目をつぶっているのに視界は白一色だ。
おそらくもう朝なのだろう。心地よい温かみが顔全体を覆っている。
目を開けるといつものように窓の外からチュンチュンと泣く鳥の声と、陶器同士がぶつかり合う朝の支度をする音が聞こえる。
鬱陶しい太陽の光を手で払いのけるように薄いレースのカーテンを閉めて、光を少し遮れば昼寝にちょうどよい光加減となった。しかし自分は今しがた目を覚ましたばかりで、そんな気分ではない。
そんなことを思いながら、隣の小さな寝息をたてている無防備な顔の少女を見れば、その餅のような頬をつつきたくなる衝動に駆られた。
そんな無防備な顔をしている少女はヤクという。ヤクは私よりも誤差に低い身長で、髪の毛が腰まであり、大人っぽさを帯びたその顔つきと綺麗な漆黒の瞳を持っていて、ひとたび無邪気な笑顔を浮かべればおそらく10人中15人は振り返る魅力を秘めているだろう。
だけど残念なことに、その笑顔ですら自分の武器として表情を転々とさせるヤクは、ある意味で言うと結構タチの悪い娘なわけだ。
そんなヤクの頬をヨウコは人差し指で昨夜より強くつついた。
少し強くしすぎたのかヤクは半分だけ目を開けてしまった。
「んふぁ・・・」
変な声を漏らしたと思うと大欠伸をしだした。
ヤクの小さな口のなかには小悪魔のように鋭い犬歯が上下に二本ずつある。
初めてヤクを見た時の第一に目に付いた特徴だ。
ごくまれにその犬歯はなぜか口からはみ出ていて、そんなときに浮かべる無邪気な笑顔はどうも魅惑的で、ほんのすこしドキッとするものだ。
大きく開いてた口を閉じるとヤクは、「おはよ~」と小さく呟いた。
もちろんヨウコも返さない理由なんてない猫が軽く戯れるようにヨウコはヤクの鼻を軽くつまんで言った。
「おはよ、ヤク」
ヤクは鼻をつままれても嫌がる素振りは見せず、その綺麗な黒い瞳でキョトンとして見つめてくる。ベッドを横にくっつけてはいるものの、ヤクはなぜかヨウコ側のベッドにとても身を寄せていて、日々近くに寄ってきているような気がしなくもない。
そんなことを思いながらヨウコはヤクのキョトンとした視線から逃れるように、ヤクの鼻を開放すると、ベッドから降りて、クローゼットを開けるとカッターシャツを引っ張りだした。
ヨウコはその襟が硬くしっかりとしたシャツに着替え、公立中学校には珍しい赤いリボンを襟に通して目の前でしっかり結んだ。それから寝巻きのズボンを脱いで机の上に置いて、鏡を見ながらスカートのチャックを下ろした。
「ふふ・・・この視線だとヨウコの秘密が見れそう」
ヤクを鏡越しに見れば、三角座りをしながら薄い毛布を足に巻きつけ、膝の上に顔をチョコンと乗せて少し上目遣いにこちらをじっと見ている。
「私のセリフだと思うな」
正直なセリフを述べるとヤクはつまらなさそうな顔に戻ってベッドから降りた。
ヨウコはそんな鏡に映るヤクを横目に黒に灰色のラインが幾筋も縦に入ったスカートを履き腰にあるチャックをあげて、腰にある留め具を引っ掛けた。
鏡を見ればブレザーを着ていない中学生の少女を目があった。
「ヨウコーどっちがいいかなー?」
ヤクもいつの間にか既に制服に身を包んで、前髪を止めるピンを選んでいた。
ヤクの手を見ると赤色と青色のピンを握っていた。
「今日はせっかくの入学式だしピンよりリボンで髪をまとめたらどう?」
ヨウコの提案にヤクは「そうかなぁー」と言って、結局ヨウコの提案通りに黄色いリボンで、その腰まで伸びる艶のある綺麗な髪を後ろで結んだ。
ヤクはそんな自分の髪の毛を一撫でして、隣に掛けている真っ黒なブレザーを着て、詰めればたくさん入るだろう指定カバンに筆記用具とメモ帳を荒くいれるとチャックを閉めた。
ヨウコもブレザーを着てカバンのチャックを開けてメモ帳と筆記用具をいれてチャックを閉めた。
他に必要な物がないか机の上の資料を見ると、楽器の持参を書いてあった。
ヨウコらが入学予定の夕紅島中学校は、入学式の時に対面式と重ねて部活動紹介と体験入部が連続で行われる学校だ。おそらく周辺地域の学校の中ではクラブへの参加が一番早いだろう。
ヨウコは昨夜もらった4重のホルンの入った箱をベッドの下から引っ張りだすと、あれが夢でなかったのを確認するように蓋を開けて中身を眺めた。
日光が当たっていなくても、眩い金色のボディはイエローブラスのような黄色い金色ではなく、ゴールドブラスという響き良い深みのある黄金色だ。
この材質の違いで値段が何万かは変わるらしい。
そんな確認をしていると、箱の下の方に収納箱のようなものが見えた。
色が完全に同化してるせいで気づかなかったらしい。
紐のような取っ手を引っ張り開けると・・・中には抜き差し菅の一部らしい少し湾曲な5センチ程度のものが入っていて、半分ほど差し込む側の菅に見られるように、菅がむき出しになっていた。
ヨウコはどこの菅だろうかとその小さな抜き差し菅をつまみ上げ、ホルンの本体に重ねてみるが、本の少しの湾曲した直線の菅などU字型のホルンの抜き差し菅には、どことも合うことなく候補が全て潰れてしまった。
「ねぇヤク、この短い抜き差し菅どこの菅だろう?」
ヤクは振り返るとまじまじとヨウコのつまんだそれを見た。
しかしヤクにもよくわからないらしい。眉根に少しシワをよせて静かになってしまった。
ヨウコはその菅を側に置くとホルンの本体を箱から取り出した。
まずは吹口を辿ってF菅の抜き差し菅から一つ一つ目視で確認することになった。
4重になっためんどくさい構造の本体のどこにも、軽く湾曲な菅を差し替えできるような抜き差し菅はどこにも無く、もういいかなっと思い始めた頃ヤクがヨウコのホルンのロータリーバルブの付け根を指差した。
「この小さい取っ手はなに?」
言われてみると妙な位置に小さな取っ手があった。見る限り、ベル側にひねることができるようだ。ヨウコは早速小さな取っ手を掴みゆっくりと引いた。
すると取っ手はカコンッと音を立ててベル側にズレた。その瞬間にロータリーバルブのある4重の塊は緩み横に倒れ始めた。
ヨウコは咄嗟のことに反射的に4重の塊を支えて間一髪ホルンの落下を防いだ。
ヤクを肩ごしに見ると目を丸くして固まっている。思った通りの反応だ。
ヨウコは手元の二つに分かれたホルンの残骸を見て、一瞬壊れたんじゃないかって焦ったがそうではなく、4重のロータリー部分を見れば別々の菅から続いているが、若干の湾曲のある菅と状態が似てないこともない形になった。
「これってもしかして・・・」
そのまさかだ。初期のホルンにはロータリーなどのような、菅の長さを調節するものは無く、唇のみで変えられる自然倍音のみ出すことが可能なホルンだったという。
現代ではそんな初期のホルンの名前をナチョラルホルンと言うらしい。
見たことのあるナチョラルホルンはとても大きく、肩に掛けて持つような代物で大きな音を出すにはとても出しやすそうな形状だった。
しかし目の前にあるホルンはどうだ? コンパクトに収まったそれは真ん中だけ破損した現代ホルンに見えなくもない。
そんなことを考えながらヨウコは、4重の塊を脇に置いて例の湾曲した直管を適当な位置にはめて、小さな取っ手を引いた。
小さなナチョラルホルンが出来上がってしまったのだ。
ちゃんと自然倍音で音が出るのか吹きたい気持ちになったが、歯磨きも顔洗いもしてないのでは、楽器を清潔に大切に扱うという自身のプライドに傷がつくと思い、そんな好奇心を押さえ込んで、直管を外してまた4重の塊を取り付けて元の状態に戻した。
「ビックリだね・・・おじい様こんなホルンを注文してくれたなんて・・・思いもよらなかったな・・・」
ヤクは感嘆の声でそんなことを言いながら自分のホルンの箱を開けて同じ物が入ってるのを確認していた。
「昨日なんで気づかなかったのだろう・・・まぁ、でももしかしたらまだ何かあるかもしれないわ。続きは帰宅してからにしよう?そろそろ一階に降りないとまずいわ」
ヨウコの言葉にヤクは頷いて箱を閉めて、カバンと一緒に両手に持っていつものゆったりとした階段を二人で慎重に降りたのだった。