【完結】ソードアート・オンライン ━傷だらけの獅子━ 作:針鼠
「報告を頼めるかな、レイ君」
「はっ」
レイは直立の姿勢を取って報告を始めた。
「ボス部屋までのルートはA、Bどちらも安全が確認されました。しかし……」
一瞬言葉を詰まらせる。しかし今一度自身の使命を思い出したのか、歯を喰いしばって顔を上げると報告を続ける。
「しかし、先発組十人が部屋に入った直後トラップを確認。以降五分近くの間、扉はスキル及び打撃に対しても一切開くことはありませんでした」
俺は黙ってその報告を部屋の隅で聞いていた。
★
鍵開けスキルによる施錠は不可能。扉の破壊に関しても、《金獅子》が先ほどからあらん限り攻撃を与え続けているが扉の耐久値が減っているとは思えない。当然だ。扉は破壊不能オブジェクトと示されているのだから。それはつまり、あの扉はこの世界そのものに守られていることを意味している。
扉は壊れない。それがわかっていながら、レイには目の前の男を止めることは出来なかった。
アラームトラップ。それ自体はさほど珍しいものではない。引っかかれば多少厄介ではあるが、一定時間の経過かエリア内のモンスターを全滅させればトラップは解除される。――――ただしそれは、敵が通常のモンスターであったならばの話だ。
ボス部屋の扉が突如閉じられることは今まで一度もなかった。こうして扉が閉ざされれば外部からの分析も、救援も、中のプレイヤーの離脱も完全に不可能となる。たった十人足らずでボスを倒すことはほぼ不可能。ならば時間経過による開錠だが、そちらも期待は出来ないだろう。
閉鎖されたエリアから脱出するにはもう一つだけ方法がある。その方法とは転移結晶の使用だ。プレイヤーは街に戻り、閉ざされたエリアはエリア内にプレイヤーの姿がなくなったことをシステムが確認すると自動的に解除される。先発組はいずれも攻略組の精鋭。それぐらいの対処法も当然知っている。
けれどレイがそれで楽観出来るはずはなかった。彼は聞いていた。この下の階層、あの《黒の剣士》が単独で討伐に成功したボス、《ザ・グリームアイズ》。そのボス部屋は結晶無効化空間であったということを。
レイは体が震えるのを感じた。この仮想空間で、この身が仮初の肉体であると自覚しながら情けなく震えた。その震えは恐怖からきたのではない。不覚にも、安堵していたのだ。
扉の向こうで何が起こっているのか想像出来るからこそ、自分が先発組でなかったことに安堵してしまった。
(オレは、なんて醜い……)
攻略組最強ギルド《血盟騎士団》。その幹部にまで彼が上り詰められたのは、彼が誰よりも正義感に強く、誠実な人柄であったからだ。このゲームを攻略し、下層で怯える人達を救いたい。そう思って攻略組に名を連ねていたはずなのに……。
情けない。己を心の内で非難していると、閉ざされていた扉が唐突に開かれた。扉の前で武器を振りかぶったまま呆然と立ち尽くす《金獅子》の姿が見える。彼の視線の先には誰もいなかった。
薄暗い、寒気を覚えるような広さをもつ空間が忽然と広がっているだけだった。そのときレイは心底震えた。数分前には決して開かず、今は大きく開け放たれた扉が、まるで化け物の口に見えた。じっと獲物を待ち口を開け、ひとたび口に餌が飛び込めば固く閉じる。たとえ内外からどんな衝撃を与えようと泣き叫ぼうと決してそれは開かれず、それが再び開かれるのは次の獲物を待つときだけ。
「……っ」
涎を垂らして待つその扉に足を踏み込もうとする者がいた。目が痛くなるような金色の鎧に片目を塞ぐ眼帯。この世界でおそらく最も異様な出で立ちをした男はふらふらと誘われるように暗い部屋へ歩を進めている。それはあと数歩で向こうとこちらの境界線である扉の跡に到達するまでに。
「そいつを止めろ!」
反射的にレイが叫ぶ。レイ同様に彼を呆然と眺めていた――――おそらく何をするのか信じられずに――――プレイヤー達が総出で取り押さえる。
レオンは不気味なほど簡単に止まった。しかし足は止まっても決して部屋から遠ざかろうとはしない。塞がれていない隻眼で暗闇の奥を見つめ続ける。
「レイさん!」
傍らで待機していた仲間が叫んだ。わざわざ言葉で報告を受けずともレイも気付いた。後方、自分達が通ってきた方向の通路に夥しい数のモンスターが湧きだしていた。気付けば十分というリミットはとうに過ぎ、システムによる不正防止が働いたのだ。今見えているだけでモンスターの数は十数匹。種類は全てこの層に出現するモンスターだが、ポップする数はおそらくあれだけにはとどまらない。これからあの倍……いいや、少なくともさらにその倍近いモンスターが湧き続けるだろう。
常識で考えればすぐに逃げるべきだ。偵察隊を預かった者としてこれ以上被害をだすわけにはいかない。わかっているはずなのに声が出なかった。恐怖のあまり竦んでいたわけではない。ただ、迷った。今逃げれば先発組の死は無駄になってしまう気がした。このままではヒースクリフに任された任務の内、半分以上を果たせないで自分達は逃げ帰ることになる。
迷うレイの脇を一人のプレイヤーが通り過ぎた。それに気が付き反射的にそいつの肩を掴む。
「傭兵!」レイは歯を喰いしばって「気持ちはわかるがここは離脱を――――」
「退け」
「……っ」
凍るような眼だった。隻眼に睨まれたレイは思わず手を離してしまう。
レオンは改めてモンスターの群れに正対すると引きずっていたメイスを肩に担ぐ。
「ォ、オオオオオオオオ!!」
獣の咆哮。空間が軋むような錯覚を受ける雄叫びをあげてレオンは単身モンスターの群れに飛び込む。
振り上げたメイスで思い切り床を叩いた。空振りではない。範囲型単発重攻撃、《ショック・ウェーブ》。レオンの周囲にいたモンスター達が不自然に膠着した。
ショック・ウェーブは技後の硬直時間こそ長いが、使用者――――正確には攻撃した箇所から半径三メートル内のプレイヤー及びモンスターに強制的な数秒の硬直時間を課すもの。ただし地面に接着していない飛行型モンスターや、地面に根を張って固定された植物系モンスターには効かないが、この層に現れるモンスターは全て《リビング・ナイトリーダー》のような人型なので効果は抜群。
硬直が解けたレオン。モンスター達の動きを止めたとはいえ未だ囲まれた状態に関わらず彼は後退を選ばなかった。その場で腰を落とし、再びソードスキル発動の光をメイスが纏う。
彼の優れた筋力値、加えて一撃の重いメイスという武器の特性は絶大な攻撃力を実現する。たった一撃で、HPの絶対値が低いモンスターはポリゴンを爆散させ、防御力に秀でた騎士ゾンビに至ってもそのHPの半分以上を消し飛ばす。
けれどそんな特攻いつまでも続くわけがない。ショック・ウェーブの範囲外にいた後続のモンスター達が消えた仲間の分前へ詰めて技後硬直を課せられた彼に無慈悲に剣や牙を突き立てる。威力の高さに伴って他の武器より硬直時間が長いのもメイスの特性だ。
本来レオンの戦い方は撃たせずに撃つ。ソードスキルを使わない通常攻撃による回転率重視の連撃で敵を寄せ付けずにHPを削り、頃合いを見て威力の高い範囲系のソードスキルで一掃する。もしくはカウンタースキルを使ったノックバック狙いのパリィで相手の動きを強引に止めて、威力の高い攻撃で攻めたてる超攻撃型のスタイル。呪いじみた効果は置いておいて、単純な防御力の高い板金鎧。加えて彼の
その通り、最前線の迷宮区モンスターの攻撃をあれだけ受けて、しかしHPは危険域には及ばない。それでもいつかはゼロになる。このまま攻撃を浴び続ければ遠からず彼のHPは全損する。敵に囲まれた状態で威力に頼り切った隙の大きいソードスキルを連発するなど彼本来のスタイルではない。捨て身だった。
レイはきつく奥歯を噛んだ。
「コリドーをセットしろ」
指示を受けた男は一瞬戸惑ったようだった。レイは構わず指示を繰り返す。
「コリドーの座標セットを。クリスタル座標セット完了までの二分間、我々でこの場を死守する。――――彼らの死を、無駄にしたくはない」
その言葉に他のプレイヤー達は衝撃を受けたようだった。彼等とて、先発組がどうなったか想像はついていたはずだ。それでもまだ、第一層の黒鉄宮の石碑で名前を確認するまでその事実から逃避することは可能だった。
けれど今レイははっきりと言った。彼らは死んだと。事実を認めろ、と。
それはとても残酷な宣告であった。だが同時に最後のレイの言葉は彼らに強く伝わった。
彼らの死を無駄にしたくない。ここで出会った友人だったかもしれない。恋人だったかもしれない。リアルでも連れ添った親友だったかもしれない。ダンジョンですれ違うだけの顔見知りだったかもしれない。――――今日この任務で初めて会ったような関係でしかなかったかもしれない。
それでも彼らは剣を取る。理由は簡単だった。自分達は攻略組で、死んでしまった彼等も攻略組だった。それが無駄だったなど許せるはずがない。
「突撃!」
レイの言葉で皆が駆ける。
蔓延るモンスターの群れには独り雄々しく戦い続ける青年の姿があった。気高い獅子の如く、吠え、猛り、怒り、そして悲しく鳴き続ける傷だらけの獅子の姿が。
★
「そうか」
ヒースクリフは瞼を閉じて沈黙する。
レイは深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。私の力不足で多くの被害を……」
「そんなことはない。君は役目を立派に果たしてくれた。彼等の犠牲も決して無駄にはしない」閉じた瞼を開いてヒースクリフは微笑む「ボス攻略戦には君の力は不可欠だ。辛いだろうが、もう一度力を貸して欲しい」
ヒースクリフの力強く、そして温かい言葉にレイは感極まったように身を震わせていた。改めてもう一度深く頭を下げ、ギルドの礼を取り部屋をあとにする。その際一度こちらに視線を寄越したが、俺が取り合わないとみるや黙って部屋を出た。部屋には俺とヒースクリフだけが残される。
「レオン君もご苦労だったね」
ヒースクリフは顔の前で両手を組む。彼の表情は最初からいまこの瞬間まで一貫して変化は無かった。ひたすら黙す男の姿を、レイは悲しみと怒りに耐え忍ぶように見えたのだろうが、俺は違う。
「今回の件は残念だったが――――」
「てめえはっ!!」
俺はついに堪えきれずヒースクリフの胸ぐらを掴み上げる。さっきから抑えていたがもう我慢できなかった。
こうまでされてもヒースクリフは特に表情を変えずになすがままになっていた。それがより一層気に入らない。
「今回は残念だった……仕方がなかった……。お前はいつもそう言うが」脳裏に二人の顔が過った「本当にそうなのか。本当に、どうしようもなかったことなのか!?」
「それは今回の件のことかな? それとも、セルシア君のときのことか」
「……っ」
振り上げた拳はギリギリで反応した理性が押し止めた。突き飛ばすようにヒースクリフから手を放す。
灰色の男はやはり一切感情の変化をみせずに俺を見つめた。
「君がどう思っているかは知らないが私も所詮プレイヤーの一人だ。君と同じ、ね」
男の声に揺らぎはなかった。多くの仲間を失い、クリアするには絶望的なこの状況下においてもこいつは声を震わせない。眉を動かさない。はたしてそれがこの男の強さなのか。本当にこれが、俺と同じ人間なのかわからなくなってしまった。
ヒースクリフは最強のプレイヤーだ。センスならばキリトの方が上だ。スピードという一点ならアスナの方が上だ。パワーなら俺も負けるつもりはない。――――だがそれでも、最強はこの男だ。それは単なるレベルやステータスの差ではなく、この男が……ヒースクリフというキャラクターを演じるこの男が誰よりも強いからだ。鋼鉄の精神力。それは覚悟と呼ばれるものかもしれないし、意志の強さ。
この男の根底にあるものが、突き動かし支える続ける何かが崩されない限り、この男は負けないだろう。ただしそれが本当にこのゲームのクリア、ひいてはプレイヤーの解放などという高潔なものであるのかまでは俺に知りようもないことだった。否、知ったことではなかった。
俺は強くなりたい。この男のように。何故ならそれこそがセルシアとの約束を果たすことになると信じているから。
『話しを戻そう』ヒースクリフはそう言って再び椅子に腰を下す。
「今回の被害は甚大だ。だがそれ以上に現状、我々は追いつめられている。報告通りなら今回の……いや、これから先、ボスに対する偵察は一切行えないだろう」
それは俺も同意見だった。今回がそうであっても次回がそうとは限らない――――そんな甘い推論では命を落とす。常に最悪を想定する。それでもこの地獄のゲームは想像以上の地獄を用意しているだろうから。
結晶無効化に次いでトラップ。これだけの障害があってまだここは全体の四分の一。となれば最上階は一体どれだけ理不尽な仕掛けをされているのか想像したくもない。近いうちにボスが二体という状況すらありえそうで笑えない。
「それでも我々は諦めるわけにはいかない。いつか訪れる、解放の日の為に」
キールは死んだ。彼だけではない。すでにこの世界では四千人近い人間が死んでいる。そしてこれから先も犠牲者は増え続けるのだろう。
「今回の報酬はいらない。代わりに条件をだす」
俺もいつかその一人になる。これは確信だ。
「次のボス戦、俺を参加させろ」
★
第七十五層主街区のゲート前にはすでに多くのプレイヤーが集結していた。その全てが攻略組でも屈指のハイプレイヤー。到着してすぐにいくつかの視線を感じるがどれも友好的とは思えない。彼らの間で俺は下層プレイヤーから金を巻き上げるハイエナなので仕方ない。かといって構ってやるつもりもないので全員が集まるまでは端っこで大人しくしていることにする。
「レオン」
相変わらず馴れ馴れしく声をかけてくるのは大抵決まった人物だ。視線をやるとやはりキリトだった。
先日の一戦により、もはや名実ともにヒースクリフと並ぶ最強プレイヤーとなった彼には多くの視線が集まっている。
はっきり言って一緒にいると目立つで遠慮したいのだが、こんな防具着けておいて今更だったかと諦めた。
「こんにちは、レオンさん」
彼の隣に寄り添うアスナも相変わらずだ。
だがどうにも俺は妙な違和感を二人に感じた。キリトと彼女の距離が気になる。今までは互いに自身の立場を気にしていたのかなんとなく距離があったのだが、今は以前より随分近くなった。
じっと見つめると二人して目をそらすものだから察するのは容易かった。
「おめでとうって言ってやろうか?」
キリトは否定せず頬を赤くして指でかく。アスナの方はキリトより吹っ切れているのか恥ずかしそうに、でもとても幸せそうに笑った。なるほど確定だ。
「お前らみたいな新婚まで駆りだしたのかよ…………逃げりゃあよかったのに」
冗談ではなかった。本気で薦めた言葉だ。
けれどその程度で彼らの決心は変わらない。彼等とて逃げるという選択肢を考えなかったわけではないだろうが、もう決めたのだろう。今だけではなく最後の瞬間まで、これから先もずっと一緒に生き抜く覚悟を。
キリト達もヒースクリフと同じ強さをもってる。ただこいつらの場合はヒースクリフよりずっと戦う理由がわかりやすい。互いが互いを守る為に戦い続ける。片方では駄目。どちらも欠けてはいけない。
「はぁ」
思わずため息が漏れた。リズベットも報われねえな。
しばらくしてヒースクリフがやってきた。その傍らにはレイと他数名のKoBの精鋭がいる。
ヒースクリフは辺りを見回しメンバーの確認をした後、俺の隣にいたキリトに目を向けた。
「今日は頼りにしているよ。《二刀流》、存分に揮ってくれたまえ」
その言葉に頷くキリト。
レイ等KoBの連中がヒースクリフに心酔している様に、キリトがいるからこそ今日ここに集まった奴等だっている。クラインやエギル辺りはそう。信じているのだろう。この男の可能性を。彼がいればたとえどんな強敵相手でも勝てると。当然アスナも。
ヒースクリフは一瞬だけ俺と視線を合わせた。けれど言葉はかけてこず、再び集団に向き直る。代わりにその背後にいたレイが一際強い覚悟の光をその瞳に宿し俺に向けて頷きかけてきた。あの時とは違う。そう目が語っていた。
「では出発しよう。目標のボスルームまでのコリドーを開く」
『コリドー・オープン』というボイスコマンドに従って濃紺の結晶が砕ける。青い光の渦が虚空に出現し、ヒースクリフを先頭に次々とプレイヤー達がその光に消えていく。最後に残った俺も光に足を踏み入れた。
「行ってくる、キール」
無意識にそう呟く。
光へ身を任せた。エレベーターに乗ったときに感じるような不快な浮遊感を覚えながら、次に瞼を開くとそこはもう迷宮区の中だった。
飛び込んできた景色に思わず目を細める。当然ながらそれは変わらずそこにあった。攻略者達の眼前にそびえ立つ忌々しい黒曜石の大扉が、獲物を待つようにその口を大きく広げていた。
三十人のプレイヤーが各々最後のチェックを終える。それを見計らったヒースクリフが自身の二つ名のシンボルともいえる巨大な十字盾を手にした。
「戦闘、開始!」
まずはヒースクリフが部屋へ。続いてレイ達KoB、キリトやアスナ、他のプレイヤー達が部屋に雪崩れ込む。俺もまた、前回踏み越えることのなかった境界線を駆け抜ける。
部屋はドーム状の広い空間だった。部屋の中央で自然な陣形でプレイヤー達はボスの出現を待った。直後、大扉が閉じられる。餌を捕らえ、さぞ気分の良いことだろう。
すぐにボスが現れるだろうという予想に反して一時の静寂が流れた。薄暗くはあるが充分な光量を保つ空間に、未だボスの姿は見えない。
極度な緊張感に包まれた沈黙。精神を炙られるような時間に数人のプレイヤーが焦れ始めるのを俺は感じていた。それを含めて辺りを注意深く見回す。
――――どこから来る。
僅かな情報も見落とさないよう視線を這わせて――――違う、と小さく首を振った。目に見える情報など俺は今までどれほど頼りにしてきたというのか。彼女に言われて片目を塞いだあの日から――――否、生まれたときから俺は俺の感覚だけを信じてきたはずだ。
改めて己の在り方を自覚したとき自然と目を閉じていた。視覚情報の一切が遮断される。気配、というものがはたしてこのデータの世界に存在するのかは知らない。それについては色々とキリトが論じていたが忘れた。
少しだけ、あいつの顔を思い出したら心に余裕が生まれた気がした。
その時、ある一方向からピリリと静電気のような感覚が体に走る。
「上だ!」
「上よ!」
反射的に叫ぶと誰かの声と重なった。多分声からしてアスナか。
叫びながら頭上を見上げる。ドーム状に広がる窪んだ部屋。その天頂部で黒い影が動いた。
「ひっ」
誰かが短い悲鳴をあげた。気持ちはわかる。
それはとてつもなく巨大な百足だった。昆虫型モンスター……ただそれだけだったならここにいるメンバーは動揺しなかっただろう。
そいつは昆虫とはかけ離れた存在だった。灰白色の複数の体節。人間の背骨をそのまま抜き取ったように伸びるそれから鋭い骨の足が夥しい数並べらている。体節は上にいく度徐々に太くなり、やがてそこに頭部と思われるものがあった。ただしそれは人とも虫とも違う。まるで鬼か悪魔といった禍々しい頭蓋骨は、二対四つの眼窩から青い炎を揺らめかせてこちらを見下していた。
骸骨百足の頭上に奴を示す名が現れる。《ザ・スカルリーパー》。それが奴の名前だった。――――と、スカルリーパーは天井を掴んでいた足を不意に一斉に広げて俺達に向かって落下し始めた。
「一か所に固まるな!」
ヒースクリフの鋭い指示に圧倒されていた全員が我に返る。三々五々散るなか、ちょうど真下に位置していた数人が足を迷わせる。
「こっちだ!」
見かねたキリトの声が飛ぶ。それを受けて彼らは走り出すが、遅かった。
地響きをたてて降り立ったスカルリーパー。震動に足を取られて離脱に手間取っていた三人に、おそらく奴の名を示す意味にもなっている両の巨大な鎌を突き立てる。
防御もままならず三人は空中に弾き飛ばされた。空中を吹き飛ぶ間も彼らのHPは減少し続け――――それはついに止まることなくゼロになった。
「は?」
間の抜けた声は一体誰のものだっただろうか。キリトか、クラインか、もしかしたら俺だったか。それとも今まさに爆散する彼等自身のものだったかもしれない。
恐怖することも忘れて呆然としていた三人の体が俺達の目の前で爆散した。
死んだ?
俺もまた信じられなかった。彼らは今回の討伐戦に選ばれた紛れもないハイプレイヤーだ。そのレベルは最低でも八十オーバーであったはずで、少なくとも相手がボスとはいえたった一撃で死亡するようなものではなかったはず。それなのに…………。
ズルズルと巨体を動かすボスモンスターはまるで大蛇のように上体を大きく仰け反らせた。
「アアアアアアアアアアァァァァ!!」
まるで人間の悲鳴。しかし俺には奴が笑っているように聞こえた。
骸骨百足の青い鬼火がこちらを見た。
「レオン!」
キリトの叫びより先にスカルリーパーは俺目掛けて突進し始める。こんな時でも鎧は真面目に効果を発揮していたらしい。
周囲にいた奴らは慌てて散った。
一撃死。もしこれが事実ならば防具の性能も、HPの絶対値も関係ない。俺達は唯一といっていい拠り所を失ったことになる。
それがわかっていながら俺は逃げなかった。逃げれなかったというのが正しい。俺のスタイルに逃走はありえない。むしろ足のない俺では背を向ければそれだけ危険が増してしまう。
せり上がる恐怖を呑み込んでメイスを振りかぶり腰を落とす。
左の鎌が動いた。俺と奴のリーチの差は比べるまでもない。奴にしてみれば一方的な攻撃が可能な距離で、先に鎌は振り下ろされた。当たれば即死する、まさに死神の刃を。
迫りくる致死の刃に俺は視線すら寄越さず動かなかった。諦めたわけではない。こちらに向かってくる存在に気付いていたからこそ動く必要が無かった。
合図もなく傍らに現れたヒースクリフが俺に向かって振り下ろされた鎌を盾で弾く。不服そうな唸り声をあげるスカルリーパーは尚も俺を殺そうと残った右の鎌を振り上げる。しかしこれも二刀流を解放したキリトとアスナのコンビによって止められる。
二度も攻撃を防がれ怒りを露わにしたスカルリーパーは突進を止めようとはしなかった。両の鎌を止められて、しかし突進を敢行し俺達を諸共壁に押し潰そうとしてくる。
目前となった鬼の頭蓋骨。それを真っ直ぐに見据えて、床を踏み抜く勢いで下げていた右足を前に踏み込む。肩に担いでいたメイスを突進してくるスカルリーパーの勢いに合わせて顔の中心に叩き込んだ。
「っ!!」
今まで感じたことのないとてつもない反動で体が押し込まれる。腕が最後まで振り抜けない。それどころか気を抜けば体ごと後ろに弾き飛ばされてしまうパワーが伝わってくる。
俺は仮想の肉体だと理解しながら命令を下した。
――――ぶち抜け!!
衝撃が抜けた。俺はメイスを振り抜いた正しい体勢で固まっていた。視線を上げるとやや距離を置いた位置でスカルリーパーの頭部が不自然に仰け反って固まっているのが見える。
「……なにボケッとしてやがんだ」
ついつい言葉が漏れてしまった。止める必要もないだろうと構わず続ける。
「何度でも来やがれ。絶対にその顔面ぶち抜いてやる」
宣言し、再びメイスを振りかぶる。
★
悪鬼の口腔が迫る。捕まれば上半身を引き千切られる無残な最期を想像し無理矢理消し去る。
見据えた鼻先へ両腕に渾身の力を込めたメイスを叩きつけた。交差法を利用した一撃は痺れるような手応えを手に残して巨大な百足を押し戻す。
スカルリーパーとの戦闘は苦戦を強いられていた。途方もないボスのHPを削ることはもはや俺達には慣れたことだったが、奴の馬鹿げた攻撃力が問題だった。今まで俺達が必死に上げてきたレベル上昇に伴ったHP絶対値の増加、身に着けた高性能の防具がほとんど意味を為さない。直撃すれば壁役であろうとHPを全損する。
ここでの死、ひいては現実の肉体の死亡をこれほど身近に感じたことはなく、恐怖で体が竦まない者はいない。それは当初犠牲者を加速度的に増やした。
鎌だけではなくボスの体節、その終点にある槍のような尾が数名のプレイヤーを串刺しにする。これで犠牲者は俺が覚えているだけで五人を超えた。その間も超人的な技術と体力で致死の刃をキリト、アスナ、ヒースクリフが捌いてくれてるだけマシだ。彼らがいなければ数分の全滅もありえた。
「来い」
常に憎悪値を上げ続ける黄金の鎧がスカルリーパーを誘う。俺は戦闘開始からずっと奴と正面切っての根競べを続けていた。鎌についてはキリト達を信頼して完全に無視。ただ全力でこのメイスを振り切ることだけを考えて、愚直にボスの突進を弾き返していた。
キリト達が鎌を抑え、俺がボスを硬直状態に追いやり、その隙に他のプレイヤー達が攻撃を加える。犠牲者を増やしながら、しかし確実に奴のHPは減り続け、今や残すは全快の四分の一といったところまで迫っていた。一見それは俺達の優勢に見える。だが実際は細い綱渡り同然の攻防に過ぎない。キリト、アスナ、ヒースクリフ、いずれか一人脱落しただけでこの拮抗は容易く崩れる。キリトとアスナは二人がかりで、ヒースクリフは一人で片方の鎌を抑えるのが精一杯だ。誰かが崩れればもう片方も呆気なく瓦解するだろう。
俺がミスをしても同様だ。むしろキリト達が崩れることよりもこちらの方が可能性が高い。そもそも七十四層のフロアボス、グリームアイズの一撃と互角だった俺がスカルリーパーの突進に打ち勝っているのには当然タネがある。タネの正体はクリティカル確率を上げる《急所》スキルの派生、《必中》スキル。
必中スキルは武器の攻撃判定部分に正確に当てたときクリティカル発生率を百パーセントにするというもの。当然相応のリスクがある。
正しく攻撃を当てられなかった場合攻撃判定がゼロになってしまうのだ。たとえ直撃といえずとも武器の一部分にさえ当たれば本来ダメージは通るが、必中スキル発動中は相手のHPは一ドットたりとも減らない。それが強攻撃であったとしても、だ。ゼロか百……いや、クリティカルだからゼロか二百か。
加えてカウンタースキル、それと俺の武器、《タイタンハンド》のボーナス効果を併用すれば、俺はプレイヤー中最強のパワープレイヤーとなりうる。
無論、もし一度でもミスを犯せば相手にダメージを一切与えられないどころか、カウンタースキルの代償に俺のHPはそのほとんどを消し飛ばす。
けれどこれぐらいのリスクを負わなければ俺はこの場所に立つことすら出来ない。俺にはキリトやアスナ、ヒースクリフ、そしてセルシアのような才能も覚悟も持っちゃいない。誰かを守りたいとか助けたいとか、そんな誇れるような理由もない。俺はただ――――、
「しまっ……」
一瞬の油断がタイミングを狂わせた。正しい打撃点よりやや外れた位置でメイスはスカルリーパーの顔を打つ。それでも本来なら多少なりともダメージが通っただろうが、必中スキルが発動中の今、燃えるように輝いていたライトエフェクトが弾けて霧散する。攻撃失敗。威力がゼロにされた俺の両腕は容易く後方に弾かれ、ノックバックによる硬直を強いられる。
今までの鬱憤を晴らすかのようにスカルリーパーが俺を跳ね飛ばした。
思わず呼吸が止まる衝撃に次いで、体が一瞬浮遊感に包まれる。
「レオン!」
クラインの悲鳴のような声が聞こえた。
視界の端で物凄い勢いでHPが減っていく。今まで積み上げてきたレベルも、黄金鎧の防御力も無視して情けないほど簡単に消えていく。
しかし体は砕け散ることなく地面に落ちた。見ればHPはレッドゾーンに突入した辺りでピタリと止まっていた。どうやら即死レベルの攻撃力を秘めているのは両手の鎌と尻尾だけらしい。勿論それでも充分すぎるダメージを被ったが。我ながら悪運が強い。
だが状況が最悪なのは変わらない。次に直撃は勿論、ダメージが抜けた程度でも俺は死ぬ。
「逃げろレオン!」
誰かが叫ぶ。見ればスカルリーパーが間髪入れずに瀕死の俺に向かってきていた。これも性能を重視して装備した黄金鎧の呪い。たとえプレイヤーがどんな状態であろうと防具を解除するまで一定の憎悪値を保ち続ける。
足は動かなかった。
――――逃げる?
そうだ。とにかくこの一撃を回避して、装備を解除しポーションを飲まなければ。そうしなければ俺は間違いなく死ぬ。隻眼のメイサーレオンではなく現実世界の俺が死ぬ。
わかっている。わかっているのに足はこの場から動くことを拒否した。
足だけではない。両の手はメイスの柄を握っていた。見えている片目は真っ直ぐにボスを見据え、メイスにはぼんやりとソードスキル発動のエフェクト光が灯っている。
「は、なにやってんだかな」
自虐的な嘲笑が漏れた。
戦えというのか。僅かなダメージでも死は確定的だというのに。それでもまだ俺は戦おうとしているのか。
狂っている。頭のどこかが壊れてしまっているとしか思えない。自己犠牲なんて俺にいわせれば狂気の沙汰だ。それがどんなに大切なものの為であったとしたって、己の命を投げうってまで守る理由が俺には理解出来ない。
――――ほんと、パワーならアタシより上だもんね。出来るわよ、アンタならいつか
出来やしないのに。俺にはそんな力は無い。それなのにどうして今彼女の言葉を思い出すのだろうか。何故思い出したら――――ここで退けなくなったのだろうか。
「シッ!」
《インパクトスイング》。横に半円を描くように振り抜かれたメイスはスカルリーパーを押し戻す。攻撃は成功したものの、僅かな余波がただでさえ少ないHPを削る。
それを視界の端で確認しながら、俺はその場にとどまるのではなく走った。
ボスのHPはもう残り僅かだが、この一回で他のプレイヤーが削りきれる量ではない。そして俺に、次の一撃に耐えられるだけの余裕はない。
決める!
周囲のプレイヤー達が動きの止まったボスに次々と攻撃を浴びせていく。鮮やかなソードスキルの光が確実にスカルリーパーのHPを減らしている。――――が、やはり全て削りきるには至らない。敏捷値の低い俺が奴を間合いに捉えるのと奴が硬直から抜けるのははたしてどちらが早いか。先に着けば俺の勝ちだ。
――――遂に俺の攻撃範囲にスカルリーパーを捉える。だが同時に奴の体が硬直から解き放たれた。
一瞬迷う。一旦回避か……否、
「ここで潰す!」
こんな時に思い出したのはこの場所で俺達のように戦ったであろうキールの顔。
あいつは一体どんな最期を迎えたのだろうか。怖かったはずだ。絶望したはずだ。ここから生きては出られないと彼等とてわかっていただろう。
それでも俺にはキール達が逃げ回っている姿が想像出来なかった。最後まで戦ったのだと。最後まで、剣を構えたのだと疑わなかった。
懐に潜り込む。巨大なスカルリーパーにとっては零距離同然。この距離なら鎌は当たらない。尾も届かない。
勝利を確信したその時、奴の複眼、仄暗い穴の奥で青白い鬼火が笑ったように揺れた。
大きく開かれた骸骨の口。そこから舌のように伸びてきたのは槍。まるで弾丸の如きスピードで放たれたそれが鎌や尾と同じく致死の効果を秘めているのは直感だが正しかっただろう。今の俺のHPからすればどんな攻撃だろうと即死確定だが。
すでに俺は構えに入っている。武器防御は間に合わない。今更間合いの外に逃げるのも無理。
なら――――もう一歩前へ踏み込む!
最後の一歩で這うように姿勢を低くした。頭上を必殺の槍が通り過ぎる。コンマ一秒遅ければそれは俺の頭を貫いていただろう。
「アアアアアアアァァァァ!!」
「いい加減くたばれ骸骨人形!」
巨大な頭部の真下に入った俺はその場でメイスを下から上に円を描くように振り上げる。戦槌最終技、《ボルケーノ・ストライク》。炎のように燃え上がるライトエフェクトがメイスを包み、爆発した。
メイスはスカルリーパーの下顎をアッパーのように突き上げる。衝撃によって強制的に閉じた口が突き出していた舌の槍を噛み切る。
「オオオオオオォォォォ!!」
まだ止まらない。炎を纏った鉄塊は下顎を突き破り勢いのまま下顎を縦断した。
長い長いスキルディレイ。しかしもうそんなものに構う必要はない。
スカルリーパーの四つの目、そこに灯っていた青い火が最期を抗うように一度大きく揺れ、直後完全に消えた。奴の巨大な体は内から破裂するように砕け散った。
★
「なんだよ……」
俺は目の前の光景を信じることが出来なかった。
「なんだよ、それ……」
スカルリーパー撃破直後、突然キリトがヒースクリフへ攻撃を仕掛けた。フロアボスとの激闘を演じた直後であったメンバーは俺を含めて誰一人その行動の意味を理解することが出来なかった。
キリトがヒースクリフに攻撃する理由が思い当たらない。この間のデュエルの報復をするような愚かな奴ではないし、そもそもキリトが放ったソードスキルは威力が低すぎて不意を突いたとはいえヒースクリフを殺すには明らかに足りない。だから何かしら理由がある。そこまではわかった。
しかしその後の出来事を理解することがどうしても出来なかった。
キリトのアタックは成功し、ヒースクリフのHPバーはスカルリーパーとの戦いで減少したブルーからイエローへ変わる。そうなるはずだったのに……キリトの剣は出現したシステムカラーメッセージに阻まれて停止した。『不死存在』。ありえるはずのない、あってはならない真実を示すウインドウが深紅の聖騎士を護っていた。
「どういうことだって訊いてんだろうが、ヒース!!」
混乱のまま叫んでいた。昔の愛称のまま。
「ずっと、疑問に思っていたことがあった」
キリトはポツポツと語る。
「あいつはいま、どこでどうやって俺達を観察し、世界を調整してるんだろうってな」
誰かが疑うべきだった。全員とはいわずとも、多くが社会性に欠ける人間であるこのネットゲーマーの中にこれほど見事な指導力と統率力をもつ人間がいたことを。常に危険な役を率先して担い、それでいて困難を剣でもって打ち破る。迷うことなく常に正しい道を進む。強く気高い、まるで物語の主人公を体現した男を。
そんな、都合よくいるわけないではないか。アスナだってキリトだって、心が折れそうになったことがあったはずだ。始めから英雄であり続けたわけではない。最初から強かったわけではない。なら、この世界で最初から強くあり続けたあいつは――――演じられた英雄以外ありえない。
「そうだろ、茅場 晶彦」
その名は俺達を――――俺を、絶望させるには充分だった。