途中で名前をカタカナから漢字に変更しますがお気になさらずお楽しみください。
これからは漢字で統一します。
ゆったりとした階段を降りると、すぐ目の前には丸いテーブル席が4つと奥に長いカウンターを備えたカフェが見える。
そのカフェは開業50年以上になる店舗で名前は夕凪カフェという。
そんなカフェの隅に備え付けたガラスを見て身だしなみを整えている一郎は、この夕凪カフェのオーナーでありマスターだ。しかも今年78になるその顔はまたシワが増えたなと感じさせる。
「おはようございます!おじい様」
朝の挨拶は接客業と人間関係を良好にする上では、最も大切な行いの一つだ。そんな過去の一郎の教えを頭の中で反復させながら、ヨウコとヤクは一郎に笑顔と共に言った。
「ん?おお、二人共・・・実によく似合ってるよこれで晴れて中学生の一員だな」
「入学式が終わるまで私とヤクは中学生風の少女でしかありませんよ」
そんな切り返しをヨウコはすると、一郎は「そうだな」と笑ってくれた。
「ヨウコー顔を洗いにいこうー?」
そんな陽気に伸ばす語尾も、中学校に入学する興奮を秘めているようにいつもより、ヤクの声は微妙に高い。
ヨウコはそれに頷き洗面所に行こうとすると、一郎が思い出したかのように言った。
「二人共、顔を洗ったら昨日渡し忘れたものを渡すからリビングに来てくれ」
ヨウコとヤクはその言葉に「はーい」と返事をして、二人仲良く洗面所へ急いだ。
いつもの洗面所では、いつも以上に歯を丁寧に磨き、顔を洗い、ヨウコはヤクに、もはや日常的になりかけている寝癖の処理をしてもらっていた。
「ヨウコォー、入学式とかの式典じゃ男子のお母さんは「あんな子と付き合いなさい」と言って、女子のお母さんは「あんな子に負けちゃだめよ」って言える対象の子供を探すものだよ。ヨウコは可愛いからしっかり容姿には気をつけなきゃだめだよー」
そう言いながらヤクはヨウコの跳ねまくりな髪を丁寧にほぐして櫛ですいていた。
「そうなの?ヤクにしか視線が行かなさそうだけどね・・・」
「どう言う意味ー?」
分かりきった言葉の意味をわざと嬉しそうな笑顔でとぼけだしだ。
「分かってるくせに・・・」
素直な解答をするとヤクは決まってつまらなさそうな顔を浮かべるのだが、今日はテンションが高いのか逆に笑顔を浮かべて小首をかしげた。
「えへへー」
まったくヤクの思考はよくわからないものだ。
「じゃあそんな羨望やよくわからない視線をおすそ分け出来るように、あたしがヨウコをコーディネートしてあげよーか?」
そんな変な視線をおすそ分けなんかされたら緊張と微妙な雰囲気に潰れてしまうかもしれない。それはヨウコの望むところでは無い。
「遠慮しておくよ。私には荷が重いわ。その役はヤクに譲るよー」
「あらそう?じゃあ私が責任持って果たしておこう」
そんな変な会話をしてる間に、ヤクはヨウコの髪を整えたらしく、ヨウコの頭を軽く撫ぜてから「終わったよ」と小さく呟いたのだった。
そんなヤクの髪を見ればやっぱり不思議なくらい綺麗で艶があって、ヨウコよりもはるかに寝相がコロコロ変わるくせにヤクの髪は跳ねもクセも無い。
そんな羨ましさを心に残しながらヨウコはリビングへの廊下を歩いた。もちろん後ろにヤクがピッタリついて来る。
リビングは洗面所との間に一部屋挟んだ向こう側にある部屋だ。
リビングには四角いテーブルと小さいテレビがあって、そこでは普段夕食と団欒になるときだけにしか使わない。
そんなリビングにつくと机の上に五角形の軽そうシャイニーケースが見えた。それはデタッチャブルのついたホルンのシャイニーケースで四角いハードケースと比べると非常に軽い。
「おじい様これはシャイニーケースですね!」
何かを悟ったようにヤクはニコニコして言った。
「ああそうだ。二人のホルンは特別品だからな。普通のシャイニーじゃたぶんちょっと小さいと思ってな。中身の設計から素材選びまで全てオーダーメイドだから・・・大切に扱ってくれな?」
一郎は机の上に二つのカップを置いて言った。
「おじい様、ありがとうございます。もう感謝の気持ちばっかりです!」
ヨウコは嬉しくなって、またいつも通りの感謝の言葉を並べて笑顔を作った。
「では二人共・・・早くホルンを入れ替えて、朝食をとりなさい」
ヨウコとヤクはその言葉に頷いて、二人の名前が刺繍されたシャイニーケースをそれぞれ手に持って、カフェに置き去りにしたホルンを入れ替えに行った。
シャイニーケースは開けると五角形の蓋の後ろにベルの収納箱があって、本体をしまう場所は綺麗な円形のくぼみがあって固定するためのマジックテープのついたひらひらがある。ケースの端っこには小さな穴があいていて、マウスピースの収納の穴だというのがすぐにわかった。少し視線を下に逸らすとそこには小さな取っ手が合って、それは少し力を入れないと開かない蓋で、ハードケースの下部にある小さな紐付きの蓋と同じで、小物を入れるには最適な部分だった。
さらにシャイニーの右側には長方形なくぼみがあって、そこにはチューナーと清掃用具をいくつかいれられそうだった。
ヨウコとヤクはそんな五角形に真ん中が若干山のようになっているユニークな形のシャイニーにホルンを入れ替えた。
パタンッと蓋を閉じてチャックを閉めた二人はそれをカバンの隣に並べて置いて、リビングへ戻った。
一郎は机に二人分のサンドイッチとカップに紅茶を淹れたあとのポットを置いて言った。
「さぁ二人共・・・しっかり食べなさい」
ヨウコとヤクは席につくなりカップに手をつけて中身を口に含んだ。
温かいそれはスッキリとした甘さを含んでいて飲みやすい。きっと一郎が程よい甘さ加減に砂糖を入れたのだろう。
ヨウコはサンドイッチをひと切れ掴んで一口食べた。一郎の作るサンドイッチはいつも美味しい。しかし今日のサンドイッチは少し具が多い。一郎の若干の奮発が目に映る。
そんなサンドイッチはいつもより一層おいしく感じられた。
ヤクを横目にチラ見すれば、口をモグモグと動かしながらとびきりの笑顔を浮かべている。同じ女の自分の目で見てもその笑顔は可愛らしいものだ。おそらく無意識にしてるのだろう・・・作る笑顔もできる笑顔も魅力的じゃ、本当にヤクにはかなわない。
そんなことを思いながら、ヨウコは口の中でモグモグとしていたサンドイッチを紅茶で流し込むようにカップの紅茶を飲んだ。
「ヨウコー、バスの時間は20分後だよー」
さっきまで幸せな笑顔を浮かべていたヤクはいつの間にかバスの時間表だろう小さな紙を見ていた。
「わかったわ。おじい様も一緒に行きますよね?」
手を机の上にあったフキンで軽く拭いながら、一郎に視線を送った。
一郎は新聞を机の上にたたんで置いてから、ゆっくりと頷いた。
学校の入学式にはもちろん親も出席することになる。それとは別にある対面式や部活動の体験入部までもを参観することができる。夕紅島中学校はかなり親の介入が深い学校のようだ。
「じゃ、二人ともそろそろ靴を履いて出る準備をしなさい」
ヨウコとヤクはまだ足の届かない木の椅子から降りると、カフェに置きっぱなしにしているカバンとホルンの入ったシャイニーケースをとりにいった。
カフェはヨウコらの入学式のために今日は営業しておらず、いつもならついている灯りはついてなく、外からの光を明るく取り入れていた。ガラス張りの入口では間断なく車が行き交っていて、歩道には黒や白の綺麗な式典姿をした大人達が時たまその人の山からチラチラ見えていた。
シャイニーケースを背中に背負い、カバンを肩に掛けるとちょうどよい姿勢になった。ヤクも同じようにカバンとシャイニーを持った。ヨウコとはカバンの掛ける肩が逆だが、それはヤクが左利きだからだ。
そんなことを思いながらヨウコはリビングを経由して玄関に足を向けた。肩ごしに後ろを見れば、早く行こ!っと言わんばかりに背中に当たってくるヤクが見えた。
玄関につくと二人分の靴が置いてあって、ヨウコの靴は黒と白のもので、ヤクの靴は黒と桃色のものだ。二人共に一郎の勧めで運動靴だ。硬いサッカーボールや長時間のランニングにだって耐性のあるその靴は質の割に値段は安めだったらしい。
二人は仲良く玄関に腰を下ろしてその靴に足を通して解けないようにしっかり紐を結んだ。
玄関は小柄な少女であっても、並んで腰を下ろすと綺麗にその小さな段差の隙間は埋まってしまって、通れなくしてしまっていた。
ヨウコが先に靴の紐を縛り終え玄関の鍵を開けて外に出た。
玄関のドアを押し開くと眩しく差し込む太陽の光に顔をしかめたヨウコは、外の新鮮な空気を体いっぱいに吸い込み口から「ふぅー」と肩を回しながら吐いた。
鼻から肺いっぱいに空気を吸い込んで軽く肩を回しながら息を吐ききる運動は呼吸を整えたり、息の扱い方を鍛えたりできるらしい。一郎が言っていたのだ。
そんな過去の教えを頭の中で反復しながら、もう一度鼻から肺いっぱいに息を吸って口から息を吐きだした。
ガチャンと音がして振り向けばヤクがドアを閉めた音だった。
ヤクはニッコリと笑って「どうしたの?」と言ってきた。
ヨウコは「なんでもない」と返した。
ヤクはヨウコの左側に立ってヨウコと同じように、肺いっぱいに息を吸って吐きだした。
そんなヤクを横目に見ていると、またガチャンとドアが閉まる音がして、カチンと鍵が閉まる音がした。後ろを向けば一郎が鍵を閉めた音だった。
そんな一郎は黒い500mlの黒い水筒を持っていた。その水筒をヤクに押し付けて渡した。
「二人共すまん。お茶をそれだけしか作ってなかった。節約して飲んでくれ」
ヨウコとヤクは基本的に食事時と楽器を吹いてる時にしか飲まない。しかし今日はお昼頃には帰れる予定だからきっと十分足りるだろう。
「「ハーイ」」
二人同時に子供っぽく返事をして、玄関沿いの歩道をそんなに遠くもない見えているバス停に向かって歩き出した。
バス停に着くと何人か綺麗な式典の服を来た親らしき人々と夕紅島中学校の制服を来た新入生らしき子供達が数人会話をしてバスの到着を待っていた。
ヨウコらはそんな待機列の一番後ろに並ぶと、ヨウコらの前にいるヨウコらと変わらない身長にヤクほどではないが長髪の女の子が振り向いて、ニッコリと微笑んで言った。
「おはようございます」
そんな言葉を全く知らない。ただ入学予定が同じ学校の人なだけの赤の他人に対して迷うことなく言えるのだ。きっととても良い指導を受けてるに違いない。
しかしそんな指導もカフェに来てからずっと接客業を教えてもらっていたヨウコらにとっては普通のことだ。そんな女の子の笑顔に負けない笑顔でヤクと揃って返してやった。
「「おはようございます」」
女の子は良い顔立ちで普通に子供の視点で言うと美人な子だ。
「あなたたちも夕紅島中学校に?」
聞かなくても制服を見れば分かるとは思うが、ヨウコらはそんな細かいところを指摘したりしない「そうだよ」っと返す。
「私の名前は瀬笈 水菜(せおい みずな)と言います。あなたたちは?」
瀬笈とはまた変わった名を持っているなとヨウコは思いながら返した。
「私は佐々木 葉子(ささき ようこ)です。葉子と呼んでください水菜さん」
「あたしは佐々木 灼(ささき やく)だよー。あたしは灼って呼んでね」
本来、葉子と灼は自分の名を持っているが、一郎が扶養者であるため苗字は佐々木で名乗っていかなければならない。
「葉子さんと灼さんね。よろしくね」
灼はニッコリしながら自分の疑問を水菜に言った。
「水菜ちゃんは部活動何に入るのぉー?」
灼のニッコリした笑顔に見とれて一瞬水菜の反応が遅れた。
「え?、あ、ああ、私は吹奏楽部を希望しようと考えています」
水菜は雰囲気と性格的にはもっと静かな文化系の部活に入るような感じだったが、意外とこんな人ほど音楽を好むのかもしれない。
「おお、そうなんだ。私達も吹奏楽部を希望するんだよー」
そんな陽気な灼の言葉を聞いた水菜は一瞬のうちにパァァっと笑顔が明るくなって、「そうなんですか!?」とキラキラした視線を送ってきた。
「そ、そ、それでお二人はどんな楽器を考えているのですか!?」
意外と道が同じ人には結構面白い性格を見せるんだなっと葉子は思いながら、灼を横に向けてその背中の物を指差した。
「これだよ」
「そ、それは・・・?」
楽器について少しでも調べ物をしていたのかと思っていた葉子と灼はそんな水菜の反応に面食らったものの丁寧に説明してあげた。
「ホルンっていってね。こうやって抱えて吹く楽器だよ。とってもカッコよくて素敵な音が出るんだよ」
葉子の説明の隣で灼はホルンの吹き真似をしてくれた。
灼の吹き真似を見ていた水菜は「へぇー・・・」と感嘆の声をあげている。
自分の娘が違う娘と話している事に気づいたらしい、水菜の母らしい人物が葉子らと視線を合わせるために、腰を下ろして口を開いた。
「葉子ちゃんと灼ちゃん、どうかこれからうちの娘をよろしくね」
水菜の母はキリッとした目つきに、仕事一筋っという言葉が似合う顔立ちをしている。どこかの会社の女性社長にいそうなイメージが脳裏をよぎる。
そんな真面目風な雰囲気を漂よわせる水菜の母は、葉子らに言葉を投げかけるときにニッコリと微笑んだ。その顔はとても美人で、これが大人の女性の美しさかと葉子は思った。
いまだにホルンを吹く真似をしていた灼は水菜の母の顔を見た瞬間、目を見開いて葉子に顔を向けて小さく葉子に聞こえるように言った。
「あたし・・・・勝てないよぉ・・・」
ちょっとだけ泣きそうな顔を作ってそんなことを灼は言ってきた。
そんな灼をスルーするようにバスが到着した。
夕紅島中学校にはバス停がある。夕紅島市ができた当初は、唯一の学校が夕紅島中学校しかなく無駄に教育費が有り余ったがために、費やしに費やされた結果・・・多すぎる敷地は市の100分の1に相当して、その一部は完全に舗装されてバス亭ができたうえに、市のほとんどをカバーできる台数のバスを保有している、どこの県を探してもおそらくそんな学校はここだけかもしれない。さらに、校舎は大きく三棟もありその階数は4階建てで、その大きさは中高一貫の学校を思わせる。
そんな学校はもちろん生徒の数も多く1学年に600人いると聞いた。過去最高の学年人数は1300と聞いたがやっぱりビックリするものばかりだ。
そんな学校調べの資料を頭の隅で思い出しながら葉子はバスの外の景色を眺めていた。葉子の家の最寄りのバス停から学校ヘは30分程度で到着する予定だったが、広い敷地の学校には広い駐車場までもがあるようで、式典のスーツを来た男性や綺麗な外出用の服を来た女性が運転する車がバスを追い越していくせいで、バスは少し渋滞のようになった道を進んでいた。そのせいか予定より遅れている。
しかし元々余裕を持って行く葉子らの計画ではちょっとの遅れなど誤差にすぎない。
何故か一番後ろの座席に座れた葉子と灼は、先ほど知り合ったばかりの水菜と並んで座っていた。そのひとつ前の席では水菜の母と一郎が珈琲の話で花を咲かせている。
「水菜ちゃんはどうして吹奏楽を考えてるの?」
灼は疑問に思う事をたくさん水菜に聞いていた。
水菜もそんな灼の言葉に真剣に返事をしていた。
「私は音楽が好きだからです。歌も曲もなんでも大好きなので、ちょっとでも音楽への興味を深めるために吹奏楽を考えたのです!」
「そうなんだ。水菜ちゃんはどんな曲を聞くの?」
水菜は目を上に泳がせて考える姿勢を一瞬作った。きっとたくさんの音楽の記憶を思い出しているのだろう。
「そうですね。パッヘルベルのカノンとか四季とかいろいろ聞きます」
パッヘルベルのカノンはおもしろい音楽技法を使った曲で、ハープを伴奏にヴァイオリン3つが面白い旋律を奏でるものだ。
一番目のヴァイオリンが奏でた2小節を二番目のヴァイオリンが奏でて、その二番目のヴァイオリンが奏でた2小節を三番目のヴァイオリンが奏でるといったもので、この曲のすごいところは和音がぐちゃぐちゃにならずに音楽が成り立っているところだ。
生まれてこの方あの曲の最初の2小節を忘れたことなど一度もない。一音ずつ下がってくるその旋律はとても和むものだ。
そんなことを灼の隣、具体的には窓際の一番後ろの席で葉子は考えながら、隣の少女達の会話を聞いていた。
「カノンは良い曲だね!私はあの旋律が大好きだよー!」
灼はニコニコして返事を返している。
葉子は少し眠くなった目をこすり、窓の外に目をやった。
学校の壁は学校をぐるっと取り囲むようになっていて、巨大な敷地を持つ学校は遠くからでもそれは見えるらしい。窓の外には学校の壁とおぼしき白い石を積み立てた壁が見えていた。
”次はー夕紅島中学校・・・夕紅島中学校・・・お降りの方はお忘れ物のないようにご降車くださいませ”
そんな運転手のクセのある喋り方はどこで聞いても面白いものだ。
白い壁が間近に迫り、途中で途切れているそこからバスは校庭内へと侵入し、学校の職員らしき名札を提げた白髪の男性が立つバス停へと到着した。
葉子らはバスの一番後ろにいるため強制的に最後まで待つことになるが、入学式の行われる日は学校に目的のある人だけ無賃乗車をさせてもらえるらしい。バスからは数秒で降りることができた。
バスを降りると目の前には立派な校門があって夕紅島中学校の名前が入った石碑が隣に置いてある。
職員の男性は親の方は直接体育館に向かうことと、生徒の方は学校の玄関にそれぞれの名前と教室が書いてある紙を見て教室へ向かってくれという言葉を告げてくれた。
一郎と水菜の母はいまだに珈琲の話で盛り上がってるために、葉子らに一声かけて行ってしまった。
葉子と灼は少し戸惑う水菜の手を引いて玄関に向かった。
玄関には巨大な木が一本生い茂りその木は玄関の上を全て包み込んでいて、雨の日は玄関の前でも準備ができそうなくらいに葉は濃かった。
玄関の扉は全てガラス張りで外からでも中が伺えるくらいに大きく、中にはたくさんの男女問わない新入生らしい人の山でごった返していた。
できるだけ混雑してしまわないように葉子らはカバンから上靴を取り出し、すぐに履けるようにむき出しにしておいた。
中に入ると一言で言うと・・・暑い・・・小さな紙に小さな字で自分の名前を探しているらしい大量の人は俺が先私が先と前に前に詰めてくるのだ。嫌でも前に前に押されて紙の前に辿りついた葉子は、自慢の情報処理能力で小さな字を一気に上からザーっと見て三人の名前を見つけ出し暗記した。
人々の波を横に避けて二人のもとに葉子は戻り成果を告げた。
「私達三人同じクラスだよー。4組だった」
「おーやったね水菜ちゃん!一緒のクラスだよ!これからつるめるね!」
灼の最後の言葉に苦笑いした水菜だが、一緒のクラスだということに対しては嬉しそうだった。「やったー!」とガッツポーズを見せてくれた。
人ごみで込んだ下駄箱に4組の字を発見し靴を入れ、上靴を履いた。
少し大きい上靴は歩くたびに脱げそうな感覚を覚えたが気にせずに歩いた。
「確か1階の奥だったね」
4階建ての1棟の校舎には1年生だけが入ることになっていて、12組あるそのクラスは1階につき4組ずつ入り、4階は部活動の部屋で埋められている。
三人はそんな奥にある4組の教室に入り、まだ4人程度しかいない教室の教卓にある席番号表を見た。
「水菜ちゃんは19番だったよ。私が21番で、灼が20番だよ」
「三人並べたね。嬉しいや!」
灼の言葉に水菜は頷いて、自分の席に座った。
水菜は前から4番目の席で、灼がその後ろで、葉子がその後ろだ。クラスは42人で横に6列縦に7列並んでいる。
そんな簡単な情報整理を葉子はしてから自分の机の横にホルンを置いて、時計に目をやるとまだまだ時間がある。
葉子は朝にトイレに行き損ねて少しずつ感じていた尿意を晴らすためにトイレに行こうと席を立つと、「私トイレ行ってくる」と灼達に一声かけた。すると水菜が「私も」とついてきた。そんな中灼は最近読み始めた本を読みはじめていた。
葉子と水菜は長い廊下の途中にあるトイレのドアを引いた。
中は真っ白だっと言ってもいい程綺麗で光沢ばかり目立っていた。
上靴を備え付けの草履に履き替えて個室に入り用を足そうと下着をおろし洋式の便器に座ると、隣の個室に入った水菜が声をかけてきた。
「葉子さん、ホルンはどのくらい吹いてらっしゃるのですか?」
そんな疑問も考えたくなるだろう。小学生のうちから楽器などというものを持っているような子はとても少なく気になるのも当然だ。
「私も灼も4年間やってるよ」
「楽しい・・・ですか?」
そんな返事を返す水菜の言葉はまだ吹奏楽部で音楽をやることに対して不安があるような声だった。
「うん、自分の思い通りに音楽を奏でられるのはとても楽しいよ」
水菜は「そうですかぁ・・・」と返事をして、トイレを流した。
葉子もトレイを流し個室から出ると、水菜は手を洗っていた。
となりの蛇口を葉子がひねって水を出すと、水菜は葉子のほうに顔を向けて言った。
「きっとうまくいきますよね」
その言葉はさっきの会話を傍から聞いてる人じゃわからないかもれしれない。しかし葉子にはその意味が分かる。
葉子は水菜の不安を少しでも和らげるように、優しく笑って水菜の目を見つめて言ってあげた。
「自信を持って行動すればきっとうまくいくよ」
そんな葉子の返事に水菜は「そう・・・かな?、ありがとう葉子さん」と言った。
水菜は葉子に安心したように笑いながら、上靴を履き直した。
葉子もホルンの模様が入ったハンカチで手を拭き上靴を履いて、トイレをあとにした。
葉子と水菜がクラスに戻ると、部屋にいる生徒は、さっきより10人程度増えていた。
そんな真ん中の後ろの方の席に座っている灼は一人の男子と話をしていた。多分一人目の犠牲者だ・・・と葉子が冗談半分に頭の隅で思った瞬間に灼と目があった。
「えへー」と笑顔になった。
「灼ちゃんは普段なにしてるの?」
灼に話しかけている男子はサッカーをやっているような体型で、女子の目で見る限り普通にイケメンだ。
そんな男子に灼は葉子らから顔を向き直して、愛想笑いを浮かべて言った。
「普段はね。小ちゃなカフェでお仕事してるよ」
「お、お仕事?どんなことをしてるの?」
基本的に自由気ままに遊んでその1年を過ごす小学生だった子が仕事をしているなんてかなり珍しいものだ。
「注文を聞いたり、お料理を作ったり、お料理を運んだり、お客様を見送ったり、色々やるよー」
「そ、そうなんだ。すごいなぁ・・・」
そんな話をしている二人を見ながら、葉子と水菜が灼の席の近くに来ると、灼が「二人共おかえりー」と、近くにいるにもかかわらず手を振ってきた。
そんな周りに女子しかいない環境に若干の恥ずかしさを覚えたのか、灼と話をしていた男子は灼に「じゃ、じゃあ僕行くね」と言って足早に自分の席に戻っていった。
「楽しそうだったね」
葉子は自分の席に座りながら言った。
灼は口元に両手を添えて「えへー」という笑顔をまた作っているのだから、灼の考えていることはやっぱりよくわからない。
それからまた葉子らは数分楽しい会話をしていると、時間が来た。
担任を務める先生は女性で名を白石 裕子(しらいし ゆうこ)というメガネをかけたまだ新任の教師で、担当科目は数学らしい。
白石先生の容姿はショートヘアーの黒髪に星の型をつけたヘアピンを留めていて、灼があれ可愛いなとさっき評価していた。
「では皆さん、これから体育館の方に行きますので、廊下に出て二列に並びましょう。このクラスは42人いるので1番の方と22番の方が先頭に来るように並びましょう」
まだ周りが知らない顔ばかりらしいこの4組は隣のクラスより静かに順番に並んで、廊下を行進して歩いた。
これから式典を行う体育館は3棟からしか入れないため、1棟から2棟へ2棟から3棟へ行き体育館へと向かうことになった。
他学年のクラスを横切るとき中を覗くとカバンはあるものの人影がひとつもない。おそらく式典の会場となる体育館に集合してるのだろう。
そんなことを考えていると前を歩く灼が肩ごしにこちらを見ていた。
「どんな先輩様がいるかなー?」
楽しそうに灼はそういってきた。
葉子はそれに「さあねー?」と返事をしておいた。
体育館も校舎に負けず大きいもので、校舎の半分はあるだろうその大きな建築物は100枚じゃ絶対足りない窓が多いものだった。
そんな体育館の入口まで来ると先行していたクラスが横に並んで待機していた。
現在どのクラスも2列に並んでいて、1組が中に入るか入らないかのところで半分ほど人数を減らしていた。どうやら1クラス2列ずつ中に行進していくらしい。中からは吹奏楽部の演奏だろうトランペットの甲高い音ともに、中の人数を思わせる大きく多い拍手が聞こえている。
しばらく待っているといよいよとばかりに4組の先頭列が動いて、1組のいた位置につき、さっそく1列目が入っていった。真っ直ぐ行って90度にキュッと曲がって、ステージ前まで歩いていくらしい。
しかも意外とペースも早いようで、1列目が入って間もない内に2列目がスタートしている。またしばらくすると、水菜の番が来て入っていった。水菜の母は身長が高いのでよく見えた。そのとなりには一郎もいた。
次は灼の番だ。
そう思い灼を見ると、肩ごしにこちらを横目で見ていて目が合った瞬間に、灼は横顔だけでもわかるくらいの無邪気な笑顔を作り出して、前に向き直した。
隣の41番の男子の視界に入ったらしいボスッと音がしそうなくらいに顔が赤くなって、まったくあらぬ方向をプイッと向いてしまった。
後ろから男子を気の毒に見ながら、朝、灼が生徒の母はどうとかということがどのようになるか見ていようと思った。
灼はいつものように元気な女の子の歩き方とは違う。清楚で上品な娘を演じるように、足を閉じて姿勢よく歩き出した。もちろん、無邪気な可愛らしい子供のその笑顔を浮かべて・・・。
空気が動いたような気がした。吹奏楽部のクラリネットの音がピィィーッと外れたせいか、それともチューバとコントラバスの担当者のテンポと音がズレたせいかはわからないが、新入生の行進道が目の前にある上級生と入場してくる子を伺っていた子供の親達の顔が一点に止まって同じスピードで、誰ひとり瞬きすることなく動いた。
いつも葉子が灼のことを10人中15人振り返ると言う理由はこれだ。
葉子と灼が9歳の時、一郎の友人の息子の結婚式で知人や周辺近所に該当する少女がいなく、急遽フラワーガールをやってくれと頼まれたときに、花嫁よりもその招待人の視線と興味を引いた。葉子はそれを目の当たりにし勝手に存在する言葉をもじって灼をそんな人だと呼んでいた。
しかし残念なことにそんな灼を表す言葉もまた人数を増やして呼ばなければならないらしい。
葉子が入場する番になっても親や上級生の目線は灼を離れず、灼が人影で見えなくなるまで、親や上級生は見とれてしまっていた。
式典の始まるまで暇を持て余してる生徒達は、全員が来るまでじっとしていることなどできないらしい、普通に会話をしていてザワザワとしている。そんな中でも灼は列に着いてもしばらくは楚々とした振る舞いは忘れない。
葉子がそんな灼の後ろに列を成したとき、灼はさっきと同じ無邪気な、しかし嬉しそうで達成感に溢れた笑顔を向けて言ってきた。
「皆な面白くて素直な人ばっかりだったよ!」
「そのようだね」
葉子もそんな灼の笑顔を見て笑顔が溢れてしまい。そんな笑顔を作らせる灼の左頬を軽くつまんで憂さ晴らしをしたのだった。