ざわざわと空気が後退する。比喩で表現すればそうなるのだろうか。
異様な程の神経を逆撫でする雰囲気に気圧されるも、川神百代は何とか立っていた。
目の前の、黒づくめの青年。目にかかりそうな闇より黒い黒髪と、感情の読めない濁りきった黒い瞳。全てが異常。そして、畏怖する存在。神々しさとは真逆の不気味さがその男――天音椎珂を物語るようだった。
「先に要件を話す」
彼の視線が百代を通り過ぎて川神鉄心へと向けられる。心なしか鉄心までも体を固くしているように百代は感じた。
「総代。封筒の中身は契約書だ。ただ、俺自身の見立てではアンタじゃ扱えない」
「代わりを用意しろ、と?」
「好きにしろ。ただ、寄越すのなら足手纏いは勘弁願う。俺はそこまで面倒を見れないからだ」
「だが、儂以外に他は」
「誰でも良い」
言葉を遮るように椎珂は放つ。
「人員が足りない。囮でも何でも、天音は欲している」
「……………………………………、」
「全ては祖父が手配した。そして契約は成立した。全ては同意の上でこの交渉は行われている」
刹那、百代の眼には彼の背から黒い“ナニカ”が漏れ出した様に見えた。いや、今もそれはくっきりと見えている。
憎悪、憤怒、強欲、侮辱、ありとあらゆる負の感情を無理矢理流し込んで作った泥が、意識を持ってこちらを睨みつけてくる。
「ハッ、ぁ、がッ、っ、ッ……!?」
呼吸が出来ない。正常に身体機能が働かない。
「……見えるのか、コイツが」
いつの間にか椎珂が目の前に立っていた。その泥を右手にすくい、百代の眼前に持ってくる。
「川神百代。お前には才能がある。天からの、ではない、地獄から授かった才能がだ」
手を握る。ぐじゅっ、と生温い音が鼓膜を刺激し、泥が地面に落ちて飛び跳ねた。
「総代。川神百代だ。最も相応しいと俺が判断する」
「待て。百代は巻き込めん」
「ではお前が契約するのか? その弱りきった精神で? 無理だ。取り込まれて枯れる。結局は俺が殺す。全てはわかりきったことだ。それとも別の案があるのか? どうなんだ、答えがあるなら言え」
一際泥が呻き声を上げて大きく躍動した。それは何かに突き動かされて震えている。目の前の男の、天音椎珂という人物をトレースしている。
「言えないか。そうだろう。今この世にソレを扱える者はこの川神百代を除いていない。全ては決まりきっていた。だから、川神百代、君に問う」
最初から鉄心は眼中に無い。無意識にそれを感情だけで表に示し、彼は百夜を真正面から見つめる。
「死の味を知りたくはないか。血の中の絶望を飲んでみたくはないか。悪の悪に成り果て枯れてしまわないか。俺は君を望んでいる。受け入れたくば契約せよ。川神百代。君は悪魔に成り果て世の混沌に堕ちて壊れるのか」
足元の泥が意思を持って動く。泥は百代を囲い、足に纏わり着き、段々と体を張って登ってくる。悪寒が止まらない。膝が笑う。何かが、入ってくる。
「受け入れるか。清い判断だ。俺は君を評価する、川神百代。君は人間で初めてその身に呪いを背負ったのだ」
必死に息をしようとする口に、泥が飛び込む。鼻に、耳に、ドス黒い泥が入ってくる。
強烈な嘔吐感。しかし、泥に押し込まれ胃酸ごと体内に戻される。自分の中に、何かが入ってくる。ドロドロとした、冷たくて、怖くて、固くて、
「喜べ人間。今ここに契約は完了した」
刹那に、ごぼりと体内から泥が溢れ出し、百代はそこで意識を失った。
「素晴らしいな。これが現代最強の者か」
足元で静かに横たわる百代を眺め、彼は言った。しかしその声に賞賛の響きは全く無い。ただひたすらに無感情で無感動な音がした。
「総代、これで契約は全て完了だ。これで川神と天音の因縁は全て断ち切れた。後は好きにしろ。天音を憎もうと妬もうと貶そうと全ては自由だ。ただ、川神百代はこちらで身柄を預からせてもらうが」
因みに物語の根幹には“悪魔”と“天使”が関係してる。
あと、もう続きはないです。