冷静になって考えて、もう一度この子たちの物語を書きたくなりました。
君はなりそこないのヒーロー(1)
足が宙を空回り、体重がストンと落ちて。
ガタンと、椅子の倒れる音が聞こえた。
軋む音が響くが、思いの外苦しくて、爪が首を掻いた。
確かに呼吸はできない。
涎が出て、涙で視界は滲んだ。
操り人形が抵抗するようにもがくが手は何も掴まず足は何にも掛からない。
嗚呼、死ぬ。
望んでいたはずのソレが背後まで迫ってきたのを感じる。脊髄が冷たさに震えた。
ドスン
静かな部屋に音が響いた。
楽になった呼吸を深く味わい、震える手で打ち付けた腰を触る。
生きている。
痛みはその証で、どうしようもなく、涙が溢れた。
窓から入る夜風が、とても冷たかった。
*
「おはよー。」
「うっす。」
友人と何気ない挨拶をする。
首に少し痕が残ってしまったから、少し俯いて視線を向ける。ああ、なんだか妙に後ろめたい。縄の痕を見られて、まさか自殺未遂をしただなんて言えない。軽く騒ぎになるだろうし、変に気を使われたくない。なら傷が消えるまで休めばよかったと思われるだろう。だがもうこれ以上連続しての欠席は、『風邪を引いた』という理由ではなかなか難しかった。つまり潮時というもの。
まあ何も変わるまい。少しして、この傷が消えたら、何事もなかったかのように、ただ日常を消費していけばいい。気の良い友人と下らない話をして、退屈な授業を受けながらあくびをして居眠りして、そして誰もいない家に帰ってから顔も知らない父親の仕送りで生活する。まあ悪くはない人生だろう。
ただ、少しばかり気が緩んでいたのか、疲れていたのか、授業が終わったのに眠りこけていたらしい。
放課後、人気のない教室に朱色の光が差し込み、瞳孔を縮めた。もう日が沈みかけている。季節的にそこまで遅い時間でもないと思うが。さて、どのくらい眠りこけていたのか。廊下の方から単調な楽器の音が聞こえてくる。まだ最終下校時刻ではないようだ。まあさっさと帰ろう。鞄を持ち、立ち上がる。
「・・・榊原サカキバラ 滉晠ヒロアキくん。」
耳元で声がした。
「死に損ねた気分はどう?」
背筋が凍った。
「・・・。」
乱暴に腕を振り、背後に立った女と距離を離す。
立ち上がってその姿を睨み付けた。
「貴方のこと、もう少し紳士だと思っていたのだけど。」
「・・・何か、用かな。白銀シロカネ。」
そう、彼女は白銀。珍しい名字だと思った記憶がある。特に接点の無い、大人し目で、そして、顔立ちが整っている、という印象のクラスメイト。
「そうね。ひとつ質問があるの。」
数歩近づいて、俺の耳元にそっと、囁く。
「貴方でしょう?最近の、カラス殺し。」
そう。それは田舎町を多少の騒ぎにするには充分な事件。それでも、最初は同時期に起きた大規模な交通事故によって埋もれてしまっていた。そんな事件。
週に一回か二回、公園や道路に、カラスの死体が転がっている、というもの。
「・・・何が目的だ?」
その細い身体を乱暴に引き剥がす。
自分で思っていたよりもずっとどす黒くて低い声が出た。
「ふふ。隠す気も無いのね。嫌いじゃないわ。」
人を小馬鹿にしたような話し方に、神経が撫でられるような気分になる。
「目的・・・そうね。」
今まで話したことはほとんどないが、こんな性格の女だったか。この女子生徒は。
「私を殺してくれないかしら?」
彼女は微笑んだ。
「は?」
おそらくはこんな言葉とセットでなければ胸のひとつでも高鳴っていたかもしれない。そういった怪しさを内包した微笑み。
「だって、カラスを何羽も殺したのでしょう?なら、今更人間一人を殺したところで何も変わらなくて?」
「断る。人殺しなんてする気はない。」
社会では野良カラスをたとえ何羽殺したところで、問われる罪はそこまでではない。だが人を一人殺したら?それは殺人罪だ。良くて十年以上は牢屋に居ることになるだろう。残念ながらこの社会において万物の命は決して平等ではないのだ。
「あーあ。フラれちゃった。これでも結構勇気出したのよ?」
「・・・・。」
「まあいいわ。気長に待つから。」
白銀は教室を出るところまで歩いて、そして俺の方を向いて言った。
「そうそう、私の名前は香雪コユキって言うの。」
「・・・。」
「それじゃあ。また明日。」
俺はその挨拶に、答えなかった。
*
あの後は、普通に家に帰った。
そして少し早めに眠った。
翌朝。
ピンポーン
もしかしたら初めてかもしれないインターホンの呼び鈴が鳴った。
「・・・・。」
ピンポーン
眠い。何時だと思ってるんだと枕元の時計を見ると、普段の起床より三十分ほど早い時間だった。
ピンポーン
また鳴った。誰だ?俺の家を訪ねてくるようなヤツは居たか?
ピンポーン
「・・・今出まーす。」
ピンポーン
「今出まーす!!」
寝起きで大声を出して勢い良くドアを開けた。
「おはよう。榊原くん。」
そして勢い良くドアを閉めた。
「・・・え?」
なぜ?
いや、なぜ彼女が、白銀がここにいる?
アイツに家を教えたことがあっただろうか?いやない。あるはずがない。そもそも昨日の放課後がほぼ最初の会話。印象は最悪だ。
ピンポーン
「十・・・いや十五分待て!」
しかし、早朝からこうもインターホンを連打されては近所に迷惑だ。大急ぎで制服に着替えて、適当に食パンを水で流し込んで、靴を履いて爪先をトントンと叩き踵を入れる。
そして、ドアを少しだけ開けた。
「・・・何か用。」
「一緒に学校行きましょ。」
ドアを閉めようとしたら足を挟まれていた。
笑顔と目が合う。
引く気はなさそうだ。
「・・・はぁ。ちょっと待ってろ。鞄取ってくる。」
なんで俺の家を知ってるのか、という疑問は飲み込んだ。訊くのが怖い。
「・・・まだ七時前なんだよな。今。」
学校に行くにしても早すぎないか?部活の朝練でもあるのか。いや、彼女は俺と同じく帰宅部だったはずだ。少なくとも何かしらの、それも朝練をするような部活動に所属しているといった話は聞いたことがない。
「・・・いってきます。」
返す人は居ないが、日々の習慣というか、家の中に呟く。そしていつもより随分と早く玄関の外に出た。
いつも通りであれば、ここからアパートの下の駐輪場に自転車を取りに行くのだが。
「白銀、徒歩?」
「そうね。私は徒歩よ。」
「俺チャリなんだけど、どうする?」
流石に、女子を歩かせて自分は自転車、というのもどうかと思うし、かと言って引いていくのは普通に手間だし。ここは徒歩でいいか。いつもよりうんと早いから間に合うだろう。
「・・・そうなの?」
「いやそうなの?って・・・」
何故家を特定しているのに俺の通学事情は把握してないんだ。
「それにしても、明らかに遠回りだろ。結構遠いぜ?学校から。」
「その為に早く来たんじゃない。」
「あー、そういうこと。」
俺と登校するためにわざわざ早く家を出てくれたのだと考えるとまあ悪い気はしない。
「まあ折角だし、乗っていくことにするわ。」
「マジ?」
「バレなきゃ平気でしょ?い・ろ・い・ろ・と・。」
そういえば致命的な弱味を握られているのだった。一瞬でも浮かれた思考が出てきてしまったことを強く後悔する。
結局、流される形で俺は彼女を自転車の後ろに座らせた。
「・・・下手くそ。」
「うる、さい。」
やたらとバランスが取りにくい。
二人乗りの難易度を侮っていた。後ろに重心が傾くから、かなり安定しない。
「けっこう、むずか、しいんだけど。」
少し安定してきて、体重の取り方もわかってきたのはもう少し行ってからだった。二人乗りがどうして禁止されているのか少しだけわかった気がするとは、白銀の弁である。
慣れてくるといつもと同じようなスピードで車輪も安定し、冬の風がとても冷たくて、手袋をしていても指先が冷えてくる。そろそろマフラーでも出そうか。そうしよう。
「そういえば、いつもどのくらいに家を出てるの?」
しばらく沈黙が続いていたが、ふいに白銀が言った。
「いつもは八時くらいに家を出てる。通学にそう時間はかからないから。」
「ふーん。結構遅いのね。」
「お前が早いだけだろ・・・。」
また暫くの沈黙が続いた。
「・・・あまり楽しそうじゃないのね。」
「自分を脅した女に家を突き止められていたあげくの2ケツが楽しいと思うか?」
「器が狭いのね。かわいい女の子との二人乗りなんて、滅多に味わえることじゃないわよ?」
「・・・自分で言うのか。ソレ。」
確かに彼女の容姿は決して平凡ではなく、まあ以前から俺を含む一部男子の間では物静かで綺麗な女子、という認識ではある。まさかその本性がこんな女だとは思っていなかったが。
「これでも結構モテるのよ?」
それも自分で言うことではないだろうという言葉は声帯を震わせるエネルギーの無駄だと思いやめた。
ところで、彼女はどうしてこんなに早く家を出るのか。そんなに急がなくても良いだろうに。
そういった疑問は、二人きりの教室で明かされた。
「・・・花いじり、ねえ。」
教室の窓際。
担任が気まぐれに花瓶を置いて、そのままずっと咲いていた花。誰が世話をしているだとか、何も意識をしたことがなかった。白銀は花瓶の水を捨て、新しく入れ、枯れた葉を取り除く。長く伸びた黒髪から覗くその横顔は、とても柔らかい表情をしていた。・・・何故この少女は、己の死を望むのだろう。俺の場合はそう、言ってしまえば気の迷いのようなものだった。数日家に引きこもり、恐怖やら自責やらで感情がめちゃくちゃになり、手っ取り早い逃げ道がそれだった。
でも昨日、あの夕日に照らされた彼女の声は、顔は、目は、確かに本気だった。
「なあ・・・」
お前、なんで俺に殺されたいんだ?
そう口を出そうになった言葉を、慌てて飲み込んで、取り繕う。
「どうかした?」
「・・・その、花。なんていうやつ?」
結局口を出たのは当たり障りのない、平凡な質問。ただ実際その花の名前が思い当たらない。
「ダリア。コダチダリアっていう種類。綺麗だから少し分けてもらったの。」
「へぇ。誰から?」
「近所に色々育ててる人がいて、ね。」
こういう表情をなんというのだっけか。確か、楽しそう、いや生き生きとしている。そういう表現が似つかわしい。とても花が好きなんだな、と。ろくに彼女を知らずともそれはわかった。
そうやってしていれば、とても絵になる。その横顔はやはり友人の噂に聞くようなもので、美人の部類に入るものだろう。
「・・・明日も、同じくらいの時間に来るのか?」
「そのつもり。」
「・・・じゃあ、・・・明日は、準備して待ってる。」
多分、少し浮かれているのだろう。
いやそうでなければ自分から厄介ごとを舞い込ませたりはしない。
「・・・男のツンデレに一般的な需要は無いわよ。」
ただまあその一言に前言撤回をしたくなったのは置いておこう。
*
携帯のアラームが、普段より一時間早く鳴る。
「ん・・・。」
朝は結構強い方だとの自負はある。それでも、生活リズムを一時間繰り上げるのは思ったより負担になるようだ。睡眠のサイクルは三時間だったっけか。今夜から寝る時間も少し早めよう。そんなこんなでアラームを止め、布団の中で背筋を伸ばした。
施設に居た頃は同室の友人と誰が最初に起きれるかを競い合っていたっけか。そうやって早く起きた奴から他の奴を叩き起こしていた。あれはなかなか賑やかで楽しかった記憶がある。・・・なれないことをすると、どうも懐古に走ってしまう。妙な癖だ。
朝食はオーブンで適当にトーストを焼く。その間に洗面を済ませて着替えて、黒のセーターをシャツの上から着る。ブレザーは出ていく寸前に着るから、まだハンガーに引っ掛けている。そろそろ丁度のよさそうなトーストを取るついでに、ガラスのコップに水道水を汲んで一緒にちゃぶ台まで持っていく。ここまではほぼ日常通り。何の特別性もなければ何の感慨もない。つい先日の真夜中に望んだ平穏が破壊されるのは数十分後だろうか。バターだけを塗ったトーストを水道水で流し込む。そこから、弁当、と言ってもただ前日の夕飯の残り物を詰めているだけなので手間はあまりないが、それを作り始める。昼には結構腹が減るのでそこそこ大きなサイズの弁当にぎゅうぎゅうに詰めておく。足りなかったらコンビニかどこかに買いに行く。別に、毎月使い切れてないくらいの量は振り込まれているのだから。
俺は父親の顔を見たことがない。
そもそも名前も知らないし、立場も知らない。
知っているのは母親を捨てたことと、母親が死んで何年も経ってから罪悪感なのか自己満足なのか、もっとほかの理由があるのかは知らないけど俺を当時居た孤児院から中学卒業と共に退院させ、一人暮らしの場所と、高校の学費と、毎月使い切れないくらいの生活費をくれている。きっと経済的に余裕のある人なのだろう。そうでないならこんなことはしないはずだ。これは親の愛情だといわれても正直な話俺は信用できない。俺にとって、親とは幼少の俺を育てた煙草とアルコール臭い女と、孤児院で面倒を見てくれた二人の初老の夫婦なのだから。ただ、経済的援助にはとても感謝している。もしいつか顔を合わせる機会があるならば、俺はその礼をして、相手が求めるならば息子としてふるまおう。望まれないのなら、他人が他人のままに接するだけだ。
ただ、それだけ。
丁度弁当を鞄に入れたところで家の呼び鈴が鳴らされた。
「・・・おはよう。白銀。」
「おはよう。じゃあ、早くいきましょう。今日は安全運転でお願いね?」
昨日の俺の運転のことを根に持ってるなコイツ。
そしてまた、二人乗りで登校をする。昨日コツがつかめたと思ったのだが、やはりあまり安定しない。前輪のバランスと後輪のバランスがかみ合わない。重心がばらけているのが原因かもしれない。
「全然安定しないわね。・・・もう少し何とかならない?」
「安定しないなら何処かにしっかり捕まってくれないか?」
「なら、丁度いい背もたれに寄りかからせてもらうわね。」
「は?」
背中に重さが来た。
ふわりと体温が、すぐ後ろに触れた。
「あー、この方が楽ね。・・・榊原君って、結構体温高いのね。」
「・・・・。」
俺の体温が高いかどうかはさておき、正確には少し下の方だが、耳のすぐ後ろで囁かれるのは落ち着かない。
「ふふ。こうしてると、カップルにでも見えるのかしら。」
「・・・・やめてくれ。冗談じゃない。」
「つれないのね~。」
確かに白銀の言うことには理しかない。と、いうか、第三者的に見れば確実にそうなるだろう。そもそも二人乗りをする高校生の男女、しかも女子の方は男子にもたれかかっているなんて状況、まあまず恋人だとみて間違いない。俺だってそう思う。
「お前はいいのかよ。勘違いされても。」
「私は別に構わないけど。」
「・・・俺は構う。」
「あら。好きな人でもいるの?」
「いや別に。」
「ふーん。そういうの興味ないの?」
「無いことはないけど・・・。また別の問題だろう。好きなやつがいるかいないかは。」
会話が続く。
気づけば車輪も安定して、やはり重心が自分に近づいた方が余計な力も必要なく漕げるのだろう。少し照れ臭いが、彼女さえかまわなければこれからはそうしてもらうのも悪くはない。
「私はあなたと恋人でも構わないのだけど。」
「・・・そういうこと、あんまり言わない方がいいぞ。」
「貴方にしか言ってないわ。」
「・・・・。」
どうも真意が読めない。やめてくれ。変に意識してしまいそうになる。俺は一応、彼女から脅されている立場なのだけれど。火照った顔に冷たい風は妙に心地良い。だからこの赤くなった表情を彼女にはあまり見られたくないのだ。どうせからかわれる。
だから、できるだけ後ろを見ないように、見られないように気を付けながら自転車のペダルを押し込む。
この鼓動も、じきに慣れるだろう。それまでの辛抱だ。
慣れればきっと、この胸の高鳴りも治まるはず。
*
それから数週間と経ち、俺は二人乗りに随分と慣れた。
自転車の後ろに重みがあって、背中に寄り掛かる体温がある。早朝の冬はとても寒く、その体温が少し心地よかった。
「そういえば、ヒロ。」
「・・・どうした?」
いつからか彼女は俺のことを"ヒロ"と呼ぶようになった。
そういうことをしているのだから、クラスの連中には付き合っているのだと誤解されてしまうのだけれど。いや毎日共に登下校をしているのだし、よく会話もするようになり、クラス内で急に仲の良くなった男女が出ればそう考えるのは当然と言えば当然だ。もはや日常になりつつある彼女の存在につい気を許してしまっているのも事実である。
我ながら、攻められるとこうも弱いタイプだったとは。自分というものは、人と関わらないと見えてこないというのは本当らしい。
「ヒロは、その・・・こういうの、嫌?」
白銀の口から出た質問はらしくない。やけにしおらしいものだった。
なあなあで続いている感が否めないが、別に嫌かと訊かれればそうでもない。むしろ少しの特別感を彼女に感じているところもある。しかしそれを言うのにも気恥ずかしさが邪魔をして、返答に困る。
「・・・なんでもない。一年の辛抱だもの。」
調子が狂う。どうしたんだ今日は一体。そして訳も分からない焦燥感につかれた。
「一年もすりゃ飽きるってことか?そりゃいい。」
少し突き放すような口調で言って、何も言葉が返されなかった。まだ学校まで少し距離があったが、その距離はずっと無言で通過した。
背中の体温は、変わらずそこにあった。
憎まれ口じゃないものに、憎まれ口で返さなきゃよかったと、後悔するのは随分後になってからだ。
ただそのときは、一層厳しくなった寒さと吹き抜けるような青空を憂鬱に思っていた。
時々そういうことがあったのだ。
彼女の、どこか遠く、焦点を合わせずに見ているような、そういう、虚ろな視線。
花をいじっているときや、授業中にふと視線をやったとき。彼女は空になる。まるで現実から逃げるような、そういうときがたまにあるのだ。
白銀が何から逃げようとしているのか、俺は知らない。知ろうともしない。
それが正解なのか間違っているのかはわからないけれど、誰にだって触れなくていい領域はある。俺は勝手にそれをそういうものだと判断した。
しかしながら、やけに静かだ、と。
学校の駐輪場で、自転車から降りようとしたときに思った。
静かなだけならいいが、彼女が俺の背中から離れようとしない。
「おい、白銀?」
これでは俺が降りるに降りれない。
「ん・・・何?」
曖昧な返答が返ってきた。
そのまま姿勢が崩れて、白銀が滑り落ちそうになる。
「お、おい。」
慌ててその細い体を抱きとめた。
顔を見ると、ぽーっとした表情で、少し汗ばんでいて、ほんのりと紅い。正直年頃の男子としては揺らぐものがあったが、そこは理性で押し留めて額に手の甲を当てた。
・・・熱あるな。コイツ。朝は普通だったがもしかしたら無理をしていたのでは?いや、熱が出ているときの判断力は結構当てにならなかったりするから、平気だと思って出てきたのかもしれない。
「立てるか?白銀。保健室行くぞ。」
「・・・うん。」
弱々しい足取りで歩き始める。危なっかしい。・・・仕方ない。
「よいせっと。」
白銀の腕を担ぐように持ち上げ、彼女の体を背負った。
結構軽いな。ちゃんと食ってるんだろうかコイツ。それにしても大人しい。それはいいのだけど、背負っているから仕方ないのだけど、白銀の頭が肩にぐでりとのしかかり、流れてきた髪から、甘い香りがする。花の、シャンプーの香りだ。多分そうだ。こうも髪が長いとここまではっきりするモノなのだろうか。普段あまり意識してなかった。
校舎内に入っても、人影はない。
静かな廊下で、俺の足音と彼女の吐息がやけに聞こえる。足音はともかく、吐息は位置関係的に非常に不味い。耳元でそういうのは少々心臓と理性に悪い。
「・・・ヒロ。」
小さな声で、白銀が囁いた。
「ありがとう。」
「・・・・。」
熱で浮かされてるだけだ。だから特に答えない。いつもこうならいいのにな。こいつ。
保健室について、養護教諭に一言断ってベッドを借りる。
「一応熱計っておくか。あ、今欠席表書くから彼氏さんは待っててね。」
彼氏じゃないんだけど。まあ今はどうでもいいか。
「うわ、結構高いな・・・」
体温計を見た養護教諭がごそごそと、保冷剤なり、経口補水液なりを冷蔵庫から取り出す。
「あ、これ担任の先生に渡しておいて。あと、この子が起きたら親御さんに連絡入れるからってことも。」
「はい。」
十センチ四方くらいの紙を受取って、俺は保健室を後にした。
廊下を歩く。
最近はずっと二人でいたから、一人でいる普通が少し新鮮に思える。
そのまま教室に直行した。
すると、そこには見覚えのない影があった。
「・・・。」
その影は俺とそう年が変わらないように見える青年のものだ。その格好は黒いパーカーにジーパンと、明らかに私服で、学校の生徒でないことはすぐに見てとれた。
教室に私服という、圧倒的なまでの違和感。
さて、どう切り込もうか、と少し立ち止まっていると、青年はゆっくりとこちらを見た。
「・・・やあ。はじめまして。」
冷たい。
あまりにも冷たい、何かを見透かして凡てを諦めたようなその瞳に、思わず身震いをする。
「誰・・・?」
我ながら微妙な返しだと思ったが、特に考えずに口を出てしまったものなので仕方ない。
「ああ、俺は名乗るようなモノじゃない。」
なんだコイツは?異常というか、異様というか、特異的だ。
「ここに俺がいる意味は無いし、君は特に気にしなくて良い。」
「はあ。」
我ながら間抜けなもんだと。中二病とやらかと思ったが、そうやって一括りにするにはあまりにも彼の眼は冷たすぎる。まるで生き物じゃなくて、他の何かがたまたま人間の体を持っているような、そういう違和感。いや場違い感と表現すべきかもしれない。
「おーい、邪魔なんだけど。」
背後から友人の声がした。
「え?あ、いや。」
はっとして、前方を確認する。
「あーもう誰だよ窓開けたの。寒いんだから勘弁してくれよなぁ。」
先程の青年はいなくなっていた。代わりに窓から吹き込む風がカーテンを游がせている。
混乱をしていないといえば嘘になるが、のんびりとした友人の声を解することのできる程度には冷静だった。
夢でも見ていたのかもしれない。それか、幻覚か何か。なんにせよア・レ・が良いものであったという認識は出来そうにない。学校に住む幽霊みたいなものだろうか。いやそんなベターな。この学校に七不思議とかあったっけ。聞いたことない。
「・・・教室入ったら?」
「あ、うん。」
いつまでも入り口に立っているのも邪魔か。
教室の自分の席に、荷物を置く。ああ、そういえば花瓶の水でも変えてやろうか。
「あれ、教室に花なんてあったっけ。」
「春に先生が置いたやつ。ときどき白銀が取り替えてるけど。」
「へー。彼氏さんが今日は代わりにお世話か。」
「・・・一応言っておくが、俺と白銀は別に付き合ってねーぞ?」
何度も個別には否定してるが、まあ確かにそう見られることをしている自覚はあるので形式的に否定する、といった感じだ。
「マジで?え?嘘?」
「いや嘘ついてどうすんだよ。」
「なんであんな仲いいの・・・。付き合ってねーのかよ・・・。」
「って言われてもなぁ・・・」
なんだかんだで成り行き、話せる範囲であればまあ。
「付きまとわれてる、ってのが一番近いかなぁ。」
「なんだそれ羨ましい。」
正直まんざらでもないのは事実である。逆の立場だったとしても羨望の眼差しは送るだろう。
そもそもを考えれば一応弱みを握られている立場なのだが、あまり向こうもそういうことを持ち出してくることはないし、目的は俺・に・殺・さ・れ・た・い・ようなのだが、どうも近くで見ている限り死にたい奴の言動が見えない。だって楽しそうなのだ。
例えば、花の世話をするとき。例えば、俺と自転車に乗るとき。思えば、俺は彼女が死を望んでしまうような状況を見たことがない。彼女の絶望を俺は知らない。
「一年、か。」
「何が?」
「いや、一人言。」
妙に引っ掛かった、一年の辛抱だという言葉。
その一年は、どのような意味なのか、もしかしたら俺は知らないといけないのかもしれない。そう思うことは傲慢だろうか。
「そういえば、あと一年とちょっとしたら高校生活も終わりだよな。」
「ああ。・・・そうだな。」
「長いようで短いよなぁ。」
「もう高校生活も半分終わってるんだもんな。」
そう思えば、この単調に進んでいた時間に重みをくれたのは白銀か。そうだな。そこは感謝しなくては。
そうやって友人とああでもないこうでもないと話し込んでいると、次第に人が教室に集まり、いつもの日課が始まった。
何となしに眺めた彼女の席だけ、空白だった。
*
「白銀。大丈夫か?」
時間は昼休み。
昼食を持って俺は、白銀の様子を見に来た。
ちなみに今、養護教諭は昼飯を食べてくるだとかで席を外している。
「あら、お見舞いに来てくれたの?暇なのね。」
ベッドに寝転んだまま、白銀はいつも通り微笑んだ。無駄口が叩ける程度には回復してるんだろう。もう少し熱でぼーっとしていれば可愛げもあるのだが。
「・・・元気そうでよかった。」
「お陰様で。」
一応、彼女が回復していることが嬉しくないわけではないことは言っておく。
「それで、早退するのか?」
「放課後まで待つわ。家に帰っても誰もいないから。」
「じゃあ一緒に帰るか。」
「そうね。・・・ねえ、ヒロ。」
「ん?」
俺が身を屈めると、ふいに白銀が両手を伸ばして、俺にしがみついた。
そして、そのままベッドに倒れ込む。
「・・・。」
近い。
鼻が、睫毛が、唇が触れてしまいそうなくらい、顔が近い。
「・・・白銀。」
「何?」
咄嗟に、ベッドに両手をつく形で白銀との衝突を免れてる形だ。結構疲れる姿勢ではある。
「・・・これ、俺が襲ってるみたいになってるんですけど。」
あと、衝突を免れてるとは言ったものの、それは顔面の要素だけであり、当たっている。・・・色々と、当たっている。
「わざとやってるもの。」
悪戯っぽい笑みと目が合い、小恥ずかしくなって少し顔の位置をずらして、体重をベッドにずらした。丁度、俺の顔の右に白銀の顔がある。そういう位置関係になった。
この位置だと、表情があまり見えないのが、かえってよかったのかもしれない。
「・・・ヒロ。」
「どうした?」
「少し、このままでいさせて。」
「・・・はいはい。」
どうせ離してはくれないだろうから、大人しく従う。だって、嫌ではないのだ。
自分の鼓動に、彼女の鼓動が重なっているのが少しだけ感じられる。耳元で吐息がして、活けられた花を思わせる香りに充たされる。
調子が狂うってもんじゃないぞこれ。
どうしたんだ今日は。夢見でも悪かったのか、それとも何かあったのか。いや、前から何かあったのか。それが今日の熱で決壊したのか。一つの小石が転がったのが土砂崩れを引き起こすように、これは彼女の心因的な、辛うじて保っていたバランスを崩してしまったのか。
でもここで、何かあったのか訊くのは野暮だよな。さすがにそのくらいはわかる。ただこれはどうにも落ち着かない。急に甘えられて俺のキャパが限界にきて、行動がだせないというのが正確かもしれない。つまりは、今俺の頭の中は大混乱で、余裕ぶっているように見えているのは感情が外に出にくいだけの俺の質に過ぎず、悲しいかな、高校二年生の思春期真っただ中の男心には刺激が強すぎる出来事なのであった。
「私ね、ヒロになら、殺されたっていいと思ってる。」
「・・・殺されてもいいなんて言うなよ。」
「はぁ、わかってないのね。」
相変わらずの、小馬鹿にしたような口調とは、少し違っているよう聞こえた。
「そのくらい・・・好きって、こと。」
沈黙が流れた。白銀の表情は見えない。俺の顔も、多分彼女には見えていない。
いま彼女はどんな顔をしているのだろうか。
俺を繋ぎとめる彼女の腕の力が、少し強くなったように感じた。
「・・・俺も、お前のこと、好きだ。」
ああ、顔から火が出そうとはまさに今使うべきなのかもしれない。顔が熱い。心臓がいつにも増して煩い。吐き気にも似た衝動を、なんとか自分の中で抑えつける。言葉にするのは、とても恥ずかしい。たった二文字の言葉に、ずいぶん沢山の勇気が乗った。
「ふふ。ふふふ・・・」
楽しくてたまらない、というか、いや、喜怒哀楽で言えば楽というよりも喜がふさわしいような小さな笑い声が聞こえた。
「・・・笑いすぎ。」
肩を小刻みに震わせているのが伝わってくる。なんだかくすぐったくて、ベッドについた手に力を入れて、身体を持ち上げようとしてみたが、腰の角度がほぼ直角なもので、下半身の踏ん張りがきかなくて起き上がれなかった。数度試してみるが、白銀と密着しているうえに腕を固定されているのでうまいこと動けない。
「あの、白銀さん。楽しそうなところ申し訳ないのですがそろそろ本当に放してくれませんかね。」
少し強引に起き上がろうとしたが、やはり無理だった。っていうかコイツ、楽しんでるだろう。っていうかまだ弁当食べてないんだけど。気が抜けたら急に空腹を思い出した。いや、そういうのも抜きでそろそろ人が来たらという心配もぶり返してきている。
「白銀、そろそろ放せってば。俺昼飯食べたいんだけど。おい。」
くそっコイツ結構力強い。
「・・・香雪こゆき。」
耳元でそっと囁いた。すると案外簡単なもので、腕の力が緩んでくれたので、起き上がった。
「・・・ずるいと思うの。そういうのは。」
「案外初心なんだな。」
今日一日でかなりイメージ変わったな。
「だって、突然呼ばれたら驚くじゃない。」
「可愛いな。お前。真っ赤になっちゃって。」
「え・・・」
「嘘だけど。」
そういえば俺も初めて"ヒロ"と呼ばれた時は自転車転びかけたからな。まあその仕返しというものではある。あと普段と立場が逆転して思った。これは白銀がよく俺を煽ってくる理由が分かったかもしれない。自分が上の立場で相手をいじくりまわすのは楽しい。彼女のこんな顔が見れるのなら、たまには下の名前で呼ぶのもいいかもしれない。
だから枕で何度もぼすぼすと叩かれているのもほほえましく感じる。でも弁当開けないからそろそろやめてほしい。
「そういえばお前、昼は食べたのか?」
「食べてないけどあまり食欲がなくて。」
「そっか。熱は?」
「寝たら少し下がったけど。」
膝に乗せた弁当を食べながら会話をする。
「風邪か?やっぱり。」
「わからないけど、一応安静にってことみたい。」
「じゃあやっぱ午後も出れないか。」
「そうね。正直暇。」
俺が食べながらのもあって、沈黙が会話に挟まる。
そういえば、どのくらい保健室に居るのだろうか。時計が見えないから時間がわからない。なので急いで朝食を食べてしまおう、そう思った矢先だった。予冷のチャイムが鳴ったのは。
「うわ、やべ・・・」
急いで弁当の中身を口に詰めていく。少し行儀が悪いが仕方ない。
「ねえ、ヒロ。」
もう少しで食べ終わる、というところで白銀が言った。
「サボっちゃおっか。」
「は?」
白銀がベッドから跳ねるように降りて、立ち上がる。
その時丁度、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
*
さて、ここで驚いたことをいくつか。
ひとつは白銀の提案をすんなりと受け入れてしまった自分。
もうひとつはこの学校の屋上がけっこう広いこと。
そして最後に、白銀が屋上の鍵を何故か開けることができてしまったことである。
屋上は一応、生徒の立ち入り禁止ではあったのだが、そこの鎖を繋げていた南京錠をガチャガチャと引っ張っていたら何故か開いてしまった。もしかしたらあまりちゃんと管理されていないのかもしれない。
「風強いな・・・」
冷たい冬の匂いが流れていく。その風に乗って、季節外れの花の芳香が混ざる。
「屋上なんて初めて。・・・これで共犯ね。」
「まあ禁止はされてるけど。」
しかしまあ、共犯という響きは悪くなかった。
「そういえばサボってるしな。俺。」
教師に見つからないうちに帰るか?
「放課後までここでやり過ごしましょ。」
・・・まあ、こんなところ誰も来ないか。そもそも立ち入りが禁止されてるし。放課後の警備巡回でもなければ見つかることもないだろう。多分。
それにしても寒い。上着は教室においてきているので取りに戻りたい。が、そこまで俺は無謀でも無粋でもない。学生の本分とやらよりも青春を選んだのだからその代償としては安い。ちなみに白銀はというとしっかりとコートを着ている。まあ病人なので体を冷やされても困るしそっちの方が助かるのだけど。
「あのね、ヒロ。」
寒さのせいか、まだ下がり切っていない体温のせいか、紅くなった頬の少女が言う。
その息は白い靄になって、北風に数秒もせずに吹き飛ばされる。
「私・・・死ぬんだって。」
一瞬、音が遠のいた気がした。
「え?」
間の抜けた声が風に消えていく。
”死ぬ”という単語は、彼女の感情を感じることができないくらいに、何の飾りもなく耳に届いた。
「ヒロは、死神って信じる?」
なんでだろう。息が苦しい。胸が苦しい。心が苦しい。
きっと、彼女の表情が今まで見た中で一番
死神なんてものがいるとしたら、それはきっと攫いに来てしまうほどに。
「・・・私、会ったの。女の子の姿をしてた。」
今までの彼女は、きっと飾りだったのだろうと、ぼんやりと思った。
「事故で死んだ人の傍にいて、私に言ったの。『君の番は一年後だ』って。」
現実味のない話は、彼女の表情で裏付けられた。
「なら、せめて、私は私の好きな死に方をしたい。」
無意識だったのだと思う。多分、現実から乖離しようとした頭で判断をする前に、心が手を動かしたのだと思う。
「だから私は・・・」
俺は人差し指で、彼女の頬に触れた。そっとすくいあげるように熱い滴を拭った。右の頬の次は、左を。火照った肌は少し乾燥していて、柔らかい。
指を濡らしたそれはすぐに体温を失って、指先にすっとした風の冷たさを伝える。
君が少し驚いたような目をして、俺の顔を見た。
自分はどんな顔をしているのか。手持無沙汰になった俺の右手は白銀の頭を自分の胸に引き寄せた。
多分、泣き止んで欲しかったのだ。でも、失敗してしまった。君は俺の背中に手を回して、しゃくり上げた。小さな肩は震えて、膝からは力が失われてしゃがみ込んでしまう。俺は彼女に合わせてざらざらしたコンクリートの上に座った。細い指はブレザーの背中をしがみつくように掴む。
未だ、言葉は出ない。
触れる彼女の体は冷たくて、何をどう返せばいいのかわからない。
ああそうか。彼女は死にたくないんだ。
当たり前のようにそう思った。
それでもなお、死に場所を俺にしてくれたことを、どうしようもなく嬉しいと思ってしまったのだから救えない。
夕日に照らされても、全然暖かくない。むしろ屋上は風が体温を奪ってしまう。
だからせめて、彼女がこれ以上冷えないように、俺は左手をそっと、白銀の背中に回した。