そこはどこまでも深い闇の中だった。
その深い闇の奥底に何度身を浸らせたか、もう覚えてはいない。というより数えてはいない。百単位ではないことだけは確かだ。
底で這っている数多の蟲共目掛け、頭から叩き込まれたのは五歳くらいだったか――――もう朧げな記憶を探りながら鴇哉は蟲蔵への階段を降りていく。
石壁に蝋燭を灯していても、その暗さを払拭することは出来ない。鴇哉の青い髪も、白い肌も、菫色の瞳も、身に着ける独特な衣装も、蔵に満たされた闇の中では掻き消えそうなほど心細い色彩だ。
その中でくっきりと己を主張しているのは、長羽織の中で丸まった手の甲に刻み込まれた赤い刻印だけ。あと一年で始まる戦いへの参加証明である令呪だけが、深すぎる闇の中でも魔術師という存在を飲み込まれぬよう主張してくれている。
「しっかし爺様も人が悪いな、『どんな手を使ってでも』だなんて」
こつ、こつ、こつ、とブーツの底で石階段を蹴る音を響かせながら、鴇哉はそう大きくはないがよく通った声で呟く。
言葉を投げかける先には、鴇哉より先に蔵へと進む老爺がいる。体を蟲に挿げ替え生き続ける怪物は、くつくつと喉の奥で笑い声を鳴らすばかりだ。
臓硯は返答しない。怪物は己が血を引く子の問いを無視した。だが鴇哉も始祖の反応を無視し、語り掛ける。
「慎重派な爺様にしては随分と危険な賭けに出るね。出来るだけ聖杯戦争に勝ちたいだろうに、まさか次兄を煽るなんて」
その内容は、先ほど翁が次男へと振った交渉に関するものだった。
「次兄は長兄と違って、間桐らしく手段を選ばない性だよ? もし次兄が聖杯戦争に参加する全員に声を掛けて、ウチを潰して欲しいと言ったらどうするつもりなのさ」
鴇哉は階段を下り、肩を竦めながら言う。
聖杯――――それは万能の願望器にして、根源へと至るための魔術礼装。
聖杯戦争とはこの奇跡の礼装を奪い合うべく、礼呪を持つ七人のマスターと聖杯により召喚された七騎の英霊たちとが殺しを繰り広げるものだ。
呼び出したサーヴァントとの関係作りなどで苦労することになるだろうが、しかしルールそのものはそれほど複雑ではない。魔術の神秘さえ漏洩させなければ、多少の無茶は黙認される。
先ほど指摘した、陣営同志での共闘だって許される。最終的に殺し合うことには変わりないけれども。
ゆえに鴇哉は示唆した――――他の陣営全てが、間桐の敵となる可能性を。
「カカッ、要らぬ心配なぞ無用であろう」
だが臓硯はまるで堪えた様子もなく、その指摘は無意味であると笑い飛ばし跡継ぎの方へと顔を向けた。
「どうあがいたところで、雁夜の交渉が成功する可能性は無いに等しい。もし出来たとしても、一陣営が精いっぱいといったところじゃろうて。お主とてそれが分かっていよう」
「まぁ、そうなんだけどさ」
にんまりと浮かべた笑みで返す翁に、鴇哉は苦笑を浮かべ相槌を打った。
雁夜が聖杯戦争の参加者と手を組める可能性は、限りなく低い。
その理由は聖杯戦争参加者と、雁夜の目的が原因である。
まず一つ、聖杯戦争の参加者。これは手の甲に浮かび上がる令呪が参加証明となるため、冬木市内にいる中で一定の力があるものが選ばれる。
その中で必ず参加することになるのは、聖杯戦争のシステムを作り上げたアインツベルン、遠坂、間桐の御三家だ。
そして雁夜がこの御三家と共闘する可能性はないに等しい。
まず生家である間桐。ここは彼の目的が間桐の魔道を桜たちに伝えないことであるため、完全に除外される。
次に遠坂。火属性である現当主と蟲を操る間桐との相性は悪くないが、ここの現当主は雁夜が嫌う時臣である。彼が遠坂に協力を願い出る確率は零だ。
そしてアインツベルン。ここには特別大きなしがらみの類はないが、この家の場合は雁夜が間桐出身であることが原因となる。普通に考えて、敵対しあう魔術の家の人間を信用するわけがないのだ。確実に、間者かそれに近い物として送り込まれたと見るだろう。敵となりえる人間が共闘を申し込んだところで、頷くとは思えない。
そうなると他の四陣営に期待することとなるが、これも難しいだろう。参加者は必ず七人選ばれるため格の劣るマスターにも礼呪が分配されるが、基本的には願いを持つ者や魔術回路がある者が優先される。よほど人材不足でなければ魔術師として才ある者に令呪が現れるのが普通である。
そしてそういった者は基本、魔道を尊ぶ。
ここで振り返って欲しいのは、雁夜の目的が『家の魔術を子に伝えさせない』ことである。つまり雁夜は、『魔術の名門たる家を没落』させようとしているも同然なのだ。
それを理解した上で考えてみて欲しい。魔術を尊び根源に至らんとし、編み出した技術や研究を後世に残していくことを目的とする者が、そんなことを目論む人間に手を貸すだろうか?
確実に首を振るに違いない。下手をすれば、そんなことを頼んでくる相手を殺そうとするかもしれない。そちらの可能性の方が高いだろう。
だが中には、そんな雁夜に手を貸す酔狂な人間がいるかもしれない。しかしその場合、他の正統派魔術師ほとんどを敵に回すこととなる。それでその酔狂者はともかく、雁夜が生き残れるかは定かでない。
よって、彼が参加者と手を組める可能性は『限りなく低い』のである。
「まぁそれでも可能性は零じゃないっしょ。僕でも流石に、遠坂みたく足元掬われるなんてことにはなりたくないし」
「まぁ、気持ちは分からんでもないな。じゃが、そのときはそのときじゃ」
「そうなんだよねー。あーあ、なんでこんなことになっちゃったかなぁ」
白くぼやけた吐息を宙に泳がせながら、鴇哉は冷たい天井を見上げるように仰ぎ、顔を手で覆った。
そんな鴇哉の姿に、臓硯は意地の悪い笑みを浮かべる。
「カカッ、なんじゃ? 洗脳が思い通りにいかなんだのがそんなにも予想外であったか?」
「洗脳なんて人聞き悪いな、話ついでで次兄に知識と魔道を刻み付けただけじゃないか」
義理の父の言葉にムッと唇を尖らせ、鴇哉は反論する。
だがすぐその後、
「あぁ、でも確かに結果が出なかったのはショックだよ。勘付かれないようにとはいえ、ちまちま植えつけていくんじゃ効果なかったみたいだ」
と、鴇哉はぼやく。
この一か月で雁夜が魔術に対し理解を深めたのは、鴇哉との会話によるものでありながらも、そうではない。会話する度、どさくさまぎれに『魔術の知識』と『魔道の一片』を移植したためだ。でなければ、長年魔術を拒んできた雁夜がたった一か月で魔術に理解を示すはずがない。
これは二人だからこそ出来た芸当だろう。洗脳される側が吸収の特性を持つ間桐雁夜であり、洗脳する側が架空元素属性を持つ間桐鴇哉だからこそ可能となったのだ。どちらか片方でもその前提に当てはまらなければ、洗脳される側の精神は少なからず破損していたと思われる。
それでも鴇哉は決行した。腹違いの上出奔しているとはいえ、血の繋がった兄と穏便に話を済ませたかったためである。
そのためにわりと下衆いことをしたが、まぁ魔術師だから仕方ないといえよう。魔術師とは基本そんなものだから。
もし問題があるとすれば、この一か月洗脳によって少なからず雁夜の魔術回路が成長したことだろうか。知識と共に魔道の一端を植え付けたせいで、回路に作用したらしい。彼はまだ気づいていないようだが、今の雁夜は普通の虫なら操れる程度の力が身に付いている。あと一年か二年修練をすれば、素人に毛が生えた程度の魔術師見習いになるはずだ。
雁夜が知ったら卒倒した後怒りそうなことをやらかした鴇哉だが、反省も後悔もしてはいなかった。英才教育によってタフネス精神を持つ末っ子は、兄たちに怒られるくらいではビクともしない。
「まぁ、終わっちゃったことを気にし過ぎても仕方ないか。さてさて、何の英霊を呼び出すかな?」
自分がやらかした割りと問題なことを意識の隅にやる頃、二人は蟲蔵の最深部へと到達した。そこではギチギチギイギイと甲殻めいた肢体を持つグロテスクな魔蟲たちがひしめき、主人らを歓迎しているかのようだったが、普通の人間が見たらたちまち意識を失いそうな光景であった。
「知名度補正を考えたら有名どころが良いんだけど、でも有名過ぎると真名がすぐバレるからなぁー。はぁ、どうしよっかね」
「カカッ、おぬしにしては随分と悩んどるようじゃのぉ。愉快愉快」
「ひっどいなー爺様。けど、うん、確かに悩むねこれは」
石壁を這いずり回る蟲を涼しい顔で眺めながら、顎の下に手を置き考え込む。そんな跡継ぎを、臓硯は己が身を這う虫を撫でながら観察していた。
しばらくすると、鴇哉は諦めたように首を振る。
「うーん、駄目だな。候補が思い当り過ぎて決定出来ない。とりあえず、バーサーカークラスを呼び出すつもりではあるんだけどさ」
「ほぉ? バーサーカーとな?」
思ってもみないクラス名を挙げた鴇哉に、臓硯は軽く目を瞠る。
狂戦士のクラス、バーサーカー。狂化スキルによりステータスを上昇させることが出来るこのサーヴァントは、破壊力なら他サーヴァントより優れている。が、その反面、消費される魔力が桁違いだったり一部の宝具が正常に発動しなかったりといったデメリットも大きい。その圧倒的暴力に反し、勝ちを取りにくい面倒なクラスだ。
「よもやバーサーカーを自ら望んで選ぶとはのぉ。アレを呼んだ者は皆自滅していったことは既に伝えておるはずじゃが、何か勝算でもあると?」
「勝算というか、デメリットを消す方法かな。まぁ実際に出来るかどうかは微妙だし、これから出来るように鍛錬する必要があるけど」
そう言いながら、鴇哉はそのデメリットを消す方法を臓硯へと告げる。
すると蟲の翁は目をかっぴろげ、心底愉快そうに笑い出す。
「なるほどのぉ……! 確かにその方法を用いればバーサーカーの利点も、元のサーヴァントの強みも使えるわい。それに鴇哉ならばAランクのサーヴァントに狂化を掛けてもそう負担にはなるまい……よかろう、儂がとっておきの触媒を用意してやろうぞ!」
「え、何呼び出させる気なの爺様」
予想以上に興奮している始祖に若干引きつつ、鴇哉は臓硯が一体何を召喚させるつもりなのか気になった。
なにせ、ただバーサーカークラスで召喚するだけのつもりだったのに、Aランクのサーヴァントをバーサーカーにするという話になったのだ。気になるのはさもありなんといったところである。
「カカッ、安心せい、そう奇怪なものを呼ぶつもりではない。儂がお主に召喚させるのは――――」
身をくねらせる蟲を撫でながら、臓硯は一呼吸置いて……告げる。
「円卓最強にして裏切りの騎士、湖のランスロットじゃ」
それは最初から主君に許されながらも、再び仕えることは最後まで叶わずに死んだ、哀れな男の名であった。