【完結】桜吹雪の季節に   作:瑞穂国

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ついに、最終回・・・

長かったけど、楽しかったなあ

でもちょっと寂しいような

とにかく、最後まで妄想全開、突っ走りモードです

今回もお付き合いいただけると・・・


航跡Ⅴ

五、

 

「終わっ・・・た・・・!」

 

アルバムに、最後の一枚を張り付けたわたしは、夕焼けに変わりつつある執務室のこたつで伸びをしました。柔らかい光に満ち満ちていく空間には、わたしと司令官だけがいます。

 

朝から続けていたアルバムの整理は、なんとか今日中に終わらせることができました。十二冊も積み上がったアルバムは、どこか誇らしげに、こたつの横と天板に鎮座しています。その上を、オレンジ色をした光がそっと撫でていました。

 

「・・・こう、改めて色んなことがあったんだな」

 

最後に積み上がった三月分の表紙に触れて、司令官が感慨深げに呟きました。

 

「一年もすれば、色々ありますよ」

 

「それもそうだな」

 

顔を見合わせて笑います。

 

「これからもよろしく」

 

「はい!こちらこそ!」

 

二人で、考えることは同じ。暖かくて、くすぐったくて、まるで春の夕焼けの風に吹かれたような気分です。

 

「夕御飯まで、少し時間がありますね」

 

時計を見上げたわたしは、針を確認しました。

 

どうしようかな。ゆっくり司令官とお喋りとか。やりたいことはいくつもあって、多すぎて逆に何も浮かびません。

 

「なあ、吹雪」

 

「はい?」

 

しばらくの沈黙があった後、司令官はことさらゆっくり口を開きました。

 

「少し、デートしないか?」

 

・・・。

 

よし、まずは落ち着いてわたし。

 

デートとは?男女の逢い引きのこと。

 

今、司令官はデートに誘った?イエス。

 

導き出される答えは―――

 

「ふえっ!?で、デートですかっ!?」

 

「ま、その辺ブラつくだけだけどな」

 

本物のデートは、また別の機会にな。そんな台詞を、さらりと言ってしまうんですから・・・。

 

―――司令官のバカ。

 

その時を楽しみにしていますからね。

 

「はい。行きましょうか」

 

 

 

鎮守府の中で、わたしたちがブラつくところは限られます。工廠やドックが並ぶ区域は、埠頭が整備されていますが、その横、鎮守府のはずれは、真っ白な砂浜が広がっています。わたしと司令官は、その砂浜に立っていました。

 

「冷た・・・っ!」

 

少しずつ暖かくなっているとはいえ、まだこの季節の海水は冷たいです。靴を脱いで、素足に白砂の感触を楽しんでいたわたしは、寄せた波から足を引きました。

 

「司令官も、どうですか?」

 

「冷たいところにわざわざ浸けるのか・・・」

 

「気持ちいいですよ?」

 

「そっか」

 

司令官が笑いました。

 

「今年は、みんなで海水浴しような」

 

「司令官、水着見たいだけですよね?」

 

ジトーと半目で見つめます。

 

「ち、違うぞ」

 

「何が違うんですか」

 

「確かにみんなで遊ぶのは楽しい。水着も見てみたい。だが、えっちな目で見たいのは吹雪だけだ」

 

大真面目な顔で何言ってるんですかこの人!?憲兵さん事案ですよ、完全なセクハラです!!

 

「・・・わたし、過去最高に身の危険を感じました」

 

「まあ、それは小粋なジョークとして」

 

ジョークじゃすまされませんよ。ていうか、完全に目が本気だったんですけど・・・。

 

「やっぱりさ、楽しいことをみんなでやったら、なんていうか・・・嬉しくなる」

 

「・・・そうですね」

 

返ってきた、意外とまともな答えに、わたしも頷きます。

 

この一年、思い返すだけでたくさんの楽しいことがありました。新しく、何かを言い募る必要はないですね。積み上げられた十二冊ものアルバム。そしてそこに収まらないほどの、わたしの心と想い。その傍らにはいつも―――わたしの愛する司令官がいました。

 

波の上を吹いていく風に、ゆっくりと目を閉じます。手を広げ、体全身に涼しい風を浴びました。朝よりも肌寒いでしょうか。夕陽に輝く海面は、朝陽よりも優しく、慈しみに溢れ、それでもどこか哀愁を感じさせました。

 

「・・・綺麗だ」

 

背後でポツリと呟いた司令官を、わたしは振り返りました。夕陽を背負ったその表情は、先程とは打って変わった穏やかなものです。優しい眼差しに、わたしは頷きます。

 

「はい。綺麗ですね、夕陽」

 

「・・・あー、まあそれもなんだがな」

 

司令官は夕陽に照らされる海を―――いえ、その手前にいるわたしを、見つめていました。

 

「吹雪が、綺麗でな。夕焼けでオレンジになった海が、よく似合う」

 

「ふえっ!?」

 

と、ととと、唐突すぎて変な声が・・・!!い、今までも、可愛いと言われたことはありますが・・・これは不意打ちもいいところです!!む、無理、頭がパンクする・・・!

 

景色が夕焼けで幸いでした。暖色の光が、きっと真っ赤になっているわたしの頬をごまかしてくれます。ただ逆に、その幻想的な光の反射が、わたしの胸を高鳴らせ、口から水分を奪っていきました。

 

「・・・司令官はずるいです」

 

司令官のせいで、わたしは振り回されてばかり。その言葉だけで鼓動が早くなり、見つめるだけでどうしようもなく歯がゆい。

 

これだけたくさんの想いを、わたしはあなたに伝えられていますか。わたしのこの手は―――あなたに届いていますか。

 

「率直な感想を述べただけなんだが・・・」

 

「普段変なことばっかり言ってるからです」

 

「それもそうだな」

 

気のせいでしょうか、司令官の頬も赤く、どこか照れているような。

 

こほん。改まった咳払いの後、

 

「・・・こういう時しか言えないけどさ」

 

海から引き上げたわたしを、司令官はまっすぐな眼差しで見つめていました。ピタと動きを止めたわたしたちは、一メートルほどの距離で対峙します。

 

「愛してる。吹雪のこと」

 

直球ど真ん中。飾り気のない、わたしに向けられた豪速球。いつもの変則的な配球からはかけ離れた、真摯で、熱くて、ほんのちょっぴりの緊張をはらんだ言葉。

 

見つめ合うわたしと司令官の間に、潮風の静けさと夕陽の幸福が流れます。いつもなら、恥ずかしさで顔から火が出てるところなんですけど。いえ、今も両の頬は、夕陽以上に真っ赤になっていますけど。きっとわたしたちは、いつにない柔らかな心持ちでした。それは、誰かを愛すること、誰かに愛されること。司令官が―――金剛さん、神通さん、大和さん、赤城さん、みんなが教えてくれた、わたしの一番大切なもの。一番、守りたい人。

 

だからわたしは、その眼差しに応えます。ゆっくりと、でも確かな意志で、わたしの想いを告げます。

 

「わたしも・・・愛してます、司令官」

 

 

そうですね。最後に話さなければいけないのは、もちろんわたしと、司令官のことですよね。流れていったこの一年を締めくくる、きっと忘れられない、

 

わたしと司令官の、記念日です。

 

 

 

その日、司令官は朝から、どこかそわそわと落ち着かない様子でした。書類の整理や昼食を挟んでの演習、遠征指揮。それらの最中もふっと気が抜けたり、わたしを見ては何かを考え込むような表情だったり。とにかく、いつもの司令官ではないことは、わたしでなくてもわかりました。

 

「吹雪ちゃん、提督は大丈夫?」

 

夕食中に、わたしの向かいに腰掛けた赤城さんも、その一人です。まあ、赤城さんは司令官との付き合いも長いですから、普段と違う様子なんてすぐにわかってしまうんだと思います。

 

「ええっと、執務中も、何度かわたしに言おうとしてたみたいなんですけど・・・その度に途中で止められてしまって・・・。こっちから聞きにくくなっちゃいました」

 

「重症ね。今まであんな風になったところなんて見たことないから」

 

「そうなんですよね・・・」

 

二人でうんうん唸りながらご飯を口に運んでいました。こうして誰かと話してみると、いかに司令官の様子がおかしかったか、余計にはっきりとわかりました。

 

「さすがに心配なので・・・ちょっと、聞いてみますね」

 

「そうした方がいいでしょうね」

 

そういうやり取りがあったので、食事を終えたわたしはお風呂に入った後、司令官の私室を尋ねました。

 

コンコン。小気味いいノックの音が廊下に響きました。

 

前にこの扉を叩いた時とは逆ですね。あの時は、わたしが司令官に話を聞いてもらいたかった。でも今回は、わたしが司令官の、話を聞きたいと思っています。

 

「どうぞー」

 

いつもと変わらない呑気な声に、少し安心しました。さっきまでの落ち着かない様子は、わたしたちの思い過ごし、かもしれません。わたしは何気なく、ゆっくりとドアを開きました。

 

「・・・吹雪か」

 

夕食後からそのままなのか、第一種軍装を上着だけハンガーに掛けた司令官は、何やら読書に耽っていたようでした。いつかの外出時にわたしが選んだ栞が、ちゃぶ台の上の文庫本の間に挟まれています。

 

「すみません、これからお風呂でしたか?」

 

部屋に上がったわたしは、薦められたクッションに座りました。

 

「確かに風呂はこれからだが・・・まあ、気にするな。もうちょっと本を読んでから入ろうと思ってた」

 

「そうですか」

 

「それで・・・何か用か?」

 

ちょっと突っぱねた言い方にムッとして、わたしはここに来た用件を話し始めます。

 

「司令官の様子がおかしかったから、気になって来たんです」

 

司令官の背中に、電流が走るのが見えた気がしました。図星だったみたいですね。

 

「・・・ばれてた?」

 

「赤城さんが心配して、わたしに相談しに来るくらいにはわかりやすかったです」

 

「マジか・・・」

 

わたしの言葉を聞いた司令官は、何やらうんうんと唸り、やがて身悶えし始めました。わたし、まだ何も言ってないんですけど。よっぽど、言いたくないことなんでしょうか。

 

「ううむ、だがしかし・・・やはり時間と場所が・・・」

 

意味のわからないことを呟いていました。時間と場所を選ぶような悩みなのでしょうか。

 

チラリと、司令官がこちらを伺います。その視線の意味がわからなかったわたしは、意味もなく首を傾げるしかありませんでした。

 

「・・・いずれは言わなきゃならんしな」

 

よし、と覚悟を決めたように、司令官がピシャリと頬を叩きました。

 

「吹雪」

 

「はい」

 

「今の錬度はいくつだ」

 

「?九八ですけど・・・」

 

先日の作戦中に、わたしの錬度は、最高値の一歩手前になっていました。

 

「そうか・・・もうすぐ、一年だもんな」

 

「早いですねえ」

 

季節は冬も終わりが近く、もう少しすれば春に―――わたしと司令官の出会った季節になります。

 

本当に、月日が経つのは早いものです。

 

「まあ、それで・・・だな」

 

ちゃぶ台の向かいに腰掛ける司令官は、いつかの演説以上に緊張した面持ちで、まっすぐに姿勢を正しました。反射的にわたしの背筋も伸びます。

 

「吹雪」

 

「はい」

 

「俺と・・・」

 

 

 

「ケッコンしてくれ」

 

 

 

この瞬間のわたしの頭の中は、文字通り真っ白の何もない状態になってしまいました。宇宙が突然、ビッグバン以前まで戻ってしまったような・・・って、わかりにくい例えですね。それほどの混乱に、わたしの思考回路がパンクしたのは言うまでもありません。

 

「あ、あの、けけけ、ケッコンって、どどういう」

 

動揺で裏返った声が、さらに震えてもう何がなんだかわかりません。

 

司令官は、咳払いを一つ。

 

「先日の任務報酬でな、こんなものが届いた」

 

司令官が取り出したのは、深い青の小さなケースと一枚の書類です。

 

「ケッコンカッコカリと言ってな、最高錬度になった艦娘と強い絆を結ぶことで、更なる錬度向上が見込めるらしい」

 

司令官の説明を聞くうちに、わたしの胸の高鳴りが萎んでいくのがわかりました。そう、これはつまり、

 

「色々悩んだが・・・やっぱり、吹雪に渡そうと思った」

 

―――記念に、ってことですよね。

 

任務で届いた、さらに錬度向上ができるアイテム。一つしかないそれを、一番最初からこの鎮守府にいる、わたしに。

 

もちろん嬉しいです。でも、ケッコンカッコカリという紛らわしいネーミングに振り回された自分が恥ずかしくて。司令官からの“仮初めのプロポーズ”に動揺していた自分が馬鹿みたいで。

 

「受け取ってくれるか・・・?」

 

司令官の問いかけに、辛うじて笑顔を保ちます。

 

「はい」

 

異論はありません。

 

「そうか?」

 

「そういうことでしたら。・・・記念でも、嬉しいです」

 

と、そこで司令官が、盛大にハテナマークを放出したことに気づいていれば。わたしの受けた被害は、もっと小さくて済んだのかもしれません。

 

わたしをしばらく見つめていた司令官は、なにかに気づいたようでした。その表情の変化に、わたしは首を傾げます。

 

「あー、そうじゃなくてだな」

 

頬を掻いた司令官は、もう一度真っ直ぐにわたしを見据えました。そして、

 

 

 

「俺は、お前が好きだ」

 

 

 

その日二度目の爆弾を投下しました。

 

「ケッコンカッコカリは、確かに艦娘の能力を高めるものだ。だから俺も、最初は戦艦や空母から選ぼうと思った」

 

司令官が言います。

 

「だけど考えて・・・やめた」

 

ちゃぶ台に置かれた小箱を取ります。

 

「この・・・ケッコン指輪を渡すのは、他の誰でもない。俺が好きで、一番大切にしたい人にだけだ」

 

開かれた小箱には、小さなリングが一つ、収まっています。シルバーが淡く輝くそれが、わたしにはどこか現実離れしたもののように思えました。

 

「俺は、吹雪が好きだ。これを渡したいのは、俺にとっては吹雪だけなんだ」

 

真剣そのものの眼差し。どこか、不安を帯びた瞳の光に、射竦められます。

 

「こんな俺でよければ、ずっと・・・一緒にいてほしい」

 

それは、最早勘違いのしようがない、プロポーズの言葉でした。わたしにでもわかる、明確な意思。

 

しばらくの沈黙がありました。

 

「・・・ダメですよ、司令官」

 

わたしはうつむいて呟きます。肩が震えて、今にも涙がこぼれそうになるのを堪えて。

 

「そんな・・・そんな理由でっ!大事な装備をわたしに渡しちゃダメです!!」

 

「吹雪、俺は本気で」

 

「ダメなものはダメなんです!!」

 

「っ!!」

 

わたしは勢いよく立ち上がりました。手をついたちゃぶ台が揺れます。それでも、わたしを覗き込もうとする司令官の顔を見ないように―――今のわたしの表情が、彼に悟られないように。

 

彼がどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。彼の目を見れば、この主張がすぐに折れてしまいそうで。わたしの私利のために、頷いてしまいそうで。支離滅裂な思考を無理やり繋ぎ止めて、扉を押し開き、廊下に走り出ます。

 

「失礼します!」

 

「吹雪!」

 

わたしを呼び止めようとする司令官の声を、無理やり頭から振り払い、長い廊下を、十一駆の部屋へと走っていきます。

 

途中、何人かの娘とすれ違ったような気がします。でも、気を留める暇なく、わたしはただひたすらに走りました。何度も何度も、足がもつれ、バランスを崩しながらも、涙がこぼれないように、力の限り。

 

辿り着いた部屋に、まだ同僚の姿はありませんでした。静かな部屋に、限界ギリギリだったわたしの目頭が決壊しました。

 

「う・・・うあ・・・うわああああっ・・・・っ!」

 

扉にもたれかかり、口をついて漏れ出そうになる声を噛み殺します。誰にも、知られたくない。どうしようもなく、とめどなく流れ出る涙に、内心の動揺が溢れて、より一層わたしの頬を濡らしました。なんとか体を起こして、ふらつく足取りで自分のベッドへと向かい、足元から崩れ落ちて柔らかなマットレスに体を預けました。

 

枕に顔を埋めてしまえば、どれだけ声を上げても、外に聞こえることはないから。

 

―――わたし、だって。

 

溢れる涙で枕が濡れます。

 

―――わたし・・・だって。わたしだってっ!

 

わたしだって、ケッコンしたい。司令官が選んでくれるのなら、大好きな彼に求められれば、その想いに応えたい。

 

わたしだって、彼のことが好きなんだから。

 

・・・ええ、そうです。わたしは、司令官が好きです。誰よりも、側にいたい、見守っていてほしい、そう思える存在です。でも、その気持ちに蓋をして―――気づかないフリをしていたのに。司令官の爆弾は、わたしの自分勝手な配慮を木っ端微塵に打ち砕いていました。

 

あの場から逃げてしまったのは、怖かったから。司令官の気持ちに応えられるかわからなくて、自分の気持ちがぐちゃぐちゃになって。

 

これは、艦娘に許されること?誰かを―――司令官を愛することは、わたしたちに許されていいの?

 

もう、なにもわからない。

 

 

 

「吹雪ちゃん、帰ってたんだ?」

 

しばらくすると、ゆっくり扉の開く音がしました。同時に、パチッと部屋の電気をつける音も。部屋に戻るなり寝てしまったわたしは、電気をつけるのすら忘れていました。

 

枕に顔を埋めていても、声だけでわかります。白雪ちゃんです。

 

「どうしたの?どこか体調悪い?」

 

心配するようにわたしのベッドに近づいてくるのがわかります。

 

「ううん・・・大丈夫。でも、今日はちょっと・・・早く寝たいかな」

 

本当は寝れそうもありません。でも、もしかしたら、一度寝ることができれば、このごちゃ混ぜになってしまった頭も整理できるかも、そう思いました。

 

「そっか。うん、わかった」

 

その後、初雪ちゃんと深雪ちゃんが戻ったときも、白雪ちゃんが説明してくれていました。黙っていても、何かただならぬ雰囲気を悟ったのでしょうか。

 

しばらくして、いつもより少し早く部屋の電気が消されました。

 

 

 

気づいたのは、朝になってからです。秘書艦になってからの癖で、皆よりも少し早く起きてしまいます。

 

あの後、わたしは眠ってしまったようです。それは、意外と早かったような気もします。でも、泣き疲れて眠ってしまったのか、寝ることで泣き止んでしまったのか、はっきりとはわかりません。

 

急いで鏡を確認したのは、なぜだったんでしょう。そこに映る自分の顔は思っていたほどひどくはありませんでした。目元が少し腫れている気がしますが、目立つほどではありません。

 

それから制服に着替えようとして、気づきます。

 

―――わたし、司令官から逃げてきたんだった。

 

どんな顔をして、秘書艦をすればいいんだろう。そもそも司令官は、これからもわたしに秘書艦を任せてくれるんでしょうか。

 

それでも、体が習慣的に、今まで繰り返してきた行為を行います。顔を洗い、身支度を整え、皆が起き出した頃に部屋を出る。

 

「いってらっしゃい」

 

三人から掛けられた挨拶は、いつもよりも優しい響きに満ちていました。

 

トボトボ、重いような、昨日の不安定さよりずっとマシなような、そんな足取りでいるうちに、わたしは毎朝司令官のいた執務室に辿り着き、たじろぎながらも扉を叩きました。

 

「どうぞ」

 

返事が返ってきました。いつもは返事などお構いなしに開けているのですが、今日はそれだけ、叩いてから間があったということでしょうか。

 

「失礼します・・・」

 

蚊ほどもない声でゆっくり扉を開けると、いつもと変わらずに、司令官は窓に向かって背伸びをしていました。振り返ってわたしの姿を認めると、両の手を下ろして微笑みます。

 

「来ないかと思ってたぞ」

 

その声音もまた、いつも通りでした。

 

帽子を整える仕種、書類を分類する手つき、何もかも昨日―――いえ、一昨日までと全く同じ。

 

それだけじゃありません。

 

朝食。執務。演習や工廠の見学。遠征の出迎え。何をとっても、代わり映えしない一日。昨日、あれだけのことがあったのに、いっそ憎らしいぐらいに、いつも通り。

 

―――なんで。どうして。

 

わたしは、こんなに司令官のことで頭が一杯なのに。結局、寝たぐらいで整理ができるわけもなくて。

 

夕陽の沈みゆく執務室。東に面しているここからは、夕陽に照らされていく海面が一望できます。その反射が差し込む執務室で、一日の総括を行っている司令官に、わたしの心は再び限界を迎えてしまいました。

 

「・・・どうして、ですか」

 

走らせていた万年筆を、司令官が止めました。

 

「どうして、そんなにいつも通りなんですか」

 

一度しゃべりだしたら、もう止まりませんでした。

 

「わたし!昨日あんなことを言ったのに!司令官の言葉に、ちゃんと向き合わないで、逃げたのに・・・っ!」

 

「吹雪、お前・・・」

 

再燃した目頭が、今にも残った滴をこぼそうとします。それを止める術を、わたしは知りません。

 

「なんで・・・なんで、そんな・・・!!いつも、通りにっ!!」

 

うまく吸えなかった空気にしゃくりあげると、後は流れるままです。脈絡も何もなく、心の赴くまま。

 

「わたしを秘書艦にしてっ!一緒に仕事をしてっ!演習も工廠に行くのも・・・っ!」

 

「吹雪、まずは落ち着け」

 

「好きですっ!!」

 

「っ!!」

 

「わたしもっ!わたしも司令官が好きです!誰よりも、あなたが好きです!!」

 

「・・・」

 

「でも・・・でも、怖くて・・・っ!司令官がわたしのこと好きだって言ってくれて。嬉しかったけど、怖くて・・・。司令官のことしか考えられなくなりそうで・・・!わたしが・・・わたしが一番じゃなきゃ、許せなくなりそうで・・・っ!!」

 

「・・・吹雪、」

 

「だから・・・だから・・・っ」

 

「吹雪!」

 

司令官の、はっきりとした声。涙でぐずぐずの顔を上げるのと、その視界が深い紺に包まれるのは同じでした。

 

背中に回された司令官の手が、ゆっくりと壊れ物に触れるように、優しく上下します。抱き締められている。その認識は、安らかな暖かさにさらに涙腺が緩んでから、やってきました。

 

必死に司令官の服にしがみついて、昨日も噛み殺していた声を、口から漏らします。その間中ずっと、司令官はわたしの背中を撫で続けていました。

 

「・・・大丈夫だ」

 

あやすような声で、司令官がわたしにも聞き取れる速さで話し出します。

 

「びっくりさせてしまったみたいで、すまなかった。俺は、吹雪の気持ちを全く考えていなかった」

 

ふるふる、制服に顔を押し付けて否定します。

 

「・・・ほんとは、今日一日一杯一杯だった。吹雪に悟られないように。優秀な秘書艦に幻滅されるような司令官には、なりたくなかった」

 

こんな状況なのに、可笑しさが込み上げてきました。涙が幾筋も伝っているであろう顔を上げて、笑ってみせます。

 

「もう遅いですよ」

 

「だな。吹雪には、俺のダメなところ、一杯見せてきたもんな」

 

「・・・それは、わたしだけに見せてくれてたって、思ってもいいですか」

 

「もちろんだ」

 

自信満々に答えられても困りますよ。そんな常識的なツッコミよりも先に、どうしようもない甘さが、私の心に染み込んできました。

 

「吹雪」

 

「はい」

 

「俺に、もう一度チャンスをくれないか」

 

チャンス。なんのことか、言わずもがなです。

 

司令官から一歩離れて、わたしは了承の意とします。

 

正直、頭の中は、まだまだぐちゃぐちゃで。でも、もう待てない。わたしにでもわかります。司令官をこれ以上待たせるのが、どんなに酷なことか。そしてそれ以上に、わたしがこれ以上待ち続けることができないことも。一度気づいてしまった気持ちにもう一度蓋ができるほど、わたしは強くありませんでした。

 

 

 

「吹雪。俺はお前が好きだ」

 

 

 

「司令官としての俺は、まだまだ未熟だ。側で支えてくれる人が必要だ」

 

 

 

「それは、吹雪しかいないと思っている。俺の隣に立っていてほしいのは、吹雪しかいない」

 

 

 

「いつまでも、一緒にいよう。だから俺と、ケッコンしてくれ」

 

 

 

司令官は、昨日と同じ、真剣な眼差しでわたしを見つめています。その表情に、その言葉に、再び涙がとめどなく溢れてきます。これ以上ない幸せに頭はぐちゃぐちゃを通り越して真っ白です。

 

「わたし・・・料理できませんよ」

 

「一緒に、作れるようになろう」

 

「どうしようもないぐらい、甘えん坊ですよ」

 

「俺でいいなら、いくらでも甘えてくれ」

 

「駆逐艦、ですよ」

 

「ああ。誰よりも勇猛果敢な、鎮守府最高練度の駆逐艦だ」

 

「わたし・・・艦娘ですよ。沈んじゃうかもしれないんですよ」

 

「俺がいる限り、誰も沈めさせない。艦娘だからって、何も縛るものはない。そんなことを言ったら、俺だって司令官だぞ」

 

淀みない答えに、わたしは満面の笑みで答えます。

 

「司令官」

 

「おう」

 

 

 

「わたしも、あなたが大好きです。不束者ですが、どうかよろしくお願いします」

 

 

 

陽光の消えゆく執務室。近づき、お互いに気づいた二つの影が、そっと重なりました。

 

 

「でも、まさか昨日を狙ってくるとは思ってませんでした」

 

浜辺から、食堂へと足を運ぶ道すがら、左手薬指に嵌められたわたしと司令官の誓いのしるしを光にかざして目を細めます。わたしの練度が九九に到達した昨日、司令官から手渡されたものです。その際、青葉さん―――のみならず、鎮守府の皆が大騒ぎになったことは、最早言うまでもありませんね。

 

「俺は意外と、記念日とかそういうのを大事にするタチでな」

 

昨日。それは、鎮守府が開設されてから一年の記念日。わたしと司令官が出会って、一年の記念日でもありました。

 

「えへへ。嬉しいです」

 

「そっか」

 

司令官が、どこか恥ずかしげに言ったのを見逃しません。

 

「あー、照れてますね司令官」

 

「照れとらん」

 

「わかってますよー」

 

「ぐぬぬ」

 

悔しげな表情の司令官に笑いかけます。

 

ふっと、朝同様に吹いた風が、わたしの髪を揺らします。肌寒さはまだありますが、震えるほどではありません。むしろ波を揺らすその風に、鎮守府からの暖かな気配が乗って心地良ささえ覚えます。

 

それは、司令官も同じみたいです。

 

「夕御飯、できてるみたいだな」

 

「いい匂いですね」

 

「今から楽しみだ」

 

夕闇近づく中を、わたしと司令官は並んで歩いていきます。司令官は歩幅の小さいわたしに合わせて、しっかり手を握っています。お互いの手のひらを通して、体温だけではない、もっと暖かなものが行き交っていました。

 

ぴたりと寄り添う、二つの影。わたしたちはこれからも、歩いていきます。隣にある温もりに手を伸ばし、支えあいながら、歩んでいきます。

 

一人じゃない。わたしたちは、二人で一人。あなたと一緒だから。

 

まだまだ小さなわたしの手を朗らかに包む司令官がいて、そんな彼を愛しく思えるわたしがいるから。

 

わたしは今、誰よりも幸せです。




これで完結・・・!!

と、思ったのですが

すみません、長くなってしまうので最後からカットしたエピソードを最終話として投稿したく・・・

そっちは、明日になりそうです、すみません

ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。終始作者の妄想百パーセントでしたし、読みにくい点多々あったと思いますが、楽しんでいただけたなら、これ以上に嬉しいことはありません

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