布団の中、寝苦しさを感じたネロは目を開けた。カーテンの隙間からうっすらと光が入っていることを見ると、太陽は顔を出しているようだ。
「あー……」
上体を起こしたネロは頭を掻きながら小さく呻く。まだ明け方というのに意外と部屋の温度は高かった。昨夜は寝る前にエアコンのタイマーを設定して就寝したのだから、エアコンが切れるのは当然なのだが、朝からこんなに暑いのは正直想定外だった。これならつけっぱなしでもよかったのではないかと思うほどだ。
一応、時間的にはもう一度寝ることができるかもしれないが、こんな状態で寝る気にはなれなかったネロは一度立ち上がった。
(水でも飲むか……)
この暑さのせいか、だいぶ喉が渇いている。冷蔵庫の中に確か水かが入っていたと思い出したのだ。
「あぶね、最後の一つかよ」
冷蔵庫を開けたネロが残り一つとなったペットボトルの水を取り出しながら言った。他にもお茶などが何本か入っていたのだが、昨夜夕食から戻ってきた後にみんなで飲んでしまったのだ。一応、ビールなどのアルコールの類は残っているが、さすがにそれを飲もうとは思わなかった。
(できればエアコンつけたいけどなあ……)
ペットボトルの水を一気に三分の二ほど飲み干しながら胸中で呟く。ネロとしてはもう一度冷房を着けたいと思っていたのだが、フェアやミルリーフなどは掛け布団をせずに寝ていたため、彼女達のことを考えて遠慮しているのである。
こうなっては、もう一度寝る選択肢は完全に消えたため、ネロは一度洗面所に行って顔を洗うことにした。
「さて、あいつらが起きて来るまで何するか……」
時刻はまだ六時前、朝食まではまだ時間がある。ブルーローズの整備をしようにも、そもそも今回はそうした商売道具は持ち込んでいない。さらにテレビは寝ている者を起こしてしまう恐れがあるので、あえて見ようとは思わなかった。
そんな風に悩みながら、ネロは残った水を飲みつつ洗面所を出るとちょうどエニシアと鉢合わせになった。
「お兄ちゃん、おはよう……」
どうやら彼女は寝惚けていたせいで、羞恥心を感じず言えなかったことが言えたようだ。
「……お、おう。どうしたまだ起きるには早いぞ」
「少し喉が渇いちゃって……」
それを聞いたネロは渋い顔をした。冷蔵庫に残った最後の水は今しがたネロがほとんど飲み干したばかりなのである。
「あー、悪い。最後の一つは俺が飲んじまったんだ」
「い、いえ。お気になさらず……」
だいぶ覚醒してきたらしいエニシアは普段のように敬語で言うとネロはすぐ代替案を出した。
「なら買いに行くか。確かロビーに自販機があったはずだし」
この旅館に入ったとき、四台ほどの自販機が並んであったのをネロは覚えていた。一台は缶ビールを販売しているものだったが、他の三台のいずれかには水くらい売っているだろう。
「は、はい、行きます」
「……行くのはいいんだが、せめてその格好はどうにかしろよ」
これまで見ないふりをしていたネロだったが、エニシアはいつまで経っても気付かなかったので、やむを得ず言いにくそうに顔を背けながら言った。
「え? ……っ!」
エニシアはその言葉で自分の体を見た瞬間、顔から火を噴きそうな程真っ赤になってしまった。なにしろ彼女の着ていた浴衣はかなり着崩れており、帯こそ締めているものの、ほとんど浴衣を羽織るだけに近かったのだ。当然下着なども露になっていた。
その場で後ろを向いて慌てながら浴衣を直すエニシアを極力視界に入れないようにしながら、ネロは自分の財布を取りに行った。この旅館の宿泊費やフェア達が購入したお土産の元手となった軍資金は全てバージルが出したものだ。どうやら彼はリィンバウムで買い集めた貴金属類を売って相当な資金を手に入れたらしく、何の文句も言わずに今回の費用一切を出したのだ。
もっともネロはあらかじめ日本円を準備していたため、バージルに頼ることはなかったが。
それからエニシアが落ち着くまで数分を要したものの、二人は部屋から出てロビーに向かっていた。彼らの泊まっていた部屋はロビーのある本館ではなく、連絡通路で繋がった別館にあるため、少し歩かなければならなかった。
そして通路を歩いていると、ちょうど窓越しに太陽が山の間から昇ってきたところだった。
「わあ……きれいです」
エニシアは立ち止まり目を輝かせてその様子を見ている。日の出自体を見るのはこれが初めてではないが、普段とは違う場所、違う雰囲気のもとで目にする日の出はいつも以上に違って見えたようだ。
「日の出か、いいタイミングだったな」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をしたエニシアを引き剥がすわけにもいかず、少しの間日の出を堪能してからロビーに向かうことにした。
「……で、どれにする?」
そして目的の自動販売機の前まで来たネロは隣のエニシアにどれを買えばいいのか尋ねた。
「えっと……」
彼女の目の前にある一台だけでも三十種類以上の飲み物が売っている。それがビールを売っている一台を除いても三台あるのだ。悩んでしまうのは仕方のないことだろう。
そして一分ほど大人しく待っていたネロだったが、一向に決まりそうになかったため助け舟を出すことにした。
「……ジュースとかの方がいいのか? それとも水にするか?」
「あ、えっと……ジュースでお願いします」
「ジュースね。炭酸飲めるのか?」
少し恥ずかしそうにいったエニシアにネロはさらに尋ねる。炭酸が苦手でどうしても飲めないという人もいるため、これは確認しなければならないことだった。
「たんさん……?」
「えーと、あれだ、飲むと口の中がしゅわしゅわするやつ」
「あ、それはちょっと苦手です」
炭酸という言葉の意味が分からなかったエニシアだが、ネロの擬音語を使った説明で何とか理解できたようだ。実際のところ彼女は昨夜の夕食の折、ジュースとして出されたコーラを飲んだのが、口の中が刺激される感覚にどうしても慣れず、最初の一杯以外はオレンジジュースやウーロン茶を飲んでいたのである。
「ならこのあたりでいいんじゃないか?」
ネロが示したのはオレンジやりんご、ぶどうなどの果実系のジュースだった。これなら炭酸が苦手というエニシアでも問題なく飲めるだろう。
「じゃあ……これで」
「ああ。……せっかくだしあいつらにも買ってくか」
エニシアが指し示したりんごジュースを買ったネロは次いでキリエ達の分も買っていくことにした。エニシアがそうだったように起きてきて何か飲みたいと思う者がいるかもしれず、いなかったとしても少しくらい多く買っても問題ないと思ったのだろう。
「あ、私持ちます」
「おう、悪いけど頼む」
部屋にいる者の分まで買うとなるとさすがに片腕しか使えないネロが全て持つのは無理な話だ。それを分かっているエニシアは自分が持つことを申し出ると、ネロはその好意に甘えることにした。
そうして水やお茶、ジュースなど買った二人は部屋に持って帰る前にロビーに置いてあるソファで少し休んで行くことにした。景色がいい窓際のテーブルを選び向かい合って椅子に座った。
ネロは足を組んでソファにふんぞり返りながら自分用に買った缶コーヒーのふたを開けて軽く一口飲んだ。エニシアも同じように買ったペットボトルのキャップを開ける。
「あの、それって何ですか?」
「ん? ああ、コーヒーだよ。飲んでみるか?」
ネロの飲んでいるものが気になったエニシアが尋ねると、組んでいた足を戻して缶コーヒーを振った。
「は、はい。いただきます」
せっかくの提案だし、好奇心もあったエニシアはネロから手渡されたコーヒーを一口飲んでみることにした。
「……お、おいしいです」
一口飲んでエニシアはそう言うが、明らかに苦みを堪えている顔だった。ネロはそれ見ると苦笑しながら口を開いた。
「無理すんなって、苦かっただろ。お前にはもっと甘いやつの方がよかっただろうな」
ネロが買ったのはブラックコーヒーだったのだ。直前まで甘いジュースを飲んでいたエニシアにとっては、コーヒーの苦みはより強く感じられたことだろう。
「……ネロさんは平気なんですね」
ジュースで口直しをして一息吐いたエニシアが言った。彼女にとってブラックコーヒーなどとても飲めるものではなかったのである。
「まあな、しばらく飲んでいれば慣れるよ。……ところでお兄ちゃんとはもう呼ばないのか?」
ネロは後半にやりと意地の悪い視線を向けながら言った。起きたばかりのエニシアはネロのことをそう呼んでいたにもかかわらず、今は「ネロさん」呼びだ。どうやらいまだ心の準備は整っていないらしい。
「えっと、それは……」
エニシアは顔を赤くして言い淀んだ。彼女自身も自分がなぜあの時は言えたのかよく分かっていなかったのだ。その様子を見てネロは笑いながら言う。あまり彼女を困らせるつもりはないのだ。
「悪い悪い。そんな困った顔するなって」
「……お、お兄ちゃん!」
目を固く瞑ってエニシアは言い放った。ネロと一緒にいられるのもあまり長くはない。恥ずかしさから言いたいことも言えないのでは、後から絶対に後悔してしまう。そう思ったからこそ意を決して言ったのである。
「こ、今度からできるだけそう呼びますから……」
それでもやはり恥ずかしさは残るようで、顔を真っ赤にしながら俯いてしまった。
「……まあ無理しなきゃいいさ」
それを受けたネロは、彼女の言葉には多少は驚いたようでそう言うのが精一杯だったようだ。
それから二人はもう少しロビーで休んでから部屋に戻ると、もう既に他の三人は起きているようだった。
「あら、おかえり、どこ行ってたの?」
「ちょっと飲み物買いに行ってたんだよ、ロビーまで。とりあえず冷蔵庫の中に入れとくから勝手に飲めよ」
そう言うとネロは自分が持っていた分とエニシアに持っていてもらった分を冷蔵庫の中に突っ込んだ。
「ありがとう……ところで今日の予定ってどうなっているか知ってる?」
キリエも一応大まかな予定こそ聞いてはいるが、具体的な時間までは何も知らされておらず、バージルからある程度話を聞いていたネロに尋ねた。
「確か……、今日は夜に祭りがあるとかで、それ以外は自由だったはずだ。何かしたいことでもあるのか?」
もとより今回の目的はその祭りだけであるため、その他については完全に自由なのである。ネロとしては特にやりたいこともないため、キリエやフェア達に合わせるつもりでいた。
「またいろいろ買いたい物ができたみたいで……」
「テレビ見て何か欲しくなったか……」
キリエは困ったような視線を布団に座りながら熱心にテレビを見ているフェアとミルリーフに向けた。大方コマーシャルの影響だろうとあたりをつけたネロは大きくため息をついた。
「ええ、色が変わるお菓子とか番組で紹介されてた包丁とか欲しくなったみたいで……」
どうも二人はコマーシャル以外にも通販番組からも影響を受けたらしい。
「……ってことは今日も買い物か」
何にせよ今日の予定が決まったな、とネロは半ば悟りの境地で呟いた。それはつまり彼が二日連続で荷物持ちとなることが決まった瞬間であった。
「ねー、ママ。朝ごはんはいつになるの? ミルリーフお腹空いたよー」
「えっと……あともう少しだから我慢してね」
フェアが壁に掛けられた時計を見ながら言う。時計という概念はリィンバウムにもあるが、一日を二十四時間としている点も同じだったため、彼女でも特に苦も無く時間を見ることができているのだ。
「……で、一応確認するけどよ、今日も買い物でいいんだろ。昨日行ったようなところはたぶん十時くらいからやってるから、ここを出る時間はそれより少し前でいいか?」
どこに行くかは先ほどのキリエとの会話で分かったが、後は出発の時間を決める必要があった。とはいえ、目的が買い物であるから開店時間より早く着く必要はない。そのあたりを考えて十時前に出かければ問題ないだろう。
「うん、私はそれでいいよ」
「私も大丈夫です」
フェアとエニシアが提案に賛成する。キリエに顔を向けると、彼女は微笑んで頷いた。
「よし、じゃあミルリーフもそれでいいな」
この時点で半ば決まったようなものだが、ネロは一応テレビを見ているミルリーフにも確認すると彼女は「うん」と頷くだけに留まった。テレビに夢中になっているせいか、気のない返事ではあったがそれ以上に聞くことはしなかった。
他にできる者がいないとはいえ、こうして皆の意見を聞いてまとめるということは、どうもネロの性に合わないようで、まだ朝だと言うのに精神的な疲労が溜まり始めていた。
(はあ……、面倒くせぇ。よくまあクレドはこんなことできていたもんだ……)
ネロはもういない兄代わりの人間のことを思い出しながら胸中で呟いた。若くしてフォルトゥナ魔剣教団の騎士団長となったキリエの実の兄は、今の自分よりもずっと面倒なことをしていたのだろう。そう思うとクレドに称賛の念を抱かずにはいられなかった。
だがしかし、それをしたからと言ってネロの負担が少なくなることはなかったが。
「バージルさん、私達はどうします? どこか行きますか?」
アティの声が部屋に響く。
朝食を食べ終え、部屋に戻ったバージル達三人は今後のことを話していた。ネロ達が昨日に続き今日も買い物に行くということは、先ほどの朝食の際に会った時に聞いていたため、その影響もあったのだろう。
「……ソバ」
「え……?」
バージルが呟いた言葉に思わずアティは聞き返した。
「ソバはどこかで食べる。その他は好きにしろ」
実はバージルは以前聖王都のシオンの屋台で天ぷらソバを食べて以来、ソバを気に入っていたようだ。そしてこの国ではシオンの屋台と同じようなソバの料理が存在していると知り、それだけは人間界にいるうちに食べてやろうと画策していたのだ。もちろん行こうと考えている店も既に決まっている。
ちなみにソバと言っても、原料となる蕎麦の実が獲れる季節によって夏ソバと秋ソバに分けられる。だが一般的にソバと言えば秋と言われているため、今はちょうど旬の時期を逃したと言えた。それでも昨今の栽培技術や保存技術の発展のおかげで「夏のそばは犬さえ食わぬ」とのことわざは通じなくなっているのだ。
「わかりました。それじゃあ後はちょっと買い物に付き合ってもらっていいですか? 少し気になるものがあるんです」
バージルの言葉を聞いたアティは彼のこだわりに口元を抑えてくすりと笑いながら言った。
「構わんが、何を見るつもりだ?」
買い物に付き合うくらいは問題ないが、彼女の行きたい店によって出発の時間が前後するのだ。開店時間や店の所在地によっては先にソバを食べてからになる可能性もあった。
「服とかをちょっと……、昨日キリエさんの話を聞いていたら見てみたいなぁ、って思いまして」
昨日の夕食の折、アティはキリエからデパートで買い物をした話を聞かされたのだ。キリエ自身は特に何も買わなかったということだったが、アパレルショップだけでも三十以上の店舗が入っているという話だったのだ。
元々はあまりファッションには興味がないアティとはいえ、自分の住んでいたところとは違う世界の文化には興味が引かれたのだ。それに、たまにはバージルに着飾った姿を見てもらいたいといういじらしい気持ちもあった。
「なら行くのは、昨日あいつらが行ったところになるか。……ポムニット、お前はどこか行きたいところはあるのか?」
そんなアティの気持ちを知ってか知らでかバージルは、話を聞くだけ聞いて今度はポムニットに尋ねた。
「特にはありませんけど……、私もちょっと服とかは見てみたいです」
声を掛けられたポムニットは少し悩んでから答えた。どうしても行きたいところはないのだが、アティの話を聞いて彼女も興味が沸いたらしい。
「先にそっちに行くとしよう」
「それでも構いませんけど、ソバを食べてからでもいいと思います。もしかしたら結構見るのも時間がかかるかもしれませんし」
服を見るのが一件だけならバージルの言うように、先に行ってもいいが、複数の店を回るとなると間違いなく時間が足りなくなる。一度ソバを食べてから戻ると言う手もあるのだが、それよりも先にソバを食べてからの方が無駄な移動がなく効率的だと思ったのだ。
「……そうするか。ただ、ここを出るのは少し遅くなるが」
アティの提案を聞いたバージルが少し考えるような素振りを見せてから答えた。バージルが行こうと思っていた店の営業時間は午前十一時からだ。とはいえ、営業開始時間ちょうどに着く必要はないため、ここを出るのは十一時頃で問題ないだろう。
「それならもう少しゆっくりできますね」
ポムニットが微笑んだ。まだ朝食を食べ終えたばかりとはいえ、時間は既に八時を回っている。もっと早い時間に出発することになったら少し慌ただしくなっていたことだろう。男よりも色々と準備に時間が必要な女性にとってはありがたいことだった。
「ああ」
「もう一度お風呂に入っちゃおうかなぁ……」
バージルが頷く横で時計を見たアティが呟いた。いくら空調が効いていたとはいえ、昨夜は熱かった。風呂も昨日部屋のものに入ったきりだったので、時間があるのならもう一度入って汗を流そうかと思ったのだ。
「私も入ろうかな……。あ、せっかくですし、バージルさんも入りませんか?」
条件はポムニットもバージルも同じだ。なら昨日と同じように三人で入ることになんら問題はない。
「まあ、いいだろう」
バージルとしても
「じゃあ、決まりですね、早速入りましょう!」
自身の呟きが思いがけぬことに発展したアティが嬉しそうに両手を顔の前で合わせる。
そして三人は準備をして風呂場の方に向かっていった。
旅館を出てタクシーで十五分ほど走ると、目的のソバ屋に着いた。市街地から離れた場所に位置するその店は、外観は一般的な平屋建ての飲食店だった。しかし、中は暖簾をくぐるとすぐ玄関となっており、内装は実質的に全面畳張りだった。
そして店に入った三人は、ちょうど席が空いていたようですぐに案内された。
「どれを注文するんですか?」
案内されたのは窓際の席に座ったポムニットはバージルにメニューを渡しながら尋ねた。ここは彼の希望で来た店であるため、彼女はバージルと同じ物を注文しようと思ったのである。
「……天ざるにするか」
バージルは受け取ったメニューに一通り目を通して答えた。写真を見る限り、竹にざるに盛られたソバに天ぷらが添えられた料理であり、その他には以前聖王都で食べたような天ぷらソバもあったが、この店のおすすめはざるソバのようだったため、天ざるにしたのである。
「じゃあ、私もそれで」
「う~ん、どれにしよう……」
ポムニットは悩まずすぐに決めたが、アティはバージルから渡されたメニューを見て唸っていた。写真もついているとどれもおいしそうに見え、目移りしてしまうようだった。
「それじゃあ……私も天ざるで」
しばらく一分ほど迷っていたアティだったが、結局二人と同じ物に決めたようだ。
そしてバージルがそれを注文すると、ポムニットは出されたそば茶を飲みながら言う。
「それにしてもよかったですね。並ばずに入れて」
他のテーブルはどこも客で埋まっていたため、運が良かったと言えるだろう。
「ああ。……だが、出されるのは遅いかもしれんな」
バージルはポムニットと同じようにそば茶を飲み、一般的な煎茶とは違う味と香りを感じながら答えると、アティが首を傾げた。
「え? どうしてですか?」
「他の客がまだ何も食べてない。注文した順に料理が来るとすれば、こちらは最後になるからな」
現在の時刻から言ってもおそらくタイミング的にバージル達は開店当初に入った客の後、二巡目に店に入ったのだろう。当然その中で最後に入ったのだから、料理が来るのも最後と考えるのは当然のことだった。
「まあ、時間に余裕はありますから、ゆっくり待ちましょう」
この後はショッピングモールに行く予定となっているが、厳密にスケジュールが組まれているわけではない。時間まで決まっているのは夜の花火大会くらいであるため、ここで多少時間を取られてもほぼ影響はなかった。
「それにしてもいつの間にお店なんか調べていたんですか?」
尋ねたアティの知る限り、バージルがこちらの世界のことを調べていたという素振りは見せなかったのだ。
「旅館の予約を取らせるついでに調べさせただけだ」
「ああ、なるほど……」
バージルの言葉を聞いたポムニットは心の中でハヤトにご愁傷様と手を合わせた。今回に関しては打ち合わせの段階からアティとポムニットは一切関わっていないため、その中でハヤトにソバ屋まで調べるように頼んでいたのであれば、知らなくて当然だったのだ。
もっとも一番大変だったのは、いくら頼まれたとはいえ半ば幹事的な役割を果たすことになったハヤトに違いないだろう。ポムニットはそんな彼に何かお土産を買ってあげようと心に決めたのだった。
「あ、そういえばダンテさんにはいつ頃会いに行くんですか?」
そのまま二十分ほど待っているとアティが思い出したように声を上げた。以前にダンテと会ってから十日が経とうとしている。その際バージルは弟にフォースエッジとアミュレットを渡すか否か考える時間を与えたのだ。とはいえ、どうせあのダンテのことだからまともに考えたかは怪しいところだが。
「間もなくだ。城に戻り次第回収に向かう」
既にダンテには十分すぎる程の時間を与えた。その結果、渡さないという結論に至ったのであれば、バージルは実力をもって両親の形見を奪い取ることになるだろう。魔剣スパーダこそ彼の計画の鍵である以上、いかなる手段をもってしても手中に収めなければならないのだ。
「ってことはもうすぐここを離れるってことですよね」
そんなバージルの決意を知らずポムニットは名残惜しそうに呟いた。彼女は多くの時をラウスブルグで過ごしていたが、それでもダンテに会いに行った時や今回のことを通じてリィンバウムとは異なる文化に触れることとなった。そのため、できるならもっとこの世界で過ごしてみたいと思っているのだろう。
「そうだ。次があるとしても、そうすぐには来れまい」
バージルは言外に心残りのないようにしろとの意味も込めて言った。一応、ラウスブルグさえ健在ならいつでも来ることができるが、バージルの計画もあるため、戻ってしまえばそう簡単にリィンバウムを離れることが難しくなってしまうのだ。
単純に考えて、再び人間界を訪れることができるのは魔界とのいざこざの決着がついてからになるだろう。
そんな話をしていると、三人分の天ざるが到着した。
竹で編みこまれたざるに盛られた細いソバに、海老やきすなど魚介系の天ぷら二種と、なすやかぼちゃなど旬のものも含めた野菜やきのこ類の天ぷら五種類が盛られた皿が添えられている。
三人は話をそこで切り上げると、早速ソバをつけ汁につけて食べる。ソバ特有の香りが鼻を刺激すると同時に、飲み込んだソバがつるりとのどを通り過ぎる。つけ汁は聖王都で食べた天ぷらソバのかけつゆよりも色も味も濃いが、それで香りを台無しにすることはなく、むしろ一体となってソバの味を高めているかのようだった。
次いで皿に盛りつけられたなすの天ぷらを取る。つけ汁につけて食べることもできるが、天ぷらには抹茶塩も付けられていたため、それを少しつけて食べた。
「ほう……」
思わず感嘆の声がバージルの口を衝いた。さくさくとした衣に続き、油を吸ってジューシーな食感が感じられる。そして抹茶塩もなすのあっさりとした味を引き立てていた。旬のものとはいえ、想像以上に美味だった。
天ぷらのタネと言えばやはり海老のイメージが強く、野菜の天ぷらは侮っていたのが正直なところだが、このなすの天ぷらを食べて、これまでの認識を変える必要があるだろう。
さらにこってりとした天ぷらはあっさりしたソバと相性が良く、ソバを食べては天ぷらに、天ぷらを食べてはソバに箸が伸びた。
結局三人は、そのまま食べ終わりまであまり会話もせずに食べたのだった。
そして目的を果たせたバージルは満足げに店を出ることになったのである。
次回は6月15日か16日に投稿を予定しています。
ご意見ご感想等お待ちしております。
ありがとうございました。