人の想像の及ぶところではなかった。

 しかし、その人外の性質は彼女自身の肉体によって封じられている。そこから出る事自体は容易だったが、そもそも彼女にはその為の導火線が存在しなかった。

 不発弾ですらない。そういう作りにはなっていないのだ。かつての箒は極度に高度な知能を持ちながら、それを全く活かさないまま生きていく事しかできない置物だった。

 

 今は違う。

 

 ISという起爆剤を与えられ、箒の中身は全くの別物と言って良い程に変わり果てていた。

 無感動に生きていた頃とは明らかに同じ存在ではない。今の箒はいつ爆発するとも知れない爆弾だ。そして一度爆発してしまえばその純粋なまでの破壊力によって人類という種を粉々に粉砕するだろう。

 扱いを誤れば確実に爆発する。しかしたとえ正しい扱い方をしていたとしても、彼女自身の選択によっては自然と爆発してしまう危険性すら孕んでいる。篠ノ之箒という存在が、この世に生まれてきてはならない類のものである事は疑いようもなかった。

 

 しかしその変化はやはり、外から見ただけでは分からないものだった。

 能動的な行動こそ起こすようになったが、箒が基本的に周囲の出来事に対して無関心でいる事は変わらない。むしろ特定の存在に興味を吸い寄せられた事により、相対的にそれ以外の価値が下がったとすら言える。故に周りから見て箒の評価が変化する事は無く、また箒も自分の周りの存在に対して何の執着も抱いていなかった。

 こうして、始まってすらいなかった家族の対話は始まる前に終わりを迎えた。皮肉にも、篠ノ之家において最も人道から外れている筈の存在が箒に対して最も的確な情操教育を与えてしまったのだ。

 

 ――そして、そんな箒の変化に気付く事ができるのもまた、この世で束一人だけだった。

 

 或いは、優秀な科学者が何人か集まれば何らかの違和感を覚えるかも知れない。

 もしくはもっと単純に、高性能な観測装置を用いて観測を行うという方法も有る。現実的な可能性の範囲内で、それを両方満たす事ができるのは束だけなのだ。

 

 今の箒は特定の領域において、物理法則の制約を受けずに動く事を可能としていた。

 例えば、彼女は戦闘機よりも速く空を飛ぶ事ができる。例えば、慣性を制御する事ができる。例えば、空間を歪曲させる事ができる。例えば、銃弾を防ぐ事ができる。例えば――何かをする事ができる。

 何れにせよ、不自然な事が起こる事には変わりない。そして、それができるだけの膨大なエネルギーを宿してもいる。それは束が一目見れば分かる程度には異質だった。

 しかし束の関心は最早ISのみに向けられている。幸か不幸か、彼女が箒に起こった異変に気付く事は無い。

 

 彼女が行方不明になっていた一週間。箒はその能力を遺憾無く発揮し、それだけの短い期間でISを組み上げる事に成功していた。

 常識的には考えられないような成果。それは理論上または物理的に不可能な、人間には到底成し得ない類の作業だったが、人外の視点を持つ箒の能力を人の目線で推し測る事はできない。発想の量も質も方向性も違うのだ。人の生み出した理論の限界が彼女に当て嵌まる筈が無かった。

 

 箒が動き始めてから五分後。彼女は食塩水を作っていた。

 しかし、それから一時間後。彼女は既に未知の粒子の観測に成功していた。

 

 まさしく世界が違う。

 ただ最適な行動を取るだけで良い。物理演算エンジンの再現する最適解が時に人には理解不能であるように、それだけで箒の動きは誰にも認識できなくなる。正確には、常識が邪魔をして誰もが幻覚を見たのだと考えてしまう。

 たった一人の腕力で巨大な船を持ち上げる。それはてこの原理を利用しているだけの事。

 たった一枚のレンズで銅のメダルを融解させる。それは広範囲の太陽光のエネルギーを一点に凝縮しているだけの事。

 

 箒の行いもそれと似たようなものだったが、知らなければ理解できない。幼い少女が路地の壁を滑り上がっていくのを見たとあるサラリーマンは、働きすぎで遂に頭がおかしくなったと考えた。

 そうでなくとも、警察の質問にそれで答えようとは思わない。箒の目撃情報が一向に集まらなかったのもこの為だった。

 更には時間を掛ければ掛ける程に彼女の手札は増えていくのだ。警察が本腰を入れて箒の捜索を始める頃にはあらゆる意味で手遅れになっている。最早まともな方法で彼女の足取りを追う事はできなくなっていた。

 

 折り返しを越えてからは特にそれが顕著になった。

 増えた手札で生み出した新たな手札。箒が動き始めてから八八時間後、彼女は身体に特殊な保護膜を纏い始める。

 それは空気抵抗などの障害を無視して高速で移動する為の手段だった。しかし副次的な効果により、肉眼で彼女の姿を視認する事もできなくなる。これにより、幻覚としての箒すらこの世から消えて無くなってしまった。

 尤も、その高度な技術も彼女にとっては単に目的を果たす為の手札の一つでしかない。それ自体には何の価値も見出さず、ただISをこの世に生み出す為だけに動き続ける。

 

 そうしてISを実際に組み上げてみて、箒はひとまずの満足を得た。

 満足を得て、動かなくなった。もしくは目的を失った。一時的な話ではあったが、ようやく発達し始めたばかりの未熟な感性では目的を果たした後の事を上手く処理できなかったのだ。目指すべき場所が分からなくなり、彼女は命令を終えたコンピュータのように一切の行動を停止する。

 再起動に掛かった時間は五分。これは箒にしては比較的手間取った方だった。

 

 停滞は何より恐ろしい。自我を持たない内はそれでも構わなかったが、その自我を持たない頃でさえ知識を集めていた箒にとって、思考しないという状態は今や明確な苦痛となって認識に刻まれている。

 苦痛であるという事、即ち不機嫌であるという事。箒は生誕五年にして遂に最も原始的な感情を獲得する事に成功していた。

 

 苦痛は避けなければならない。故に思考を続けなければならない。

 少し考えて、箒は一つの結論を出した。結論を出した結果、彼女はやはり動かないままでいる事を選んだ。

 する事が無くなった訳ではない。する必要が無くなったのだ。

 

 

 

 箒の胸元で装飾品が静かに鼓動する。

 それは常人には認識できない衝撃。感覚に直接訴える不可視の波動。

 待機形態。

 ISに備わっている機能の一つに、物体を量子に変換して保存するというものが有る。対象は無制限。それが物体である限り、この世に変換できないものは存在しない。

 物体の持つあらゆる情報を圧縮し、特定の波形に置き換えるのだ。安定性の問題から恒常的な保存こそ難しいものの、理論の上では生き物すら例外ではなかった。

 

 無論その対象はIS自身も含まれる。情報量が大きすぎるが故に物体を鍵として残しておく必要は有るが、一度でも記録してしまえば意思一つで圧縮と復元を繰り返す事ができる。

 それこそが待機形態。地球上で最も高度な技術で生み出された宇宙服は、彼女の胸元で無色透明の石ころに圧縮されていた。

 しかし何事にも限度というものは存在する。さしものオーパーツも容量の上限を越えて情報を保存する事はできない。

 

 ISに不可能な事が有る。

 それを理解した箒が、そのISをより高度に発展させるという結論に至るのは極めて自然な話だった。

 

 しかし箒のISは現時点で所持している知識を総動員して作り上げた最高傑作。時間を掛けずにいた為に多少荒削りな部分は残っているものの、今の知識でISの機能を大幅に改良する事は難しい。

 しかし、逆に今だけだ。箒の脳内には一週間前に取り込んだばかりの膨大な知識が燻っている。

 しかもそれは未来の知識。本来ならばこれから数年を掛けて緩やかに集まってくる筈だったもの。発展の余地は大いに有った。

 

 ISを生み出す過程で導き出された数多の理論、そしてそれ以上に膨大な知識。束にとってそれは最早掘り尽くした廃鉱山であり、箒にとっては未だ潤沢に資源の残る生きた鉱山であった。

 知識と知識の間に眠る、より高度な次元の知識。箒はそれを掘り起こすべく、記憶の書庫の整理を行う事に決める。

 

 ――公園のベンチに座り込んだまま。

 

 その場所に特別な意味が有った訳ではない。動きを止めた場所がたまたまその場所だったのだ。

 そこを通りすがりの老夫婦に発見された。彼等は少しだけ悩んだ後で、すぐに箒へと声を掛ける。小学校にも通っていないような子供が一人でベンチに座っていれば気にならない筈が無い。特に予定が入っていなかった事も手伝い、詳しい事情を尋ねてみる事にした。

 勿論箒がそれに対して何か反応を返す事は無かったが、だからと言って放っておく訳にもいかない。そのまま背中に負ぶって交番まで連れて行き――そこで箒が今まさに行方不明になっていた子供だと知って大層驚いたのだった。

 こうして多くの人を悩ませた奇妙な事件は終わりを迎える。神出鬼没な活動を続けていた一人の少女。彼女を捉えるのは事実上不可能な事だったが、動きを止めていればその限りではない。例えば箒が保護膜を纏っていたのは速やかに行動する為であって、姿を隠す為ではないのだから。

 

 そしてその老夫婦が、箒が目的を終えた段階で彼女に接触したのはお互いにとって幸運な事だった。関心の方向には正と負の二つが存在する。彼女に関しては仮にどちらであっても幸運であるとは言えないが、少なくとも後者が前者よりも不幸であるのは間違いない。

 結論だけを言えば、箒は時間と労力を失う事は無く、彼等はその老い先短い命を散らさずに済んだ。

 

 

 

 結局のところ、箒と束は同類だった。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 日の当たらない倉庫の中で一際高い歓声が響いた。

 甲高い声が閉じた空間に木霊する。それなりに大きな音だったが、周囲を覆う分厚い壁に阻まれ外には届かない。発生源である少女が浮かべるのは幼子さながらの無邪気な笑み。しかし、その表情は彼女の声と同じように何処か中身が無かった。

 もしくは、そもそも心が無い。有るのは自分という唯一だけ。彼女には自分しか見えていない。自分以外を見る気も無い。ただ自分の為だけの世界に閉じ篭ったまま、一人狂ったように笑い続ける。

 

 しかし、そうしていつまでも続くかに思われた笑い声は唐突に途切れて消えた。

 

 訪れる沈黙。代わりに立ち去った空気の振動が倉庫の温度を一段下げる。

 それは静けさというよりは無音だった。或いは時が凍ったような。耳鳴りが響くような沈黙を背景に、彼女は嘘の笑顔を浮かべたまま石のように固まっている。

 停滞は長くは続かない。十数秒の沈黙の後、一瞬で表情を消した束はすぐ横の台に視線を向ける。

 そこに有ったのは一台の検出器だった。

 

 より正確には、粒子を観測する為の検出器。剥き出しになった真空管に、複雑な装置が繋げられている。小型であり、かなり雑な作りだったが、性能自体は十分だった。

 むしろコストパフォーマンスの面から見れば他を上回ってすらいる。しかし当然のように、束がその事に価値を見出す事は無かった。彼女にとって重要なのは自分自身と、それが愛するISのみ。それ以外の全ての事は関心を向ける対象にはなり得ない。

 

 人形のような無表情のまま、束は数メートル離れた場所に有る装置に向かって歩き出した。

 固い靴底が床を踏む音が静かに響く。コツコツという硬質な音。その規則的なテンポに時折混じる、コードを踏む鈍い音。

 何処となく冷え切った雰囲気が有った。一歩進む毎に新しく場面が切り替わっている。言わば現実感が無い。足取りは確かなものだったが、彼女の姿は酷く不安定だった。

 程無くして、束は目的の場所に辿り着く。真空管をじっと見下ろす彼女の目は濁っているようにも、透き通っているようにも見える。

 或いは単に、色を持たない。

 

 

 

 人類最高の頭脳は未知の粒子の観測に成功していた。

 名称はIS粒子。発見者である束がそう名付けたのだ。彼女も存在自体は随分前から確認していたものの、その目で直接観測したのはこれが初めての事だった。そしてそれは、束にとっても非常に大きな意味を持っている。

 IS粒子とは何か。それは名前から分かるように、ISに関する殆どの理論の基盤となる存在だった。その立ち位置は数学における四則計算の法則に近い。これが無ければ始まらないが、逆に言えばこれさえ有ればどうとでもなる。

 それこそ、今すぐにでもISの開発に取り掛かる事ができる程に。

 

 これからの事を想像し、冷たく結ばれていた束の口の端が吊り上がる。計画の上では一月は掛かるだろうと思っていた筈がこれだけ短く済んだのだ。実に幸先が良い。

 束はすこぶる機嫌が良くなった。

 

 暗闇の中でコンピュータの画面が妖しく光っている。

 あの日から一週間後の出来事だった。

 




 連載を始めてから、月日が過ぎるのが速くなったように思われます。
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