プロローグ
耳障りな
誰のモノかはわからない。
ただ、酷く不快な音であることだけがわかる。
“何か”が
屍が無限に、血の染み渡るどす黒い大地に横たわる。
山となり、突き立てられた剣が、槍が、矢が。既に息絶えた彼らの墓標となる。
1人の男がいた。
その姿は朧気で、時折蜃気楼の如く揺れる。
今にも消えてしまいそうな儚い影が、丘の上で沈み行く夕日を見詰めていた。
そう、
◆
夢。
これは、夢。
そう、これは、夢。
ぼんやりと思考が戻ってくる。
あちら側に飛んでいた意識がこちら側へ。
そして徐々に体の感覚も明瞭となってくる。
「先輩」
声が聞こえる。優しい、やわらかい声音。
「先輩」
ふんわりと、甘い匂いがする。何だろう、すごく落ち着く。
「起きてください、先輩」
「ふぁっ…………ぁ?」
ゆさゆさと肩を揺らされ、ぱっと目を開けた。急激に飛び込んで来る照明が眩しすぎる……。
「…………あふ……?」
「おはようございます、先輩。お昼から硬い床でご就寝とは面白い趣味をお持ちですね」
重力が、重い。
ようやく動くようになった体に力を込めて、ゆっくりと起き上がる。
いつの間にか寝ていたらしい。しかも床で。凝り固まった肩や首が尋常でなく痛い。あと腰も若干。この歳から腰痛は洒落にならない。
「先輩、お体に支障はありませんか? 流石に床で寝るとなると関節に負荷がかかるので推奨はできないのですが」
そう言えば、と思い至り横を見た。そこには可愛い女の子が1人、こちらの顔を覗き込むように首を傾げていた。先程からずっと隣にいるのだが。
「……君は?」
「はい、マシュ・キリエライトです」
淀みのない返答。記憶にその名前は該当なし。
「えっと、初めまして……だよね?」
「はい、初めましてになります」
ああ、うん。やっぱり。そうだよね。
薄く笑いながら肯定するマシュ。眼鏡をかけた、知的な雰囲気漂う女の子だ。
「――そう言えば先輩、今は立てますか? 土足の場に座り続けるのは衛生的によろしくありませんので」
睡眠をとるのはもっとですけど、という小さな言葉を聞き逃すことはなかった。どうやら今の今まで床で寝てたらしい。
差し出されたマシュの手をとってゆっくり立ち上がる。年甲斐もなくマシュマロみたいにやわらかい肌触りにどぎまぎしてしまった。
「外傷は特になし……怪我ではないようですね」
「あ、うん、大丈夫……」
「質問なのですが、先輩は過眠症と診断されたりした経験はありますか?」
「うぅん、全く。持病もないし」
首を横に振って否定。するとマシュはこう言った。
「そうなると外的要因によるものでしょうか。外部ストレスが原因かもしれませんね。至急医務室に向かいましょう」
「え、大丈夫だよ……多分」
「確証がないのであれば放置は危険です。早期発見こそが予防への近道ですから」
連れられるままにマシュに手を引かれて行く。
歩いて行く廊下は殺風景だった。白い床と壁と天井、規則正しく配置された照明が並び、等間隔に柱が建っている。円周状になっているであろう湾曲した通路は窓もなくて、時折赤いロゴマークが壁にペイントされているくらい。映画とかで出てくる近未来の研究施設を彷彿とさせる光景だ。
「……ねぇ、マシュ」
歩く間は無言で、その沈黙を嫌って思わず口を開いた。
「はい、先輩。何か質問ですか?」
「その、何で先輩なの?」
問いに対し、しばらくマシュは閉口した。
「……先輩は、わたしが今まで出会った人達の中で、とても人間らしいと感じました。寝顔も穏やかで緊張感が無く、目が覚めた時からぼんやりしてます。とても好感が持てました」
それは完全に油断してるところを見ているだけなのでは、と思わずつっこみたくなる。
「ふふっ。そういうところが人間らしいから先輩なんです」
マシュは朗らかに笑った。その笑みを見て、悪くないと思う自分がいることに気付く。
先輩。そう呼ばれるのは、
「ッ!?」
「先輩?」
待て。
待て。
今。
今、何故、
わからない。何故、わからない。
覚えがない。
先輩と呼ばれたのはマシュが初めてのはずだ。そうでなくては可笑しい。ずっと今の今まで“先輩”と呼ばれる生活なんてしてこなかったから。
魔術師だから。平凡な一般人ではなく、魔術師としてそこそこの生活をしてきたから。
「 ぁ れ 」
魔術師。
魔術師?
魔術師って、何だろう?
わからない。
今までのことが、全て、わからない。
何もかもが、忘れ去られてしまっている。
記憶が、空っぽだ。
「ぁ、ぁぁ、あぁぁっ!?」
「先輩っ、大丈夫ですか!? 先輩っ!!」
こわい。
何もない、何もない、何もない!!
わからない。何もわからない。何もかもを忘れてしまった!!
「ちがっ、私は、っ、まじゅ、つ、し……、」
私は、私は、私は、何だ。
私は何だ。
私は、私は。
私は、私は私は私私私私私私私私私私私私私私は何は私ははは何何何、私は、私、何、だ、何、、、、、
「過呼吸……、落ち着いて下さい先輩っ、深呼吸をして、ゆっくりと……!!」
思い出せない、何もかも、わからない、何だ、何故、私は。
「……マシュ?」
ぼうっと視界が明るくなる。気がつけば、マシュが力一杯抱き締めてくれていた。
「ま、マシュ、苦しいよ……っ」
ぽんぽんと背中をタップ。ようやく腕の力が抜けて自由になった。
「……先輩……、」
「……ごめん」
「……いえ。良かったです。急に倒れたので心配しました。今でもすごく心配です」
ほっとマシュが胸を撫で下ろして、今度は優しく腰に腕を回してくれた。鼻孔をくすぐる甘い髪の香りに、思わず安心してしまう。
「……ねぇ、マシュ。私、どうなったの?」
「……突然立ち止まった後、頭を抑えて踞りました。過呼吸の症状も出ていて顔色も悪かったものでしたから……その後気絶してから今に至ります。ほんの数秒でしたけど……」
「急にごめんね。何も思い出せなくなって、混乱しちゃったの」
「何も、って……先輩、記憶に障害が……!?」
今でもそうだ。目が覚める前の記憶が全くない。子供頃の記憶も、友達の顔も、昨日までのことも。
そこはとても真っ暗で、何もない。本当に虚無だけが広がる真っ黒な記憶だ。
「大丈夫。大丈夫だよ、本当に。今度は、大丈夫、大丈夫だから……」
自分に言い聞かせるように、震える腕を抑える。
「すぐに医務室に行きましょう。何かあってからでは遅すぎますから」
マシュが手をとって強くそう言った。その言葉に頷く他なく、素直に従うことにした。
「――――マシュ、ここにいたのかい。捜したよ」
「レフ教授っ」
不意に後ろから男の人の声がした。振り向くとそこには現代からすると少々古くさい……中性ヨーロッパ貴族を思い浮かべるような装束に身を包んだ男性がいた。
「……君はマスターの子か。マシュと一緒ということは以前に面識があったのかな?」
「いえ、教授。先輩とわたしは今日が初対面です。先輩が通路に倒れていましたので、医務室に案内しているところです」
「倒れていた? もしかして、霊子ダイブシミュレーションの影響かな? 表層意識が覚醒しないまま外に出たのかもしれないね」
「……教授。その影響なのかは不明ですが、先輩の記憶に障害が発生しています。霊子ダイブ以前の事を覚えていないと」
マシュの言葉に教授と呼ばれた男が首を傾げる。
「記憶障害が……? ふむ、今までにない結果だ。医務室で安静にしているのが良いだろう。この後はマスター向けの説明会だが、所長にはこちらから説明しておこう」
「お願いします。わたしは先輩を医務室に案内して来ますので」
そこで男とは別れた。マシュとは知り合いだったらしい。
「マシュ、今の人は?」
「レフ・ライノール教授です。ここカルデアの中枢システムを造り上げた方ですよ。っと言っても先輩にはまだ詳しい説明をしていませんでしたね。医務室で休憩がてらお話しします」
レフ・ライノール。彼も気になるし、そう言えばここが何なのかも記憶にない。マシュはカルデアと言っていたが、心当たりはなし。その辺りは後に説明があるだろうということで今は聞かないことにしておいた。