「ごちそうさまでした」
葉子はそう言って手を合わせた。
「お粗末様でした」
灼はそれに笑顔で返してあげ、お盆を持って一階へ降りた。
ゆったりした階段を降り、カフェを経由してキッチンへ行き、銀色の艶があるシンクにお椀とガラスの器を置いた。今洗ってもいいが、少々面倒なため夜の食事後にすることにした。
そんな判断をしながら灼はキッチンを出て、またカフェを経由して部屋に戻った。
葉子は既に仰向けに寝転んでいて、優しくその満たされたお腹を服の上から撫でていた。きっとお腹いっぱいだということを伝えているのだろう。
「灼、私少し眠くなってきた」
再度葉子の隣に座りなおすと、灼にそんな言葉を向けてきた。このあと、毎週一緒にやっているホルンの練習をするんだが、あいにく彼女はこんな状態だ。無理に付き合わせて悪化させるのもダメなので、今日は一人で川辺でやることになるだろう。
「寝てていいよ。今日、葉子は病人だからしっかり休んでいてね」
そう言って、葉子の茶色がかった黒髪を撫でてあげた。とてもふわふわしてるが、いつも通りというか・・・クセ毛と跳ねがたくさんある。また直してあげないといけないようだ。
「灼、ありがと。ホルンの練習するんだよね?」
「するけど・・・どうかしたの?」
葉子は少し迷ったような素振りを見せて、「えっとね」と言葉を続けた。
「ちょっとだけでいいの・・・もう一回同じこと言うけど、ちょっとだけでいいからいてほしいの・・・」
今回の熱は意外としつこいらしい。葉子はかなり弱気で寂しいようだ。
そんなことを葉子は言いながら、灼の事を軽く上目遣いに見てきていた。
葉子が逆にそういうことを言うのに断るなんてことを、灼は絶対にしない。葉子が満足するまでちゃんと隣にいてあげるつもりだ。
「いいよ。葉子が眠るまでちゃんと横にいてあげるから、安心して」
そう言って灼は葉子の手を右手で握ってあげ、左手で譜面の模様がついた布団を葉子の肩まで引っ張ってあげた。そのまま左手は葉子の頭を優しく撫でてあげる。
右手だけでも分かる葉子の体温は少し高く、寒気を覚えているのかわずかに震えているのが感じ取れた。
そんな葉子はギュッと私の存在を確かめるように握ってくる。どうやら今回の熱はかなり彼女の精神に来ているらしい。しっかり休んで元気になってもらいたいものだ。
「灼、いつも優しいね。私、本当に灼と一緒にいれて嬉しい。毎日がね・・・そう、幸せなの。楽しくていつも輝いてる気がするの、私が泣いてる時とか困ってる時とか、灼がいつも支えてくれてね。灼が困ってる時に私は力になれないのに、灼は私にいつも力になろうと必死になってくれる。どこかのお嬢様になった気分になるんだけど、そんな自分は嫌でどうにかして灼の力になりたいとは思ってるの・・・でもどうしていいかわからなくて灼の力になり損ねてしまうの・・・そんな私でも灼は文句も言わないで支えてくれて本当に嬉しくて、感謝しても感謝しきれないの・・・本当にありがとう、灼」
葉子の言葉は支離滅裂で伝えたい事が途切れ途切れだったりするけど、言いたいことはなんとなく分かる。きっといつも私のなんらかの力になれず、私に嫌われてしまうのではないかと不安になっていたのかもしれない。これは私の思いだから彼女の真実の思想はわからない。だけどそんな気が私はする。
「ふふ、葉子はやっぱり素直だね。私、葉子のそういうところ大好きだよ。それに葉子は私の力に十分なってくれてるよ。私の隣でいつも笑顔でいてくれるだけで、それで私は十分に幸せで嬉しいのだから、私の力になり損ねてるなんて思わないで、葉子は葉子のできることをやってくれればそれでいいよ」
葉子は少し安心したような顔になって、軽く目を閉じた。手はさっきよりも強く握ってきていて、葉子の感情や気持ちがそのまま流れてきそうだ。私もそれにこたえるようにしっかり握ってあげる。私の一人の家族だ。大切にしなければ・・・。
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外は快晴で、雲一つ無い。少し傾いた太陽が眩しく私を照らしていた。
大きめで緩く動きやすい真っ白なワンピースと、麦わら帽子を被れば真夏の海辺の少女が出来上がる。現在はまだほんの少し寒さが残る頃合だが、別段飛び抜けて異様な姿でもないはずだ。きっと社会的には受け入れられるだろう。
背中に真っ黒で、真っ白な「YAKU」の刺繍のあるホルンを入れたシャイニーケースを背負って向かうは、大きな橋が現在建設中の川辺で、緑色の斜面が華川という夕紅島市を直線に突き抜ける大きい川を沿って続いている。
そんな華川は家から10分の場所にある。自転車で行くのもいいが、あいにく灼と葉子は基本歩く事が移動手段なので、所持していない。
まだまだ日差しも照らし続ける街中は人が間断なく行き交うので、非常に暑く、何筋か頬に汗が垂れ始めていた。
川辺に行くのは水分と栄養ゼリーか栄養ドリンクを調達してからで、日中練習に没頭して熱中症になっては元も子もない。
だから、まず行くのはドラッグストアかスーパーだ。近辺には、ドラッグストアは存在せず、5日前に商品の仕入れのために訪れた夕紅島量販店が、最寄りにあった。夕紅島量販店は意外と薬や石鹸類の業界にも手を出していることは知っている。だからもちろんドラッグストアにあるものはあるわけで、栄養食品も多数ある。
さっそく夕紅島量販店に入店し、栄養食品類のコーナーを探す。広い店内は人が結構入っており、夕飯の買い物を先に済ませんとする主婦達が、野菜などのコーナーにむながっている。夕紅島量販店の野菜などはとても新鮮で、その仕入れ高もかなり安かったと記憶している覚えがある。確かわざわざ外国の広大な土地を買い、少しの人材と最新の農作業機械で栽培し、店に運んでいるという話だ。輸入には時間がかかるかもしれないが、かかるお金がたぶん違うのだろう。
そんな主婦達を横目に暇そうな店員を見つけ、栄養食品の場所を聞いた。店の角の一番奥だそうだ。
言われた場所に行くと、職員用出入り口の目の前にそれはあった。たくさんの種類の栄養剤がある。ゼリーに飲み物に食べ物にサプリメントなど形も豊富だ。
灼はりんご味のゼリー状の飲み物300mlのモノを2本と塩分と糖分を同時にとれるスポーツドリンク500mlのものを1本手に持ち、レジに並んだ。
レジには主婦達が手に手に抱えるように野菜やら醤油やらなんやらを持ち並んでいる。非常に長いように思えたが、レジ打ちが早いためすぐ来た。
「あ、夕凪カフェ様のお嬢さんではございませんか」
唐突だった。レジ打ちをしていた男性は顎ヒゲが印象的な店長の名札を提げた人だった。がめつい少し太った商人の姿が思い浮かぶその声はオーナーとしては少し不適切な感じを思わせる。
「ご無沙汰しております。夕紅島量販店オーナー様」
場所によってはしっかり敬語などをわきまえなければならない。自分の行動一つが自分の背負う店の印象を左右させるのだから、しっかり外ではうまく振舞わなければならない。
「こんな日曜日に何処かへお出かけになさるんですか?あ、運動ですか。お背中に背負われているのはホルンではございませんか。きっと将来とてもお上手になること間違いないでしょう」
そう言いながらも、店長の手は止まらずパパッと商品の会計を終えてくれた。
「ありがとうございます」
灼がそう言うと店長は「980円でございます」と言ってくれた。
使い古した音符模様があしらわれた折りたたみの財布を取り出し、中から1000円札一枚をつまみ出し渡した。
店長はそれをもらうと一瞬のうちに20円に替えて渡してくれた。しかもいつの間にか商品も袋の中だ。
「またのご来店お待ちしております」
そんな決まり文句に軽く頭を下げて店を後にしたのだった。
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華川は夕紅島量販店についてしまえば、もうついたも同然だ。
夕紅島量販店の裏手に回って少し歩けば街の途切れが見えてくる。その途切れに面するようにある高い階段を登れば、華川が拝める。巨大なその川は200mも川幅があるうえに、しっかり水も流れている。最近では逆に水かさが増したとニュースになったくらいだ。
「ふぅ」
高い階段を上ると、サイクリングロードが目の前に入り、そこから先は緑色の坂と巨大な川だ。しかも向こう側の岸には夕紅島市を支える巨大な発電所が並んでいる。実は今建設中の橋は発電所との行き交いを効率よくするために、夕紅島市が直々に設置予定を作ったものだ。その橋はまだ柱が数本たったばかりの進行具合だが、その柱の太さと大きさはもしかしたら戦車2台並ぶかもしれない。
そんな思いを頭の四隅に置き、さっそく緑色のゆったりした斜面に身を置いて、シャイニーを開けた。
眩いばかりのホルンのベルが顔を出し、本体もすぐに顔を出してきた。手入れは毎朝葉子が起きる2時間前に一度起きてやっているため、とても綺麗な状態だ。もしも学校で我こそはホルンを愛する者だと言い張るのなら、絶対にその称号は取れる気がする。
そんなことを考えながら、ホルンのベルに左手を通し指で固定して持ち上げた。右手でホルンの本体を持ち、デタッチャブルにベルをはめ、ネジの芯を直接回すようにグルグルと回す。数回回すとキュッと音と共に固定されたことがわかった。これ以上回して固定すると、回せなくなったり、デタッチャブルを破損するおそれがあるためこれ以上は回さない。
そんなホルンを右手で支えながら膝の上に置き、左手でマウスピースをとった。いつもならこれの前に軽く体中の筋肉をほぐしてからやるのだが、今回は少し歩いたから省略してもいいだろう。
しかし、最低でも唇の運動だけはやっておいたほうがいいかな。
と思いながらまたブルブルと震わせる。どうせ周りには誰もいないし唾がとぼうなんて気にしない。自分のやりたいようにやるまでだ。しっかりと納得いくまで・・・。
唇が少し熱くなるのを感じ、もういいやとマウスピースを軽く当てて息を吸った。
「ブゥー」と真っ直ぐな息、乱れのない同じ音を長く伸ばし、自分の呼吸がちゃんと一定かを確かめる。葉子とやるときは、片方がチューナーで音を確認しながら、揺れてないか、音の大小が不安定じゃないかなど色々見るのだが、今日は一人だから細かいところまではわからなさそうだ。
自分の息の限界まで吹き、しっかり伸ばせたことを確認して音を止めた。吹いた音はFの音でホルンの基準となっている音だが、十分良好な気がする。
次は自分の音感がちゃんとあっているかを確かめるために、チューナーの上下を指し示すランプだけを見ながら吹く。
足を三角に立ててホルンを膝の上に置き、右手でシャイニーからチューナーを取り出した。上の方に三つランプが並んでいて、そのしたにメモリが付いているチューナーだ。もちろんおじい様に買ってもらったもので、その内蔵の測定音程幅は88鍵のピアノだって測れる代物だ。
さっそく右手でチューナーを目の前に構え、マウスピースを口に当てる。「ブゥー」とまたさっきと同じFの音を出し、目の前のランプに目をやる。右の赤いランプが光っている。真ん中の緑色のランプも弱い光で軽く点滅してるから、ちょっと高いのだろう。
一旦止めマウスピースをホルンにはめて、両手でチューナーの設定をいじり、内蔵の音声データを流すボタンを押す。「プー」という電子音でFの音が出る。揺れも大小も存在しない一定の音・・・もちろんそこに感情も雰囲気も存在しない。でもこれは正しい音なのだからしっかり聞かなくてはならない。
鳴らして意識を集中してみれば「ワワワワワ」と擬音するのがよいのだろうか、私の中のFの波長を捉える音感と、チューナーから発せられるFの波長がズレて、違う音を捉えようとする音が聞こえる。どうやらほんの少し私の中のFはズレている。ほうっておくといつか困るかもしれない。今のうちに矯正しなくては・・・。
意識的だがぶつかり合う音を消し、チューナーの音をストップして、ホルンからまたマウスピースを抜き取った。次は外さない。
ゆっくり息を吸いまたマウスピースから「ブゥー」という音を発した。チューナーは真ん中に針を指し、緑色のランプを輝かせている。どうやら正しいようだ。しかしこれで終わっては意味がない。このFの音から7音上・・・1オクターブ上のFの音を吹いてちゃんと定着したかをもう一度確かめる。
「ブゥー」さっきより高くなった音は同じ質を持っているのだからとても不思議なものだ。チューナーは同じFの文字を映し、針は真ん中を指している。今現在の状態だと矯正できたようだ。でも毎日続けてちゃんと定着させなければならない。
音程のチェックは終わりだ。次はホルンでロングトーンと軽くタンギング練習をして、Fの音階から一音ずつ上げていく音階をして終了する。
メトロノームは基本平面に置いて動かすものだが、今は斜面にいるため使えない。だからチューナーの内蔵式の電子メトロノームを使う。シャイニーの上にチューナーを立てかけ、100のテンポでメトロノームを動かした。
ポチッポチッと一定の間隔で音が響きテンポが取られる。
ロングトーンはFの音階を行ったり来たりする。一音8拍ずつ吹いて、ちゃんと真っ直ぐ音を一定に保てるかを確認するのがここのポイントだ。ここで音が揺れてしまっては曲じゃ使いものにならない。それと音程がちゃんと合ってるかも確認しなければならない。吹く音は自然と体の中にも響くから、脳が気づけばズレた音を覚えてしまうことがあるからとても重要だ。
「フォー」と吹き始める。ホルンの音は深みのある音だ。でも高くなるにつれて、だんだんと苦しそうな音に聞こえなくもないから、たまにちょっと心配になる。
音と音の間に瞬間ブレスというものをする。拍と拍の間で次の音のための息を吸うのだ。
最後のFの音を「フォーン」と綺麗に締めくくり、自分のできはどうかを考える。今日は比較的落ち着いているから、一定の音を出せてるし、音の大小も別にひどくズレてることもない。点数的に言うと85点くらいか。
そんなことを思いながら次はタンギングの練習をしようかと思う。タンギングはロングトーンのように、全音符ではなく、4分音符と8分音符と3連符と16分音符で、舌を上の歯の裏に軽くつき音を区切って連続して出すことだ。擬音で言うところの「ターター」とか「タタタ」などだ。スピードをつけなければならない場面では、「トゥクトゥク」とか発音してタンギングの感じを覚えるらしい。
さっそく4分音符でのタンギングを練習しようとホルンを構え、電子メトロノームの音に合わせた。「フォーフォーフォーフォーン」と吹いた。本来ならこれを一音ずつ上げながら行うが、今回は一音につき4分、8分、3連、16分というふうに続け、16分が終わってから一音上げて、再度4分から始める方法でやる。
「フォフォフォフォフォフォフォフォーン」擬音してもよくわからない状態になってきた。「フォフォフォ.フォフォフォ.フォフォフォ.フォフォフォーン」3連はドラムで強弱弱強弱弱強弱弱というふうに最初に強の音を入れ、あとは弱で流す感じに吹いた。16分は8分をさらに細かいスピードで吹く。擬音なんてもう無理だ。
そんな考えを思い浮かべながら、もう慣れた練習を行った。葉子がいればもう少し遅れただろうが、きっともっと楽しかったかもしれない。やっぱり葉子とやりたいと感じる。
そんなことを思いながら、灼は音階を登る練習に移った。
日はまだ少し傾いたばかりで、背中はとっても暑い。でもきっとこんな日ほど練習に良い日もないだろう。と灼は思うのだった。