帰る道の途中で優お姉さんとはすでにさよならをした。
現在は灼と二人で帰路についている途中だ。街灯の多い夕紅島の道を灼と並んで歩いている。中学校に入る前は二人でこうやって夜の道を歩くことも少なかった。これからはもっとこんな二人だけのやりとりが増えるかもしれない。
「良いお湯だったねぇ~。葉子、長風呂しちゃったけど体調は大丈夫?」
やっぱり熱だったことをまだ気にしてくれているらしい。灼の私を見る目は心配の色を帯びている。灼はなぜかは知らないが、私が体調不良のときはいつもひどく心配をしてくれる。もちろんそんな灼の気遣いは、私にとっては嬉しいものだ。
「うん、大丈夫だよ。お昼まであった胸苦しさもないし、頭痛もないから大丈夫。灼の看病のおかげだよ。ありがとね」
灼に笑顔と一緒にそう返した。灼は「良かった」と言って逆に笑顔を返してきた。こんな何気ないやりとりこそが家族なのだっと思わせる。私は2年間家族との記憶があるけど、灼は家族との記憶を持っていないらしい。灼が私に施設前の事を聞いてきたときに、逆に聞き返したことがある。
”あたしは家族の顔を知らない。気づいたときにはもうここにいて、初めて見て覚えたのは施設長さんの泣き顔だよぉ”と灼は言っていた。灼は捨てられた子だったのかはわからない。家族の顔を覚えてる私よりもかわいそうだと思った。
少し思いふけっていると目頭が熱い。灼がキョトンとした目をしながら、覗き込んできている。
「葉子?また泣いてる。本当に大丈夫?」
目頭に涙が溜まって熱いのか。もう何回目かわからないこのやりとり。また灼に迷惑かけるのも嫌だ。どうにかごまかさないと。
「あ、これ?ほら、もう夜も遅いでしょ?欠伸したせいだよきっと」
「嘘ついた。あたしをごまかすなんてできないよ」
すぐ見破られてしまった。図星で顔が微妙にひきつるのが分かる。どうしてバレたのか。
灼はそう言って私の手を引いて、足を止めさせた。反動で私は灼に向き直ってしまう。いつもふざけた顔をしていて、真剣なんてどこに置き忘れてきたのかわからない雰囲気で喋る灼の顔は、真剣なときはありえないほど鋭いもので、私のこれまでの灼との生活ではその真剣な目で見つめられるとなにも言えなくなってしまう。
「今日は何があったの?また思い出しちゃった?正直に言って?」
ギュッと握られる左手首が少し痛い。灼は左手の親指で私の右の目元の涙を払い除けてくれた。こんな灼にさらに嘘をつくと、何をされるかわからない。正直に言ったほうがいいか。
「ちょっと施設の時のことをね。灼・・・家族のこと・・・・知らないって・・・だからちょっと・・・ね?」
「ふふ、さっきの会話のどこに家族の話なんてあったの。バーカ、私は気にしてなんかいないからそんなこと考えなくていいの。それにさ、あたしは家族のことは知ってるよ?」
灼は笑いながらそう言う。家族のことを知ってる?よくわからない。
「え?家族のことを知ってるって?どういうこと?」
灼は「葉子の考えてることハズレてるよ」と言って、左手のひらで私の頬をなでるように触りながら言葉を続けた。
「あなたという家族をあたしは知ってる。今はそれだけで十分だよ。だから私のことでもう何か悩まないで?自分の事で悩むなら何度だってその涙拭ってあげるから、もう一人で悩もうとなんて思わないで?嘘はつかないで?どんな思いでも聞いて、真剣に一緒に考えてあげるから、なんだって相談してね」
私とは血は繋がっていなく、本当に家族というには言いにくい存在の私のことを家族と言ってくれる。灼はきっと家族は誰?と言われたきっとこう答えてくれる。私は答えられなかったかもしれない。本当に情けない私のことを思ってくれる灼は本当に好きだ。
泣きたくもないのに、大粒の涙が大量に目から流れるのがわかる。無意識に拭おうとする両手でもぬぐいきれない。本当に何が原因かもわからなくなってしまう。灼の言葉のどこに泣ける要素があるか、本当に私は情けない。
おどけた笑顔で灼はそう言って、私のことを急に抱きしめてきた。毎日こんな状態じゃもう灼に強がることなんてできやしない。ああ、本当に情けない。
「ほら、あたしの服汚していいから、しっかり泣きなさい」
身長も歳も変わらない灼が姉妹のお姉さんのように思える。涙があふれるせいで、呼吸が荒くなって、普通に立ったまま両手で顔を覆ってるだけじゃしんどくなってきて、自然と灼の胸に顔をうずめる形になってしまう。
「ひっく・・・うぇ・・・ぐすっ・・・あり・・・がと・・・うぅ・・・」
そんな私に合わせるように灼は抱きしめる力を強めてくれる。自然と安心感とやすらぎが心にあふれてきた。感謝の言葉も無意識に漏れた。もう昔のことは忘れよう。今の私には灼という家族がいる。
今はただ、それだけでいい。
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「お休み。葉子」
葉子の茶色がかった黒色の髪を撫でつけ、すぅすぅと小さな寝息をたてる葉子に布団をかけた。銭湯から帰る途中に泣き出してしまった葉子をあやしていたら、いつのまにか葉子は寝てしまい。だから背負って帰ってきたところだ。
お寿司屋で一緒に練習しようという約束はしたが、残念ながら葉子は寝てしまっている。一人で練習するのもいいが、一人で練習するのはちょっと気が引ける。それにどちらにしろ、自分の磨き直さなければならないところは把握済みだ。また今度にしてもいいだろう。
時計を見ると10時だ。少し勉強してから寝てもいいかな。そう考えながら部屋の端にある自分の机に座る。部屋の電気はさっき消した。自分の机のデスクランプをつけて数学の教科書を開いた。中学1年生1学期でやる範囲は正の数、負の数、一次方程式だ。
計算の基本はちゃんと葉子と一緒におじい様からテキストで教わった。しっかりおさえたから数学の教科書の大体は理解できる。正の数、負の数は”+と-”の意味をちゃんと理解しておけばそれでいい。でも残念ながら理屈は知らん。”-と+を”かけると答えは”-”になる理由なんて私は知らん。学ぶなら大学に行ったほうがいいだろう。一次方程式は式と式の間に”=”があるもので、しかもその式の各部にはxやyなどといった文字まで存在する。まぁ、最終的にxやyといったものが存在する理由は、そのxやyにあてはまる数字を求めるためだ。
教科書のページをひらひらとめくって適当に問題を抜粋して、ノートに書き込んだ。3+x=4なんていう式と5×(-6)という式など、色々書き込んだ。まぁ言うて難しくはない。3+x=4はx=4-3になる。これの理屈は式と式を=で結んでいる。これはどういうことかというと、3+xと4は最終的に答えが同じということだ。まぁ、同じとはどういうことかというと左項と右項は4だということだ。よって左項をxのみにしようとすれば、左項に対して-3という計算をする。すると右項は左項と同じ=の存在だから、右項にも-3をする。そしてこれを式として表すと、-3+3+x=4-3という感じだ。-3と+3は計算すると0なので消滅するよって左項はxのみとなって、さっきのようなx=4-3という式になるのだ。最終的にこれを計算するとx=1だ。これが答えだ。これで終わり。
5×(-6)の理屈は知らない。だから計算してもう-30という答えを出しておく。まぁ、理屈とは言えないが考え方を言うとするなら、-6が5個あると思えばいい。それを足し算すると-30という形になる。
理屈と考え方はおさえた。これをしっかり頭にたたきこんでおけば授業は復習も同然だ。あとは葉子が”わからないー!”と求めてくるのを待つだけ、しっかりサポートして良いお姉さんきどるだけだ。
ノートを閉じてデスクランプを消した。窓から差し込む月明かりを頼りにベッドに寝転ぶ。今日は満月で、意外と時間的に遅くなるまで出なかったらしい。明るい光が開け放たれたカーテンからまんべんなく入ってきている。月明かりに照らされた葉子の横顔は白く、茶色がかった黒色の髪がもう少し黒かったら京都の舞妓さんが想像できるかもしれない。でもやっぱりその顔は月明かりを反射している。まだ泣いてるのか。
「ふぅぅ・・・・い・・・ぅ・・・ゃ・・・ぅ・・・」
そんな葉子の隣に座るとなにか呟いているらしい。声が聞こえる。また寝言かな。ちゃんと聞いて対処してやらないと。
「すぅ・・・・ゃ・・・ぅ・・・や・・・・くぅ・・・・やく・・・・あ・・・り・・がと」
葉子は私の名前を呼んでくれている。いつもなら”お母さん”と言ってるのに・・・なぜ今日は私の名前なんだろうか?でもきっとこの間よりはましになったかな。
葉子のベッドに侵入するのも無視して、葉子の真横に横になった。今日は熱だったり急に泣き出したりと、葉子は非常に心が不安定だ。意識はないかもしれないが、しっかり私のもとにつなぎとめて、ちゃんと安心してもらいたい。
私は葉子のことを軽く後ろから抱きしめてあげた。昔から何も変わらない。私よりも幅の狭い小さな肩幅に華奢な体は小さいけど、ちゃんとドクッドクッと生きている音を出している。それに暖かい。こんな自分となにも変わらない少女を、葉子を守っていけるか不安だけど、私は葉子のことを幸せにしたい。
彼女との施設経験を知っている。過去も性格も思想も体も心も、本当の家族のように知っている。二度と葉子には精神的な傷は負わせない。絶対に幸せにしてみせよう。
葉子の細く白い手を後ろから伸ばした手で握り、目を閉じた。葉子の手は赤ちゃんが無意識に何かを握るように、私の手を握り返してくれる。きっと良い夢を見てくれているだろう。さっきよりも安心したような息遣いが聞こえる。
まだ子供だけど、ちゃんと幸せにしてみせる。私の大切な愛しい家族だ。