「あの、井上先生、何のお話ですか?」
「あ、泉井さん、昨日提出してもらった入部届のことなんだけどね、ああっ!」
教壇に立つ井上先生に声をかける。振り向いた先生は、何故か手に持っていたチョーク入れを落として悲鳴を上げた。落ちた衝撃で砕けたチョークが、床にカラフルな模様を描く。
井上先生は慌てて屈むとチョークを拾い始めた。重力の作用で垂れた上着の隙間から覗く鎖骨が艶めかしい。これは眼福ですねと、どこかの中年親父のようなことを考えながら、困っている先生を助けないわけにもいかずに、仕方なくチョーク集めを手伝う。
「泉井さん、ごめんね。ありがと、いったっ!」
井上先生は教卓の下に落ちたチョークを拾い終わると、私にお礼を言いながら頭を上げた。案の定というか何というか、教卓の天板に思いっきり後頭部をぶつけると、涙目になって後頭部をさすっている。
絵に描いたように鈍くさい人物なのだ。
もし彼女がライトノベルやアニメの登場人物だとしたら、弁当を作ってくるとか、料理対決するとかいうイベントで、簡単な料理を失敗してダークマターを生み出した挙げ句、不幸体質の主人公を保健室送りにしてしまうんだろう。
フィクションに突っ込んでも仕方ないんだけど、料理で人を失神させることはできるんだろうか。河豚の毒にあたったとかなら分かるけど、まともな食材から刺激物を生み出すなど逆に難しいと思う。どんな錬金術を使ったんだろうか。
井上先生は古文を教えているのだけど、問題なく日常生活を送れるのか不安になるほど鈍くさい割に授業は非常に分かりやすい。
授業スキルに能力値を振りすぎて、日常生活における諸々のスキルが悲惨なことになっているのかもしれない。
今年で30歳を迎えるらしいけど、背が低くて童顔の井上先生はとてもアラサ―には見えない。10代と言われても……。
いや、さすがに盛りすぎた。「大学卒業したばかりです」なら問題なく通用するくらいには若々しい。
あと、背が低くて童顔の井上先生だけど、スタイルがいいというか何というか、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
何処の部位かは言わないけど、彼女が関東山地なら私は関東平野。平野部では心の雨が最大降水量を記録している。こればかりはどうしようもない。甲府盆地でなかっただけ幸せと考えよう。
結婚はしていないらしい。可愛らしい容姿をしているから最初は意外だったんだけど、絶えず繰り返される、わざとではないかと思うほど間抜けな行動の数々を見ていると、結婚できないのも納得できる気がする。砂糖と塩をデフォで間違えそうだし……。
勉強を教えることに関しては教師の中で群を抜いて優秀なのに、日常生活では常に鈍くさいというギャップも受けているのか、男女問わず生徒からの人気は高い。「守ってあげたい女性ランキングin our high school」に毎年ランクインしているとかなんとか。
何故そんなことを知っているかというと、休み時間や放課後に教室の中心を占領し、大きな声で談笑するクラスメイトの会話を聞いたからである。
勝手に耳に入ってきたんだから、決して盗み聞きなんかじゃない。人が折角机に突っ伏して寝ようとしているのを、無駄に騒いで邪魔してくる彼らが悪いのだ。
「ああ、痛かった……」
先程からずっと頭を抱えて蹲っていた井上先生は、やっと痛みが引いたのか、教卓の角を持って体を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。私と目が合うと照れくさそうに笑みを浮かべた。
可愛い。女子の私から見ても可愛い。けど、肝心の話が全然進んでいない。
「大丈夫ですか? それで、入部届がどうしたんですか?」
「うん、大丈夫。泉井さん、文学部って書いてたよね? 文学部って今一人も部員がいなくてね」
チョークを撒き散らした上に後頭部を強打するという、泣きっ面に蜂コンボのせいで長らく中断されていた話の続きを促すと、井上先生は後頭部をさすりながら話を始めた。
「一人だと部として認められないとかですか?」
「ううん、そういう話じゃなくてね。一人だと寂しくないかなと思って」
私の質問に井上先生は上目遣いで答える。背が低いから誰に対しても上目遣いになるんだろう。可愛らしい仕草にドキッとしてしまう。
女子の私がこうなるのだから、男子など一発でKOされてしまうだろう。何かをお願いされたら、それこそ奴隷のように働くに違いない。
それよりも、高校生にもなって「一人は寂しい」とか言っていたとしたら、だいぶ痛いというか、正直ドン引きするレベルじゃないだろうか。「独り身で寂しい」というなら往々にしてあることだけど。
寂しくて死んじゃうとか兎ですか……?
兎は実は群れよりも一匹の方がいいらしいけど。縄張り意識のせいで他の個体がいるのはストレスとかなんとか。
ということは、孤独を極めているボッチは兎であると言っても過言ではないんじゃないかな?
もしかして私って兎なんじゃない? 兎系女子(ボッチ)じゃん。
「いえ、別に一人なのは平気です。他に入りたい部活もないので」
「じゃあ、このまま提出しておくね」
勉強は平均並み、運動は平均以下、容姿は禁則事項という私の唯一の趣味が読書だ。他人との人間関係に煩わされることなく、読書に思う存分集中できる環境が得られる。文句とかあるはずがない。私の返答に井上先生は優しい笑顔で答えた。
話はこれで終わりらしい。怒られるのではないかと内心びびっていたから、無事に解放されたことに安堵の息が漏れる。教師からの呼び出しとか心臓に悪い。何もしてないのにどきどきしてしまう。
井上先生に小さく頭を下げると、教卓から離れて自分の席へと戻る。