新・うっかり女エミヤさんの聖杯戦争(完) 作:EKAWARI
おまたせしました。
今回は大河メインの外伝で、次回から漸く終章突入です。
2月12日、朝の5時頃。
漸く夜が明け始めるそんな刻限に、彼女は自宅にある道場に、袴と胴着を身につけ立っていた。
深々と静謐な空気の中、右手には1本の竹刀。
比較的温暖な冬が訪れるとされる冬木市であったが、流石に如月半ばの早朝ともなれば、覆う風は冷たく澄んでいる。
しかし、却ってであるからこその選択であったのか、彼女は極自然な動作で丹田を練り、その手の得物をゆっくりと振り上げ、そして、正眼に構えて抜き放った。
竹刀が唸る。
まるでイキモノのように、しなる竹刀は色を変え形を変え、持ち主の思いのままに振舞われる。
その光景は、彼女が持つそれは竹で作った練習用のソレではなく、ともすれば、真剣を手にしての行いなのではないかと、そう素人目には錯覚させるほどの見事な動きであった。
明鏡止水の域にまで達している、というわけではない。
だが、それを連想させるほどにかの使い手の『剣』は美しく吼えた。
いうなればこれはただの素振りだ。
剣を上下に振っているだけに過ぎない。剣道に置いては基本の基本だろう基礎練習の1つだ。
けれど、これを見てそう切り捨てられる人間はいないだろう。
そこには型がある。
道がある。
研ぎ澄まされた美しさがある。
完成された基礎というのはそれだけで美しい。
故にこそ、今振舞われるその剣には不純物は混じっていなかった。
ふと、清澄な朝の気配の中、パチパチとそれまでとは異質な音がした。
それに気付き、剣をおさめてから、ゆるりと彼女は戸口のほうへと振り向く。
そこに立っていたのは時代錯誤とも言える和装に身を包んだ小柄でありながら強烈な迫力を持つ1人の老人。短く太い刀を思わせるこの家の大黒柱たるその人だった。
「おじいちゃん」
ふと、それまで纏っていた一種神聖ささえあった空気をかなぐり捨て、素になった声で彼女は呟く。
「よぉ、せいが出るじゃねえか、大河」
にっと笑って老人は、今まで竹刀を振るっていた彼女、藤村大河に向かってそう闊達に声をかける。
この小柄なご老人こそ、大河の実の祖父にして、藤村組組長たる極道の
縁側で孫と祖父は2人並んで腰をかける。
そこに水を入れる無粋な者はおらず、暫し2人だけである。それを解しているのだろう、大河は常には見せない憂い顔のまま、ぽつりぽつりと言葉を押し出した。
「おじいちゃんは、今何が起きているか知ってる?」
その孫娘の言葉が指すのは、最近冬木を悩ませている、柳洞寺の集団昏倒事件や、住宅街の集団消失事件のことなどについてだろう。
それに、やはりそのことで悩んでいたのかと思いつつ、変わらない顔を作ってサラリと雷河は口にした。
「さぁな」
よくわからないというニュアンスを込めた言葉。それはあながち間違いではない。
実際のところ、いかに極道の大親分であるとはいえ、今回のこれに関しては雷河の知ることではない。
わかるのは、これまで家族同然の付き合いをしてきた衛宮一家がそのことに関わっているということのみだ。
あの日、今より約2週間ほど前、あの男は言った。
もうすぐ裏で大きな事件が起きるだろうが関わるな、と。そして遺言のように続けて言ったのだ。
『僕が消えたら、後の事はよろしくお願いします』
否、遺言のようにではない。あれは正真正銘の遺言だった。そしてそれを受けた。
そのことは2人だけの秘密だ。
男の約束というのは墓場まで持っていくものだ。
だからそれをたとえ誰が相手だろうと口にすることはない。
大河が切嗣に惚れていたということは知っている。それでも話すことはなかった。
だが、きっとおそらくは大河とて切嗣が死ぬだろうと、それを知ってはいるのだろうとも思う。
でもそんなことを思いもしないかのように大河は「そう」と口にしてそれから愚痴るというにはあまりに静かな口調でポツリポツリと言った。
「8人死んだの」
学校で。
そこは口にせずそう言って、大河は続ける。
「校舎が老朽化していたんだろうって、そんなことで、そんな理由でね。みんな良い子だった。良い子ばかりだったのに。学校は休校になったけどもうずっと職員会議ばかり。今日もずっとそんな話し合いなの。それでね」
まるでたどたどしい小さな子供のような口調で、けれど押し殺すような声音は大人のもので、そういう風に何物にもならない愚痴を大河は続ける。
答えを欲しいわけではないのだろう。ただ、口にしなければやりきれない、それだけのことだった。
だからこそ、雷河も相槌を打つでもなく、言葉を差し挟むでもなく、孫娘の言葉をただ聞いていた。
「三枝さんが今度はいないんだって。確かに先日までいたはずなのに、急に部屋から消えたんだって。それから、後藤くんも…………」
どうしてそうなったのかなど雷河とて知らない。
「見つかったのは血痕だけって」
だが、それはもう死んでいると同義。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだよ、大河」
億劫であるかのように装って口を開く。
孫たる娘は震える声を押し殺しながら、それでも笑顔を、いつもの笑顔を作ろうとして、失敗しながら言った。
「切嗣さんたちは此処に帰ってくるよね?」
それは叶うことのない言葉。
衛宮切嗣。あの男と出会ったのは今から10年前のことだった。そう雷河は回想する。
丘の上の屋敷を買い取りたいと言い出したおかしな男。
そうあの時、出会ってから少し後にもこういう事件があった。
子供の連続誘拐殺人事件に、港場の倉庫街爆破事件に、ホテルの爆破、おまけに最後にはトドメのように500人程の死傷者が出たあの大災害。
被害の内容こそ違えど、今の状況はあの時とよく似ている。
それと切嗣は、いやあの一家は関わっているのだろうと思う。
関わっているからこそ、自分達に迷惑をかけないよう近づかないように言ったのだから。
そう、10年前出会った時の切嗣。
ギラギラとどこか追い詰められたかのような冷酷な能面であるかのような顔をしていたあの男が、一体あの時何をしていたのかはしらない。
けれど憑き物が取れたかのように、次にあった時にはそんな危険な生気は消えていた。
極道を纏めてきた雷河でさえ凍りつかせるようなおかしさを秘めた男は、まるで死病を患った獣であるかのように成り果てた。そう思う。
どちらにせよ、堅気とは程遠い男であるのは確かだ。
そんな男に大河が惹かれたのは、ひょっとすれば自分の血筋であるからかもしれない。
それを哀しいと思うべきか、アレだけはやめておけと嗜めるべきなのか。
まあ、それらの印象を承知の上で、あれは「コワい男」だと知っての上で仲良くしている自分は、大河にとやかく言える立場ではないが、さておそらくは確実に死ぬだろう男が帰ってくるか来ないかどう孫娘に答えてやるべきなのか。
下手に希望をもたせないほうがいいんじゃねえのかと思いつつも、口を付いて出たのは反対の言葉だった。
「なんだよ、自信ねえんだな。オマエはあいつらが帰ってくるって信じてないのか?」
「信じているよ。信じてるの。だって、切嗣さんは約束してくれたもん」
その言葉に嫌な予感がした。
「また会えるのかって聞いたとき、笑って「当たり前だろう?」って答えてくれたんだから」
それに、雷河は眉を潜め一瞬だけ息をつめて思う。
(罪深い男だな、切嗣)
出来もしない約束をして、それが破られた時まわりがどう思うのか、どう感じるのかわからないはずはないだろうに、なのにそんな希望を持たせる言葉を吐いて、一体うちの孫娘をどれだけ振り回すつもりなのだと、憤慨ではなく憐憫でもって老人は年若い友人を想う。
あれは、昔から人の機微を解さない男だった。
否、感受性は寧ろ豊かなほうだ。繊細でもある。
しかし、アイツは周囲の気持ちを本当の意味では理解出来ない男だった。そう雷河は思っている。
人はアレを「子供のような男」だと称す。
だが、雷河から言わせれば、あれは子供のような男ではない。「子供のまま大人になった男」なのだ。
感情も理論も子供のまま、知識と身体ばかりが大きくなった子供。
だからこそ、アレは浮世離れしている。
だからこそ、アレはある意味綺麗なままなのだ。
人は大きくなれば、次第に綺麗なままではいられなくなる。人の醜さや汚さも知る。
そして己の小ささもまた知る。
けれど、アレは人の醜さや汚さを見ておきながら、それでもそれらの醜いものを人間の本質とは思わず、それらの醜さが例外なだけで人はやはり綺麗なものなのだと、そう思っているのではないかと雷河には思えてならないのだ。
夢見る子供。
それが大人の形を取っただけなのではないかと。
それでも、そんな男を気に入って傍に置いたのも、付き合い続けたのも自分だ。
だからこそ大河に何かいえるような立場じゃあない。
あの男だけはやめておけ、と孫を本当に思うなら言うべきだったかもしれない。
けれど、自分は言わずにここまできた。
なら、余計に後で孫の心の傷を深めるだけだろうと思えても、自分が口にする言葉も1つしかなかった。
「じゃあ、落ち込んだ顔はもう仕舞いにしな」
素っ気無く聞こえる声で言う。
「テメエのところがアイツラの帰る場所なんだろ? なら、笑いな。オマエの笑顔がアイツラには一番の馳走さ。オマエがいつまでもそんな顔してっと、湿っぽくてかなわねえや」
予感がある。
確信とすら言える。
切嗣はきっと帰っては来ない。
それでも、1人じゃない。
アイツは無理だとしても、それでも士郎やイリヤ、シロがいる。
切嗣が帰ってこない時点で大河の願いは1つ確実に叶うことはないだろう。
けれど、残った家族を迎え入れるのは、それは大河の仕事だろう。
だからこその言葉、それが孫娘に正確に伝わったのかまでは知らない。
それでも、大河は、それまで纏っていた湿っぽい不安げな表情を振り払って、雷河に向かっていつものような太陽の微笑を浮かべ、「うん」といって笑った。
「ありがとう、おじいちゃん」
「よせよ、俺は何もしちゃいねえ」
いつもの笑顔、それを取り戻しながら笑い、大河は言う。それにそっけなく雷河は返す。
だけど、そんな祖父の照れなど気付いているのだろう。大河は明るく暖かく笑いながら「ううん、楽になったからお礼」そういって跳ねるように身体を起こした。
「みんなが帰る場所は此処だもんね」
「そうだな。帰ってきたら、いつもどおり振舞ってやりな。きっとそれが一番喜ぶ」
「うん、うん」
大河は笑ったまま、気付けば少し涙ぐんでいた。
その涙をそっと見ないフリをして、雷河は庭へと目線をやる。
そうして2人で青い空を見上げた。
大河と雷河が彼の『家族』と再会するのはこの3日後、全てが終わった後のことだった。
了