背中に鈍い衝撃が走った。
壁に突き飛ばされた程度で大したダメージにもならないが、ぶつかった音はさも痛そうに響き、男子便所の中という狭い部屋で有粋と不良たち以外の耳を打つことなく静かに消えていく。
動揺一つ見せずここまでついて来た有粋の豪胆さが面白くないらしい不良たちは、彼女(不良たちは『彼』と認識している)のシャツの襟首を力任せに引っ掴んで気管を締め上げながら、息のかかる距離まで顔を寄せてメンチを切った。
「随分ふてぶてしい態度じゃねぇか。テメェ、本当に一発で済むと思ってんのかぁ?」
「一発で済ませなきゃ、痛い目見んのァそっちだぜ。二発目以降は権利をくれてやった覚えがねェからな」
それでも微動だにしない有粋の表情筋。
纏う空気にも恐れの気配は感じられず、どころか、忠告じみた真似までされてしまった。
ぴく、と不良の額に血管が浮かび上がる。
彼は不良という人種のご多分に漏れず煽り耐性がそこまで無い。
「上等だゴラ! その女にモテそうなイかしたツラ、倍に腫れ上がるまでぶん殴ってやる!!」
ちょっと僻みも混じった言葉をツバと一緒に吐き出して、型も何もあったものではない素人丸出しの、しかし喧嘩には慣れているのだろう容赦ない大振りのパンチを有粋の右頬に浴びせる。
脳震盪が起こるほどの威力ではないが、顎が外れぬよう軽く食いしばった歯が口の中でぶつかって切れるくらいのダメージは発生した。
ペッと口内に溜まった血を便器へ吐き捨てて、ワイルドに手の甲で唇を拭いながら男を見上げる。
その眼差しの鋭さに怯えたことを悟られまい、と不良は第二撃のための拳を再び振り上げた。
“権利”の与えられていない一発を喰らわせようと。
「ハァ――忠告はしたぜ、兄ちゃん」
低い囁きが耳をかすめた次の瞬間。
気付けば不良の体は宙を舞い、男子便所の扉をぶち開けて通路の壁に激突していた。
遅れて襲い来る腹部に鉄球でもめり込んだような痛みと内臓へのダメージ。
折れた骨が肺に刺さって酸素が漏れているような呼吸のしづらさ。
不良が勝手にそう感じているだけで、もちろん有粋は男のアバラを砕いてしまいそうな一撃など放っていない。
100の攻撃力があるからといって常に100で攻撃する必要は皆無。
相手を怖気づかせて退いてもらいたいだけなら、骨折まで行かずとも吹き飛ばして敗北感を植え付けるだけで良し。
要するにかなり手加減した攻撃力5くらいの膝蹴りを不良の土手っ腹に叩き込んだのだ。
それでも有粋の脚力はアスリートを踏破してトップアスリートの領域に突入しているから、それこそパラメーター的には『ちょっとか弱いゴリラ』とか『やや儚めのクマ』みたいなもの。
多少のお情けをかけたところでぬるい攻撃になったりしない。
「げぼっ……んの、クソガキィ……ッッ!!」
ボタボタと床にヨダレを垂れこぼし、腹を押さえて苦悶に呻いて、しかし不良は立ち上がろうとする。
けれどもムエタイ選手級のキックを喰らった直後なのだから、根性と気力だけではどうにもならない。
一瞬両足に力を込めただけであっさりと崩れ落ち再び床に突っ伏した仲間に、茫然と自体の進行を見ていただけの他の不良連中もやっと正気を取り戻した。
「テメェ、よくもリュウちゃんを!」
「ただじゃおかねぇ!!」
殺気立って口々に罵倒を飛ばしながらも、先程有粋が見せた一撃――正確には見えないほど早かった一撃がよほど堪えたらしく、誰一人として襲いかかってくる気配は感じない。
ついでにこの騒ぎに左右の車両の乗客たちが気付き始めたようで、車掌を呼ぶか迷っている風な会話が聞こえてきた。
ここいらでこのゴタを収めなければ他の乗客に迷惑がかかる。
何より、体感できる新幹線の速度が数秒前から徐々に落ちているのだ。
つまりそれは、次の駅に到着しかかっているということ。
自由席やら指定席やらを求めて行き交う新たな乗客が確実にこの男子便所前を通過するはず。
それまでにこの不良連中を暴力で鎮圧するのは可能だが、それ以外で鎮静するのは難しそうだ。
(仕方がねェ。野郎相手じゃ、親父ほど上手くはできねェだろうが)
手段は選んでいられない。
有粋は己のフェロモンを脳内でコントロールして上昇させ、同時に、常から男性的な色香と共に纏っている凄味の量も増幅させた。
生まれた時から備わっているものは知識がなくとも感覚で多少の操作が利く。
動かし方を教わらずとも赤ん坊が手足を動かし泣き声を上げるように。
そして有粋のフェロモンと凄味は父親譲り。
母の胎内で人の形を得る前から、遺伝子の基礎が出来上がった時点で貰っていたような二つなのだ。
万全ならずとも十全程度に駆使するのに差し支えはない。
「イイ子だから静かにしてな、
流し目と腰にクる甘ったるいハスキーボイスも完備した、光源氏もかくやの、淫蕩妖艶としか形容しようもないすこぶるつきの色男オーラを撒き散らしながら不良たちに視線を巡らせる有粋。
唇に人差指を当ててうっすら微笑む仕草も、まるでそういう映画のワンシーンみたく様になりすぎていた。
男子便所の真ん前というシチュエーションをハーレムの玉座に塗り替える官能的で威圧的な誘惑。
『イイ女を惚れさせるフェロモン』と『男が雄として負けを認めざるを得ない凄味』。
これらは単体ではなく今回のように複合して使うと、どのような複雑怪奇な途中経過を辿ったかは知らぬが、最終的には『男に女としてのドキドキを感じさせる』という結果に落ち着く。
憶測でしかないが、おそらく“雄として負けを認める→雄としての自身を失う→抑えられていた雌の部分がフェロモンに煽られる&雄の部分が弱っていて押しのけやすかったという理由で表面上に露出してくる→興奮状態の乙女の気分で有粋にドキドキを感じてしまう”とかそういう感じだと思う。
ざっくり言えば野郎を精神的に一時メス化させた上でこちらに恋慕させ欲情させる花槍家歴代男性陣(+有粋)お得意の小ワザ。
なお、最初に凄味でビビらない、まさしく“本物の雄”と呼べる強い男には効かなかったりする。
「う……あぁっ……」
「はいぃ……静かにしますぅ……」
「一夜の過ちでいいから抱かれてぇ……」
「声だけで孕みそう……」
ガタイの良い男子高校生どもがトロトロに蕩けきったメス顔で半分悶絶しながら恍惚の表情で倒れていくという、ある意味グロテスクで嬉しくないR指定のかかりそうな光景が瞬く間に展開されてゆく。
有粋にとっては慣れたものだが、駆けつけてくるいくつかの足音の持ち主たちにはどうだろうか。
スライド式の扉が慌ただしく開き、焦った少年の声が耳を打つ。
「花槍ッ! 不良たちに連れて行かれたって聞いたけど、大丈夫……か……?」
爽やかさと柔らかさを併せ持つ優美な顔立ちにギャグ漫画めいた『!?』の表情を浮かべ、引き戸に手をかけたまま固まる少年の名は磯貝悠馬。
その後ろには神崎や杉野を始めとした幾人かの男子女子がいて、全員磯貝とまるっきり揃いのリアクションをしている。
ヤバそうだったら突入する予定だったのか、少し後ろで控えるようにして立っていた烏間も、生徒たちよりは平静を保っているがだいぶ驚愕と困惑の入り混じった形相だ。
ただ一人。
これと似た光景を幾度となく目撃したことのあるカルマだけが、事情を察したのか腹を抱えて大笑いしている。
わりとメチャクチャな状況だ。
「……ほら、早く自分の席に帰んな。聞き分けの良い子は好きだぜ」
周囲が戸惑い隠しきれぬといった空気を醸し出す中、有粋は事情説明より先にさっさと不良たちを追っ払うべく、一番近い位置でへたりこんでいた不良の一人の頬をするりと撫であげる。
その指先に触れられれば無機物さえも喘ぎ声を上げそうな妖しい手つきであった。
なんだか見てはいけないものを見てしまったようなキワドい気分に陥って、E組の純情な女子何人かは落ち着かない様子で視線を右往左往させている。
前原は何故か「負けた!」という表情で悔しげに歯ぎしりしていた。同じ女たらしとしてライバル意識的なものがあったのかもしれない。
「ふぁい……」
「戻りましゅう……」
「ふへへへへへへ……」
ほとんどラリったみたいな状態で、壁にぶつかって気絶している奴もさりげに回収しつつ不良たちが去っていく。
恋する乙女みたいに頬を染めて語尾にハートマークをつけながらふらつく強面の集団は、下手なゾンビ映画よりおぞましいものだった。
烏間ですらあまりのキモさに微妙に引いているというのに、この事態を引き起こした当の本人はちっとも堪えていない。
人間の慣れとは恐ろしいものだ。
「……どうしてこうなったんだろうな」
「こっちが聞きてぇよ!?」
壁にもたれかかりアンニュイな目で言い放つ有粋に全力でツッコミを入れる杉野。
他の生徒たちも勢いよく頷く。
カルマは相変わらずひーひー大笑いしていて、どうにもこうにも収集がつかない。
そして軽く混沌の坩堝と化した新幹線の中に、新たな役者が投下される。
「――12星座運勢ランキング、本日の第1位は牡牛座」
停車した新幹線。
開いた扉。
出入りする無数の人々に紛れて有粋たちの傍にやって来た、豪奢なゴシックロリータ姿の華やかなシルエット。
車内にも関わらずフリルで溢れかえった日傘をクルクル両手で回している。
「総合運は5点満点。ずっと見つからなかった探し物がついに見つかるかも。灯台元暗し。離れた場所よりも身近な所で幸運は転がっているでしょう」
春の野に遊ぶお姫様の声をしたその人影は、不可思議な言葉を紡ぎながら目的の相手へと近寄っていく。
後方にいた前原がそれに気付き、物珍しいファッションに思わず目を凝らしたその瞬間。
「っ――!!」
人影の正体が、超をいくつ付けても足りないほどの美少女だと気付いた彼は思わず息を呑んだ。
ただの美少女ならば、筋金入りの女たらしな上にナンパ癖もあってモテモテの前原は腐るほど見慣れている。
けれどもその美少女は、ただの美少女ではなかったのだ。
それは例えるならば、天から授かった工具を使って、最高峰の技術者が素材にもこだわり一から造り上げた美しい人形細工のような容姿。
単純に黒と呼ぶにはあまりにも濃すぎる闇色をした長髪は毛先がふくらはぎまで伸び、そこだけくるんと内側にカールしている。
俗に姫カットと呼ばれる前髪の揃った髪型は別段稀有なものでもないが、彼女ほど似合っている人物ともなれば世界に五人もいないのではないか。
シミ一つない純白の肌は聖夜に降る雪と等しい。
ワインに砕いた薔薇の花びらを混ぜ合わせたような真紅の双眸はややキツネ目がちで、そこがまた、聖に在らざる魔性の魅力を感じさせる。
花びらが開くように上下にふわりと広がったまつ毛といい、咲き誇るカサブランカのような華やかな香りといい、過剰なまでに可憐な仕草の数々といい、喋るたびに口元で光の粒子が弾ける薔薇色の唇といい。
アイドルやハリウッド女優どころか、天使や妖精だってこの少女の造形には適わないだろう。
ついでに右目の下の泣きボクロが色っぽくて前原好みである。
(でも、なんか……スッゲェ美少女なんだけど……同時にスゲェ悪女っぽくもあるな……)
対面経験はないが、楊貴妃や玉藻前といった“絶世の美女かつ悪女”の条件を満たす過去の女傑たちは、この少女と多少なりとも似通った顔立ちをしていたのではないか。
そんなことを考えてしまうほど、少女の雰囲気は傾国めいていた。
「――スズちゃん?」
「久しぶりやね、うーくん。やっと会えた」
ロミオに恋焦がれるジュリエットよりも熱い眼差しで有粋を見つめて、『スズちゃん』と呼ばれた少女はさも幸福そうにドレスの裾を翻す。
大きなリボンが爪先を彩る厚底のストラップシューズで床を蹴って、固まるクラスメイトたちを尻目に、彼女は飛び込むような勢いで有粋の体へと抱きついた。
有粋は驚愕しながらも自然な動作でそれを受け止める。
あの少女と有粋は知り合いなのか。
同い年くらいの少女が何故平日のこの時間帯にあんな格好で一人で新幹線に乗っているのか。
そもそも屋根も壁もある場所で何故日傘をさしているのか。
色々と指摘したい部分はあるが、誰しもがあまりの急展開についていけず置いてけぼりにされている。
そんな面子を落ち着かせる気が、どうやら神様にはないらしい。
有粋の背中にシルクのグローブで覆われた手を回した少女は、天国にいたってこんなに幸せそうな表情は浮かべられないと確信できる蕩けきった満面の笑みを浮かべたまま、有粋の唇に素早く己の唇を重ね合わせた。
(キ、キ、キ、キ――キスだー!!)
背景にズギャーンなんて効果音を背負って再び驚愕の表情を浮かべるE組生徒たち。
関係のない他の乗客たちも野次馬根性丸出しで盗み見ていたが、そんなものは些事だとばかりに少女は熱烈なキスをやめようとしない。
「んっ、あふ……」
甘ったるいソプラノボイスが吐息と共に唇からこぼれる。
仕掛けているのは少女のほうだというのに、舌を絡めるディープなキスで喘いでいるのも少女のほうだった。
有粋は未だ呆気にとられているようで目を見張ったままだが、いつもの癖で無意識に対応してしまって、テクニック差で少女だけが喘ぐ結果になったのだろう。
物心つく前から父親の情婦たちに戯れという名のキスの嵐や夜這い紛いのスキンシップを計られてきた有粋は、クロスキスだろうとバインドキスだろうとイリーナに負けないほど上手い。
「あんっ……」
名残惜しげな声と共に、首の角度を変えてもっと深くまで有粋の口内を舐め回そうとしていた少女の体が優しく突き放される。
やっと平静を取り戻した有粋が肩を押して物理的な距離をとったからだ。
二人の舌を繋げるように引いていた赤交じりの透明な糸がぷつりと途切れる。
唾液がうっすらと紅がかって見えるのは、有粋が口の中を切っている故。
「うふふ。うーくんの血、あての体の中に入ってしもた」
ほとんどサキュバスか発情期のメスネコみたいな表情で、頬に手を当て体をくねらせながらセクシャルに囁く。
中学生の脳味噌にはもはや許容量オーバーだというのに、少女の進撃はまだまだ止まらない。
「あっ……どないしよ、勃ったかもしらへん。ドレス越しやし抜かんでもバレへんよね?」
フリルとレースで幾重にも膨らんだスカートの下で、内腿同士をこすり合わせてモジモジと気恥かしげに振舞ってみせる少女。
いや、てっきり少女だと思い込んでいたが――どこからどう見ても少女としか考えられないビジュアルなのだが――それでも今の発言から察するに、このゴスロリっ子は“彼女”でなく“彼”と形容すべきらしい。
「勃った」だの「抜く」だののアウト発言よりもそっちがインパクト勝ちしてしまった。
前原のトキメキもまた、一分とたたないうちに砕け散ったことになる。
「……は、え? 勃った? ちぃと待ってくれ。スズちゃん、ガキの頃も女の子の格好してたよな? え? 男? え?」
どうやら有粋も初めて知った事実のようだ。
珍しくアホみたいに混乱している彼女の様子を、少女改め女装少年はニコニコ愛しげに眺めている。
次々と襲い来る衝撃の波に呑まれて誰も声を発することができない。
そういう場面で第一声を上げるのは、もちろんこの少年の役目だ。
「……有粋、そいつだぁれ?」
瞳孔ガン開きの恐怖しか感じない笑顔で首をかしげるのは赤羽業。
さっきまで笑い袋と化していたくせに、目の前で謎の少年と親友がイチャつき始めてからというもの、殺気とも冷気ともつかぬ雰囲気を纏って周囲を震えさせている。
「……うーくん、あの子うーくんの何?」
尋常ならざるカルマの形相から、彼と有粋との関係がただの同級生ではないと見抜いたスズもまた怖気の走る笑みでカルマを見やる。
交わされた視線の間で冷たい火花が散っていた。
「えっと、カルマ。こっちはスズちゃんって言って小学生の頃に京都で会った子だ。この子はアタシの「うーくんの
説明途中で言葉を被せられる。
しかも火に油を注ぐような内容であった。
ドヤ顔で挑発されたカルマは嫌いな食べ物を味わっている最中みたいな表情で「へぇ」と低く呟く。
「……で、えっと、スズちゃん。こっちは赤羽業。幼稚園から中学まで同じ所に通ってるアタシの「有粋の
そしてお返しとばかりにこちらも有粋の発言に意味深な内容を被せた。
前髪で隠れたスズの額に青筋の浮かび上がる音が聞こえる。
交錯する視線の刺々しさは、イバラどころか有刺鉄線だ。
真ん中を通ったら間違いなくズタズタに引き裂かれる。
カルマはスズのことを、スズはカルマのことを、値踏みするような遠慮容赦のない眼差しで互いに睨め付け合って、ほぼ同じタイミングで舌打ちを鳴らす。
それが試合開始のゴングの代わりだった。
久しぶりの更新。
最近現実のほうが忙しくて執筆が滞りがちですが、できるだけ早く続きを投下できるよう頑張ります。